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バンドマスターでもある中川さんに曲の成り立ちについて
お聞きしてみました。
・君の街に行けることを確かめようとした
・エーテルラジオ
(以下、この2曲について)
曲の成り立ちは大体どれも、「吹岡さんが曲を持ってきて、それにみんなでアレンジを
加えていくというやり方」に尽きますが、それ以前にswimmの楽曲に通底するコンセプト
みたいなのはあります。
これはあくまでの個人的な感覚ですが、swimmの音楽は「私たちはそんなに簡単に「歌」を「歌う」
ことができるのか?
という疑問を出発点として、その地から音楽に向かっていく」という
アプローチをとっているようなイメージがあります。
上記の2つの曲において、特に「君の街に行けることを確かめようとした」などが
そうなのですが、歌モノのバンド(特にJPOP)によく見受けられるような、
Aメロ・Bメロ・サビみたいな概念がswimmにはないことが多いです。
何故その形式をとらないかというと、それは自身の出自がそういうフィールド
(ポップス)ではないこともありますが(今やどうでも良いですが、もともと実験音楽や即興、
電子音楽などの畑?でやってました)、それよりも「書かれた言葉や歌われる歌がそういう形
(=Aメロ・・的な)に添って歌われていない」と思っている部分が大きいかと思います。
しかし今考えても歌に音(発せられる言葉以外のもの)を入れるというのは不思議な作業です。
何ができるのだろうと考えこんでしまうことがあります(何でもできるのが音楽なのでしょうが)。
歌われる「言葉」に適切な音とは何なのでしょうか?
swimmの歌詞は、吹岡さんによって書かれる言葉自体が、前述の「Aメロ・Bメロ・サビ」という
構造に適していない言葉を成しているように思っています。
僕はいつもその言葉の流れや言葉の列によって生まれる物語や意味みたいなものに寄り添って、
音の流れを考えているので、おそらく普通のバンドのアレンジャーに比べると、
言葉に良くも悪くも敏感なのかもしれません。
これまでのswimmは真っ当な音楽を作っているというよりも、
言葉と向き合い/或いはそれをあえて遠ざけて見ながら、
それがどこかで「音楽」になる瞬間を探していて、
その光の方へ向かう中で、これまで作ってきた「曲」の
ようなものが生まれてきたのだと思います。
(バンドプロフィールもそのような想いから作成した部分もあります)
かすかに光る声は音楽(リトルボイス by swimm)
そしてこれから先は曲の成り立ちはどうなるかわかりません。
まだまだ、これからも、また一生かかっても到達できるかわかりませんが、
言葉と音のより大きな「音楽」と「歌」を目指して。
そういう風に考えています。