Home > vol.6 加藤雅章

2011/11/29


広告人・加藤雅章氏の場合

広告は、コンテンツ。それを生み出すための、新しい方法論を。

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広告の仕事とは、何なのか――
「広告は、コンテンツ。」
加藤さんはそう言い切る。それは勇気でもある、とわたしは思う。
コンテンツが“大事”あるいは中心であることを否定する人はいまい。
しかし、「いいものを作っても人が来なければ意味が無い」というロジックで広告“枠”を売るのが広告業のビッグビジネスの一翼を担っていることも確かなのだ。
「サイト作ったから広告打って人を集めますなんて、ナンセンス。ほっといても人が集まる、そういうものを作らなきゃ。」と言っていた、とある先人の言葉を思い出す。

それを真っ直ぐ行けるのは、加藤さんがロボットという会社にいるからだろう。
誰かが作る映画に出資するのではない。誰かが作ったキャラクターに版権を払ってビジネスをするのではない。
自社から生み出し、「広告制作会社」から「コンテンツメイカー」の領域にポジションを取った。
それは、周到な計算に基づくものだったのだろうか? いや、きっと「そっちのほうが、おもしろそうじゃん!」という、一抹の向こう見ずを含んだ好奇心が原動力になったのではないだろうか。ロボットという会社には、そう推して測らせるくらいの、“遊び”がある。
指標と数字にがんじがらめになりつつあるデジタル広告の現在を、加藤さんはどう感じているのだろうか。

「KPIみたいなものは、確かに一方で存在するし、ないがしろにするつもりはない。
 でも、それは、みんなが共通言語で語れるからラクだという側面もあって、
 実際は人間の感情や行動なんて、そんなに簡単じゃない。よくわからないけれども
 『なんとなく好き』、『なんとなくまた来ちゃう』っていうのはすごくよくあることでしょう。
 それをつくるのが、僕らの仕事だと思っている。
 今はさらにソーシャルメディアが発達してきて、“数”のとらえ方も変化しつつあって。
 生活者が良い悪いをダイレクトに評価できるようになったことで、コンテンツの評価軸が
 単なる『訪問数』から『共感度数』みたいなものに取って代わりつつある。
 だからこそ、ソーシャル上でやりとりされるコンテンツをつくる際に経験やアイディアが必要で、
 この領域を表現まで落としこめるかどうか、というところが勝負になってくる。」

何らかの“目新しいこと”を求められ、ロボットとしても試行錯誤しながら作り、次につなげること。
そういった、理想とした流れが多くなってきたともいう。
「“クリエイティブジャンプ”って、昔から言うでしょう。
 クリエイティブの力という、長年広告の世界で重要視されてきたものが、
 一周まわってまたそこに返ってきたな、という気はしている。」

*     *     *

Web、それもクリエイティブの専門家という見方を当然のようにされる加藤さんだが、
自分はロボット全体のセールスマンでもある、という。
「ロボットは、グラフィックも映像もWebもキャラクターもアニメーションもアプリも作れる。
 この会社ひとつで、エンターテイメントコンテンツのあらゆる要望に応えられる、
 そういうところであるべき。」
会社全体のリテラシーの底上げをして、ひとつの一枚岩になること。
もちろん、延長線上には、加藤さんなりの“その先”がある。

今まで、会社が会社として手を出そうとしてこなかった領域。
それは、かつて黎明期のロボット映画部が、「プロダクション方式」という新しい方法論をとって若い監督を自社に擁し、お金も人も管理して映画制作の最後の責任までを負うことで新たなモデルを成立させたことをすぐ目の前で見ていたことも、大いに関係している。
「コンテンツを作り出すための方法論を変えたい。
 入り口やマーケットを変えると、やり方はもっとがらっと変えられる。
 今までと同じ方法論じゃ、ROBOTが、そして自分がやる意味はないから。」

次から次へおもしろいことが出てくる。ミーハーであり続けようと思っている、と加藤さんは言った。
「よく言われることだけれども、コミュニケーションが変わりつつあって、
 いや、ある部分はすでに変わりきっていて。
 でもそれを、“苦しみたがる”人が多いじゃない?
 そのど真ん中にいるのを、楽しんだらいいだろうと思うんだよね。」

煽られず。しなやかに、前を見据えて。
そのためには、自身のなかに1本の芯が通っていることが不可欠なのだ。

加藤 雅章(かとう・まさあき)
株式会社 ロボット執行役員コミュニケーション・プロデュース部 部長。
(株)タイトーにて企画開発等を担当後、1992年に(株)ロボット入社。
2003年、映画『KillBill』Webサイト 東京インタラクティブアドアワード銅賞。
2007年、「 ロングヘアーカンフーマン 」Webキャンペーン Gyaoクリエイティブ大賞、東京インタラクティブアドアワード入賞。
2008年「恵比寿映像祭サイト」東京インタラクティブアドアワード銅賞。

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Special Thanks to M.KATO / ROBOT Inc.

2011/11/22


広告人・加藤雅章氏の場合

ROBOTの黎明期と、デジタルの黎明期の間で。

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広告業界を視野に入れ転職活動をしていたとき、声をかけられたのが当時、第一企画(現在のアサツー ディ・ケイ)から独立したロボット創業社長、阿部秀司氏(現・顧問)だった。話を聞くうち、メーカー時代に付き合いの多かった「代理店」だけが広告の産み場所ではないことに気づく。
その頃のロボットは創立4年目で、社員は20人足らず。
三浦友和の「俺のキャビン」シリーズといえば、思い出す方もいるかもしれない。
JTと、代理店を介さない直取引で、キャビンレーシングの仕事を一手に請け負っていた。
キャビンの仕事となれば全員が海外で会社には誰もいない、ということもあったという。

加藤さんはロボットで、加太孝明氏(現・代表取締役社長)のもと、半分営業のような動きもしながら、CMを作り、映像を作り、デジタルツールを作り、大量のキャラクターを作り、と色々な仕事をした。
「部署を作って人をあてがうのではなく、ニーズがあれば誰でも何でもやっていた」と振り返るロボットにインタラクティブの部署ができたのは、95年のことである。
別棟を借り、オフィスを共にしたのは、当時ロボットが映画の仕事を本格的に始めることを視野に入れた映画製作準備室。
「プロダクションが映画を作るなんて、成功するわけがない」という世論のなか、上司の加太氏は、2週間で帰ってくると言い残したまま撮影現場に3ヶ月留まったままだった。
この頃完成したのが、ロボット最初の映画作品、岩井俊二監督「Love Letter」である。

*     *     *

そんな過渡期のある日、ロスに滞在していた当時の阿部社長から電話があった。
「おう。ホームページ。あれ、どうなった。」
……ホームページ?
何の話か、ととっさに思ったが、同時に「チャンスだ」と直感が働いた。
かねてよりインタラクティブの仕事を本格的に始めるのだから、ウェブサイトのひとつくらいあってもいいだろうと感じていたのだ。

その後の行動は早かった。
当時、co.jpのドメインを管理していた東京大学に手書きで申請書を持って行き、帰社したその足で経理に「サーバ買っていいですか?」と出向いた。聞かれたのはひとつ。「いくらかかるの?」
すぐに、秋葉原へ中古のTowerMacを買い求めサーバに仕立てた。
その当時テレホーダイという深夜つなぎ放題のサービスから、ISDN終日つなぎ放題が始まったばかりで、「初めてのことでよくわかりません」と電話口で困惑する、NTT渋谷局区の担当者。少なくともNTT渋谷局では初めての“専用線利用顧客”だったのだ。
ほどなく「出来ました!」と阿部社長に伝えたロボットの最初の企業HPは、加藤さんが作ったカンパニーキャラクターのロボットがお辞儀をするGIFアニメだけというものだった。

*     *     *

2000年も目前になると、オフィスにはMacが完備され、Webクリエイティブは飛躍的に表現の幅を広げていった。
予感していたWebクリエイティブのパワーを体現したのが、2003年に公開された映画『KILL BILL』の宣伝プロジェクトだった。
「ROBOTが“フォーマット”として機能した仕事だった。」と加藤さんは振り返る。
Q.タランティーノ監督の新作として注目されたこの映画作品は、日本が舞台、撮影も日本で行い、千葉真一、栗山千明、国村隼など役者も多数の日本人が出演していたロボットはGR、Web、CM、すべての宣伝活動を一貫して受注し、日本で世界一早く宣伝を開始するという戦略を配給会社と取ることになった。
宣伝戦術のすべてを包含し、ロボットが総力戦で機能したということ以外にも、このプロジェクトで加藤さんは新たなWebの可能性を確信する。
Webが果たした役割が、クリエイティブを経由し、パブリシティの領域に及んだからだ。

スペシャルサイトには、エンターテイメントをふんだんに盛り込んでいた。
ユーザがサイトを訪問し、キーボードを触ると画面が切り刻まれたり効果音が出たりする。
勘のいい人が「KILLBILL」とタイプするとコンテンツが出てくる仕組みだが、ヒントなどない。
「すごく不親切なUI。」と語るそのインターフェイスはもちろん戦略で、このサイトを見つけたアメリカの映画記者は興奮して“クレイジーなサイトがあるぞ!”と紹介した。
話題は先行し、海外からのアクセスが見たことも無い数字のログを吐き出していた。アメリカの映画データベースサイトでは、日本のサイトがアメリカのオフィシャルのサイトとして紹介されていたほどである。

物理的距離も時差も、関係なかった。
日本でおもしろいものを作ると、世界中が反応する。
そうか、これがWebなのか――感慨にもさらに勝る実感がそこにはあった。

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次回予告/Scene4;
広告人・加藤雅章氏の場合
広告は、コンテンツ。それを生み出すための、新しい方法論を。
(11月29日公開)

2011/11/15


広告人・加藤雅章氏の場合

ゲームメーカーでの7年、視点は徐々に“Consumer”へ。

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子ども時代の加藤さんは、ごく自然に“乗り物”に親しんだ。
「親父は、16歳で少年飛行整備兵として満州へ飛んだんだけれども、
 飛行機が大好きで、飛行機に乗れるなら兵隊でも構わない、という人だった。」
遅くにできた子どもだったというが、加藤さんのご家族は、仙台でこの震災を超えてなお健在だ。
戦後、自動車教習所の教官となった父の元、教習所が閉まっているときに加藤さんも
私有地を運転させてもらい、早い段階で免許も取り、“クルマ”にあこがれた。

当時、仙台の街中にできたベッドタウンは、電気通信系の子会社や金属会社など
一流企業の工場も多く、加藤さんも就職を見越して東北工業大学高校へ進学する。
部活動をしながら、ラーメン屋とゴルフキャディーのアルバイトをした。
好奇心から、何にお金を使っていたのか? と聞いてみると、意外な青年時代が浮かび上がる。
「レコード買ったり…、あと、犬の世話。
 飼い犬を拾ってきた時、全部面倒見るからって約束させられて、
 予防注射の代金とか、全部自分のバイト代から出していた。」

*     *     *

就職率はほぼ100%、それもかなり売り手市場であった。
ゲームメーカーに惹かれ、3社ほどに興味を持った後、就職担当の教師に「タイトーなら寮があるぞ」といわれて決めた。
今でこそオンラインゲーム等の発展により、加藤さんの現在のデジタルというポジションとも結びつくゲーム業界だが、当時はゲームセンターが主戦場。
インベーダーゲーム、ピンボールの時代だ。

「東京に出たい」という思いが強かったというたっての願いから“寮”に惹かれ就職を決めた加藤さんが引っ越しを指示された先は、埼玉県・熊谷市の田んぼの真ん中だった。
「すぐに動くから」と言われ、布団と衣装ケース1個で、カーテンも無い寮に住んだ後、異動となった先は横浜の研究所。
若者だけで新しい開発をする部署で、新人が3~4人ばかりという珍しい環境だった。
「ゲームだけじゃなく、ゲームセンターに何があればおもしろいか。とにかく企画書を書き続ける毎日だった。」
やがて約1年での部署統合の際、本社でファミコンの営業となる。
当時はニンテンドーがようやくナムコにライセンシー許可を出し、メーカー各社がソフト作りに燃えていた時代。
アーケードゲームだったものが家庭の中へと入り込むことでコンシューマーという新たなターゲットを発見し、ダイナミックにフィールドを広げつつある時期だった。

日本中を上司と3人で問屋営業に周り、交友関係も広がっていった。
社内だけではなく、各地を巡るゲームメーカー各社の営業担当の人間が集う飲み会はいつの日か名物行事となり、「渋谷会」と呼ばれた。
「その会、今、何になってるか知ってる?」
と、可笑しそうに、懐かしむように聞いた加藤さんの答えに、私は軽く絶句した。
――東京ゲームショウ。

*     *     *

それから約4年間の仕事は、営業をやりながら開発も傍らで見つつ、宣伝もやるという多岐にわたった。「広告をつくる」ということに気持ちが向いていったのは、通信カラオケ「X2000」の立ち上げキャンペーン。
「1つのプロダクトを、宣伝広告からPRまで、首尾一貫して最初からやった。」
というそのキャンペーンは、まさにコンシューマーと企業とをつなぐという、これまでやってきたこと
のすべてを俯瞰する仕事だった。
何のために作っているのか。そして、だれに売ってきたのか――“仕事”という名の下に、ともすればバラバラに存在していたものが、届ける相手を見すえたときにひとつの線となった。

「広告の仕事をしよう。」そう思い、決めた。
タイトーに入社して実に7年目の転機だったが、高校卒業と同時に就職した加藤さんは、まだ26歳だったのだ。

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次回予告/Scene3;
広告人・加藤雅章氏の場合
ROBOTの黎明期と、デジタルの黎明期の間で。
(11月22日公開)

2011/11/08


Prologue

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新卒で入った会社というのは、誰しもに1社しかないという点で、特別な存在であるはずだ。
辞めた会社の敷居を跨ぐ、というのは(いつも不遜なことには変わりないのだが)
同じ光景でも、その用件が取材となると、途端に客観的な目線も入って
それまで目に入っていなかったものが、急に見えたりもするから不思議だ。

カンパニーカラーの焦げ茶とミントグリーンがところどころにさし色で入り
こだわり尽くされたオフィスは変わらずに「クリエイティブ・ブティック」という言葉を連想させる。
オフィスのオシャレ度でいえば、おそらく日本屈指だろう。
哀しいかな新卒でこの会社へ入った頃のわたしには「灰皿と椅子が異様に重い」くらいしか感じられなかったのだから、情けないというかクリエイティビティに欠けるというか。

“ROBOT”
CMをはじめ、グラフィック、Webの広告制作以外にも、「踊る大捜査線」「海猿」「三丁目の夕日」
シリーズなど映画界でもその名を馳せるプロダクション。
自分の経歴を話すとき、この社名を耳にした相手の表情が、最近、とみに違ってくるようになった。それはつまり、単純に会社名として認知度が高まったということである。
先日、とある地方都市の大学で講演をした際に、座っていた大学生がこの社名にふと顔を上げ、キラキラした目でうんうん頷かれたのも、印象的である。

入社式の日に渡されたのは、白い紙に、尋常で無い級数(文字の大きさ)でフルネームが刻印され、会社名といえば隅に見えないくらい小さい文字で会社名が書かれた名刺。
どこへ行っても「人で勝負しろってことだなあ。社長の思いが伝わるなあ」と言われ
新卒つまり電話番のわたしは電話口で「はいロボットです」ということに
どうしても抵抗があって「株式会社ロボットです」とささやかすぎる抵抗をしていた。

*     *     *

地上3階、地下1階建て社屋の、中央を貫くように設置された螺旋階段。
デジタル・グラフィック・CF・映画・キャラクターコンテンツ、それぞれの部署とフロアを途切れることの無い螺旋状の階段と透明のガラスの壁がつないでいる、というオフィスの内装が示すコンセプトを、誰に説明されるでもなく初めて感じたのは、このインタビューの後のことである。

“一軒家”
コミュニケーション・プロデュース部の部長、加藤雅章氏――かつての直属の上司に話を聞いて、わたしはロボットという会社をこう再定義した。
ブティック、というよりは、“クリエイティブ・メゾン”。

今回のシリーズは、ロボットというひとつの“家”を少しずつ組み立ててきたなかの一人の話。
そして、“会社”という“一家”は、真っ白でまっさらな0歳のうちからその家で育つのではなく、
様々なバックグラウンドと希望をしょった上で集まってきた個人と個人の集まりなのだ、という話である。

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次回予告/Scene2;
広告人・加藤雅章氏の場合
ゲームメーカーでの7年、視点は徐々に“Consumer”へ。(11月15日公開)