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皆さん、おはようございます。
私がタイトルのような言葉を、
特に、神や仏について誰かにそう言っていたら、
神や仏の名前をダシにして、
その相手の財布を狙っているものと考えていただいて、
ほぼ間違いはありません。(笑)
他の方が同じ言葉をどのようなシチュエーションで、
どんな目的で使われるかは、私には関係ありません。
私が言っていたら、そう理解してくれ、ということです。
まあ、そこまで露骨かどうかはともかく、
私が終わっているものと解釈していただいて良い、
そういう状況だということです。
実のところ、神仏を信じたことがありません。
・・・これでは説明不足だな。
正確には、信じるという作業、行為をしたことがないのです。
信じる、という言葉の裏には、常に、
信じない、という否定が存在します。
私が信じることをしたことがない、というのは、
信じていない状態を経験したことがない、
ということなのです。
もし、私が英語がペラペラで、
若い頃、アメリカのAという街に住んでいたことがあり、
そこに当時住んでいたBという人物のことについて語ったとしたら、
これまでBという人物の存在を知らなかったあなたも、
そのBに会ったことがないにも関わらず、
Bの存在を信じない、ということはわざわざしますまい。
あなたがBの存在を認識するのと同次元で、
私は神仏の存在を認識しているわけです。
念のためにお断りしておきますが、
Bと神仏が同じ実力の持ち主、みたいな意味ではありません。
その存在の認識の仕方が同じだ、という話です。
このように感じてきた私にとって、
信じるという言葉ほど胡散臭い言葉はありません。
詐欺師がカモを騙す時に使うセリフ、
という認識が大半を占めます。
そんな私が誰かを相手に、
信じるの信じないのと風呂敷を広げていたら、
それはもう、私が相手をカモとしか思っていない、
ということを意味してしまうのです。