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昨年考えたことシリーズ、第3弾(おそらく最後)はミャンマー編。
昨夏、ブータン、インドに続いて足を踏み入れたミャンマー。
急速に開発が進むこの国を、できるだけ昔の趣のあるうちに一目見たいと、
かねてより考えていたのだが、このたび、念願叶って初訪問となった。
まず、タイのバンコクからヤンゴンへ飛ぶ。
しかし、当地に降り立ってからしばらくの間は、
そこが思い描いていたミャンマーであることが認識できなかった。
それぐらい、ヤンゴンは、ほとんどリトルバンコクと言ってもいいほどに、
「あの」東南アジア独特の熱気と喧騒に満ちた街だった。
もちろん、昔のヤンゴンを知っているわけではないが、
もうここも開発が進んで、「あの」空気に呑まれてしまったのか、と、
勝手に残念な気持ちになったりもした。
その気持ちは、翌日、観光地巡りをはじめて、より深まることになる。
ミャンマーといえば、タイ同様、敬虔な仏教国であり、
観光地といえば、そのほとんどが寺院やそれに類するものだ。
そして、寺院を訪れて、驚くのは、そのあまりの煌びやかさ、であった。
悪く言えば、カネの匂いがしすぎるのだ。
これでもかというほど電飾を施された仏像。
寺院の中にこれ見よがしに置かれたATM。
ドル札が汚いという理由で入場料を上乗せしようとするがめつい門番。
金箔を貼ったり、電飾でギラギラにして、仏像を美しく輝かせることが、
信者の徳を積むことにつながっているらしく、
敬虔な仏教徒であるミャンマー人は、信心の深い者ほど、
より多くのお布施を支払う。
もちろん、その信心を否定するつもりはさらさらないのだが、
「『信じる』の横に『者』を付け足すと『儲け』になる」
とはよく言ったもので…
(写真:金ピカの仏塔がそびえるシュエダゴォン・パヤー@ヤンゴン)
いや、あるいは、日本だって、坊主がカネに汚い、という話はよくある。
むしろ、堂々とカネを無心してくる分、マシだと言えるのかもしれないが…
そんなミャンマーでは、やはり東南アジアあたりに蔓延している、
「擦れた」観光商売が幅をきかせつつある。
観光客と見るや、料金をふっかけてくるタクシー。
これ見よがしに芸を披露して小金をせしめようとする輩。
「幸運の仏像を拝め」とか何とか勝手に案内しようとするガイド。
などなど、次から次にやってきて、なかなか不快指数が高い。
しかしながら、直接面識のある方はご存知かと思うが、
筆者は、どうも、国籍年齢不詳な顔立ちをしているようで、
この点では、少々得をさせてもらったりもした。
簡単に言うと、現地人に間違われることが多々あった。
観光客扱いされないので、上記のような輩は大概スルー。
本当は地元の人しか入れないお寺に普通に入ってしまっていて、
後からその事実に気付く、なんていう事態も起きた。
ロンジー(男女ともに履く巻きスカートのようなもの)が、
なかなか快適そうだったので、1着仕入れようかと思ったのだが、
いよいよ現地人化待ったなし、となりそうで躊躇したりもした。
そういう意味では、擦れてしまった面と、擦れていない面と、
その両面を見ることができて、大変有意義な旅だった、とも言える。
そんなミャンマーではあったが、
一方で、まだまだ素朴な雰囲気も残る場所であったことは間違いない。
国内線の航空券チケットは手書きで、
機内では「好きなところに座ってもいい」とかいう適当さを味わう。
案内もなにもない洞窟寺院を拝観していたら、
いつの間にか観光客が全く居ない山中に迷い込む。
水上集落で思いがけず、地元民だけのお祭りに参加する。
煙草づくり工房見学していたら、タダでお土産をもらう。
(絶対カネを請求されると思ったら、本当にタダだった)
etc…
もちろん、たった10日間程度の滞在で、
ミャンマーを分かった気にはとてもなれないが、
この国の今昔と、そして裏表とを垣間見ながら、
いま、この時期のミャンマーを見ることができて良かった、
と素直に思った。
また、10年後くらいに、その変貌ぶりを見てみたい国の一つだ。