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2009/12/14

映像のフレーミングについて~ Part1 of 3

映像は常にフレームの中にある。モニターの四角い中にある。当たり前のことのようだが、視聴者はそんなことを考えてみてはいない。たとえば舞台を見に行ったとすれば、数人の役者が同時進行で同じステージの上でそれぞれの演技をしている。カップルが喧嘩をするシーンならば男女がセリフでやりあう。たとえば女が「もう別れましょう。これ以上一緒に居てもうまくいかない」という。その言葉に男が何らかの反応をする。しかしオーディエンスは男の反応に一度は目が行くもののその後の展開が読めずハラハラしながら双方の顔を見る。このときオーディエンスには誰を見るかという選択肢が与えられている。もしかすると男女2人は公園でこのやり取りをしており、公園のベンチには見知らぬおじいちゃんが座ってたばこをふかしているかもしれない。僕ならばこのおじいちゃんに目をやるかもしれない。はたしておじいちゃんはこの二人のやり取りを盗み聞きしているのか?それともたばこを楽しんで誰かを待っているのか?映像となるとそうはいかない。作家が誰をフレーミングするのか決定しなければならない。わかりやすいのは、まず女がセリフを言うわけだからカメラは女一人を映す。そしてショットがカットし男一人のショットに切り替わる。リアクションを見せようという魂胆だ。こうして視聴者は作家の意図するものしか見せてもらえない。

話がそれるが、これだけ独裁的な手法で作られる映像なのだが、映像作家がミュージシャンや俳優、画家のように視聴者にアーティストとして見られることは少ない。通常ならば誰が出演しているのかということのほうに目が行くのである。写真家はそれらアーティストほどでないにせよ比較的アーティストとして認知されている人もおおい。それはもしかすると、映像作家は単独で存在することが難しいからかもしれない。映像を制作するには多くの人間がかかわる。つまりそれなりのお金も動く。責任が伴う。クオリティーという、あってないような目に見えないものを、あたかも見えているように、手探りながら「それなり」のものを作る。気分がのらないから作品がいつもよりとてつもなく悪くなることも比率としては少ない。モデルが悪くてもそれなりに見せる。コンディションによって左右されるクオリティーの劣化度を最小限にする仕組みが集団組織のなかでできている。映像作家とはとても不思議な生き物だと思う、存在の仕方も含めて。

続く

(次回20日 日曜日)

2009/12/14 05:57 | 未分類 | No Comments