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そういえば 小鹿野町で 苦労して持ち帰った木の写真を載せていなかったので 掲載します
実際には 前にも書きましたが 木がとても堅くて
刃物の減りを考えると この木を曲独楽には作れないという作者の先生の意見を尊重し
結局 曲独楽の材料にはならなかったわけですが
経験した事の 深さは 財産になっています
おかげで先日 山と木の素晴らしさを 息子たちに体験させてあげられたので満足です
さて 今回は 曲独楽の伝わり方について また少し面白いヒントをみつけました
物事の伝わり方は 人の移動に関係しますし
移動は時流 事件様々なきっかけがあることも いろいろなヒントを取り入れて 考えてきました
今回のヒントは古本からです
思わずキレイな物を見つけると スケッチしてしまうのですが
刀の話は あまりにも日本的な重厚さに食指が動かず 今まで調べる事を怠っておりました
でも古本で見た刀のつばの部分の意匠に感動してしまって
一気に調べ始めたのが その つばの歴史です
どうも 私が以前調べた 長州大工と呼ばれた 周防大島の移動とも 関係がある内容で
日本国内の 職人の移動について
代表的な 刀剣関連の技術者が どういう理由で 仕事の場所を変えていくのかを知ると
これに 付随的な 他の大衆文化も これとほとんど似ているんじゃないかと感じます
私の読んだ古本の中に 面白い書き方があって
刀のつばで 今も残っているのは
時代が古くて 装飾的なものが大半であること
そして その理由として 美しいことがあげられていました
これは 以前 陶磁器の骨董の話を 夫がしていて
キレイじゃないと 市場に出ない時代のものがある
というのと 同じでした
まあ この場合 どっかの本が情報源だからと思いますが
陶磁器と 刀剣の違いは
再利用する時の 姿の違いが考えられます
陶磁器は再利用する時 トルコの王朝に保存されているアジアのものと
自国で尊重される金製の素材を接着したようにして鑑賞対象とするか
あるいは 佐賀県など 陶磁器の産地で多い
陶片を活用した家屋の塀や 道の舗装に使うような 素材として利用する方法です
陶磁器の場合 形がいくばくか残るのが特徴です
でも 刀剣類の場合
多くは 金属ですから 溶かして完全に違うものに再生されるため
素朴な形の初期の刀剣や装飾の部類は 古墳近隣の生活者や 合戦での発掘品しか存在しない
ということです
ちょっとしたことなのですが
これは本当に 感心しました
完全に溶かされたら 確かに形は残りません
だから 技術の移動を知る場合
産地・所属が書類で記述されたり 銘を刻む事をはじめた人の仕事の場所がわかるものが大切だという事です
室町初期まで 刀の装飾品を制作していたのは 当初 専業ではなく
鎧兜を作るのと一緒に作ったり
刀鍛冶が作ったりしたという時代があり
それ以降は 刀の役割が 馬に乗れる身分の持ち物だけでなく
雑兵が持てるほどたくさんでき 戦い方も 歩いて山を越えて攻め入るため
より早く動くことが大事になり
重い太刀より 軽い刀が必要になったということで
身分の高い人の持ち物として 装飾を施して持つ必要もあったから
より精巧な飾りをする人が登場し それを元にした一門ができ
やがて専業化して 記名するほどの作家へと江戸時代は 変貌して行きます
だから 戦場がめまぐるしく変化していた戦国時代の刀作りなどの職人は
戦況が負けそうになると 勝ち組へと移動して行き
やがて時代が安定していくと 住む土地を決めて 所属の武家が決定して
そこで地名の流派や 作者の得意部門の流派として完成し
…
これは どこかで見たなと思ったのです
曲独楽がたどる人の動きと変わらないのですね…
この技術にしても 結局爆発的に変化したのが 南北朝や秀吉そして江戸後期明治ほぼ実用面は消滅となります
日本の人が生み出した 色の濃い物事…
今後はどうなっていくのでしょうかね…