Home > vol.4 一倉宏
広告人・一倉宏氏の場合
After Talk
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一倉宏さんに、 ことばについて聞きました。
●「ことばの役割」について
―サントリーもサン・アドも、キャッチコピーをまず作り、そこから組み立てていった。
広告における、コピー、つまりことばの役割とは何でしょうか。
「コピーは、部品ではなく、世界観そのもの。
部品にされちゃうことは、多々ありますけれど。
主役でなくてもいいんです。“ことばで引っ張る”ってよく言うけど、
別に引っ張らなくてもいい。じんわりとでも、四隅に居てもいい。
でも、どこにいてもいいけれど、とにかく、世界観を規定するもの。」
●「ひらめき」について
―アイディアをひねり出すプロセスを、ときに「降ってくる」と表現しますが、
偶然の産物のように称されることをクリエイターは大概、嫌がります。
「“降ってくる”っていう比喩しかできないっていうだけじゃないかな。
“探す”のか、“拾う”のか、“落ちてる”のか、“こじあける”のか。
だって…ひらめきじゃないことばなんて、あるのかな。」
●「表現とロジック」について
―クリエイティブ表現は、アイディアと思いつきで出来ているわけではない。
戦術と戦略の交差を、どこから発想しますか。
「企画書を書くときは、ロジックは後。
もちろん、何も考えないというわけじゃない。
いろんなことを考えたあとに“たぶん答えはこういうことだ”と出てくるものがある。
もしそこが正しければ、その表現にはロジックでも行きつけるはず。
出口を見つけてから、そこに途中のロジックでたどりつけず、
なんかおかしいぞ、となるならば、出口が間違ってるのだろう、と思って、戻る。」
●「文体」について
―「一倉イズム」を期待されていると感じること、自身で思う自分の文体はありますか。
「広告こそ、なんでもあり。
堅くごりごりでパッションたっぷりで行くこともあれば、お色気たっぷりでやることもある。
風俗小説からノンフィクションから恋愛小説から純文学まで、使い分ける。
器にあわせて形を変えるというより、どんな器をつくるのか、がクリエイティブの楽しみ。
なにがなんでも心情寄りにするってわけではないけれど、
結果的に<叙情的>なことば、というのは自分の個性とかクセのようなものかもしれない。」
●「広告の仕事」について
―自由度、そしてアーティスティックな側面の大きい作詞などと比べて広告の仕事とは。
「広告の大きな力は、浸透力の大きさ。
過ぎ去るもの早いけれど、その分、旬を作る仕事でしょう。
広告は、圧倒的に露出する。
そこにお金も投じていくわけだから、当然といえば当然なのかもしれないけれど、
じゃあ、流せば流しただけ反響があり評価されるかといえばそういうものじゃない。
その規模を無駄にせず、それだけ流れるんだからすこしでもいいコミュニケーションに
しないとね。」
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了
Special Thanks to H.Ichikura & W.Sakamoto / 一倉広告制作所
広告人・一倉宏氏の場合
独立、そして、「自分の仕事」について。
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「先のことは、考えてなかったですね。とにかく、目の前の仕事が楽しくて。」
サントリーへの就職後、酒屋へ配るチラシや、店頭ポスターから手掛けていく過程でサントリーの子会社であるサン・アドのコピーライター、仲畑貴志氏に出会い、糸井重里氏とも知り合う。
当時は、現代のシステムとは異なり、メーカーの内部のクリエイターが小さな制作物も作っていた。それがだんだんと、代理店にオリエンテーションをし、プレゼンテーションを受け…という流れが主流になってゆく。
「それは、広告代理店の力でしょう。それを、ビジネスにした。」
ものづくりの現場が、メーカーからプロダクションという場所に移りつつあるという感覚もあったのかもしれない。
足掛け9年ほどサントリーに勤め、「ちょうど、脂の乗ってきた時期」と本人も言う30代半ばで
サン・アドから独立した仲畑氏の誘いを受ける形で、サントリーを退き、仲畑広告制作所へ移籍。
さらにその後数年で、仲畑氏のもとから独立することになるのだが、そのきっかけも
「仲畑さんが、もうやめろって言うから…」。
相手の「未来」を強く信じられなければ到底出来ないはずの”追い出す”という行為は、
仲畑氏にとっても、最後にして最高の仕事にあたるものだったのかもしれない。
* * *
フリーになった一倉さんは、サントリー社以外の企業のさまざまな課題解決にも関与するようになり、すぐに、「コピーライター・一倉宏」の色を、最大限発揮する仕事と出会う。
生理学、医学、物理学などの天才科学者たち7人を起用した、NTTデータ社のシリーズ広告。
「人と科学」を扱う、難儀で稀な仕事だった。
ただの文学少年だったわけではなく、子どもの頃から理科が好きで宇宙にも興味があったという一倉さんは「よくぞやらせてくれた」という心持だったというが、糸井氏には冗談混じりに「僕だったら、やらないね」と言われたという。
「これができるコピーライターは日本にそういないだろう、という思いでやっていた。」
しかし、独立してよかったか? という問いには、あくまで首を傾げる。
「選ばなかった未来については、わからない、かな。思い返せば、
大学に残るかどうかっていう選択肢も、入りたかった会社に入れるかっていう運も…
結果としては、すべてがオーライだった、と思っています。」
「ことば」を紡ぐ立場から軸足を動かそうと考えるふしは、ほとんどない。
CMソングの派生で、音楽の歌詞を書く仕事もここ5~6年は多く手がけているが、
広告より圧倒的に自由なはずの作詞の仕事も、「自分のなかで使っている力は同じ」という。
積極的に事務所を大きくしようとか、弟子を取ろうとかいった動きも、一倉さんにはない。
「僕だって、来年、仕事できなくなってるかもしれない、とは思いますよ。
それか、自分が走れなくなって、走れなくなるから、仕事が来なくなる、とか…。」
とは言うが、「リスクヘッジ」や「経営」を志向はしない。
糸井重里氏の「ほぼ日手帳」のヒットを引き合いに出すと、「ああ。」と妙に納得して、
「僕には、そういう幅の広さは、ないと思う。」と、きっぱりと言った。
「僕には……ことば以外の仕事は、できないと思う。」
それこそが、天職を見つけた人間だけが言えることではないだろうか。
* * *
わたしが最後にした質問は、「コピーって、何ですか?」
一倉さんは、ひとことひとことを刻むように、ゆっくりと答えてくれた。
「コピーは…ことば。
ことばがもつ可能性として出来ることは、コピーにもかならず出来るはず。
人に伝える…というと月並みだけれども、人に”何かを渡す”手段として。」
じゃあ、その「ことば」って? と、重ねて聞こうとして、止めた。
一倉さんが、著書『ことばになりたい』の帯で、自分の名前の横につけた一行を思い出していた。
“すべてのきもちは、ことばにできる。”
「…まだいっぱい、やれることはあると思う。」
人の気持ちをことばにするのがコピーライターの仕事である限り、そこに終わりはないのだろう。
そして、一倉さんの生き方にも。
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次回予告/Scene4;
広告人・一倉宏氏の場合
After Talk
(7月26日公開)
広告人・一倉宏氏の場合
言葉に託す。文学青年は、サントリーのコピーライターに。
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高校生のときに、すでに一倉さんの「言葉」への興味は表出していた。
詩を書く仲間の勧めで『ポーの一族』を読み、「これはすごい」と思った。
多感な少年時代を、文学に傾倒するに十分な環境もあった。
1973年に死去した杉山登志さんには、多感な高校時代に大きな影響を受けたし
当時、学研『高3コース』の詩の投稿欄の選者は、寺山修司だった。
初めて文章が他人の目に触れたのは、15歳のとき。
ティーン向けのライトノベル誌『小説ジュニア』に詩を応募、佳作を得る。
この頃に「自分には才能があるのかも」と思ってもおかしくはないと思うのだが、
当時は、夢や目的があって書いていたわけではなかったという。
「これは今でも同じだと思うんだけど…
若いときに書く人って、小説家になりたいとか誰かに何かを伝えたいとかじゃなくって、
”溢れ出ちゃう”ものなんだと思うんですよ。
ものを書くことがかっこいいなんて、思っていたわけじゃないです。」
世の中も決して、安定した時期ではなかった。
大学受験を迎えるころは、学園紛争の余波がまだあった。
一倉さんは、筑波大学の、開校1期生として入学した。
都内の大学キャンパスにシュプレヒコールが響き、立て看板が並ぶなかで、
あらたなコンセプトで建学された筑波大学は、非常に新鮮に映ったという。
「先輩もいないし、前例もない。」
何より、筑波学園都市構想という新たなコンセプトに希望を感じ、そこの
「村民」になった一倉さんは
「無医村だったところに、いきなり大学病院ができちゃったような…」と、振り返る。
専攻は、日本文学。大学生活は、実に一般的だったという。
「学校行って。授業受けて。恋して。スポーツやって。アルバイトして。」
万葉集を研究していた一倉さんは、数年後、学者を目指すか、社会人になるかの選択に行き当たる。文章を書きたいという思いはあったが、雑誌等の編集者は自分で書くことはしないディレクション職。
そんなとき、コピーライターという仕事の存在を知った。
* * *
当時、「コピーライター」という職を募集していたのは、資生堂とサントリーくらいのもの。
それも定期的な募集ではなく、一倉さんが求職した時期は資生堂は募集を出しておらず
サントリーにしても「若干名」という、「いい人がいれば採る」というスタンスだったようだ。
「もう、昔のことなので、覚えている限りですけれど」と辿ってもらった記憶によれば、
当時の選考は、1次試験が「ソフィスティケーション」、2次が「おいしいごちそう」についての課題作文。
サントリーは、一倉さんを求め、小さな狭き門をくぐり、サントリーへコピーライターとして就職した。
”広告のサントリー”らしく、コピーライターの仕事はクリエイティブのコアとして確立されており
30代にはCM企画やキャンペーンスローガンなど、全体のコンセプトに関わる機会もできてきたし
望めば、一生コピーライターの職に留まることもできたのだという。
「あんなに、広告を大事にして、クリエイターをリスペクトする会社は、ないですよ。
いまも変わらない、よき伝統。」
それから四半世紀以上が経った今でも、一倉さんはサントリーの仕事をしている。
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次回予告/Scene3;
広告人・一倉宏氏の場合
独立、そして、「自分の仕事」について。
(7月19日公開)
Prologue
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「コピーライター 一倉 宏」
誰かが、「クリエイターは歳を食うとCDを名乗る」と言っていたが、
一倉さんの名刺の表面にある文字は、それだけだ。
まとめて、「生涯、いち物書き」―― 言葉を交わす前に、そんな意志を感じた。
そう、一倉さんは、あえて主観的な言葉を使うが、「スゴイ」のだ。
私が広告の世界へ惹き込まれていったのは一倉さんのコピーに出会ったことがきっかけだが、
何がスゴイかというと、今でも書き続けている、ということだ。
冒頭の引用ではないが、クリエイターはある程度まで来ると仕事を「任せる」ことが仕事になる。
そうやってみんな、下の世代を、ひいては広く業界を、育てていく。
しかし、一倉さんは、現場の一線にい続ける。
おまけに、今年のTCCグランプリまで、獲っていってしまう。
すぐれた広告の制作者を顕彰する、東京コピーライターズクラブ主催のTCC賞。
JR東日本・東北新幹線 東京~新青森間全線開業の広告シリーズでの、電通の髙崎卓馬氏とのW受賞を拝みに、汐留のアドミュージアムで開催されたTCC展へ行ってきた。
「MY FIRST AOMORI はじめての青森」
くしゃくしゃの一枚のメモの走り書きが、丁寧にのばされて展示されていた。
髙崎氏との初めての青森ロケの夜、場末のスナックで一倉さんが走り書きしたメモだった。
まだ方向性を決めきってしまいたくなかった髙崎氏は、そのときはあえて薄い反応を示したが、その後何十枚にも及ぶコピー検討の会議の席で、実は取っておいたこのメモを出した。
その瞬間、企画がひとつの方向へ向かって走り始めた―― 髙崎氏はそんなエピソードを寄稿していた。
「コピーは、部品ではない。」
一倉さんはこの月刊広告人のインタビューで、そう言った。
アートディレクションが効いたグラフィック広告の後に、CMのブーム、そして「メディア統合」とキャンペーン志向…と広告業界のトレンドは日々変われど、変わらないのはそこに「言葉」があることかもしれない。
言葉はときに直接の「せりふ」として生活者に話しかけ、
ときに表には出ない「コンセプト」として、裏側でどっしりすべての表現物の糸を引く。
“広告”の本質的な使命は、「人の気持ちをうごかす」こと。
制作の現場で言葉を紡ぎ続ける一倉さんに、そのひとつの原点を見た。
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Scene2;広告人・一倉宏氏の場合
言葉に託す。文学青年は、サントリーのコピーライターに。(7月12日公開)