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皆様はじめまして
柳川市出身、福岡在住の写真家古賀英樹と申します。
柳川市出身…そう書きました.別に福岡在住としとけばいいのでは・・・
個展などのときにもプロフィールに書いているのでそう聞かれることもあります。
けれど僕は北原白秋の故郷であり、ゆかりの作家も多く、
写真家荒木経惟写真集「センチメンタルな旅」、「廃市」監督大林宣彦の舞台となるなど
文化の薫り豊かなこの町の生まれであることを大切にしたいと思っています。
僕の作品たちはぜんぶ「想い」がまず最初にあります。撮影意図や意識、コンセプトよりも
まず被写体さんたちそれぞれが持つ想いそのものが全てを形作ります。
「物語があるのですか」とよく聞かれます。
そう感じてもらえるのはそこに「想い」があるからです。
写真は映画とは違って物語を追うものではないから…
だからそれはきっと観る人の数だけ。。。
けれどもそれは決して美しい美談やピュアな感動を呼ぶものばかりではありません。
万人が賞賛するようなものでもありません。
考えてしまえば涙溢れそうなもの、痛いもの、できることなら目を背けていたいもの、
むしろそちらの方が多いかもしれません。
そうして身を投げ出して在るものを目の前にしたとき、
自分だけがレンズのこちら側でカメラマン顔をするようなことは、
僕にはできないからあえてそこへ深入りして行きます。
フラッシュは闇を刺します…シャッター音は身を切ります。
撮る側撮られる側、そこに上下はないと思うし、
またそういう場所に立たなければ見えてこない、
「その人がほんとうに伝えたいもの」に届くことはできないと思っています。
その先にあるものこそが・・・と思えるから僕はその線を越えて行きます。
痛いし深い、けれどもそこに行かなきゃ何も見えない。。。
真っ直ぐな思いをぶつけ合えば、当然、互いに傷つくこともたくさんあります。
撮る側も撮られる側も安全地帯など無いところで撮られた作品たち…
それは必ずしも美しいものばかりが写っているとは限りません。
切なかったり胸を締め付けられたり…
それはそこに写し取られた「想い」がそうさせるのであって、
作家の意図とか、作為を越えて観る人のココロへ直接届くのだと思います。
確かに「物語」はそこに在るのだから。。。
前述したように僕の作品は万人に受けるような世界ではないしそういうつもりもなくて…
では何故僕の個展の感想ノートがいつも長い文章を書いていただけるのか、
1点の前でずっと立ち尽くしている中学生とおぼしき女子…
普段ギャラリーなどには来ないような世代の方。。。
みんな物語を抱えて生きている。
普通に生きていてそれぞれがいろんな経験を経ていきます。
希望に満ちた時間もあるし絶望に打ちひしがれることもたくさんある。
変化する自分、しない自分きっとそれぞれ。
そうしていく中で「気付く」こと、たくさんあると思います。
と同時に気付かずに通り過ぎてしまうこともまた多い。
むしろその方が多いかもしれない。
けれど気付いたことでより痛いこと、傷となってしまうものもまたあるかもしれない。
それでも僕は気付かずに通り過ぎてしまうことより、
「気付くこと」を大切にしたいと思います。
被写体さんから「こんな自分がいるなんて」と言われることが
僕の写真作家としてのどうこうじゃなくって、
後で振り返ってみたときにあそこで「気付く」ことができたことに想いを馳せられる。
通り過ぎるよりもずっとよかったと
思ってもらえることができたなら・・・そんな写真作家でいたいと思っているし
写真はそれができるメディアだと思っています。
もっと言うなら、写真展や写真集にすることで、
また別の誰かを「気付かせて」あげられたりもする。
何の目的も無く生きてた僕が60年代の写真家たちに気付かせてもらえたように・・・
そしていつだって僕の方が被写体さんたちに気付かせてもらっている現在がある。
今回このコラムを書かせていただくにあたってタイトルを
「想いはいつも通り過ぎて.」にした理由は、
通り過ぎてしまったものの中にあって
取り返しの付かないものがなんてたくさんあるんだろうと、
日々感じるから。
写真がフィルムからデジタルになり、より手軽なものになる中で、
「いいね!」と「削除」の間のなんと簡単なことか。。。
その隙間にこそ「想い」は眠っているのではないか..
「気付いて」もらえることを待っているのではないか。。。
想いの淵で作品創りをしている一写真作家の言葉として
そんな側面から写真について伝えて行けたら…
そこから多彩な感じ方や受け取り方をしてもらえたら…と、そう思っています。
今日街でふと手に取ってみた個展案内のポストカード…そこが物語の始まりかもしれません。