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本日。いえ、日付上は昨日。
JunkStageの一大イベント、第3回公演が終わりました。
携帯の電波が圏外で、現代においては逆に包囲状態になったあの会場で
時間をともにできたお客様、出演者の皆さん、本当にどうもありがとうございます。
わたしはこの公演で、Junkとしても、個人的にも、多くのものを得ました。
「JunkStageってなんなの?」と1年に100回くらい聞かれて、かわし方は覚えても、
うまく答えられなかったものに、ひとつの「解」を与えられた気がしています。
前日、総合演出のスギさんのコラムを読み返していました。
そして、そういえば、サスペンス調だった予定を、311のあの日をきっかけに
物語の方向性を随分変えたことを思い出しました。
スギさんは、ちょっと言葉じりをまとめてますが、このようなことを書いてくれていました。
「今よりも未来について考えるようになった。大きな地球からすれば私たちなんてちっぽけで、
でも100年後、1000年後、この地球がもっと住みやすい場所になっていてほしい。
そのためにわたしができることはなんだろう、もしかしたら演劇しかないかもしれない。」
わたしはこれが、JunkStageというものの、正解ではないかもしれないけど解だと思いました。
結局人間なんて万能なわけないし、だから自分のなかで「これ」っていうもので生きるしかない。
JunkStageに居るのは、「俺は、私は、コレで生きていく」というひとつの芯をもち、そこには
「わたしはこういう人間です。この分野でしか、ドメインをもてません」という潔さを持った人達。
それから今度は、出演者のライターのコラムを、一番最初から読み返しました。
(そのせいで遅刻したんです、という言い訳記事ではございません、念のため。)
「これだけは」という何かを持てることが、どんなに幸せで、尊いことか。
それは自分ひとりの力ではなくて、いろんな人に会い、いろんな局面で選択を迫られ、
いろんな運命に導かれてひらかれた結果である道なのだと、あらためて気づきました。
そしてつまり、その道を以って生きていくということは、
自分ひとりで生きてるんじゃないんだ、ということも。
そういうものも全部ひっくるめて、結果その人にしかできないものを表現すること。
それが、人の心を打つのではないでしょうか。
「板(=舞台)の上にいる理由」が、ひとりひとりに、かならずある。
少なくとも、「技術」や「上手下手」“だけ”がものを言うのではない世界を、
きちんと形にして見せたいと、様々な人の情熱に触れるたびに私は思ってきたのだなあ、きっと、
…ということを、自分ですらいま、感じています。
裏方としてはできることなんて特に当日になってしまえばせいぜい力仕事の微々たるもので、
せいぜい、ゲネプロのときに主演が間違えていた台詞のところで本番、
「ジーザス!」並に祈ったりすることくらいしかできないんだけれども。
「わたしがもし世界を変えられるのだとしたら、それは、●●を通じてしか、ないだろう」
●●、にあてはまるものをまだ持てていない、わたしだから尚更なのかもしれませんが。
だいじに生きなければならないのだと、本当に思い、
そして、出演者ひとりひとりから、ものすごい人間くささをもらいました。
ゆかりさんの、ひたすらにまっすぐな演劇というものに向き合う気持ち。
イトウさんの、頑固なまでに妥協をゆるさないこまかい性格。
廣川さんとエイミーさんの「大人なのに遊ばないなんて楽しまないなんてつまんない」っていう姿。
「空気」ってもんが目に見えた気がした、場をつかんで離さない、王子・神さんのオーラ。
周りまでぱっと明るくしてくれる、希彩さん(←字の通り!)のもつ雰囲気。
なによりも自分が楽しんでいることで見ているほうの鼓動を上げる、竜半さんの笑顔。
安樹子さんのもつ、ひとつひとつの音とその周辺の人間くさーいものを大事にするナマな演奏。
そしてそれらを、決してギラギラせずことごとく引き出していったスギさんのスマートな仕事人魂。
駆けつけてくれたJunkライターの皆さんにも、ありがとう。
そして何よりもお客様に。
ご来場、本当にありがとうございました。
お1人1人とお話をさせていただくことは叶いませんでしたが。
JunkStageはこれからも、…前に進みます。