週刊誌のネタから自民党のニ議員(片山さつき、世耕弘成)が
突っ込んだことにより、吉本高収入芸人が大変なことになってます。
次長課長河本さん「甘かった」と謝罪 受給分は全額返還意向
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120525/trd12052511330015-n1.htm
賛否両論あるようですが、
「あんなに金もらってるタレントの家族が生活保護を受けてるだと!
不正受給だ、ケシカラン!」
という意見が比較的マジョリティのようです。
実はこれ、社会保障の深遠な問題の一面ですので、
今日はココらへんについてなんか書きたいと思います。
様々な切り口はあるのですが、
ここでは大きく2つの問題を取り上げます。
1.あらゆる「基準」が曖昧
確かに民法で三親等以内の親族には扶養義務があるのですが、
この「扶養義務」というのがはっきりしておりません。
なんか年収がいかにも高そうな人気芸人だから
「悪」みたいなレッテル貼られて大炎上したわけですが、
義務がある人とない人の境目って一体どこじゃらほい?
具体的に年収がどれくらいで、どんな生活水準の持ち主なら
困窮している家族を養う「義務」があるのか。
法律で明確な定めはないのが現状なのです。
さらに突っ込めば、そもそも国はいま国民の所得を正確に捕捉できません。
だから生活保護を受ける人も、それを扶養する人の生活水準も精査できず、
曖昧なままのグレー受給が横行しているのが問題であると言えます。
これを解決するには、
1.国民IDの導入
2.「歳入庁」のような組織を作り、国民IDを用いて所得を極力正確に捕捉する
3.生活保護と扶養能力の基準を作り、それに基づき受給を決定する
というステップが必要になります。
しかしながら、
国民IDの導入では「国民総背番号制だ!国家統制だ!」という批判が巻き起こり、
歳入庁の創設には、税収管理という権限を手放したくない財務省が猛烈に反発し、
生活保護の基準を作れば、水準以下の人々が一斉に生保に走りパンクする恐れが出てくる
など、ざっと考えただけで
政治的なハードルは極めて高いと言わざるを得ません。
しかしながら、今後の日本の社会保障において
この問題はいずれにせよ避けて通れないのです。
インタビューを読むと、片山さつき先生は不正受給にいたく心を痛めており、
特に永住外国人の受給(法律では永住外国人に生活保護を支給する決まりはない)を
解決したいと思っているようなのですが、国民IDの導入実現で一発解決だよね。
叩き上げの民間人をいじめるのはこのあたりにして、
法的な問題解決に邁進していただくことを強く望みます。
2.倫理観と、それに基づく制度設計が時代遅れ
もう1つは、そもそも
「家族なら面倒を見るのが当たり前」
という考え方を是とするのか、という倫理的な側面です。
片山さんと世耕さんの主張は単純明快で、
「まず余裕がある家族が扶養するのが『常識』」
と、はっきりと述べておられます。
彼らは自民党であり、自民党は「保守政党」です。
保守とは平たく言えば古き良き価値観を守っていく考えで、
家族制度の維持が党是ですから、自民党は夫婦別姓などにも強く反対しています。
家族がセーフティーネットとして機能していた
経済成長期であれば、間違った考えではなかったのかもしれません。
しかし、これからの時代はどうでしょう?
僕個人は、家族というコミュニティによる扶助は
少子高齢化や晩婚化、独身化が進み続けるこれからの時代で
ますます脆弱で厳しいものになってくると予測しています。
そもそも以前に年金問題でも少し触れましたが、
家族という単位から個人を切り離して社会全体(国)で
苦しい人の面倒を見ましょう、というのが社会保障制度の根幹です。
「家族が面倒をみるのが当然」
という理屈がまかり通るなら、じゃあ所得が高い人が親族にいるなら
老後の年金だってもらわなくていいじゃないか、という話しになります。
※
年金は自分で払っているものだから別、と感じる人もいると思いますが、
賦課方式で運営されている今の年金は制度的にも思想的にも
国による社会保障であり、生活保護と根っこのところは変わりません。
確かに今後、国の財政は苦しくなる一方で
社会保障に関わる費用を切り詰めざる得なくなるかもしれません。
では、それに変わるセーフティーネットを古き良き「家族の復活」に求めるのであれば、
少子高齢化に爆進する我が国では支える側の負担が激増して破綻することは
もはや自明と言えるのではないでしょうか。
–
奇しくも「生活保護」という社会保障の柱に対する
世間の関心の高さを示したとも言える本件ですが、
これから果たしてどこまで政治的な解決がはかられるでしょうか。
事の発端ともなった両議員は、
「一人の芸能人を叩くことが目的ではなく、
これをきっかけに議論を喚起していくことが大切云々」
と述べておられますが、どうもお二方のご意思に反して進む
「高収入なのに親を扶養もしない不届きもの」を袋叩きにし
涙の記者会見をやらせるという、なんともワイドショー的な展開
に僕は激しく心を痛めているわけです。
少しばかり成功した人間を袋叩きにして、社会って良くなるんですかね…?
「議論を喚起した」お二方は世間の関心を
政治や制度の話しに持っていくことに最大限注力し、
またマスコミ報道も一個人の問題に矮小化されないことを願うばかりです。はい。
前回から凄まじく更新が空いてしまいました。
楽しみにしてくれてる(数少ない?)読者の皆さまゴメンナサイ。
さて、書こう書こうと思って旬を過ぎてしまったのですが、
先月ニュースを賑わせたこちらの話題を取り上げたいと思います。
ヒップホップに指導資格 中学のダンス必修化で
http://bit.ly/HXJ5Ed
この報道を初めて見たときの怒りは、今も忘れることができません。
書いてて思い出しムカつきをしているくらいです(苦笑)。
実は僕はこう見えてStreet Dancerの端くれなので、
ダンスというもの自体に思い入れがあります。
「ダンス」という創造的な芸術に「資格」を設けることも、もちろん疑問です。
ですが怒りの最大の理由は、この「国主導による資格(免許)の新設」が
典型的な天下り構造に他ならないからです。
※
「これは国家資格ではない」というご指摘がありましたので、
「国による資格」→「国主導による資格」に訂正いたしました。
国家資格でなくても、誘導施策であることは間違いないと思います。
–
最初の武道と共にダンスが必修化になることが話題になったのは、
たしか自民党の安倍政権の時だったと記憶しています。
「武道はわかるけど、なんでダンス?それもよりによって、ヒップホップなんて…」
という疑問はずっと持っていましたが、
4月18日のこの資格新設発表を持って、僕の疑問は完全に氷解しました。
すべては、官僚たちが新しい天下り先を確保するための、
周到に準備された計画だったのです。安易な陰謀論は好きではありませんが、
これはほぼ間違いないと思います。
この資格の新設で事実上、ダンスを教える公立学校の教師は
高い受験料と更新料を払ってこの資格を取らざる得なくなります。
(検定料2万5千円、更新料が年間1万2千円!)
そうなると、この資格と多額の資金を管理運営する団体が必要になります。
というわけで登場したのが
一般社団法人「ワールドリズムダンス技能協会」
http://www.worldrhythmdance.jp/
設立は2012年1月。
いかにも「この資格のために創設された」団体です(厚生労働省外郭団体の模様)。
こんな実績も何もない団体が、ダンスの資格を与えて管理するというのです。
もっとも官僚にとって見れば、インストラクターの質や実績などどうでもいいのでしょう。
この団体に、第一線を外れた官僚OBたちを送り込めればそれで一丁上がり。
多額の資金と官僚OBが流れこむ、天下り団体の完成というわけです。
そして、掲題の疑問に戻ります。
「どうしてヒップホップだったのか?」
これも、天下り団体創設のためだったと考えれば話しは単純です。
結論から言うと、ヒップホップ(ストリートダンス)というジャンルが
「政治力が弱い」「権威がまだない」からです。
例えば子どもの創造性や感受性を高めるために
日本舞踊や日本の伝統的踊り(阿波踊りやよさこい踊り)の
導入を計画したとします。
こうなれば、大議論は必死です。
どれを導入するか?
導入するとして、誰が教えるのか?
どの流派を、どんな割合で導入するか?
上記のような「伝統のある」芸術分野は歴史がありますし、
「その道の大家」「研究者」と呼ばれる人たちが沢山います。
これを教育課程に導入するとなれば、
「ちょっと待て、俺にも一言いわせろ」
「◯◯先生を差し置いて、この話しは進められないだろう」
という論客や権威者が出てくることは容易に想像できます。
つまり、「とってもめんどくさい」のです。
ところが、まだ若いカルチャーであるヒップホップには
悲しいことにこうした「権威」や「伝統」がまだありません。
そもそも「ヒップホップ」自体を正確に理解している人も少数でしょう。
もちろん「有名ダンサー」はいるにはいますが、
世間一般から見ればマニアックの領域を出ません。
日本舞踊や伝統的踊りのように、
「政治や教育に物申せる」ような論理や権威が
ヒップホップなどのストリートダンスにはまだないのが実情なのです。
狡猾な官僚たちは、ここに目をつけました。
そして、その選択は大正解でした。
僕たち国民は
「どうしてヒップホップダンスなんだろう?」
という疑問をどこかで持ちながら、
「よくわからない」ままで見事にスルーをしてしまったのです。
–
官僚がその構造から、天下り先確保(自己増殖)のために
行動せざる得ないことは4月上旬の記事で述べました。
官僚と天下りの甘くない関係
http://www.junkstage.com/syun/?p=232
官僚組織が国家を支える最も大事な機能である、
「教育」にここまであからさまに手を突っ込んだこと。
橋下市長の教育改革を
「政治が教育に干渉するなんて、とんでもない!」
「教育がポピュリズムに侵される!」
と批判する識者は数多くいますが、
では官僚たちの干渉は見過ごして良いのでしょうか。
国民の審判を受けない官僚の暴走の方が、
はるかに由々しき事態だと僕は思います。
そしてこの問題は、官僚組織だけの問題にとどまりません。
4月18日にワールドリズムダンス技能協会が自ら発表を行うまで、
マスコミは一切この資格新設の動きを報道しませんでした。
年初からダンス必修化が話題にはなっていましたが、
「中年のダンス教師が習得に苦戦」
「子どもの方が飲み込みが早く、評価が大変」
というレベルの報道ばかりであり、
肝心要のこの資格については一切触れられてなかったのです。
また、官僚(行政)を監視する立場である政治家(国会議員)たちも
722名も雁首を揃えながらこの官僚の動きを事前に一切キャッチしていません。
これははっきり言って、異常な事態だと思います。
そしてこの理由には、2つのシナリオが考えられます。
1つめは、日本のマスコミや政治家は本当に無能なので、
こうした動きをマジで知らなかった、キャッチできなかったケースです。
ワールドリズムダンス技能協会は実際に1月に設立されているわけですから、
これだけカネとヒトが動く物事を本気で見過ごしていたとすれば、
マスコミも政治家もかなりの末期症状ということになります。
2つめは、なんらかの事情でマスコミや政治家が
国民にこの事実を「敢えて知らせなかった」ケースです。
このシナリオでは、政官マスコミは完全に癒着しています。
官僚の天下りを見過ごすことで、マスコミや政治家もそこから
なんらかの利益を享受しているということでしょう。
どちらのシナリオであったとしても、
日本の現状はとても暗いものであることは間違いなさそうです。
–
改革が必要なのは、官僚組織だけではないのです。
マスコミも、政治の世界も、およそ正常に機能しているものを
見つけるのが難しいくらいな今のニッポン。
それでも諦めずに前に進むのがわれわれ若者の責務だと思うのだけど、
さすがに何がなんだかなぁ…と思った4月なのでした。
とはいえ5月病にも負けず、今月も日本を良くするために頑張りますよ!
引き続き応援とご愛読、よろしくおねがいしまーす。
(まずはコラムを毎週更新しようね)(はい)
先日、金融機関勤務の友人と飲んでいた際、熱い話しになりまして。
「(日本の)1000兆円以上の借金なんて、金融の常識として返せるはずがない」
「デフォルト(国家破産)かハイパーインフレか、いずれにせよ破滅的な結果がくる」
そして日本に限らず、先進国諸国の現状を踏まえて
「大衆はお金を使うことしか考えないから、借金ばかりが増える。
やっぱり民主主義はダメで、独裁だろうとも一部の優秀な人間が
社会を統治した方がよっぽどマシ!」
と結論づけていました。
飲み会でのヨタ話しなのですが、実は大切なポイントが
いくつか含まれているので、今日はその辺りについてなんか書きたいと思います。
–
「大衆はバカなので、国民を主権者とする民主主義国家は
結局のところは衆愚政治になって国家が衰退する」
なる「衆愚論」は、民主主義を否定する論拠として根強く残っています。
そしてそれを裏付けるものとして、
「民主主義を採用する先進国は、例外なく財政赤字に陥る」
という経済学者ブキャナンが喝破した事実が存在します。
実際現在でも、ほとんどの先進国は赤字です。財政タカ派のドイツでさえ、
常にある程度の借金は抱えて苦しんでいるのが実情です。
何故こうなるのかは、それほど難しい話しではありません。
民衆に政治家を選ばせると、政治家は民衆のご機嫌取りを行う。
民衆は目先のことしか考えないから、短期的に利益をもたらしてくれる、
甘いことを主張しいわゆる「バラマキ」政策を行う政治家を支持する。
当然、財源は有限なので限界はあるはずだが、
「国債発行」という借金の先送りでどんどんバラマキ政策が行われる。
そして国の借金は膨れ上がり、最終的には…?
こうした負の側面を論拠に一部識者が支持するのが、
寡頭制(独裁制を含む)です。愚かな民衆よりも、優秀な頭脳を持ち
長期的なスパンで物事を考えられる一部の人間に社会運営を委ねよう!と。
これは正直、なかなか魅力的な案です。
実際にシンガポールなどいわゆる「開発独裁国」が
順調に成長を遂げていますし、一見正しいようにも見て取れるのです。
しかしながら、結論から申し上げて寡頭制は
民主制より明らかに優れたシステムにはなりえません。
なぜなら、たとえ一時期は優秀な人材たちが国を発展させたとしても、
「絶対的な権力は、絶対に腐敗する」からです。
具体的に申し上げると、原因は世襲です。
一度権力を握った権力者は(なぜか)必ず、どこかのタイミングで
自分の血縁者、あるいは息がかかったものにそれを譲渡しようとします。
そして残念ながら、今の権力者がいかに優秀であろうとも、
譲渡先の人物が優秀であるとは限りません。いやどちらかというと、
優秀でない可能性の方が高いとさえ言えます。
権力者が優秀な間が脅威の発展を遂げてきた国が
跡継ぎが愚昧であったため一気に滅亡へと突っ走った例は、
枚挙に暇がないのです。また、年老いた指導者が迷走するケースもありえます。
何が言いたいかと申し上げますと、我々はどこかで必ず
「愚か者のコスト」を払わなければならないということです。
人間は完璧ではありません。
いやそれどころか、大いにミスを犯す存在です。
寡頭制は、優秀な人に権力を収集させ、その「愚か者のコスト」を
極限まで消滅させるシステムです。しかしながら、後を着ぐ人物次第で
一気にそのツケが爆発し、「愚か者のコスト」が最大になるリスクがあります。
翻って民主主義とは、
愚か者のコストを常にちょっとずつ皆で引き受けながら、
その中でもどうにかこうにか世の中をよくしていこうとするシステムなのです。
人間が完璧な存在ではない以上、このコストを消滅させることは不可能です。
どこかで一気に引き受けるのか、少しずつ常に抱えるのか…
どちらが正しいか、断定はできません。
しかしながら、一部の人間に国の舵取りを任せて
どこかのタイミングで一気にコストが爆発するような社会よりも、
色々ともどかしくてもみんなでコストを分け合う方がよっぽどマシ!
それが文明社会が2000年以上かけてたどり着いた、
「現時点での世界の知見であり結論」であることは間違いないでしょう。
世の中がうまくいかないと、どうしても我々は
一気に社会変革が起こるような出来事に期待してしまいがちです。
大阪維新の会や橋下市長のリーダーシップへの期待も、そんな感情に起因します。
しかしながら、魔法の解決策はやっぱりあるようでないのです。
「愚か者のコスト」を払いながら、
理想と大衆との間で少しずつ世の中を改善していく。
それが21世紀の社会を導いていく、
真の為政者に求められる自覚と資格なのかもしれません。
だからこそ「ノブレス・オブリージュ(高貴なるものの義務)」の精神が
民主主義社会でこそ重要であると僕は思うのだけれども、
長くなるのでこの話しはまたの機会。それでは!
桜が本当に美しい季節ですね!
新社会人や新入生の皆さま、ご就職&ご進学、おめでとうございます。
とにかく若手に元気がないとこの国はもうどうにもならないので、
ぜひギラギラしたまま健やかに成長していただきたいと思います。
そんな希望が溢れる季節に、我々若者世代にとって
またも衝撃的なバッドニュースが駆け巡っているわけです。
<公務員新規採用>「56%」削減を閣議決定
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120403-00000030-mai-pol
官僚の天下りや高給公務員の人件費削減にはほとんど手をつけず、
若者の雇用をダイレクトに奪う、新卒採用を抑制する蛮行。
これが
「増税の前に、まずは自分たちが身を切る覚悟」
の中身だと言うのですから、言葉もありません。弱いところ、取れるところから取るだけ。
そしてその搾取される弱者とは、われわれ若者世代だと言うわけですね(怒)。
この愚策と密接に関わるので、今日は上に出てきたワード、
「天下り」についてのお話をしたいと思います。
中央省庁のキャリア官僚が、主に税金で作られた特殊法人等に再就職し
ほとんど実務もせずに高給や多額の退職金をせしめると言われる「天下り」。
(キャリア官僚以外にも、色々なケースがあります)
世間からの批判も強く、数多の政権が「天下り根絶」を掲げ、
民主党政権もそれが公約の一丁目一番地となるはずでした。
これほどまでに自明な「悪」と目されている天下りが、
なぜなくならないのでしょう?なぜ、なくすことができないのでしょう?
それは天下りが官僚・公務員の単なるモラルハザードなどではなく、
彼らのキャリアパスを支える、言わば「必要悪」とも言えるシステム
だからです。順を追って説明しましょう。
まず、官僚組織の人事には特徴が3つあります。
・完全なる年功序列
中央省庁の官僚は、ガチガチの年功序列です。
どんなに優秀な人材でも、上の年次を飛び越して出世することはまずありません。
・大企業も真っ青な終身雇用
ご存知の通り、官僚(公務員)はクビになりません。
終身雇用が絶対の前提である代わりに、転職も一般的ではなく、
基本的には官僚たちは1つの組織に社会人生のすべてを費やします。
・ガチムチの縦割り組織
新卒採用は各省庁で行われ、採用された人物は原則
「その省庁の人材」となり、他の省庁にジョブローテーションする仕組みは
ほぼ皆無です。
「◯◯省はこの年次に優秀な人がたまたま少なく、逆に☓☓省に多い。
じゃあ☓☓省から何人か、◯◯省に行かせるか」
というような人事を行うことは、ほとんど不可能になっています。
さて、こうした組織では何が起こるでしょうか?
新卒として大勢の若手官僚が入ってきます。
年やキャリアを重ねていきますが、管理職などのポジションは有限です。
課長クラスくらいまでは全員がなれても、その上はもう数が足りません。
しかも数少ないポジションには、絶対的な年次ルールの元、
先輩官僚たちが居座っています。彼らがどかないことには、
いつまで立っても次の年次はポジションをgetできません。
出世レースから外れた人材たちを、そのまま残すことはできない。
かといって、クビにすることも、他の省庁に異動させることもできない。
さあ、どうしよう?
答えは見えてきましたね。
職務上、息がかかっている特殊法人や大企業にポジションを作るか、
むしろそれが目的で税金で作られる特殊法人に「天下り」させるのです。
こうすることで、年次が上の官僚をリリースし、下の年次にポジションを作る。
また、出世コースから外れてしまった先輩官僚たちの雇用や給与、名誉を守ったまま、
引退するまでの余生を保証する。
「年功序列」「終身雇用」「縦割り組織」という
官僚機構の最大の特徴を維持するために必要不可欠なシステム、
それが「天下り」の正体なのです。
ですから、天下りという「出口」だけを無くすことは絶対にできません。
仮に上記の特徴を維持したまま、天下りだけを無くすとします。
若手官僚は、それはもうボロ雑巾のように薄給で働かせられます。
いつかはポジションを得て、責任と権限を持って国に貢献できる日を
夢みながら一生懸命頑張ることでしょう。
ところが、年功序列が絶対の組織では、出世は順番待ち。仕方なく待ちます。
ですが、天下りがなくなった官僚組織では、先輩たちが地位にしがみつき
ほとんどポジションが空きません。空いたとしても、そこにつけるのは本当に一握り。
50代後半まで出世ができず(=給料も上がらず)、しかもわずかな人数だけ。
そこからあぶれた人材は一生ヒラ生活が確定という組織で、
一体どこの誰が高いモチベーションを持って勤務できるでしょうか?
世界一優秀と言われた日本の官僚組織は、
10年を待たずして崩壊していくことは確実でしょう。
–
こうした中央省庁を支えるシステムは、
ある時代までは非常にうまく機能していたのだと思います。
年功序列を敷き、若手の間は安い給料で働かせる代わりに、
将来のポジションや天下り先の高給で報いる。
終身雇用や縦割りの仕組みで、自己組織へ異常なほど忠誠心を高める。
こうしたインセンティブで強力に経済成長してきた日本も、
しかし、限界を迎えたことは明らかです。もはやこれらのすべての仕組みは
現行の官僚たちの既得権益を守るためだけの装置に成り果てました。
解決策は、本当にシンプルだし1つしかありません。
競争原理の導入と、人材の流動化です。
年次ではなく成果によって給与、ポジションを与える。
人材は採用省庁にこだわらず、能力や適性で随時異動させる。
こうした世界では当たり前のシステムを導入し、
適宜リストラもおこなっていけば、もはや天下りに頼る必要はなくなります。
そしてここまで読んで、お気づきの方もいるでしょう。
「年功序列」「終身雇用」「縦割り」
これらはすべて、日本の労働市場の特徴そのものです。
官僚(公務員)のシステムを守るために、日本の労働市場はその鏡のようになっているのです。
仮に、官僚(公務員)組織に競争原理が導入され、人材が流動化したとします。
中には官僚組織を脱藩し、企業勤めを志す優秀な人材も出てくるでしょう。
そうなれば市場もそれに対応し、転職者を受け入れるようになります。
やがて転職というものが一般的になり、年功序列や終身雇用は過去のものになる。
入社した組織にとらわれず、適性と能力で仕事を選べる雇用システムが出来上がる…。
この点が、「公務員制度改革」こそが日本再生のために最も重要だと
多くの識者や良識ある政治家が強く主張する理由です。
もはや、一部の優秀な人たちを囲い込み、彼らのモチベーションを保てば
経済や社会が成長していく幸せな時代は終わりました。これからはひとりひとりが
健全なる競争の中、組織に頼らず自分の能力でキャリアを掴みとり、社会貢献する時代なのです。
–
繰り返しになりますが、
「年功序列」「終身雇用」「縦割り組織」
この官僚制度の抜本的な改革を行わない限り、
天下りの根絶も公務員人件費削減もできません。
苦し紛れに人件費をカットするとなれば、
冒頭の新卒採用の抑制のような愚行しか行えない…
この一点だけでも、現行の制度維持がどれほど既得権益に与し、
将来世代に打撃を与え続けるだけの代物であることがわかるでしょう。
逆に言えば公務員制度の改革は、僕が以前から常々主張しているような
労働市場の流動化の起爆剤となり、若者や女性の雇用問題解決の
切り札となる可能性も秘めています。
そもそもこの改革をやる、天下りを根絶する、人件費を2割カットするといって
政権を取ったのが民主党でした。しかし、公務員労働組合の選挙支援を受けており
しがらみだらけだった民主党政権は、1年を待たずに官僚に懐柔されました。
それ以前にも「公務員制度改革」を訴えた政権はいくつかありましたが、
その度に既得権益者、現行の官僚組織の頑迷な抵抗にあり、
現在でもその改革は陽の目を見ることはありません。
「天下りをやめさせろ!」
「若者世代に痛みを回すな!」
と叫ぶだけでは、日本も公務員組織も変えられないのです。
大事なのは、その事象を作り出している「システム」にメスを入れること。
しがらみなく、真に公務員制度改革を断行できる政治家を送り出す…
それが来たる次期衆議院選挙の際に、われわれ若者世代の有権者に
求められている責務なのではないでしょうか。
ちなみに。
「天下り」
を英訳しようとしても、ナイスな外国語はありません。
まあ元々は日本神話で使われていた単語だったとはいえ、
こんな概念が堂々と存在すること自体がなんとも日本的というか…ね。
先日、元タリーズコーヒージャパン社長で、
現在みんなの党参議院議員の松田公太さんが主催する
「首相公選制」
についての勉強会に参加してきました。
第9回 公太sフェロー勉強会 (前半)
http://ameblo.jp/koutamatsuda/page-4.html#main
なんとなんと、僕がプレゼンしている場面を掲載していただきました!
(ブログの下の方)
-首相公選制とは??-
現在の日本ではご存知の通り、首相を国民が直接選ぶことはできません。
我々は国会議員を投票によって選出し、その最大多数が所属する政党が与党になり、
そして主に与党が中心となる国会で首相が選出されます。
いわゆる「議院内閣制」と言われるシステムで、
これは先進諸国の主流と言っても良い制度です。
しかしながら日本では、この議院内閣制がうまく機能しておりません。
過去20年間(1992年~現在)の間に、各国のトップ(首相or大統領)に
なった人数をカウントしてみましょう。
アメリカ:4名
イギリス:4名
フランス:3名
ドイツ:3名
韓国:5名
日本:13名
…何事ですか。いやマジで。
ダブルスコアどころの話じゃねーぞ!
平均すると在籍期間は約1.5年ということになり、
最長はご存知小泉首相の5年半。その他はほとんど任期を満了できていません。
ちなみに豆知識ですが、実は日本の首相に「任期」とゆーのは定められてません。
与党(≒自民党)の総裁就任期間が事実上の任期であり、これまでは
自民党総裁選をひとつの区切りとして首相が選ばれてきたわけですね。
まあこの失われた20年では、それすら満了できた人材が
小泉純一郎ただ一人だったわけですが…。
この「コロコロと首相」が変わる原因の一つとして
「国民の乖離」
が挙げられるわけですね。
御存知の通り、日本では世論調査で首相の支持率が
ジェットコースターのように目まぐるしく上下(基本的には下降)します。
世論の支持を得られなくなった首相は求心力を失い、
野党との調整に失敗して法案を通すことができなくなり、
にっちもさっちも行かなくなった首相が退陣、または衆議院を解散する…。
そうならないためには、どうしたらいいのか?
安定した基盤と支持を集める首相を立てて、長期政権を築くためには??
この切り札が、「首相公選制」です。
要は支持率があっという間に急下降して、やめろやめろの大合唱になるのは、
国民が自らのトップを選んでいるという意識が希薄なのではないか?
国民自らが首相を選ぶ(または選ぶのに加担できる)仕組みがあれば、
国民の政治への関心も高まり、また責任感も生まれることから
長い目で政権を見守るようになるのではないか?
また、公選され民意(世論)を味方につけたリーダーは、とても強力です。
この例は、大阪維新の会の橋下市長を考えていただければわかりやすいでしょう。
政治改革には抵抗がつきものですが、「公選」「民意」という金看板があれば、
首相は大手を振って既得権益と闘うことができます。
首相に強力なリーダーシップを与え、また国民の政治離れを防ぐ効果も兼ね備える
強力な解決策が、この首相公選制の導入とも言えるのです。
–
そんな期待がある一方で、おそらくここまで読んだ皆さんも
少なからず感じている通り、この制度にはいくつか欠点が指摘されています。
・国民人気投票になってしまうのではないか?
ヤワラちゃんが一瞬で参議院にトップ当選する国です。
かつては、横山ノック某が大阪府知事になったこともあります。
ところが彼らが強力な民意をバックに、リーダーシップを発揮して
大きな功績を残したという話しは寡聞にして聞かないですよね?
キムタクあたりが出馬しちゃったら、どうしましょうね。
・首相候補の条件は、どうやって決めるの?
誰でも出馬できるとなれば、売名行為目的のいわゆる
「東京都知事選状態」になりかねません。
まあドクター中松は出ますね、確実に。
では候補になるハードルとして
「国会議員(または市長や知事)であること」
「国会議員の推薦を◯◯人以上あつめること」
などを設けてしまうと、結局は現在の
政党政治の延長となり、純粋に国民が選ぶことにはなりません。
この設定条件は、非常に繊細かつ悩ましい問題です。
ここが公選制の制度設計の非常に大事なポイントだと思うのですが、
長くなってしまうのでこの点はいずれどこかで書きたいと思います。
・そもそも、首相公選制って政治的に機能するの?
これは、わかりません!(きっぱり)
先進国で、首相公選制を導入している国は皆無です。
実はイスラエルでかつて(1988年~)首相公選制を導入していたのですが、
選出された首相と与党が違う「ねじれ」が生じて議会運営が行き詰まることが多く、
2001年に廃止されたという経緯もあります。
民意がトップを選んだからと言って、
リーダーシップを発揮して決定できるとは限らない好例です。
・「民衆の熱狂は、長く続かない」という格言があるよ?
この点が実は、僕が一番重要だと思うポイントです。
「国民の政治的関心が高まる」
「一人ひとりが責任感を持つようになる」
というのがウリの首相公選制ですが、
果たして本当にそううまく行くのでしょうか?
よく言われる事例として、前回の衆議院選挙で大勝し選ばれた
民主党の鳩山由紀夫は間違いなくあの時の民意が選んだ首相でしたし、
それに対して国民が意識や責任を持ったかと言われれば、残念ながらNOです。
結局のところこれは、ニワトリタマゴの話しではないかと思うのです。
国民の政治意識を高めるためには首相公選制の導入が起爆剤になりえますが、
国民の政治意識が高くなければ、首相公選制は機能しません。
首相が公選制になるからうまくいくのではなく、
「自らが選んだ首相だから、うまくいくように支えよう!」
という気持ちを一人ひとりが持たなければ、
魂の入っていない人形のようなものなのです。
–
実際に首相公選制を導入するには憲法改正も必要ですが、
松田公太さんらは憲法改正が必要にならない範囲の国民投票という手段で
事実上の公選制を実現しようとしており、また維新会の橋下市長も公選制への意欲を示しています。
僕は上記のような様々なデメリットは承知しつつも、
何らかの形で国民自らがトップの決定に携わるべきだと思っています。
それに対して、国民ひとりひとりが責任を保ち続けることを望みます。
決めるという行為には、責任を伴います。
それは、とてもとても重たいものです。今までのように
「政治家の誰ソレが悪い」
「勝手に決まった首相なんて知らない」
と、国民が野党化することも安易にはできなくなるでしょう。
皆さんは、いかがでしょうか?
自分たちのトップは、自分で選びたいですか?
その決定に対して、真摯に責任を持ちますか?
「EU、上場企業に女性役員登用の義務づけ検討」
という記事が、一昨日の日経朝刊に掲載されました。
ウェブでは有料記事になっており、アクセスできないのですが…
「努力目標だけでは、女性の社会進出が進まない」と業を煮やした欧州議会が
罰則規定をつけることまで視野に入れた法制化を検討し始めるようです。
可決されれば上場企業には、30~40%の登用義務を課されるとのこと。
うーん…
女性の社会進出が進むことは、とても素晴らしいことだと思います。
何せ僕のコラムのサブタイは「女性主導の世界の作り方」だもんで。
欧州でも女性の取締役がなかなか増えず苦労しているようですが、
それでも大抵の国では10%~の比率をKeepしています。
我が国の上場企業の女性役員比率は、なんと0.98%です。
げに恐ろしき、男尊女卑国家。
しかしながら女性の社会進出は、政府が法律を作って縛り、
無理やりに生み出されるもので良いのでしょうか?
政治は、制度や法律を作ることができます。しかしながら、
価値観を押し付けたり、変えたりすることはできません。
(正確には、するべきではありません)
例えば、小子化問題。
国家が
「国民は25歳までに結婚して、生涯2名以上の子どもを生む努力をすること!」
と義務づけることには、ほぼすべての人が反対するでしょう。
これは明確に国家による、思想信条の自由への侵害です。
しかし、上記のように企業に登用義務を強いるような政策には
賛否両論が発生し、賛成に回る人もけっこう多いと思います。
ですが程度の差はあっても、やってることの根は同じです。
僕は「小さな政府」を支持する立場の人間です。
国家による経済活動への干渉は必要最小限に抑え、
人々が自由意志で活動できることに史上の価値を置きます。
国家は自由意志で動く国民の活動が円滑になるように、
法律やシステムを整える黒子であるべきです。
働きたい女性が増え、今の法律や制度がその実態に合わなくなってきた。
だから変えましょう!こういう流れが正しい順番のはずです。
女性の活動を制約する法律やシステムはどんどん取っ払うべきですが、
女性の活動を無理強いする政策は、新たな不自由を必ず生み出します。
欧州の環境にはそれほど明るくはありませんが、
この法律の導入はあまりにも安易な気がします。
「じゃあ、どーすんのよ!自由に任せるって、今の状況を放っておくの?!」
と言われそうなので、日本については一言。
僕は現状の女性(及び最近の若者)を虐げているのは、雇用の硬直性だと考えています。
終身雇用のサラリーマンとその専業主婦が理想とされる価値観が支持され、
それを反映して制度やシステムが構築されています。
正社員は手厚く保護され、首にすることは事実上できません。
会社に忠誠を近い、長時間残業も厭わない社員の給与が年功序列で上がっていきます。
これが「女性の活動を制約する法律やシステム」の一つです。
以前の記事にも書かせていただいた通り、
労働市場(雇用)の流動化が進み同一の条件ですべての労働者が健全に競争を行えば、
やる気とスキルのある女性は男性以上のパフォーマンスを発揮できると思います。
そしてこの正社員を手厚く守っている「規制」を取っ払う
変革を起こすには、なんだかんだで日本にまだ蔓延している
「終身雇用のサラリーマンと、その専業主婦が理想とされる価値観」
が覆される必要があります。
「やっぱり大企業が安心だよね」
「あたし、働きたくないから家庭に入る」
という人々が大多数では、
制度も法律も変わるはずないのです。
そう、結局のところ
「政治は、人々を映す鏡」
どこかの優秀な誰かに任せておけば、
いい制度や法律ができて世の中が変わるわけではありません。
また逆に、政治や政治家が悪いから、社会が悪くなるわけでもありません。
この世界を良くするのに近道なんてたぶんなくて、
我々一人ひとりの意識と行動にかかっていると、僕は考えます。
仮に前述の法律が可決されて、表舞台に出てきた欧州の女性たちが得るのは
自由なのでしょうか。それとも、新たな不自由なのでしょうか。
もしも法律という不自由の力なくして、
マイノリティが自由に経済活動できないのならば、
それはそれでとても悲しい現実なのだけれども。ね。
政治塾、2262人を選抜=維新の会
http://bit.ly/y0R68Z
大阪維新の会のニュースが世間を賑わせていますね。
国政対策でまとめられた維新の会の政策
「維新八策」
は、まさにわれわれ若者世代にとって
「これしかない!」と思わせる内容になっており、
否が応にも期待が高まるというものでしょう。僕も大いに期待しております。
しかし、上記のようなニュースをご覧になり、
また「国政に200人擁立目標!」という威勢のいい掛け声を聞いて、
「おいおい、維新の会200人だってよ!こりゃ凄いことになるんじゃないの?!」
と思われる方も多いかと思いますが、
年内選挙であればほぼ不可能、来年でもかなり厳しい数値目標
だと考えられます。というわけで、今日は維新の会から見る選挙のお話。
–
政治塾に2000人以上の申込があり、
大阪維新の会から出馬したい人は相当程度いると思います。
それでもなぜ、200人の候補者が擁立できないのでしょう??
理由は大きく2つあります。
①
出馬に際する資金が拠出できない
まあお金です。カネ。
毎回選挙の話題になるたびに出てくるので
いい加減イヤになりませんか?僕は超イヤです。
維新の会が200人擁立を目指す国政(衆議院選挙)ですが、
出馬するだけで最低どれくらい必要かご存知でしょうか?
小選挙区に立候補するのに300万、比例代表に立候補するのに300万、
両方に立候補すると600万もの「供託金」を納めなければならないのです!
正確に言うと
小選挙区のみ…300万
比例代表のみ…600万
両方に立候補…600万
となっておりまして、
小選挙区のみだとしても300万円のお金を積むことが
選挙に出馬するための最低条件となります。
なおこの供託金、これはご存じの方も多いと思いますけど
一定の得票を得れば返還されます。「一定の得票」というのは
選挙の種類によって変わるのですが、まあ概ね有効投票数の10分の1(10%)です。
余談ですが、前回の衆議院選挙では「幸福実現党」なる政党が
小選挙区に337名の候補者を乱立。そのすべてが供託金没収点を
圧倒的に下回る得票数で落選を決め、12億弱の供託金はすべて没収。
「宗教法人って、ガチでお金が唸ってるんだな…」
という事実を全国民に知らしめるという
宗教史上もっとも謎のブランディングに成功したことは
我々の記憶に新しいところです(?)。
…話を戻しまして、ではなぜこのお金の話が
維新の会につながってくるのでしょう。
彼らが200名の立候補者を目指すとします。
300万 × 200 = 6億円!
もの資金が必要になりまして、
出来立てホヤホヤの政党にそんな軍資金はありません。
そう考えると幸福実現党ってやっぱマジで凄いですね。入信しようかな
そもそも300万は「出るのに最低限必要」というだけで、
実際の選挙活動を鑑みたら軽く1000万のオーダーになります。
ということは、大阪維新の会としては
「これは!」と思う候補者がいたとしても、
「公認は与えます。けど、資金面は自分の持ち出しでなんとかしてね」
と言わざるを得ないわけです。
これは大衆や若者を支持基盤とする政党にとってかなりの痛手です。
普通の20代で、300万+選挙資金を捻出できる人はほぼいません。
30代、40代でも、家庭や子供があれば相当キツいでしょう。
志のある人々が塾生に多数いたとしても、
資金力を兼ね備えているとなると、相当数は絞られます。
供託金が返ってくるかはフタを開けてみないとわかりませんし、
返ってくるとしても選挙が終わってから一定期間が経過して、所定の手続きを踏んだ後。
やっぱり先立つものがないと、選挙に出る踏ん切りはつけられませんよね。
②
候補者の多くが職業持ち(サラリーマン)である
新興政党には、「職業政治家」が多くありません。
自民党あたりには政治家二世やタレント候補がウヨウヨしてますし、
前回の衆議院選挙に落選して「浪人中」の元議員も腐るほどいます。
こういう人たちが、いつでも政治活動(選挙活動)を始められますし、
立候補も比較的用意です。
ですが、大阪維新の会をいま支持しているのは
改革を望む若者層や、普通の民間人労働者です。
この点がなぜ不利になるかというと、
衆議院は、いつ選挙があるかわからない!
(いつ解散するかわからない!)
からです。これに尽きます。
ただでさえ選挙資金の拠出に悩むであろう候補者たちに、
「6月に選挙がありそうだから、もう会社はやめておいて下さい」
と言って、首を縦に振れる人が何人いるでしょうか?
色々な事情があって仕事をすぐにやめられないのはもちろん、
仮に早めに仕事をやめてしまって、来年9月まで選挙がなかったら
1年間無収入で過ごすハメになり、生活資金や選挙資金はおそらく途中で枯渇します。
いわゆる普通の会社勤めから政界を目指す人にとって、
このタイミングは非常に悩ましいものなのです。
–
こうした状況から、民主党や自民党は
大阪維新の会の体制が整う前に解散総選挙をしかける動きを見せています。
(もちろん、それ以外にも様々な思惑があるのですが)
実際の解散がいつになるのかわからないというのは、
民間人候補者を新興政党にとってそれほど致命的です。
お金と人材で板挟みになる中で無理やり候補者を選定しようとすると、
怪しいところからお金を引っ張ってきている候補者に公認を出してしまい、
後に政治資金を突かれて政党自体が壊滅してしまうかもしれません。
極端にいうと他政党からのスパイがいるかもしれませんし、
候補者選定というのはとてもリスキーな作業であると言えます。
個人的には解散の時期はなるべく後ろに引き伸ばして
なんとか維新の会には粒ぞろいな候補者を揃えて欲しいと思いますが、
そもそもこんな問題が起きるのは選挙制度が悪いとしか言えません。
供託金一つとっても、普通の民間人が拠出できる金額ではありません。
いまの選挙人資格は
「財産又は収入によって差別してはならない。」
という憲法の条文に明らかに触れていると思います。
売名行為による立候補を防ぐためであれば、
50万円程度で充分ではないでしょうか。
なお、この供託金を減額して没収点も緩和する改正法案は
2008年~2009年にかけて当時政権与党だった自民党から提案されたのですが、
民主党と国民新党の反対によって否決されたことを、われわれ若者は忘れてはいけません。
その他、選挙にお金がかかる事実は枚挙に暇がありませんし、
結局のところ現行の制度は
「君は出馬するとだけ言ってくれればいい!
資金面その他は、すべて党で面倒をみるから!」
なんてことが言える大政党や既得権益者たちに有利にできており、
この壁を突き崩すのは用意ではないのです。
なお、供託金の減額に反対したのは小沢一郎だそうです。あんニャロ。
それでも維新の会旋風は、旧体制に風穴を開ける大きなチャンスです。
解散がいつになるかはわかりませんが、その時まで興味を保ち続け、
気鋭の候補者たちに投票することが、改革を目指す我々の勤めだと言えます。
そして維新の会の「維新八策」には選挙制度(公職選挙法)についての
言及はありませんが、ぜひ政権を取った暁には(!)自分たちが苦しんだ分、
若者や民間人が政界にチャレンジしやすい制度を整えて欲しいものですね!
それではー。
若者の年金離れが進んでいます。
国民年金の納付率は6割程度になり、
若者(20代)の半分以上は年金を払っていないという
衝撃的なデータも算出されています。
…なんて書くとニュースの中の出来事なんですが、
僕のごく身近にも少なからず未納者がいたという(!)
衝撃の事実が発覚したので、今日は年金についてなんか書きたいと思います。
◆そもそも「年金」とは何か?◆
年金年金というけど、これって一体なんじゃらほい?
「お年寄りになるともらえるもの」
「そのために、若いうちから年金を納めなきゃいけない」
ということはもちろん誰もがご存知かと思いますが、
その本質は以外と理解されていないのではないでしょうか。
「年金」とは、端的に言えば「長生き保険」なのです。
「老後にお金なんかもらえなくても、自分の面倒くらい自分で見たいよ」
「貯金をしっかりしておけば大丈夫でしょ?」
という考えの方は少なくないと思います。
が、かなり年収が高くしっかりと老後に向けて貯蓄ができた人も
うっかり(?!)120歳まで生きてしまったら、どうなるでしょう?
どれだけ貯蓄をしていても、生活を切り詰めたとしても、
引退してから60年分の生活費を蓄えておくことはほぼ不可能です。
120歳は言い過ぎでも、100歳でもほとんど無理でしょう。
この「万が一、自分の想定よりはるかに長生きしてしまった」時のため
『保険』として保険料を払っておき、死ぬまで毎年定額がもらえるというのが
「年金」の本質です。
考え方は、自動車保険や生命保険とまったく一緒です。
みんな保険料を払いますが、病気や事故と無縁の人もいます。
そうした人たちからも集めて運用してある保険料で、
病気や事故になってしまった人たちの金銭を工面する。
年金なら、60歳でなくなる人も80歳でなくなる人もいます。
60歳でなくなった人は年金は一切もらえませんが、そうした原資で
「長生きしてしまった人」を支える。これが年金の「正体」なのですね。
じゃあなんで、「世代間の不公平」が生まれているのでしょう??
自動車保険や生命保険で、世代によって有利不利が生じるなんて話しは
聞いたことがないですよね。
この原因は多岐に渡りまして、
・年金が積立方式ではなく、現在の若者からの保険料で
高齢者を支える「賦課方式」になし崩し的に移行したこと
・少子高齢化が予想をはるかに上回るスピードで進行していること
・高度経済成長期に、政治家が調子に乗って支給額を上げまくったこと
などなど、これだけで本が一冊書けてしまいます…。
ので、とりあえず
「今の年金は、若者世代に著しく不利!」
ということを結論&前提とした上で、話しを進めます。
–
それでもなお僕は、若者も年金はきっちり納めるべきだと考えます。
(ちなみに未納という選択ができるのは「国民年金」対象者のフリーターや自営業者で、
サラリーマンは強制的にお給料から引かれてます。ご安心(?)を!)
まず第一に、前述のように年金は「長生き保険」だからです。
年金を払わない理由としては主に
「どうせ年金は破綻して、もらえない」
「自分で老後のために貯蓄しておけばオーケー」
「いざとなれば、生活保護に頼ればいい」
などが挙げられます。
しかし、この理屈はどれも破綻しています。
先程も述べた通り、予想外に長生きする事態に対して
貯蓄でなんとかするということは困難を極めます。
また、「生活保護に頼ればいい」というのもおかしな話しです。
年金とは、社会保障の最も大きな柱です。年金が破綻するようなことになれば、
それは「=国家の破綻」であり、その時には当然生活保護など機能していません。
「民間の年金保険に加入する」というのは一つの選択肢としてありますが、
運用利回りはかなり悪く、また保険会社が数十年後まで存続するかなど
誰にも測り知ることはできません。
単純に、現時点で年金を納めないことは
「分の悪い賭け」であると言えます。
第二は、年金の社会的・道徳的意義です。
年金とは、「働けなくなったお年寄りを社会で支える」という
古今東西どんな国・社会でも逃れられない役割を一身に背負う制度です。
日本で公的年金がスタートしたのは1942年ですが、
それまでの日本社会はどのようにお年寄りを支えていたのでしょう。
そう、基本的に親と同居をし、老後の面倒は家族でみていたのです。
しかしながら、産業構造の変化で都市化・核家族化が進み、
親と最後まで同居して老後の面倒を見ることは困難になります。
同居しなくても、金銭面でバックアップできればいいかもしれません。
年配の方を一人支えるのにも、医療費や生活費で年間100~200万程度はかかります。
ですが現在、子どもから老後の親への仕送り平均額は年間15万円程度だそうです。
つまり年金とは、
「もう家族で老後の面倒を見るのは限界だ。国がなんとかしてくれ!」
という、我々国民からの社会的要請で誕生した側面が否定できないのです。
現状、いくら不公平が生じているとはいえ、現役世代の納める年金で
たくさんの年配の方々の生活が支えられているのは事実です。
確信犯的に年金を未納しているとすれば、それは
「老人は全員、姥捨て山に捨てればいい」
と思っているのと同義であるとも言えます。
そして最後の理由は、
年金を納めるのは法律で義務付けられているからです。
身も蓋もない話しですが、不公正や負担を理由に未納を正当化するのは、
選挙に行かずデモに参加をして文句を言うのと同じことではないでしょうか。
現状に異議があるなら、まず制度の中での改革を訴えかけるのが筋であり、
いくら自分たちに不利だからといってボイコットしていいものでは決して無いのです。
–
以上から鑑みると、仮に未納をして許される人がいるとすれば
(まあ、いないんですけど)
・自分で老後に備えて蓄え、また民間の年金保険にも加入している
・少なくとも身近な老人(両親や親族)の面倒は、
金銭的な負担も含めて死ぬまで自分が見るという覚悟がある
方に限られると思います。
が、大半の未納者の方々はそこまで考えていないでしょうし、
年金制度の破綻を本気で信じているか、目先の金銭欲しさに
年金を払っていないのが現実でしょう。
※なお、金銭的な事情で年金が納められない方は
当然のことながら免除や減額などの措置も充実しておりますので、
ほったらかしに(未納状態に)せず、まずはお近くの年金窓口に相談してみましょう!
もちろん、現行の若者世代に不利な年金制度が
そのままでいいなどとは、僕も思っていません。
改革の手段としては、
・支給額を徐々にカットし、上の世代にも負担していただく
・世代間の不利が生じない、積立制度に全面的に移行する
・公的年金は廃止、民間の保険に加入を義務づける(自動車の自賠責保険と一緒)
などの選択肢が考えられます。
最近では、大阪維新の会が「年金掛け捨て制度」を提案していますね。
いずれにせよ、年金の社会的意義をしっかりと理解し、
決められたルールの中で改革に取り組むことが重要だと、僕は思います。
長くなりましたが、われわれ若者世代も
「まだ関係ないな」
「知らなかった!」
では済まされない年金制度。
少しでも皆さまの興味を引き、知識となれば幸いです。
そしてお年寄りを支える制度が健全なものとなり、
自分たちが歳を重ねても安心して暮らしていける国を作るため、
参政権を駆使してしっかりと政治に働きかけていきましょう!
それでは、また次回。
今日はまず、本のご紹介から。
働きながら、社会を変える。
―ビジネスパーソン「子どもの貧困」に挑む / 慎泰俊
http://amzn.to/wf90cy
著者は普通のビジネスパーソン(サラリーマン)でありながら、
「働きながら社会貢献(パートタイムでの社会貢献)」という
新しいライフスタイルを考案し、NPOを立ち上げて活動されている方です。
マイクロファイナンスと教育のLIVING IN PEACE(LIP)
http://www.living-in-peace.org/
フルタイムではなく、自分の本業を持ちながら
いわゆる「空き時間」で子どもの貧困などの社会問題に取り組んでおり、
この本では主に児童養護施設を中心とした問題提起を行なっています。
さて、フツーのサラリーマンであった彼はなぜ
こうした活動に身を投じるようになったのでしょう?
経済学者のジェフリー・サックス氏によると、
極度の貧困、1日1.25ドル未満で暮らす人々を無くすために必要なお金は、
計算すると先進国に住む人々の支出の2.4%分/年に過ぎないそうです。
2.4%!
この数字をどう捉えるかは人によって様々でしょうが
日本のGDPで換算すると、日本のGDPは年間500兆円なので、
日本から12兆円のお金が貧困解決に回れば良いということになります。
12兆円というと到底集まらない気がするけれど、
組織や個人がその所得から2.4%ずつだけ出すだけと言われれば
解決できそうにも見える数字。。
単純に置き換えられるものではありませんが、
これを時間(労力)として考えてみたらどうでしょう?
24時間のうち2.4%なら、1日たったの35分。
人々が一日のうち半時間だけでも、社会問題解決のために動いたら…?
全員が難しいとしたら、じゃあ一部の人が1日2時間でも、社会貢献に時間を当てたら…?
アフター5や週末だけでも、真剣に社会問題にコミットする10%の時間は捻出できる。
そんな「パートタイム社会貢献」が増えて、全体の2.4%に到達すれば、
働きながらでも貧困を解決することができるのではないか?!
これが彼が、「パートタイム社会貢献」という発想にたどり着き
積極的な活動を始めた一つの動機だったそうです。
(あとの詳細は本をお読み下さい)(丸投げ)
著者の考えには色々と感銘を受ける部分が多かったのですが、
この2.4%という着眼点と発想は非常に素晴らしいと思います。
我々はいつも
「忙しい、忙しい」
と言って目先のことに夢中になり、
政治や社会問題から目を背けがちです。
「自分以外の誰かがやるだろう」
「こんな社会に誰がした!」
と言いながら、いつしか何も変えられないまま歳を重ねていく。
でも、本当にそれでいいのでしょうか?
朝寝坊する時間。飲み会で過ごす時間。なんとなくグダグダと流れる時間。
そうしたものを少しだけ、2.4%だけ社会のために使えないものでしょうか?
-世の中は、だれか一人の英雄によって変わるものではないけれど、
みんなが少しずつ変わることによって、ゆっくりと、でも確実に変化する。-
(本文より)
少しだけストレッチして、今の生活にない部分に手を伸ばすこと。
「政治」や「社会」に関わることは敷居が高いのかもしれないけれど、
その2.4%はひょっとしたら「投票に行くこと」なのかもしれませんね!
…と、強引に政治と結びつけて結論してみる。
(選挙の手間を考えると、本当に2.4%くらいかもしれないと思ったり)
–
さて、せっかくなので本書が触れている
子どもの貧困についても一言。
本書の中での問題提起として、子どもに対する社会保障の支出額が
先進国の中でGDP比ワースト2位(老人保障大国!)であることなども
子どもの貧困の原因として取り上げられていますが、
中でも個人的に僕が最大の問題だと思うのはやはり、
母子家庭の貧困です。
先日も産経新聞にこんな記事が出たばかりです。↓
単身女性32%が「貧困」 男性は25% 20~64歳、国立研究所分析
http://bit.ly/zvcoKI
「なんだ、たった7%差か」とも見えますが、
これが母子家庭になると、なんと貧困率は48%に跳ね上がります。
子どもが児童養護施設に送られてしまう理由は様々です。
けれどもやはり、経済的な要因がその中核となっているケースが多いと思います。
虐待や病気などは、親の貧困が原因となっていることが用意に想像できるからです。
母親が貧しいと、その子どもも貧しくなる。
悲しいくらいわかりやすい、貧困が再生産されるロジックです。
であれば、子どもの貧困解決の「ボーリングのセンターピン」は
女性の貧困を解決することだと、個人的に僕は思っています。
妊婦や子持ちになった女性が就労機会を奪われ、
所得が低下していくことが当たり前になっている日本社会。
これを打ち破らなければ、日本に明るい未来はありません。
「女性が真に力を発揮する社会」作りを目指すものとして(プロフィール参照)、
こうした問題に対する提起や政策提言を本コラムで行なっていけるよう
これからも自分の「2.4%」を捧げていきたいと思う次第です。
みなさんもぜひ、自分が捧げる「2.4%(1日30分!)」を見つけて下さい。
それでは、また次回。
先週末は、JunkStageライター総会&新年会に参加してきました。
twitterやFacebookでもすでにお伝えさせていただきましたが、
なんとなんと、当コラムが「JunkStageアワード」の副賞を受賞しました!
JunkStageアワード2011、発表!
http://www.junkstage.com/fromstaff/?p=444
「JunkStageを代表するにふさわしいコラム」という誤解(?)を招いてしまったようなので、
看板に偽りのないよう、2012年はコラムの質と更新頻度を上げていく所存であります!
…まあ、その後の新年会は早速へべれけでひどかったんですけどね。
てへ。そのあたりの様子はコチラで↓
新年会をしましタ。 | ジャン子の部屋
http://www.junkstage.com/juncco/?p=142
–
さて、それでは前回の続きです。
待機児童の問題は、以前も一度コラムで取り上げました。
待機児童っていつまで待機しているの?
http://www.junkstage.com/syun/?p=84
今回の消費税をアップする口実にも使われる「子育て支援の充実」。
増税分を原資に、7000億円が投資されると言われています。
ではこれを有効活用して政府・与党は待機児童を解消し、
また女性の社会進出や少子化解決を促すことができるのでしょうか?
結論から申しますと、もうまったくもって無理です。
むしろ悪化します。なんじゃそりゃ!
そもそもの始まりは、民主党のマニフェストです。
現在、保育園の不足で待機児童が増え続ける一方、
子どもが集まらない幼稚園では定員割れや廃園になる事例が続出していました。
では不足する保育園と過剰な幼稚園の問題を一挙に解決するため、
これを統一(一体化)して「こども園」なる総合施設にしてしまおう!というのが
民主党のマニフェストに書かれた子育て支援策の肝でした。
これは、普通にいいアイディアだと思います。
物事はシンプルな方が、往々にしてうまくいくものです。
しかし、ここから政権を取った民主党の迷走が始まります。
そもそも保育園は厚生労働相、幼稚園は文部科学省の管轄です。
お互いの縄張りを荒らされる互いの組織は、一致団結して猛反発します。
そこに、現状ぬるま湯のような公費投入でぬくぬくとしている
認可保育園や公立幼稚園の関係者たちが乗っかります。
「改革などとんでもない!」「保育の質を落とす気か!」
「保育園と幼稚園では、その意義も役割も違う、云々」
こうした紆余曲折を経て、ようやくまとまった素案は
「総合施設への転換を目指しつつ、保育園も幼稚園も希望すればそのまま存続を認める」
というものでした。
…ありゃりゃ?「一体化」どころか、2つだったものが
「保育園」「幼稚園」「こども園(総合施設)」の3つになっちゃった?!
そしてここからが、投入される公費の問題になってきます。
政府の働きかけにしたがって、総合施設(こども園)に移管する施設は
施設費や運営費で補助金を受け取ることができるようです。
ところがこの総合施設、既存の幼稚園業界に大幅に譲歩して
3歳~5歳のみが対象でも総合施設として認可され、補助金が降りる流れになりつつあります。
しかもこれまで幼稚園としてもらっていた「私学助成」という補助金は、そのまま継続でもらえます。
ええと、0歳~2歳をあずからないのでまったく待機児童の解消にならない上、
これまでの私学助成に加えて総合施設としての補助金までもが支給される…だと?
さらに、話はこれで終わりません。
幼稚園が補助金を二重取りできることに、既存の認可保育園業界が猛反発。
強烈なロビー活動を展開し、保育園が総合施設に移管する場合には
これまで幼稚園が対象であった「私学助成金」を受け取れる方向で話しが進んでいます。
つ ま り 、
幼稚園が「総合施設」に移管する場合、
3歳~5歳のみが対象でもOK。つまり、待機児童解消にはまったく寄与しない。
でも、私学助成も総合施設としての補助金も二重でもらえる。
保育園が「総合施設」に移管する場合、
これまで通り0歳時から対象となっているのでその機能は変わらない。
しかし、私学助成も総合施設としての補助金も二重でもらえるようになる。
こんな「総合施設」を作るために投資される公費が
増税を原資として捻出される7000億円というわけです。
…これで「子育て支援」が充実するのでしょうか?
さぞかし「保育の質」が上がって、一気に少子化が解決したりするのでしょうか?
どなたか、その道筋が見える方がいらっしゃれば、ぜひ教えて下さい。。
–
というわけで、政府・民主党の子育て支援は著しく間違った方向に進んでおり
まったく待機児童解消に貢献しなさそうなことはおわかりいただけたかと思いますが、
ではこの問題解決のためにはどうしたら良いのでしょうか?
ポイントは、補助金の出し方にあります。
日本の子育て支援における補助金政策は、
サービスの供給者側(事業者側)に過剰に偏っているのが最大の特徴です。
保育園や幼稚園の運営者・事業者に補助金を出し、
「公立」というお済み付きを与え、サービスをさせる。
これが我々は「普通」だと思いがちなので、
「もっと政府は子育て支援に出資して、
子どもを預かる施設を増やせ!安くしろ!」
と叫びたくなるわけです。
しかしながら、このシステムの欠陥は明らかです。
補助金システムでは国や行政が供給者(事業者)を選定するので、
一度固定すると利権や癒着が生まれます。また自由競争が起きないので、
サービスの質の向上やコストダウンが望めません。
しかもこれから少子化が進む一方の日本では、
例え補助金を出してバカバカと箱物(施設)を作ったところで
それがいずれ無用の長物となることは火を見るより明らかです。
ならば、方法を変えるしかありません。
補助金をサービスの受給者側(利用者側)にシフトさせるのです。
その例が、教育・保育バウチャー(クーポン)です。
政府が認可している子育て期間は公費が投入されているので
月数万円といった破格で運営されいますが、まずこれを段階的にとりやめる。
当然、保育の価格は上昇します。
そこで、これまで施設に投入されていた公費を、
保育にのみ使えるバウチャーとして子育て家庭に支給します。
金額を仮に5万とすると、各家庭はその5万円のバウチャーを使って
自由に子育て施設を選んでディスカウント価格で通えばよいのです。
今は「保育の質」を金看板に政府が業者の認可・不認可を行なっていますが、
そんなものは利用者に選別してもらえばいいだけの話です。
実際に子どもを預ける利用者たちの目は、行政などよりよっぽど確かです。
すると保育業界も、クーポンを持ったお客様にたくさん来ていただくために
他の施設よりも優れたサービスを生み出したり、価格を安くしたりして競争します。
儲かるとわかれば、民間の企業も進出してくるでしょう。
これは目新しいアイディアではなく先進国では普通の考え方でもありますし、
病児保育NPOのフローレンス代表の駒崎さんなども病児保育への導入を訴えています。
あるべき病児保育政策とは
http://komazaki.seesaa.net/article/248845729.html
通常の保育にもまったく同じことが当てはまりますよね。
いや補助金が事業者側に偏っている、すべての補助金事業に対して
概ね該当する政策だと言えるのではないでしょうか。
補助金の出し方を変え、「事業者」ではなく「利用者」を補助すること。
これこそが業界の利権構造を断ち切り、待機児童問題を一気に解決に導ける
切り札とも言える改革なのです。
それが実現される日まで、もう少しだけ頑張れ、子育て世代!
国の政策に影響を与えられるよう、僕らも頑張ります!
(僕も子育て世代だけど!)(独身だからっ!)