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2013/09/30

フィールドワーカーの端くれとして、
「写真を撮る」というのは、必須スキルの一つである。
「証拠資料」を残す、という意味において。

アートな写真を撮る必要は無いので、
例えば、シャッタースピードだとか、絞りがどうとか、焦点距離がなんだとか、
そういうテクニックに精通している必要はあまり無い。
むしろ、重要なのは、どんなときにも躊躇い無くシャッターを切れること、
つまりは、度胸、みたいなものだと思う。

個人的には、この「写真を撮る」ことが、正直あまり得意ではない。
研究フィールドであるブータンで、
あるいは、復興支援で訪れている気仙沼で、被災地で、
写真を撮ることへの後ろめたさを感じたことが無い、と言えば嘘になる。
こちらが向けている好奇の眼差しを、全て見透かされているような、あの感覚。

それに加えて、カメラを通してフィールドを見つめることで、
生の目でなければ見えない何かを見落としてしまうのではないか、
という恐怖感、みたいなものも少なからずある。
これは、特にフィールドワークに限らず、旅先であっても、
シャッターチャンスを逃さないように常にカメラを構える、
みたいな姿勢には違和感を覚えることが多々あった。

必然的に、自分が撮る写真は、「人」が被写体になることが少なくなる。
インタビューの後で、こんな写真を撮ったことがあるのだが、
これだって、「ぜひ写真を撮ってほしい」と逆に頼まれて撮った一枚だったりする。

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—–

ところで、先日まで、7月のブータンでの選挙取材の様子を、長きに渡り連載してきた。
少し複雑なのだが、その訪問時の自分の肩書きは、研究者ではなく、ライターだった。
メディアの人間として現地に入り、取材をし、その内容を記事に書いた。
そして、その過程で、何百枚という写真を撮った。

実はこのとき、ある変化に気が付いていた。
それは、
「メディアという肩書きは、こんなにも『写真を撮る』という行為を自由にするのか」
ということ。

自分はメディアの人間だ、という自己暗示をかけることによって、
上述のような後ろめたさを微塵も感じなくなる、という不思議な感覚。
カメラマンという人種は、こういうゾーンに入っているのか、
と、なんとなく分かってしまったような、そんなひと時の体験。

その後、日本に戻ってからは、相変わらず、カメラを向ける対象物は、
景色だったり、後ろ姿だったりする。

—–

そんな折、割と好んで訪れる恵比寿の写真美術館へ足を運んだ。
お目当ては、「世界報道写真展」、
そして、映画『ビル・カニンガム&ニューヨーク』の観賞。

彼らの撮る写真を、そして、写真を撮る姿を目の当たりにしながら、
ある思いが胸を去来していた。

例えば、「シリアの市街地で、銃弾に倒れた子どもの亡骸を抱えて泣き崩れる父親を目の当たりにして」、
あるいは、「ニューヨークのど真ん中で、素晴らしいファッションに身を包んだ女性を目の当たりにして」、
自分は、シャッターを切れるだろうか?

たぶん、切れない。

罵声を浴びるのが怖いからではなく、
きっと、そこに在るべき「ジャーナリズムの精神」が欠けているから。
自分が、そのシーンを切り取るに足る人間ではないから。

自分が「メディア」を背負った人間であれば、あるいは、
意志を持ったジャーナリストであれば、たぶん、躊躇い無くフィルムに収めるのだろう。
その写真を撮ること自体が、自分がその現場に立ち会う存在理由であるはずだ。

—–

翻って。
どうやら自分にとって、「研究者」という肩書きは、
「写真を撮る」という行為を内包するものではないらしい。
「研究者」である自分は、「写真を撮る」ことに酷く臆病だ。
むしろ、「旅行者」であるときのほうが、自由に写真を撮れている気さえする。

あるいは、そんなふうに頭の中で考え過ぎていること自体が、
フィールドに深く入り込めていない、ということに他ならないのかもしれない。

げに、フィールドワークの奥は深い、というお話。

2013/09/30 12:00 | fujiwara | No Comments