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2009/12/27

映像のフレーミングについて~ Part3 of3

映像は常にフレームの中にある。モニターの四角い中にある。当たり前のことのようだが、視聴者はそんなことを考えてみてはいない。
もうひとつフレーミングについてだが、日本ではあまり視聴者が意識しない部分(いやほぼ全くと言っていいほどと思うことがあるくらい)がある。それはセクシュアリティー。映像に裸の女性が映ればセクシャル、ということではない。映像そのものがセクシャルであるということだ。西洋で映像を学び西洋で映像に触れて育ったことで帰国時にそれを強く感じた。西洋の一般視聴者や制作する人間は‘映像はセクシュアルである’というメタファーというかシンボリックなものがあるということを知っている。思い込みでは?というぐらいのリアクションを見せることが日本に比べ圧倒的に多い。これはあくまで僕の視点での一般論なのですべてそうであると断言するわけでもない。しかしその傾向はあるように思われる。そしてこのメタファーは強烈な特定のメッセージを発する際に非常の有効なのだ。日本人の作家がこれを使っていないというのではない。むしろ逆で使っている。文化や風習を通してこれらを使っている。しかし無意識のうちにという場合が多い。そして作家が「こうありたい、こうあってほしい」と思うもの、または視聴者が「こうありたい、あってほしい」と願うものを先読みして作家が提示する。そのような場合にメタファーを文化、習慣、風習というものを通して(そしてそれらはすべて作家のキャパシティーによって大きく左右され)形になる。つまり作家のキャパシティー(映像は一人では作れない場合があり、この場合作家とは制作スタッフおよび制作環境のシステム)そのものがフレーミングにかかわっているということです。

フレーミングとカットによってよりわかりやすくインパクトのあるものを繋げることは一つ大事なのかもしれない。しかし作家が視聴者にインパクトを与えたいがためにわかりやすい演出(フレーミングなど)をすればそれは味気ないものになるのかもしれない。もちろん視聴者はそれが味気ないものとは思わないことがほとんど。それが映像作りの怖いところでもある。ある種のマインドコントロールもこういう隙間から始まっていくんだと常々思う。

そうならないためのいろいろな方法が考えられるだろう。しかし何より大事に僕が感じることは視聴者一人一人の教養。これはなにも学校教育とかIQの話をしているわけではない。これは感情のヒダというか感性の深さというか、そういったものに近い。そしてこれらは日常のいろいろな場面で磨くことができる。しかしあえて映像の世界の話だけでいうならば昔の映画にはそういったものを培うための深さがあったのかもしれません。テレビ世代が始まり、映像のめまぐるしいカットの連続。5秒から10秒で次のカットにどんどん移り変わる。視聴者が想像したりする猶予さえ与えない「作り込み」が浸透している。ドラマのセリフもそうで、物語を舞台のようにセリフで解説してしまう。演技もそうである。悲しいシーンは泣く。そんなことはないはずだ。悲しさを笑顔で絶えることだってある。涙さえ見せないことだってある。それらがどんどんフォーマット化されている傾向は強い。ニール・ポストマンの著書「Amusing ourselves to death」でニールはこれらのことについて多くを語っている。しかも1985年にだ。そんな時代にすでにテレビの「文化」にもたらす影響を考えていたすごい人がいたのだと思うと感心する。

テレビを全く否定するつもりもない。テレビの良さも多くある。まだ発展途上だ。しかしテレビが大きな変化をもたらしたのは事実であり、その変化に知らず知らずに飲み込まれていることはあまりいことではないのかもしれない。

2009/12/27 07:00 | 未分類 | No Comments