私の生まれた時代は白黒テレビが主流でまだまだラジオに頼る時代であった。いつも「そこ」でしか見られなかった、また聴けなかった、音楽が「そこ」から「どこでも」の時代に変化した。
カラーテレビの普及、テープレコーダー、自家用オーディオ機器など、一部の階級の人たちだけでなく、いつでもどこでも音楽を楽しめる時代になった。
今でこそ、MP3はMP4のおかげで、大量のメディアを小さな媒体に入れて持ち運びができ時間を問わず場所を問わず楽しめるようになった。インターネットで1曲から曲を購入することができ、また今まで知らなかった音楽ジャンルの曲も試聴というサービスで知ることができ、聴けるようになる。You Tubeの動画配信で素人の音楽までもがたくさん配信され、ボタンひとつで世界の音楽から素人さんが作った音楽まで何でもどこでも聴けるようになった。
今まで「そこ」でしか聴けなかった音楽が何処でも手に入れられるようになると音楽が飽和してしまう、消化しきれなくなって飽きてしまうということが、ありうるのではないかと思うのである。
「音語り」というライブを鑑賞したことがある。
これは詩を朗読する者と語りに合わせてピアノで即興音楽を奏でるといったパフォーマンスである。近頃、このようなコラボレーションを見かける。
音楽の演奏でだけでなく、何か芸術的な要素を一緒に取り込んだ演出である。一昔前はこのような形態のライブはなくて音楽演奏のみであった。ジャンルはそれぞれだが、西洋音楽、ポップスなどカテゴリーが決まっていた。だが現在はその垣根を超えて西洋音楽に電子的な音を取り込んだりフリージャズの世界があったり、そして、音と語りを一緒に演出してみたりと多種多様な音楽が普通になった。
私が現在取り組んでいる音楽はアクースマティックミュージックなのだが、私はとても魅力的な音楽だと思っているが聞き手は「これは音楽なのですか?」と疑問符を問いかけてくることが多い。保守的な人は自分のやっている音楽以外を認めたくないのか「あれは音楽ではない。」と言い切る人もなかにはいる。
なぜ音楽を、色んな音楽を知ろうとはしないのか疑問を持つことが度々ある。ワールドミュージックから電子音響音楽、現代音楽とそれぞれに良いところがあるのに知ろうとせず、そこでシャットダウンしてしまう。自分が良かれと思っていても残念なことに聞き入れない人の方が多い。だが前衛的音楽をやることによって音楽という歴史も変化し人を魅了し続けたのが音楽ではないかと思う。
私は音楽そのものが好きである。わざわざ垣根を作ることはないのだが、たくさんある現代の音楽シーンは聞き手に委ねられているのだなと感じた。