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2015/06/12


広告人・佐藤達郎氏の場合

狙ったコピーライター職。飛び込んできたニューヨーク出向。

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「子どもの頃は、ビートルズになりたかった。」
私の時代には「イチローになりたい」男の子が沢山いたことを思い出したが、
佐藤さんの場合、スターに影響を受けたというより、ものを書く原点がそこにあった。
バンドに明け暮れた中高生時代も、作詞作曲活動のほうに熱を込めていたという。

ものを書いて食べていける職業というのは今も当時も大変に希少だが
幸いにして、コピーライターという職業の存在を早いうちに知った。
当時、クリエイティブ職には経験者の中途採用しかしていなかったADK社に
宣伝会議の受賞歴を引っ提げて応募し、見事入社する。
さぞや鳴り物入りだったのではないかと想像するが、
「いや、全然。若い時から、CDに向いているタイプと言われるたびに、
 コピーがいまいちって言われてるのかな、と思って落ち込んだ」
と、あくまでも本人は語る。

CD(クリエイティブディレクター)というのは、クリエイティブチームの中のトップだが、全体を俯瞰し、ときにチームマネジメントや交渉調整までを行うゼネラリストでもある。
今では早くして独立したり、業界の方も変化し若いCDというのも存在するが
当時の広告会社では、最初はTVCMプランナーやデザイナー、コピーライターといった専門分野で修業をし、年齢が上になるにつれて出世のような形でCDになるという場合も多かった。
一方で、広告業界の巨匠とよばれるような人たちのなかには、
「いくつになっても現役コピーライター一筋」と、究極の専門職として生きる道を選ぶ人もいる。

いちクリエイターとして広告人生を歩み始めた佐藤さんに転機が訪れたのは、1991年。
アメリカにある、世界最大級の広告会社のひとつ、BBDO社への出向が決まった。
会社としても初めての試みであり、様々な部署の人から声を掛けられては応援されたが
必要以上に肩に力が入ることもなかったようだ。
「初めてのことをやるって、実はラクなんだよ」との言葉に、はっとする。
前例がなければ、目に見えない厄介なものに縛られることもない。

*     *     *

米国のエージェンシーのクリエイティブの現場では、
コピーライターとアートディレクターは「パートナー」と呼ばれ、常にコンビで動く。
佐藤さんは、日本人ADと共にペプシの仕事を任され、主にCM企画を行っていた。
ひたすら企画し、ラフを書き、ディスカッションをして、CDへ提案する。
しかしその「本業」の脇で、真に佐藤さんの興味を引いていたのは広告会社のあり方の違いだった。

「時代もあるけれど、その頃のBBDOは、CMの仕事が8割で花形。
 10億未満の仕事なんてやらないし、いわゆるBTLの仕事なんて別会社。
 じゃあそんなにADKと別世界なのかといえば、規模としてはさほど変わらない。
 BBDOのニューヨークオフィスが当時800人、ADKは1000人くらいだったから。」
月に一度、日本に送っていたレポートの内容も自然と組織論が多くなっていった。

「それから、ものすごく客観的になれた。マンハッタンの真ん中にいると
 働く場所も、住む場所も、ずっと同じところにいなくてもいい。
 ニューヨークは“そういう街”だから、他人のことは気にかけない。
 いわゆる常識みたいなものを、自然ととっぱらうようになっていた。」

帰国した佐藤さんの仕事は、組織をデザインすることだった。

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次回予告/Scene3;
広告人・佐藤達郎氏の場合
デジタル時代の到来で生まれた、新たな使命。
(6月19日公開予定)

2015/06/12 12:00 | vol.9 佐藤達郎 | No Comments

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