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2011/10/16

こんにちわ、江戸曲独楽師の三増巳也(みます みや)と申します。面倒くさかったら、コマのみぃちゃんと憶えて下さい。
…毎度お馴染みの開口一番、私の芸は、こんな台詞で始まります。Kyokugoma Miya

コマの曲芸、曲独楽(きょくごま)は、寄席では当たり前に演じておりますが、この広い世界中で、こういう表現が仕事として成立する社会は、どこを見回しても日本だけです。ジャグリングという曲芸が盛んな欧米でも、仕事でコマだけの曲芸をしている人は誰もいません。

なかでも、私巳也が回してご覧頂くコマは、最も珍しい江戸曲独楽という種類のコマ。その江戸曲独楽で一番の流派が、我が一門の三増流です。
三増流って事は、師匠がいて、弟子に教えて芸の集団を作っているという事で、特に経済的に束縛があるわけじゃないですから、ひとり立ちしたら、それぞれが自由に活動する同業組合みたいなものです。

さて、私の事をちょっと説明させてもらうなら、東京都豊島区生まれ。両親が芸人。父は面白い芸で結構売った芸人です。源氏太郎っていいます。ハーモニカ吹いてギター弾いて足でカスタネット踏んで、最後にギターのネックに棒立てて皿回しちゃう芸です。富山県井波町の生まれですが、0歳で東京の赤坂一ツ木に引越し、戦争の頃は学徒勤労動員で湯河原の軍需工場で労働、空爆にあったりもした世代。

現在は芸歴64年で82歳の現役最高齢、華やかな独居老人で浅草東洋館に毎月出演中。
Genji Tarou

母は父の壮年期体調不良・タバコ禁煙から断煙での見張り番目的から芸人になりました。(^_^;ウソウソ)昔、民謡の踊り手だった祖父から習った三味線で父とコンビデビューした中途採用芸人、源氏このみです。亡くなって今年で三回忌。
芸人でも売り込みよりも芸本位で生きてきた両親ですから、舞台芸の雰囲気は自然なおかしさがあり、明るかったです。
極貧乏な時代もありました。そんな時は、母が雑貨屋さんの店長さんで10年間乗り切ったりして、生き方の手本を何となく背中で教えてもらったのかなと、今は思います。
小学生の頃から、しきりに芸人になるように勧めていたのが父。
ハーモニカは、女性だから顔が見えないので辞めろといわれました。
ギターも指が痛くてダメで、
一番おしえてもらって楽しかったのが、皿回し。
多分、これが父の後々の判断につながったのだと思うけれど。この点は後述。

でも一度、本当に芸人修業をするかどうか真剣に聞かれた事がありました。やりたいとぼんやり答えて、浅草の寄席へ一緒に行って、夏の怪談をやってて、逃げて帰ったかで、結局もっと大人になってから、自分で考えなさい…とか、言われたかな。
だから、私の子供時代は、ほとんど普通でしたね。
絵を描くのが目立って向いてたらしく、マンガの模写やアニメの同人誌作ったりして中学校は終わっちゃったし、高校もアニメ同好会で部長に仕立てられたり、内容的な興味は、ミステリー小説や冒険小説、ファンタジー、SFに移行。つまんないねぇ。でも、一度だけ楽しい事があった。芸術鑑賞会が歌舞伎公演だったこと。内容は憶えていないのに、すごく色と言葉のショックが大きくて、父の舞台台詞の稽古の意味が初めて歌舞伎のつらね台詞だった事がわかった。見終わって、言ったのね。「私の仕事は、これだ。」別に歌舞伎俳優になる意味ではない…。

凄いんだな。白波五人男、三人吉三、助六、石川五右衛門、すらすら出てくる。
一方では藤山一郎さんのNHk出演最後の司会もしたり、霧島昇さんのショーに行ったり、変わり身で選挙で保守の街宣車と革新の応援演説…。
ああ、一体芸って何なのだ…。

つかみ所の無い、巨大な魚をみてるようで、何をしたいのかわからなくなる。
結局、高校2年のとき、進路指導の先生の言うとおりの都市銀行勤務を選択した。
私には、できないや。

けど、母が言った。昔と違って、勤めてから考えても、芸人にはなれるよ…と。

そうだ、お金を貯めて、芸で独立しよう!

単純な私の結論だった。
果たして、銀行勤務がどんな風に変わっていくのか…。また書きましょうか。

一応、おしまい。

2011/10/16 09:39 | miya | No Comments