Home > vol.5 横山隆治

2011/08/31


広告人・横山隆治氏の場合

“リスクを張った”ADKi、そして、デジタルの新たな可能性。

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DACでやり残したことはある。メディア側にいるとやりにくいことも、当然あった。
「DACを上場させた後、リスクを張らなきゃっていう思いもありました。」
ADKインタラクティブ(以降ADKi)社の立ち上げを横山さんはそう振り返る。

「広告会社のフロントに立つデジタルアドマンを作りたいとは思っていました。
 いくらプランニングスキルがあっても、お客さんと直でコミュニケーションしてる
 エージェンシーの人間にデジタルスキルがなければ結局、伝わらない。」
リテラシーの問題は現場においては最大の課題となる。
「たとえば、外国人のクライアントのところに、英語を喋れない人間を営業にしますか?
 サービス業ってやっぱり、そういうものではない。フロントラインで解決できなければ・・・」
それは、旭通信社でキリン担当の営業をしていた頃の経験から得たものだった。
販売力の水平拡大をしていくためには、下請けではなく直営業会社であることが必要だったのだ。

*     *     *

「最初はメディアバイイング。そしてソリューション提供→直営業→自社メディアやアプリ開発。
 そういう流れで、やっていきたかった。」
本人がいう順番通りに、ひとつずつ橋を渡ってきた。
そしてADKiの「次」は、かなり前から横山さんの頭の中にはイメージがあった。

オウンドメディア――すなわち、自社メディア。
著書『トリプルメディアマーケティング』でも横山さんは自社メディアの重要性について記している。
お金を払って媒体枠をおさえる「ペイドメディア」が中心だった時代から、
生活者の信頼や評判を得る場である「ソーシャルメディア」が必須課目になるほど
マーケティングデザインは大きな変化を遂げている。
各メディアを有機的に連携させるための主軸となるオウンドメディアの機能は
自社の情報を発信するメディアに留まらず、マーケティングROI(投資対効果)を図る装置ともなる、マーケティングの域を超えた重要な経営課題である――、と。

「今まで、メディアプランニングは、掲載面の情報を知ってさえいればよかった。
 それがレップの役割。
 でも今、リスティング広告も行き詰まっているでしょう。種を蒔かずに、刈り取りばかり。
 これからは、広告を出す面や枠だけではなく、“オーディエンスデータ”のプランニングが
 大事になる。掲載面の情報ではなく、広告するブランドのユーザープロフィールなどの
 情報に精通しないといけない。」
そのオーディエンスに関するデータを“所有し”、プランニングして広告の配信先をマネジメントしていくことがこれからの時代、自社メディアを基軸にしたマーケティングの大きなミッションとなる、と確信を持って言う。

「可能性、なんてもんじゃない。」
デジタルにはまだ可能性があるか、なんて議論は横山さんはとうの昔に通り越していて、
今この時代だからこそ出てきた新しい使命がある。
広告コミュニケーションとデジタルテクノロジーの融合による、全体最適を図ることが
これからの時代のデジタル広告の肝要となる――その確信を、形に。

2011年7月。
デジタルインテリジェンス社をMBOした。
横山さんの、最後の挑戦になるのだろうか?
それはきっと、横山さんだけの問題ではなくなっているはずだ。

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Special Thanks to R.Yokoyama

※「月刊広告人」は、9月に1ヶ月間のお休みを頂き、10月に連載を再開致します。

2011/08/24


広告人・横山隆治氏の場合

デジタル広告の未来を賭けた、激動の90年代。

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広告代理店営業として、まさに幅広い領域を手がけていた横山さんがその後デジタルの世界にどっぷりと浸かっていったのは、2人の友人の影響によるところが大きい。
一人は、現・デジタルガレージの厚川欣也氏。
そしてもう一人は、ベンチャーキャピタリストであり、現MITメディアラボ所長の伊藤穰一氏だ。

青山学院大学時代、バンド仲間だった厚川氏が立ち上げたフロムガレージ社と、
横山さんは卒業後 親交を深めるようになっていた。
フロムガレージは、元々就職活動時に光文社を落ちた者どうしとして友達になった厚川氏と
現・デジタルガレージ社長の林氏が、就職先がなくて共にガレージで立ち上げた会社である。
シリコンバレーの伝説のようなことは、日本でも起きていたのである。
92年には伊藤氏がフロムガレージに加わり、ヤフーを日本に持ってこようとしていた孫正義社長にオブザーバーとして意見を求められていたりした。
大きな流れが起きていることを、身近で感じた。世界に目を向ければ、インターネットの勃興は明白だった。こと日本はといえば、インターネットといえばまだメールかNewsgroupくらいしか利用されていなかった。

*     *     *

93年に横山さんは旭通信社でJAAAの海外研修員としてフロリダで双方向マルチメディア実験に携わった。
94年にはWired Japan誌が日本へ上陸、インターネットテクノロジーの最先端を伝えていた。
「アメリカでは、“アメリカが情報ハイウェイで世界経済の覇権を取り戻す”ということと、
 “代理業は崩壊するぞ”というふたつのことをいっていました。
 社で話してもあまり理解はされなかったけれど、大津波が来るという実感があった。
 それは、デジタル領域に限ったことではなく、広告会社の業態そのものを変えると
 感じていました。」

バブル時代の“Japan as NO.1”をいつまでも引きずっている場合ではない。
デジタル領域におけるプロダクトを持たなくてはならない。
そして、まったく新しい価値を持つプラットフォームを作り上げること――

96年春、横山さんは、博報堂との共同事業として、DAC社を立ち上げた。
検索エンジン当時最大手であったInfoseekを日本に持ってくるためである。
「えー、バナーというのはですね…」という説明から、必要だった。
ヤフーの説明をすると、当時旭通信社会長であった稲垣氏は
「横山さん、これは、ミニコミですね。」と言った。

*     *     *

旭通信社、デジタルガレージ、博報堂、読売広告社、第一企画、I&Sと
競合各社が集ってひとつの会社を作る前代未聞の事態は、日本経済新聞の一面にも出た。
情報漏えいなどの問題が何かひとつでも起これば、こうした流れすべての芽を摘んでしまう緊張感も大きかった。
しかし横山さんは当時を楽しそうに振り返る。
「最初は、出向者4人のみの小さな組織で。
 トイレも一つしかなくて、掃除は全員がローテーションでやっていましたよ。」
専売できるInfoseek(現・楽天)という商品があり、
セールスできる得意先があり、会社の基盤を支えてくれる親会社があった。
「これで失敗するなら、この先なにもできないだろう、と思っていました。」

しかしDACがInfoseekを専売にする一方で、
現在も競合であるデジタルメディアレップのCCI社はヤフーを専売していた。
「Infoseek対Yahoo!を、DAC対CCIにはしたくなかった。勝敗は既に決まっていたからね。」
デジタルという新しい流れに、日本の広告会社をきちんと直面させること。
そのために競合だった複数社とのアライアンスも実現した。
しかし「何の媒体を獲るか。勝つか、負けるか。」という次元の問題になっていた。
それは、急速に注目され始めたネット広告のバブルの到来にも、後押しされる形となった。
「2年目以降は、もう、ヤフー以外のすべてを扱えないと勝てないというような状況になっていた。
 そこで、ダブルクリック社へ行って、アドネットワークを作ろうという構想を固めました。」
インプレスの四家氏が、最初にDACネットワークに加わってくれた。
99年には、i-modeが始まったばかりの頃、世界で始めて『モバイル広告』を配信した。

100人ほどいた営業社員には、当時、横山さん自ら毎週ひとりづつ営業報告をさせていたという。
「社員からしてみたら、相当うるさかったでしょうね」と、笑う。
そしてDACを設立から4年半で上場させると、横山さんは2006年に
古巣である旭通信社へ、形を変えて戻った。
旭通信社は、第一企画と合併し、「アサツー ディ・ケイ(ADK)」になっていた。

「最後のご奉公」と本人も言うように、これまでのデジタル領域の経験を業界に生かすために。
ADKインタラクティブ社の誕生だった。

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次回予告/Scene4;
広告人・横山隆治氏の場合
“リスクを張った”ADKi、そして、デジタルの新たな可能性。
(8月31日公開)

2011/08/17


広告人・横山隆治氏の場合

今も続く大学時代の交友、そして『巨人の星』をきっかけに旭通信社へ。

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大学時代というものは、多くの人にとって、遅れてやってくる青春のようなものだ。
横山さんの場合、それは「懐かしいもの」ではなく、大学時代の出会いが、
その後の人生にダイレクトに関わっている。

在籍した青山学院大学の英文科には、クラス50名のうち男子学生はたった8人。
当然結束して仲がよいわけだが、その中には現Dreams Come Trueのベースの中村正人氏や脚本家の一色伸幸氏がいた。
加えて当時の青山キャンパスのロケーションは、さまざまな文化発信の震源地でもあった。「青山にVANあり」とまで言われた、1960年代に一世を風靡したアパレル企業VAN社があり、お隣の代官山にはヒルサイドテラスができたばかり。
「アウト・オブ・眼中」というフレーズは当時横山さんが作ったワードだったとか。

「英語を勉強したかったんだけれど、英語といえばシェイクスピアばかりで」
という横山さんは、この時代に「言語学」と出会う。
高校時代からの親友であり、現・武蔵大学社会学部長の栗田宣義氏が当時ICU(国際基督教大学)にいた。同郷でその後も東京に残る数少ない友人の一人である。
栗田氏の紹介により、上智大学の教授の下で、横山さんは、言語学の統計の研究を始めた。
「PCを使って分析作業をする、マーケターとしての最初の仕事だったといえるかもしれない。」

*     *     *

大学卒業後、旭通信社(現・アサツー ディ・ケイ)へ就職。
1958年に生まれた横山さんは、少年時代を『鉄腕アトム』が始まった日本アニメ全盛期で過ごした。旭通信社を選んだのも、『巨人の星』のエンドロールに流れていた同社の社名をよく覚えていたためという。
「電通も博報堂も、当時は知らなかったけど、旭通信社は知っていた。毎週見ていましたからね。
 広告会社であることは、就職活動で初めて知ったけれど…。」
さらに、後の横山さんを知る人間からは意外としか言いようがないが、
当時は「CMプランナー」を志望し、クリエイティブ試験を受けたのだという。

思わず「えっ…」と言うと、
「…でしょう。でもあそこでCMプランナーになってたら、僕、きっと今、悲惨。
 何もできなくなって、失業してますよ。」

デジタル広告を語るとき、大きく2つのアプローチが存在するとよく言われる。
ひとつは、「クリエイティブ」。ときにそれまでの既成概念すら打ち崩し、
ひとの琴線に触れて気持ちをうごかす、昔ながらのパワフルな手法。
もうひとつが、「配信手法」。誰に届けるのか、その媒体の向こうにはどんな人がいるのか、
を分析することによって、バラまくのではなくセグメントしていくテクニカルな手法。
デジタル広告は検索連動型広告やターゲティング広告によって、この道で光を見出してきた。
そして横山さんといえば、この後者を広告業としてマネタイズした代表的な人物なだけに
クリエイティブを志したというのは、尚更に意外だった。

旭通信社は、横山さんをクリエイティブではなく営業に配属した。
キリン、資生堂、日清食品という大型クライアントに恵まれ、結果として当時志望したCM制作にも多く関わり、アニメから音楽イベントまで幅広くキャンペーンを扱った。
今でも親交の大変深い、当時キリンの真野氏ともこの頃、企業担当者と代理店営業という立場で出会う。
当時、バイトが手書きで管理していたキリンのテレビスポット進行表をデジタル化するなど、大学時代統計の研究で培ったプログラミングの技量を発揮する一方、
当時ソード社にいた、現・ヤフージャパン社長の井上雅博氏とは、偶然にも
マラソンイベントの表彰状を三浦海岸で一緒に作ったりもしていた。
「超アナログ」から、「デジタル」までを、営業時代に幅広く経験したことになる。

「キリンさんの仕事は、本当に印象に残っていますね。
 ラベルに電話番号を載せて、投稿を吹き込めるようにしたキャンペーンを企画しました。
 それを、ラジオと連動させて、ラジオCMとして広告を作って。
 なんの変哲もない、生活者の日々の声なんだけど、それが最初のインタラクティブな
 仕事だったかもしれない。
 回線がパンクするほど反響があったし、ラベルってメディアなんだって確信しました。」

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次回予告/Scene3;
広告人・横山隆治氏の場合
デジタル広告の未来を賭けた、激動の90年代。
(8月24日公開)

2011/08/10


Prologue

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多方面にメディア露出している著名人的なクリエイターとは、違う。
しかし広告業界の現代史に、横山さんの存在は不可欠だ。

横山隆治さんは、広告代理店・旭通信(現・ADK アサツー ディ・ケイ)を経て
日本初のデジタル・メディアレップであるDAC社を立ち上げ、
その後 インタラクティブエージェンシーのADKインタラクティブ社を率いた人物である。
そしてこのたび、ADKインタラクティブ(以降ADKi)を退き、また新たな道を行く。

当時(といっても今から1~2か月ほどのこと)、横山さんは「渦中の人」であった。
ADKi社からの突然にも思える退社は、ちょっとしたニュースになっていた。
退社の直後、横山さんにインタビューする機会に恵まれ
そのことを尋ねると、穏やかな笑顔でこう言った。

「好きな仕事をいつか、オーナーシップでやりたいとは、ずっと思っていたんですよ。」

好きな仕事、という「個」が強調される言葉にちょっとした違和感を覚えたのは、
長年「立ち上げ」、「指導し」、「道を作る」側であるところの横山さん、という印象が
私の中にもあったためだろう。

「好きな仕事」の中身を聞くと、「adと、デジタル」という両輪を挙げた。
「好きだし、それが僕のスキル。軸のないところにスキルは生まれないでしょう。
 真ん中に、何を据えるのか。何でもできます、は、何も出来ないと言っているのと同じ。
 スキルや、そこにドメインがない人間ほど、最近は、やれアジアだ海外だと言ったりするしね。」
自身が、未来も含めて極めていく領域を考えた時、自然と分野は収斂されていった。

そんな横山さんの新しい船出を祝う会が、先月開催され、
会場にお酒も回った終盤、ある方がスピーチでこんなことを言っていた。
「横山さんは、こんな年になっても、まだ新しいことをはじめる。
 横山さんは、こんな年になって、まだこんなに戦っている。」

戦っている。おそらく、そうなのだろう。
加えて、今回のインタビューを終えたあと、「betしている」業界人生だと、私は感じた。
それはもちろん、ダーツの放投のような運任せの賭け事ではなく、
広告やメディア業界の未来という、やたら重いモノを賭けた選択の連続だったのではないか。

信じた道を進まなければ、そこに道は拓かれず
つまりリスクと障害なきところに道は生まれない、とも言い換えられるのかもしれなかった。

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Scene2;広告人・横山隆治氏の場合
今も続く大学時代の交友、そして『巨人の星』をきっかけに旭通信社へ。(8月10日公開)