2012/02/29


広告人・吉田透氏の場合

広告界にとって必要な試練。渦中の人間が、信じ、愛せるかどうか。

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「僕は基本的に、広告が嫌いな人間なんです。」
無論、広告全般や広告そのものが、というわけではない。
最後のアウトプットであるクリエイティブは、広告が生まれるプロセスとの映し鏡だ、という。
「広告をつくる人間が、広告主と道筋をちゃんと共有すること。広告が生まれるプロセスが
 正しければ、広告主にも受け手側にも受け入れられるものが出来上がる。
 何かをすっ飛ばすから、広告が暴力的になって、嫌われるんです。」

吉田さんがこれまでに見たなかで最も美しかったという広告は、とあるビールの広告。
スウェーデンへ行ったとき、街中を昔ながらの馬車が走っていた。
それは、馬車のロゴをあしらった、あるビールの広告だったのだ。
ブランド名を大声で連呼することも、繰り返し商品を見せて強引にアテンションを引くこともしない。
「なんて大人な広告なんでしょう、と、感動しました。」
かつての江戸時代の広告のように、頓知や機転をきかせた町を汚さない広告は
日本人が本来得意とするはずだと吉田さんは言う。

「必要ないものも大いにある。無駄な出費をしなくなるのは健全なこと。
 これからは、広告の世界でもエコなものが受け入れられていくはずです。」

*     *     *

現代では、情報伝播の道筋の変化とともに、表現物に対する受け取られ方も変化している。
昔は、自分の書いたものが活字になったり、TVに出るというのはものすごいことだった。
しかし発信方法が多様化してきた今、広告を見たときに「自分もやりたくなるか」という要素が重要だと考える。
「絵描きに絵を売りますか? という話。
 僕だったら、絵描きには画材とインスピレーションを売る。」
たとえば自分の投稿や作品が載った新聞は、きっと見るなり買うなりするだろう。
デジタルかアナログか、ということではなく、インタラクティブ性が鍵を握る、
新しいメディアの使い方にこそ、これからの広告手法の可能性が潜んでいる。
「デジタルを“安いメディア”としか見れないのは、勿体無いじゃないですか。」

一方、メディアが分散している今のカオスな状況の後には、
揺り戻しが起こり、また収斂していくとも予測する。
「相対的に、マスメディアの影響力は今後また大きくなっていくでしょうね。
 それは過渡期を経た正しい変革で、作られた構造や政治によるものではない。
 自浄作用がはたらいて、極端に振れたあと、正しいところに戻る、そうなるはずです。」

ワイデンからネイキッドへ所属を移した吉田さんだが、
現在、中小企業支援機構のアドバイザーもやっている。
これまで多様な業種の150社ものキャンペーンやブランドコミュニケーションに
関わってきた経験や広告の手法というものが非常に活きているという。
「自分(=企業)は、何者なのか。なぜその商品が買う人を幸せにしてくれるのか。
 企業側の話を聞いて、それを言葉にして伝えること。
 それが正しくできれば、広告の手法は人の役に立つ。」

“正しい”“あるべき姿”というキーワードを、このインタビューの中で何度も聞いた。
吉田さんは、広告界と広告に関与する人々の性善説を信じている。
だから、この苦境をも、必然にして越えるべき「試練」と受け取っている。
KPIという名のもと、確かに効率重視が行き過ぎている昨今をも
これまできちんとした効果測定もしてこなかったツケを払わされているのだ、という。

「今の、この広告業界が直面している苦境は、
 広告業界がキチンとしたエコシステムのなかに入るための試練なんです。」

いま辛くても、未来のために正しい道を——
それは、自称「広告嫌い」の吉田さんには否定されるかもしれないが
広告を、それに関わる人々を、愛しているから、信じているからに他ならないと私は思う。

先人たちが築いた道を、私たちの世代は歩けるだろうか?
信じることが出来るか。愛することが出来るか。
きっとそんな踏み絵をも、この広告界の試練は孕んでいるのだろう。

吉田透(よしだ・とおる)
北海道生まれ。1985年博報堂入社、1988年よりマーケティング局勤務。
フリーランスを経て2003年、ワイデン+ケネディ トウキョウにマーケティングプランナーとして参加。
2012年2月より、ネイキッド・コミュニケーションズにエグゼクティブ・クリエイティブ・ストラテジストとして転籍。

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Special Thanks to T.YOSHIDA

2012/02/29 07:00 | vol.7 吉田透 | No Comments
2012/02/22


広告人・吉田透氏の場合

世界の景色を求めて、ワイデン+ケネディ トウキョウへ。

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時は、広告バブル。ひとつのキャンペーンに、信じられない巨額が動いていた。 
競合他社と差をつける要素として、マーケティングや広告に依存する傾向が大きかった時代でもある。
TVCMが圧倒的に強かった当時を吉田さんは「自由競争ではない」と表現し
「政治で仕事が動く、テレビ局と代理店のもたれ合いの構造。」と断する。

クライアントのものづくりの現場に接していた吉田さんは
夜中に過酷な労働をして1円50銭の単位で商品を作っている企業に対し
当時の代理店のやり方、あり方に憤りを覚えることもしばしばだった。

「ちゃらちゃらしたプロデューサーが
 撮影現場にものすごいベンツで乗りつけて、営業部長とゴルフの話ばっかり。
 滅びてしまえ、と思ったこともあります。」

効果測定など上っ面の言葉だけで、現場も大甘。
「これまで広告代理店は、ノーリスクで人のお金を使ってきたんです。
 それで賞を取って、巨匠気取りとか…そんなのって、絶対におかしいでしょう。」
だが吉田さんが呪わなくとも、現実問題としてそんなバブルは長くは続かない。
広告代理店=高給という方程式ももはや神話化し、苦境にあえぐ代理店は今、
“Innovate or die”と変革を迫られているが、それは悪いことではないときっぱり言う。
「テレビ以外にもこれだけ色々なメディアがあって、その中で、効率とは何かを考える。
 他の市場では当たり前のことが、ようやく今広告の世界でも正されつつあるだけのこと。」

*     *     *

吉田さんが博報堂の退社を決意したのは今から約10年前、
9.11アメリカ同時多発テロの直後だった。
世界の構造が変わると確信した事件だったが、翌日の会議室で違和感を覚えた。
テロの件が話題にのぼることもなく、淡々と進む事例発表会。
非常にドメスティックなところにいて、「世界の景色が見えない」と痛感した。

そんな時に知ったのが、世界を代表するクリエイティブエージェンシー、ワイデン+ケネディのジョン C.ジェイ氏。
“JJ”の愛称で慕われる—いや、もはや伝説となっているジェイ氏は、ワイデンのキーパーソンとして、ワイデン+ケネディ トウキョウの設立にも貢献した偉大なクリエイターだ。
“カジュアルの前に、人は平等である”
NYのファッション業界から広告界に転身した彼がユニクロのブランドメッセージとして語ったその言葉が吉田さんを動かした。
ワイデンは主にクリエイターが属する会社だったが、吉田さんは東京支社初のプランナーとして迎えられた。

ときに、感性のクリエイターと理論のマーケターは衝突しがちだが、
売り場視点の吉田さんはすぐにクリエイターとの協働にも馴染んだ。
「博報堂に居た時に好きだったタイプのクリエイターが多かったですよ。
 ヒューマニティっていうのかな、人間性への愛情の強さが根底にあるところとか、
 アイディアを形にする最後の作りこみに対する粘りとか…
 そういうものが結果、クオリティを上げていくんだ、と学びました。」

有り物のメディアに、出来合いの表現を乗せていくだけではない。
ワイデンのクリエイティブにマーケの手法を取り入れ、さらにクオリティを引き上げていく。
吉田さんは、博報堂時代から、PRを効果的に使うマーケターだった。
最初は、薬事法でがんじがらめのため自薦型の広告では何も言えない商材の訴求のために使った他薦型のPR手法だったが、
広告とPRを組み合わせ、手数(てかず)を増やしていく作業は非常にクリエイティブだったと振り返る。

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次回予告/Scene3;
広告人・吉田透氏の場合
広告界にとって必要な試練。渦中の人間が、信じ、愛せるかどうか。
(2月29日公開)

2012/02/22 07:00 | vol.7 吉田透 | 5,457 Comments
2012/02/15


広告人・吉田透氏の場合

メーカーの実直さを肌で知り、売り場視点のマーケターへ。

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SE(システムエンジニア)。
吉田さんの最初のキャリアは、意外な職種だ。
全社のオンライン化をいち早く整備し、イントラネットに取り組んでいた博報堂で、
新卒では最多となる6人もがその部署に配属された。
吉田さんは理系でもなんでもなく、大学の専攻は言語学。
「北海道で、役者をやってたんですよね、僕。」と、振り返る通り
演劇、写真、絵と広く芸術に親しみ、大学に残ろうかとも思っていたという。

世はまさに広告代理店が華の職種ともてはやされた時代。
大学で、古文書の解読研究をしていた吉田さんを、当時の人事は
「言語学ができるなら、プログラミングの言語もわかるだろう」
と、ずいぶんと拡大解釈をしたらしい。
配属され、プログラム言語よりも先におぼえたのは大阪弁。
オンライン化過渡期のそこで2年間。
実務から離れた場所は、逆に社内を見渡すきっかけになった。

やりたいことを見つけよう、と思ったとき、マーケティングに行き着いた。
「マーケの方が、クリエイティブ。クリエイターは、言葉を書くか、絵を描くか、だけに見えていた。」
そのマーケの仕事を吉田さんは“まじめ”と表現する。
当時のクリエイティブが不真面目だとは言わないが、たしかに全盛期の広告代理店では、
お金も規模も「行き過ぎた」クリエイティブは多くあったのだろう。
そんな根幹が形成されていったのは、念願かなってマーケへ異動し、最初のクライアントを持ったときのことだった。

主要なクライアントごとに分けられていたマーケの部署で、
既存の枠組み—無論、既存の“取引先”という意味でも—に収まらない仕事をする
新しい部、「マーケティング5部」が発足した。
出向から戻った名物部長がクセのある人間を集めて立ち上げたその部で、
吉田さんはリサーチの仕事から始めた。
「あと、企画書の清書。当時は、青コピーですからね。」
手探りだったが、その分、若い力への期待もかけられていた。

*     *     *

マーケターとして、最初に担当したのは製麺会社のシマダヤ。
「正直…、最初のクライアントの仕事で馴染めなかったら、田舎に帰ろうと思っていました。」
ところが、このシマダヤの仕事が、吉田さんの“今”をも支えていく原体験となる。
上司の“指導”で、吉田さんは一日中、製品が並べられているスーパーに立ち、お客さんを観察した。
端からは不審者にも見えそうだが、そこで吉田さんは様々な事に気付き、売り場視点のマーケターとしての視点を得ていく。
製品を手に取る瞬間、きっかけ、お客さんの表情。
「売り場やお客さんへの愛情っていうものを、あそこで覚えていったんでしょうね。」

クライアントにも恵まれた。新人ながらに大事にしてもらったともいう。
広告業はサービス業ではあるが、自らをクライアントの“下請け”と捉えた瞬間に、パートナー関係など築けなくなる。
スーパーに立った吉田さんのお客さんは、シマダヤではなく、シマダヤの製品を買うお客さんたちだった。初期の頃からバランス感覚を得、メーカーというものがどんなに「実直」かも吉田さんは肌で知ることになる。
当然、本業であるところの広告への不安も芽生えた。
本当にこの広告で、モノは売れるのか? かけたお金に見合う効果が得られているのだろうか?
一方で、商品にはスーパーで通りがかるだけでは知り得ない技術も隠されている。
「広告って、人の役に立つこともあれば、全く意味を成さないこともあるんだ」という思いを、強くしていった。

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次回予告/Scene3;
広告人・吉田透氏の場合
世界の景色を求めて、ワイデン+ケネディ トウキョウへ。
(2月22日公開)

2012/02/15 07:00 | vol.7 吉田透 | No Comments
2012/02/08


Prologue

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博報堂、ワイデン+ケネディを歴任したストラテジック・プランナーであり
この2月から、エグゼクティブ・クリエイティブ・ストラテジストとしてネイキッド・コミュニケーションズ社へ移籍した吉田透さんとお会いしたのは、ちょうどその転籍の境目であった先月半ばのこと。

「ギャンブルとか原子力発電所とかの仕事は、ちょっと難しいかな……。
 それは本当に人を不幸にしないのか、自信が持てないんです。」

お会いする数日前に改めて読み返した、誠文堂新光社刊『広告マーケティング力』で綴られた
吉田さんのその言葉に、わたしは思わず裏表紙からページをめくって本の発行日を確認した。
2010年6月30日。当然、原発事故よりも前に行われたインタビューだった。

広告はひとりの消費者に寄り添い、その心にはたらきかけるもの。
とても役立つこともあれば、逆に間違った印象を与えてしまう危険性もある。
「この商品をこういうふうに薦めて、本当にいいのだろうか?」
広告業に従事していると、そう思って立ち止まるといったことは
日常茶飯事ではないにせよ、何度かは経験することである。

そんなとき「NO」といえるかどうかというのは、また別問題でもある。
効率性。利益率。(それに、意外と大きいファクターである、サラリーマンという身分…)
ビジネスである限り数字を追いかけるのは当然のこととしても
人として、置きっ放しにしてはいけないものはある。
と、思ってはいても、経験や年次を経るに反比例して、それを貫くのは難しくもなる。

しかし、吉田さんは自分のなかにある「矜持」を守る。本人は、「まじめにやる」と表現する。
当たり前のことを、当たり前にやること ― コミュニケーションを生業にする者が守るべき砦。
それは、自分のつくる広告によって顧客と消費者との両者がHAPPYになることを目指すからであり、自分が疑念や不安を抱えた状態で広告など作れない、と思うからだ。

——企業人である前に、広告人たれ。
吉田さんの広告人生は、厳しくも清々しい、そんな無言のメッセージに溢れている。

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次回予告/Scene2;
広告人・吉田透氏の場合
メーカーの実直さを肌で知り、売り場視点のマーケターへ。(2月15日公開)

2012/02/08 01:00 | vol.7 吉田透 | 14 Comments
2011/11/29


広告人・加藤雅章氏の場合

広告は、コンテンツ。それを生み出すための、新しい方法論を。

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広告の仕事とは、何なのか――
「広告は、コンテンツ。」
加藤さんはそう言い切る。それは勇気でもある、とわたしは思う。
コンテンツが“大事”あるいは中心であることを否定する人はいまい。
しかし、「いいものを作っても人が来なければ意味が無い」というロジックで広告“枠”を売るのが広告業のビッグビジネスの一翼を担っていることも確かなのだ。
「サイト作ったから広告打って人を集めますなんて、ナンセンス。ほっといても人が集まる、そういうものを作らなきゃ。」と言っていた、とある先人の言葉を思い出す。

それを真っ直ぐ行けるのは、加藤さんがロボットという会社にいるからだろう。
誰かが作る映画に出資するのではない。誰かが作ったキャラクターに版権を払ってビジネスをするのではない。
自社から生み出し、「広告制作会社」から「コンテンツメイカー」の領域にポジションを取った。
それは、周到な計算に基づくものだったのだろうか? いや、きっと「そっちのほうが、おもしろそうじゃん!」という、一抹の向こう見ずを含んだ好奇心が原動力になったのではないだろうか。ロボットという会社には、そう推して測らせるくらいの、“遊び”がある。
指標と数字にがんじがらめになりつつあるデジタル広告の現在を、加藤さんはどう感じているのだろうか。

「KPIみたいなものは、確かに一方で存在するし、ないがしろにするつもりはない。
 でも、それは、みんなが共通言語で語れるからラクだという側面もあって、
 実際は人間の感情や行動なんて、そんなに簡単じゃない。よくわからないけれども
 『なんとなく好き』、『なんとなくまた来ちゃう』っていうのはすごくよくあることでしょう。
 それをつくるのが、僕らの仕事だと思っている。
 今はさらにソーシャルメディアが発達してきて、“数”のとらえ方も変化しつつあって。
 生活者が良い悪いをダイレクトに評価できるようになったことで、コンテンツの評価軸が
 単なる『訪問数』から『共感度数』みたいなものに取って代わりつつある。
 だからこそ、ソーシャル上でやりとりされるコンテンツをつくる際に経験やアイディアが必要で、
 この領域を表現まで落としこめるかどうか、というところが勝負になってくる。」

何らかの“目新しいこと”を求められ、ロボットとしても試行錯誤しながら作り、次につなげること。
そういった、理想とした流れが多くなってきたともいう。
「“クリエイティブジャンプ”って、昔から言うでしょう。
 クリエイティブの力という、長年広告の世界で重要視されてきたものが、
 一周まわってまたそこに返ってきたな、という気はしている。」

*     *     *

Web、それもクリエイティブの専門家という見方を当然のようにされる加藤さんだが、
自分はロボット全体のセールスマンでもある、という。
「ロボットは、グラフィックも映像もWebもキャラクターもアニメーションもアプリも作れる。
 この会社ひとつで、エンターテイメントコンテンツのあらゆる要望に応えられる、
 そういうところであるべき。」
会社全体のリテラシーの底上げをして、ひとつの一枚岩になること。
もちろん、延長線上には、加藤さんなりの“その先”がある。

今まで、会社が会社として手を出そうとしてこなかった領域。
それは、かつて黎明期のロボット映画部が、「プロダクション方式」という新しい方法論をとって若い監督を自社に擁し、お金も人も管理して映画制作の最後の責任までを負うことで新たなモデルを成立させたことをすぐ目の前で見ていたことも、大いに関係している。
「コンテンツを作り出すための方法論を変えたい。
 入り口やマーケットを変えると、やり方はもっとがらっと変えられる。
 今までと同じ方法論じゃ、ROBOTが、そして自分がやる意味はないから。」

次から次へおもしろいことが出てくる。ミーハーであり続けようと思っている、と加藤さんは言った。
「よく言われることだけれども、コミュニケーションが変わりつつあって、
 いや、ある部分はすでに変わりきっていて。
 でもそれを、“苦しみたがる”人が多いじゃない?
 そのど真ん中にいるのを、楽しんだらいいだろうと思うんだよね。」

煽られず。しなやかに、前を見据えて。
そのためには、自身のなかに1本の芯が通っていることが不可欠なのだ。

加藤 雅章(かとう・まさあき)
株式会社 ロボット執行役員コミュニケーション・プロデュース部 部長。
(株)タイトーにて企画開発等を担当後、1992年に(株)ロボット入社。
2003年、映画『KillBill』Webサイト 東京インタラクティブアドアワード銅賞。
2007年、「 ロングヘアーカンフーマン 」Webキャンペーン Gyaoクリエイティブ大賞、東京インタラクティブアドアワード入賞。
2008年「恵比寿映像祭サイト」東京インタラクティブアドアワード銅賞。

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Special Thanks to M.KATO / ROBOT Inc.

2011/11/29 08:00 | vol.6 加藤雅章 | 106 Comments
2011/11/22


広告人・加藤雅章氏の場合

ROBOTの黎明期と、デジタルの黎明期の間で。

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広告業界を視野に入れ転職活動をしていたとき、声をかけられたのが当時、第一企画(現在のアサツー ディ・ケイ)から独立したロボット創業社長、阿部秀司氏(現・顧問)だった。話を聞くうち、メーカー時代に付き合いの多かった「代理店」だけが広告の産み場所ではないことに気づく。
その頃のロボットは創立4年目で、社員は20人足らず。
三浦友和の「俺のキャビン」シリーズといえば、思い出す方もいるかもしれない。
JTと、代理店を介さない直取引で、キャビンレーシングの仕事を一手に請け負っていた。
キャビンの仕事となれば全員が海外で会社には誰もいない、ということもあったという。

加藤さんはロボットで、加太孝明氏(現・代表取締役社長)のもと、半分営業のような動きもしながら、CMを作り、映像を作り、デジタルツールを作り、大量のキャラクターを作り、と色々な仕事をした。
「部署を作って人をあてがうのではなく、ニーズがあれば誰でも何でもやっていた」と振り返るロボットにインタラクティブの部署ができたのは、95年のことである。
別棟を借り、オフィスを共にしたのは、当時ロボットが映画の仕事を本格的に始めることを視野に入れた映画製作準備室。
「プロダクションが映画を作るなんて、成功するわけがない」という世論のなか、上司の加太氏は、2週間で帰ってくると言い残したまま撮影現場に3ヶ月留まったままだった。
この頃完成したのが、ロボット最初の映画作品、岩井俊二監督「Love Letter」である。

*     *     *

そんな過渡期のある日、ロスに滞在していた当時の阿部社長から電話があった。
「おう。ホームページ。あれ、どうなった。」
……ホームページ?
何の話か、ととっさに思ったが、同時に「チャンスだ」と直感が働いた。
かねてよりインタラクティブの仕事を本格的に始めるのだから、ウェブサイトのひとつくらいあってもいいだろうと感じていたのだ。

その後の行動は早かった。
当時、co.jpのドメインを管理していた東京大学に手書きで申請書を持って行き、帰社したその足で経理に「サーバ買っていいですか?」と出向いた。聞かれたのはひとつ。「いくらかかるの?」
すぐに、秋葉原へ中古のTowerMacを買い求めサーバに仕立てた。
その当時テレホーダイという深夜つなぎ放題のサービスから、ISDN終日つなぎ放題が始まったばかりで、「初めてのことでよくわかりません」と電話口で困惑する、NTT渋谷局区の担当者。少なくともNTT渋谷局では初めての“専用線利用顧客”だったのだ。
ほどなく「出来ました!」と阿部社長に伝えたロボットの最初の企業HPは、加藤さんが作ったカンパニーキャラクターのロボットがお辞儀をするGIFアニメだけというものだった。

*     *     *

2000年も目前になると、オフィスにはMacが完備され、Webクリエイティブは飛躍的に表現の幅を広げていった。
予感していたWebクリエイティブのパワーを体現したのが、2003年に公開された映画『KILL BILL』の宣伝プロジェクトだった。
「ROBOTが“フォーマット”として機能した仕事だった。」と加藤さんは振り返る。
Q.タランティーノ監督の新作として注目されたこの映画作品は、日本が舞台、撮影も日本で行い、千葉真一、栗山千明、国村隼など役者も多数の日本人が出演していたロボットはGR、Web、CM、すべての宣伝活動を一貫して受注し、日本で世界一早く宣伝を開始するという戦略を配給会社と取ることになった。
宣伝戦術のすべてを包含し、ロボットが総力戦で機能したということ以外にも、このプロジェクトで加藤さんは新たなWebの可能性を確信する。
Webが果たした役割が、クリエイティブを経由し、パブリシティの領域に及んだからだ。

スペシャルサイトには、エンターテイメントをふんだんに盛り込んでいた。
ユーザがサイトを訪問し、キーボードを触ると画面が切り刻まれたり効果音が出たりする。
勘のいい人が「KILLBILL」とタイプするとコンテンツが出てくる仕組みだが、ヒントなどない。
「すごく不親切なUI。」と語るそのインターフェイスはもちろん戦略で、このサイトを見つけたアメリカの映画記者は興奮して“クレイジーなサイトがあるぞ!”と紹介した。
話題は先行し、海外からのアクセスが見たことも無い数字のログを吐き出していた。アメリカの映画データベースサイトでは、日本のサイトがアメリカのオフィシャルのサイトとして紹介されていたほどである。

物理的距離も時差も、関係なかった。
日本でおもしろいものを作ると、世界中が反応する。
そうか、これがWebなのか――感慨にもさらに勝る実感がそこにはあった。

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次回予告/Scene4;
広告人・加藤雅章氏の場合
広告は、コンテンツ。それを生み出すための、新しい方法論を。
(11月29日公開)

2011/11/22 08:00 | vol.6 加藤雅章 | 15 Comments
2011/11/15


広告人・加藤雅章氏の場合

ゲームメーカーでの7年、視点は徐々に“Consumer”へ。

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子ども時代の加藤さんは、ごく自然に“乗り物”に親しんだ。
「親父は、16歳で少年飛行整備兵として満州へ飛んだんだけれども、
 飛行機が大好きで、飛行機に乗れるなら兵隊でも構わない、という人だった。」
遅くにできた子どもだったというが、加藤さんのご家族は、仙台でこの震災を超えてなお健在だ。
戦後、自動車教習所の教官となった父の元、教習所が閉まっているときに加藤さんも
私有地を運転させてもらい、早い段階で免許も取り、“クルマ”にあこがれた。

当時、仙台の街中にできたベッドタウンは、電気通信系の子会社や金属会社など
一流企業の工場も多く、加藤さんも就職を見越して東北工業大学高校へ進学する。
部活動をしながら、ラーメン屋とゴルフキャディーのアルバイトをした。
好奇心から、何にお金を使っていたのか? と聞いてみると、意外な青年時代が浮かび上がる。
「レコード買ったり…、あと、犬の世話。
 飼い犬を拾ってきた時、全部面倒見るからって約束させられて、
 予防注射の代金とか、全部自分のバイト代から出していた。」

*     *     *

就職率はほぼ100%、それもかなり売り手市場であった。
ゲームメーカーに惹かれ、3社ほどに興味を持った後、就職担当の教師に「タイトーなら寮があるぞ」といわれて決めた。
今でこそオンラインゲーム等の発展により、加藤さんの現在のデジタルというポジションとも結びつくゲーム業界だが、当時はゲームセンターが主戦場。
インベーダーゲーム、ピンボールの時代だ。

「東京に出たい」という思いが強かったというたっての願いから“寮”に惹かれ就職を決めた加藤さんが引っ越しを指示された先は、埼玉県・熊谷市の田んぼの真ん中だった。
「すぐに動くから」と言われ、布団と衣装ケース1個で、カーテンも無い寮に住んだ後、異動となった先は横浜の研究所。
若者だけで新しい開発をする部署で、新人が3~4人ばかりという珍しい環境だった。
「ゲームだけじゃなく、ゲームセンターに何があればおもしろいか。とにかく企画書を書き続ける毎日だった。」
やがて約1年での部署統合の際、本社でファミコンの営業となる。
当時はニンテンドーがようやくナムコにライセンシー許可を出し、メーカー各社がソフト作りに燃えていた時代。
アーケードゲームだったものが家庭の中へと入り込むことでコンシューマーという新たなターゲットを発見し、ダイナミックにフィールドを広げつつある時期だった。

日本中を上司と3人で問屋営業に周り、交友関係も広がっていった。
社内だけではなく、各地を巡るゲームメーカー各社の営業担当の人間が集う飲み会はいつの日か名物行事となり、「渋谷会」と呼ばれた。
「その会、今、何になってるか知ってる?」
と、可笑しそうに、懐かしむように聞いた加藤さんの答えに、私は軽く絶句した。
――東京ゲームショウ。

*     *     *

それから約4年間の仕事は、営業をやりながら開発も傍らで見つつ、宣伝もやるという多岐にわたった。「広告をつくる」ということに気持ちが向いていったのは、通信カラオケ「X2000」の立ち上げキャンペーン。
「1つのプロダクトを、宣伝広告からPRまで、首尾一貫して最初からやった。」
というそのキャンペーンは、まさにコンシューマーと企業とをつなぐという、これまでやってきたこと
のすべてを俯瞰する仕事だった。
何のために作っているのか。そして、だれに売ってきたのか――“仕事”という名の下に、ともすればバラバラに存在していたものが、届ける相手を見すえたときにひとつの線となった。

「広告の仕事をしよう。」そう思い、決めた。
タイトーに入社して実に7年目の転機だったが、高校卒業と同時に就職した加藤さんは、まだ26歳だったのだ。

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次回予告/Scene3;
広告人・加藤雅章氏の場合
ROBOTの黎明期と、デジタルの黎明期の間で。
(11月22日公開)

2011/11/15 08:00 | vol.6 加藤雅章 | 1 Comment
2011/11/08


Prologue

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新卒で入った会社というのは、誰しもに1社しかないという点で、特別な存在であるはずだ。
辞めた会社の敷居を跨ぐ、というのは(いつも不遜なことには変わりないのだが)
同じ光景でも、その用件が取材となると、途端に客観的な目線も入って
それまで目に入っていなかったものが、急に見えたりもするから不思議だ。

カンパニーカラーの焦げ茶とミントグリーンがところどころにさし色で入り
こだわり尽くされたオフィスは変わらずに「クリエイティブ・ブティック」という言葉を連想させる。
オフィスのオシャレ度でいえば、おそらく日本屈指だろう。
哀しいかな新卒でこの会社へ入った頃のわたしには「灰皿と椅子が異様に重い」くらいしか感じられなかったのだから、情けないというかクリエイティビティに欠けるというか。

“ROBOT”
CMをはじめ、グラフィック、Webの広告制作以外にも、「踊る大捜査線」「海猿」「三丁目の夕日」
シリーズなど映画界でもその名を馳せるプロダクション。
自分の経歴を話すとき、この社名を耳にした相手の表情が、最近、とみに違ってくるようになった。それはつまり、単純に会社名として認知度が高まったということである。
先日、とある地方都市の大学で講演をした際に、座っていた大学生がこの社名にふと顔を上げ、キラキラした目でうんうん頷かれたのも、印象的である。

入社式の日に渡されたのは、白い紙に、尋常で無い級数(文字の大きさ)でフルネームが刻印され、会社名といえば隅に見えないくらい小さい文字で会社名が書かれた名刺。
どこへ行っても「人で勝負しろってことだなあ。社長の思いが伝わるなあ」と言われ
新卒つまり電話番のわたしは電話口で「はいロボットです」ということに
どうしても抵抗があって「株式会社ロボットです」とささやかすぎる抵抗をしていた。

*     *     *

地上3階、地下1階建て社屋の、中央を貫くように設置された螺旋階段。
デジタル・グラフィック・CF・映画・キャラクターコンテンツ、それぞれの部署とフロアを途切れることの無い螺旋状の階段と透明のガラスの壁がつないでいる、というオフィスの内装が示すコンセプトを、誰に説明されるでもなく初めて感じたのは、このインタビューの後のことである。

“一軒家”
コミュニケーション・プロデュース部の部長、加藤雅章氏――かつての直属の上司に話を聞いて、わたしはロボットという会社をこう再定義した。
ブティック、というよりは、“クリエイティブ・メゾン”。

今回のシリーズは、ロボットというひとつの“家”を少しずつ組み立ててきたなかの一人の話。
そして、“会社”という“一家”は、真っ白でまっさらな0歳のうちからその家で育つのではなく、
様々なバックグラウンドと希望をしょった上で集まってきた個人と個人の集まりなのだ、という話である。

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次回予告/Scene2;
広告人・加藤雅章氏の場合
ゲームメーカーでの7年、視点は徐々に“Consumer”へ。(11月15日公開)

2011/11/08 08:00 | vol.6 加藤雅章 | 10 Comments
2011/08/31


広告人・横山隆治氏の場合

“リスクを張った”ADKi、そして、デジタルの新たな可能性。

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DACでやり残したことはある。メディア側にいるとやりにくいことも、当然あった。
「DACを上場させた後、リスクを張らなきゃっていう思いもありました。」
ADKインタラクティブ(以降ADKi)社の立ち上げを横山さんはそう振り返る。

「広告会社のフロントに立つデジタルアドマンを作りたいとは思っていました。
 いくらプランニングスキルがあっても、お客さんと直でコミュニケーションしてる
 エージェンシーの人間にデジタルスキルがなければ結局、伝わらない。」
リテラシーの問題は現場においては最大の課題となる。
「たとえば、外国人のクライアントのところに、英語を喋れない人間を営業にしますか?
 サービス業ってやっぱり、そういうものではない。フロントラインで解決できなければ・・・」
それは、旭通信社でキリン担当の営業をしていた頃の経験から得たものだった。
販売力の水平拡大をしていくためには、下請けではなく直営業会社であることが必要だったのだ。

*     *     *

「最初はメディアバイイング。そしてソリューション提供→直営業→自社メディアやアプリ開発。
 そういう流れで、やっていきたかった。」
本人がいう順番通りに、ひとつずつ橋を渡ってきた。
そしてADKiの「次」は、かなり前から横山さんの頭の中にはイメージがあった。

オウンドメディア――すなわち、自社メディア。
著書『トリプルメディアマーケティング』でも横山さんは自社メディアの重要性について記している。
お金を払って媒体枠をおさえる「ペイドメディア」が中心だった時代から、
生活者の信頼や評判を得る場である「ソーシャルメディア」が必須課目になるほど
マーケティングデザインは大きな変化を遂げている。
各メディアを有機的に連携させるための主軸となるオウンドメディアの機能は
自社の情報を発信するメディアに留まらず、マーケティングROI(投資対効果)を図る装置ともなる、マーケティングの域を超えた重要な経営課題である――、と。

「今まで、メディアプランニングは、掲載面の情報を知ってさえいればよかった。
 それがレップの役割。
 でも今、リスティング広告も行き詰まっているでしょう。種を蒔かずに、刈り取りばかり。
 これからは、広告を出す面や枠だけではなく、“オーディエンスデータ”のプランニングが
 大事になる。掲載面の情報ではなく、広告するブランドのユーザープロフィールなどの
 情報に精通しないといけない。」
そのオーディエンスに関するデータを“所有し”、プランニングして広告の配信先をマネジメントしていくことがこれからの時代、自社メディアを基軸にしたマーケティングの大きなミッションとなる、と確信を持って言う。

「可能性、なんてもんじゃない。」
デジタルにはまだ可能性があるか、なんて議論は横山さんはとうの昔に通り越していて、
今この時代だからこそ出てきた新しい使命がある。
広告コミュニケーションとデジタルテクノロジーの融合による、全体最適を図ることが
これからの時代のデジタル広告の肝要となる――その確信を、形に。

2011年7月。
デジタルインテリジェンス社をMBOした。
横山さんの、最後の挑戦になるのだろうか?
それはきっと、横山さんだけの問題ではなくなっているはずだ。

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Special Thanks to R.Yokoyama

※「月刊広告人」は、9月に1ヶ月間のお休みを頂き、10月に連載を再開致します。

2011/08/31 07:00 | vol.5 横山隆治 | 1 Comment
2011/08/24


広告人・横山隆治氏の場合

デジタル広告の未来を賭けた、激動の90年代。

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広告代理店営業として、まさに幅広い領域を手がけていた横山さんがその後デジタルの世界にどっぷりと浸かっていったのは、2人の友人の影響によるところが大きい。
一人は、現・デジタルガレージの厚川欣也氏。
そしてもう一人は、ベンチャーキャピタリストであり、現MITメディアラボ所長の伊藤穰一氏だ。

青山学院大学時代、バンド仲間だった厚川氏が立ち上げたフロムガレージ社と、
横山さんは卒業後 親交を深めるようになっていた。
フロムガレージは、元々就職活動時に光文社を落ちた者どうしとして友達になった厚川氏と
現・デジタルガレージ社長の林氏が、就職先がなくて共にガレージで立ち上げた会社である。
シリコンバレーの伝説のようなことは、日本でも起きていたのである。
92年には伊藤氏がフロムガレージに加わり、ヤフーを日本に持ってこようとしていた孫正義社長にオブザーバーとして意見を求められていたりした。
大きな流れが起きていることを、身近で感じた。世界に目を向ければ、インターネットの勃興は明白だった。こと日本はといえば、インターネットといえばまだメールかNewsgroupくらいしか利用されていなかった。

*     *     *

93年に横山さんは旭通信社でJAAAの海外研修員としてフロリダで双方向マルチメディア実験に携わった。
94年にはWired Japan誌が日本へ上陸、インターネットテクノロジーの最先端を伝えていた。
「アメリカでは、“アメリカが情報ハイウェイで世界経済の覇権を取り戻す”ということと、
 “代理業は崩壊するぞ”というふたつのことをいっていました。
 社で話してもあまり理解はされなかったけれど、大津波が来るという実感があった。
 それは、デジタル領域に限ったことではなく、広告会社の業態そのものを変えると
 感じていました。」

バブル時代の“Japan as NO.1”をいつまでも引きずっている場合ではない。
デジタル領域におけるプロダクトを持たなくてはならない。
そして、まったく新しい価値を持つプラットフォームを作り上げること――

96年春、横山さんは、博報堂との共同事業として、DAC社を立ち上げた。
検索エンジン当時最大手であったInfoseekを日本に持ってくるためである。
「えー、バナーというのはですね…」という説明から、必要だった。
ヤフーの説明をすると、当時旭通信社会長であった稲垣氏は
「横山さん、これは、ミニコミですね。」と言った。

*     *     *

旭通信社、デジタルガレージ、博報堂、読売広告社、第一企画、I&Sと
競合各社が集ってひとつの会社を作る前代未聞の事態は、日本経済新聞の一面にも出た。
情報漏えいなどの問題が何かひとつでも起これば、こうした流れすべての芽を摘んでしまう緊張感も大きかった。
しかし横山さんは当時を楽しそうに振り返る。
「最初は、出向者4人のみの小さな組織で。
 トイレも一つしかなくて、掃除は全員がローテーションでやっていましたよ。」
専売できるInfoseek(現・楽天)という商品があり、
セールスできる得意先があり、会社の基盤を支えてくれる親会社があった。
「これで失敗するなら、この先なにもできないだろう、と思っていました。」

しかしDACがInfoseekを専売にする一方で、
現在も競合であるデジタルメディアレップのCCI社はヤフーを専売していた。
「Infoseek対Yahoo!を、DAC対CCIにはしたくなかった。勝敗は既に決まっていたからね。」
デジタルという新しい流れに、日本の広告会社をきちんと直面させること。
そのために競合だった複数社とのアライアンスも実現した。
しかし「何の媒体を獲るか。勝つか、負けるか。」という次元の問題になっていた。
それは、急速に注目され始めたネット広告のバブルの到来にも、後押しされる形となった。
「2年目以降は、もう、ヤフー以外のすべてを扱えないと勝てないというような状況になっていた。
 そこで、ダブルクリック社へ行って、アドネットワークを作ろうという構想を固めました。」
インプレスの四家氏が、最初にDACネットワークに加わってくれた。
99年には、i-modeが始まったばかりの頃、世界で始めて『モバイル広告』を配信した。

100人ほどいた営業社員には、当時、横山さん自ら毎週ひとりづつ営業報告をさせていたという。
「社員からしてみたら、相当うるさかったでしょうね」と、笑う。
そしてDACを設立から4年半で上場させると、横山さんは2006年に
古巣である旭通信社へ、形を変えて戻った。
旭通信社は、第一企画と合併し、「アサツー ディ・ケイ(ADK)」になっていた。

「最後のご奉公」と本人も言うように、これまでのデジタル領域の経験を業界に生かすために。
ADKインタラクティブ社の誕生だった。

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次回予告/Scene4;
広告人・横山隆治氏の場合
“リスクを張った”ADKi、そして、デジタルの新たな可能性。
(8月31日公開)

2011/08/24 07:00 | vol.5 横山隆治 | 2 Comments

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