Home > vol.3 田中徹
広告人・田中徹氏の場合
― 広告は、数字に負けるか?
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GTは、結成初年度にX-BOXの仕事で一躍注目を浴びた。
世界からも評価され、日本のクリエイティブ・ブティックの急先鋒のように躍り出た。
「たまたま大きい仕事が目立ってるだけじゃない?」と本人は真顔で言うが、
日本でも、GTとは何者なのかという趣旨の記事が出たくらいである。
傍から見れば絶好調の印象があるが、感慨深かった仕事を聞くと田中さんは沈黙する。
良かったことも、悪かったことも、大きな仕事も小さな仕事もあったはずだが、
そうした案件個別の問題より
「…毎回、トラブルや難題をみんなでどうやって切り抜けたか、のほうが印象に残っていますね。」という。
田中さんにとって心地のいいサイズで、同じくその環境を心地いいと感じてくれる人が
集まり、自然体で仕事をする。そして、ひとりではできないものを生み出す。それが、GTの存在と、田中さんの満足との真ん中にある、唯一の必要十分条件なのかもしれない。
「僕らのルールは、携帯電話に出ることと、犯罪を犯さないこと。これだけ。」
社長の肩書きを持って、変わったことは当然ある。
「やばいな、っていうことは要所要所ありますよ。だから手も抜かなくなったし。
サラリーマンだったら、通帳見て眠れないとか、ないでしょう。
でも、なんだかんだで間に合ってきた。」
クライアントに尊敬できる人がいれば「その人のために」となるし、独立後改めて
フリーの人の気持ちがわかって、「あの時は悪いことをした」と思うこともあるという。
田中さんの中では、いつも人が中心だ。
だが、「人」を中心と据える田中さんのパーソナリティとは異なり、
業界からは「インタラクティブエージェンシー」と、“カテゴリ領域”で認識されることも多い。
GTには、インターネットが現れ、広告にどう利用していくのかが模索された時代に
自由な発想で多くの事例を作ってきた実績が多くあるためだろう。
「アナログも、デジタルも、どっちもやりたかった。それだけなんだけどね。」
という田中さんは、デジタルを礼賛することを決してしない。
「コンピュータで人間は幸せになれただろうか。
より忙しくなって、一時が万事。携帯電話くらいで止まればよかったのかも。
レコード屋さんや本屋さんは減っちゃったし、なくしたものもいっぱいある。」
その感覚は決して、田中さんだけが懐古するものではない。
この2011年6月に復刊した、雑誌『WIRED』の13年ぶりの最初の特集は
“テクノロジーはぼくらを幸せにしているか?”だった。
いま、私たちが思うよりもずっと多くの人が、行き詰まりと答えとを求めているのかもしれない。
* * *
広告にも、「効いているほうの半分」と、「効いていないほうの半分」があるとよく言われる。
これは、「目に見える効果」と「目に見えない効果」とも言い換えられる。
情報が整理され、行動が分析されるインターネットとそのテクノロジーは、確かに偉大なのだろう。しかし、情報は広告ではなく、数値化できないものが胡散臭いわけではないこともわたしたちは知っている。
「リサーチからは、新しいものは生まれない。」
全てを数字にしてしまったら、実もふたもない ―― 一方で効率や理論は拠り所ともなる。
「僕らの仕事は、理屈に負けちゃうんだよ。」
だからどれだけ人の心を動かしたのか、そんな見えない効果を業界は「広告賞」に求めた。
それは、数字と理論に駆逐されてしまいそうな中にある、ひとつの光だったのかもしれない。
しかし世の中は再び変わりつつある、と田中さんは言う。
「特にこの数年。大きくは、リーマンショックとあの大震災。
広告は“消費を促す”もの。それだけが変わっていない。
でも、“本当に必要なモノはなんだろう?”ってことをみんな考え始めている。
電気がないなら、夜暗くてもいいじゃん、って、思ってるでしょう。」
価値観のレベルで、「わたしたちは、何を求め、どこに向かって走っているのか?」というものが揺らぎ始めているのは、程度の差こそあれ多くの人が感じている“現在”ではないか。
これは、変化し続けるのが常である世の中で、
特に「広告」にとって、本質的な変質を遂げるかもしれない。
「消費」が人の心を動かさなくなるとしたら、「広告」とはどこへ行くのだろうか。
逆に、やや「情報」や「理屈」に寄りつつあった広告は、数字で測れない「人の琴線」とともに存在してきた原点にふたたび還る可能性もある。
必要以上に力むことをしない田中さんは、自然体のまま穏やかに言う。
「まあ、僕も、子ども小さいし、まだ働かないとねえ…。」
まだ見ぬ、明日の広告の世界への“グラン・ツーリズモ”は、続いている。
了
田中 徹(たなか・とおる)
GT INC.代表。クリエイティブディレクター。
電通、ワンスカイを経てGT INC.を設立。
ACC CM FESTIVALグランプリ、TCC最高賞ほか受賞歴多数。
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Special Thanks to T.TANAKA & FUKUDA-san / GT Inc.
広告人・田中徹氏の場合
ワンスカイ、そしてGTへ。“クリエイティブ・ブティック”の内側。
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2度目のカンヌから帰国した後、田中さんは、新設された「CR統括局」へ異動した。
賞を取っているクリエイターを集め、切り込み隊としておもしろいことを仕掛けていこうという部署。
佐々木宏氏を筆頭に、岡康道、多田琢、川口清勝、麻生哲朗…と錚々たる面々。
「黄金時代ですか」と聞くと、「特殊部隊」と振り返ったあと、言い直す。
「…いや。外人部隊かな。」ーいわゆる大企業の会社員らしくないという意味だろうか、
ほどなくして、岡氏、多田氏、川口氏、麻生氏は続けざまに独立する。
田中さん自身も、大きな会社組織のなかで「管理職」という殻をまとった自分に気付いた。
組織の中では上へ行かないとつまらないという理解は、あった。
しかしそこに自分の心の満足がないことに思い当たったのではないだろうか。
人には、自分が一番心地いいサイズというものがある。
年収を追いかければ青天井で、仕事を競えばこれも終わりが無い。
色々なものと戦っているようでいて、結局は自分ひとりと戦っているだけなのかもしれない。
仕事と自分のサイズがぴったりはまることが、もしあるのだとすれば、それが一番幸福な状態であることに疑いはないだろう。
田中さんにとっての、「最適なサイズ」とは何だったのだろうか。
「“快適に仕事すること”を考えたとき、働く環境が小さいほうがよかった。
管理職になった瞬間に、“キミたち残業はイカンよ”とか、そんな切り替えできないし、
それに限らず、やっぱり何かがヘンだって、思ったんです。」
00年に再びカンヌ審査員をつとめた田中さんは、電通の退社を決めた。
カンヌから帰国する飛行機の中で、「ワンスカイ」という新しい会社の社名が浮かんだ。
* * *
「仲間と問題を解決していく過程が好きです。必要とされてる人が、必要とされてる場所で
がんばって、それで、ひとりじゃできないものが、できていくでしょう。」
だから、ひとりでやっていくことではなく、会社を作ることを選んだ。
「たとえばサッカー日本代表が、“こいつが好きだから一緒に頑張る”って思っているかというと、
勿論内側はわからないけど、僕には、そこがモチベーションのコアだとは思えない。
プロアスリートは勝つための技術を最優先しています。
でも僕は、仕事もなるべく楽しくやりたかったし、一緒に仕事をするみんなにも
そうであって欲しかった。
そのためには、才能だけじゃなくて人格も必要。
結果だけを追い求めるなら、本当は、優秀なだけの人間を集めればいいのかもしれない。」
― あるいは、それで“事足りる”、というべきか。
経営者としてはダメなのかもしれないけれど、と、前置きしてから言う。
「…そこまで冷徹には、僕はなれなかったってことだよね。」
「人」を見て会社を作った田中さんにとって、強力な存在となったのは内山氏だった。
“つづきはWebで”
いまでは当たり前―いや、何も考えずに使っていることすらある、CMのぶら下がり。
決まった秒数で完結するいわば様式美であったTVCFの、もどかしくも美しい制約は終わりの始まりを走り、SMAPを起用したNTTの広告で取り入れたその手法はヒットを飛ばした。
その際、デジタル領域をプロデュースしたのが内山氏だった。
当時、デジタルの作法を心得たクリエイターがまだごく少ない中、内山氏は異色だったという。
その後、ADKから伊藤直樹氏という逸材も加入するが、これも田中さんは
「すごいやつが来てくれた、と思ったよ」と、手放しで絶賛する。
かたや、電通としてみれば、片っ端からクリエイターに辞められておもしろいわけがないが、
喧嘩別れになるどころか、ワンスカイは電通の子会社として守られながらスタートした。
傍からは飛び出した形に見えるが、愛した会社と仲間のいる電通は「優しかった」という。
「あれだけ大きい会社が、いくつもの例外を認めてくれた。そういう会社なんですよ。」
数年して、実績から仕事が入ってくるようになった際に、電通資本から独立。
新しい会社を立ち上げたものの住所も電話番号もそれまでと変わらなかった。
ただ、屋号だけが変わった。
会社名、“GT”。
自動車レースの1カテゴリでも知られる「SUPER GT」も示すように、
本来「大旅行」を表す“Gran Tourismo(グラン・ツーリズモ)”からとった長距離移動を可能にした自動車の形式名。
「車輪が好きだった」「車の仕事がしたかった」「VWの広告を眺め続けていた」 という田中さんがつけた、「目的地まで、快適に」という思いだった。
田中さんが壮大な目的地へクライアントを運ぶ車は、
人口ロボットみたいなききわけのいい今時のマシンじゃなくて、チームプレーとドライバーの腕力でマシンを押さえつけて走らせていた頃のものなのかもしれない。
「世の中変えてやるとか、申し訳ないけどそんな高尚な思いで会社をつくったわけじゃない。
だって僕、もともとネクタイをしない職業は何かというところからスタートしているから。
広告業はまだまだ一般的じゃなかったし、杉本さんのところでアルバイトしているときに
クリエイターの人たちがみんないいクルマに乗っていて、まぶしかったですね。
田中さんの記憶のなかの「広告業界」の風景は、いつも爛々としていて、
そして ― 常に、ヒトとクルマがセットなのだ。
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次回予告/Scene4;
広告人・田中徹氏の場合
― 広告は、数字に負けるか?
(6月28日公開)
広告人・田中徹氏の場合
電通で20年、クリエイティブ一筋。
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田中さんの、広告の世界との切っても切れそうにない縁は、ほとんど業のようだ。
少年時代から今まで変わらずに興味を持っているものは、「車輪」。
「二輪でも、四輪でも。自動車も、自転車も。
車が好きで、小学校の頃の卒業文集には将来の夢は車の整備士って書いていた。」
フォルクスワーゲンに興味を持った高校時代の田中さんが出会ったのは、西尾忠久氏の
『フォルクスワーゲンの広告キャンペーン』。当時は車がきっかけで触れた本だったが、
今となっては「あれは素晴らしい広告の教科書だった」と思い返す。
リベラルな家庭環境も手伝った。
父親世代は、高度成長期で日本人が海外に出て行き始めた初期の頃。
田中さんも、いわゆる帰国子女のはしりとして海外を転々とした後、慶應義塾大学へ進学。
在学中、はからずも知人の紹介で“素人モデル”としてメディア・デビューした。
アート・ディレクターは世界で活躍する石岡瑛子氏。
ポスターには、女性のプロのモデルと、本人いわく「添え物」としての田中さん、そして
石岡氏の義弟である杉本英介氏の「彼女はハイヒールを経験した」というコピーが並んだ。
これがきっかけで、杉本氏の制作事務所でアルバイトをすることになるが
まだコピーライターなどというものは職業として一般的に認知されていない時代であり
田中さんの手伝うべき仕事も多岐にわたった。
夜が近づくと事務所へ戻り、書きあがった杉本氏のコピーを朝までに清書する。
朝になったらコーヒーを淹れ、車を洗い、ときには犬の散歩まで。
「雑用です」とまとめるが、その経験がなければ広告業界のような世界があることも知らなかった。
「遠いきっかけって、積み重なっていくものだよなぁ…。」と振り返る。
その後、「…正直、体力が続かなくて。」と杉本氏の制作事務所を辞めたものの
広告の仕事への興味は薄れず、就職活動を経て電通にコピーライターとして入社した。
* * *
しかし、そこで、杉本氏に替わるアイドルは見つからなかった。
2年間のコピーライター生活を「修行」というが、
杉本氏のもとでの経験が強烈すぎたこともあり、なにか「会社組織のなか」の
一ポジションとしてのコピーライターの役割というものが腑に落ちていなかった。
その後、CMがもてはやされプランナーが足りなくなった社内事情もありCMプランナーへ転向。
当時は「CMプランナー」の役割が定着しておらず、企画よりも手配が主な仕事であったし、
コピーライターとしてはダメなのだろうかと、異動令にはショックも受けたという。
まだ入社3年目だったため「まずはラジオからやらせてみよう」― この上の判断が、好と出た。
プランナーの仕事に面白みを感じ、担当CMはコピーも自身で手がけ、すぐにTCC新人賞を獲得。
「でも、明確な理想や野望があったかといえば、そんなことじゃなくて。
みんなでなにかをつくること、チームとしてのノリが凄く楽しかった」
在籍した第4クリエイティブ局はできたばかりで、白土謙二氏が、
そして第2クリエイティブ局には、杉山恒太郎氏がいた。
後に電通にデジタルの風を起こすことになる面々だ。
杉山氏は、直属ではなかったが案件ごとに声をかけてもらい、徐々に競合にも参加。
が、順調かといえば「初年度は13戦12敗」。
勝ち負け以上の気付きに、背筋が伸びる感覚を覚えたという。
「クライアントがメジャーだから、本当にちゃんとしたものを出さないと勝てない。
ちょっとおもしろいアイディア、くらいでコンペが取れるほど甘い世界じゃなかった。」
* * *
それから20年間にわたり、電通でクリエイターとして働いた。
転機を引き起こしたのは、クリエイティブ・ディレクターに就任したとき。
いわゆる「CD」と呼ばれるそのポジションは、花形や権威を連想させるが
そのような表現に田中さんは首を傾げ「管理職です」と一言。
そんなCDの仕事の第一印象は「…まいったなぁ、、」だったという。
特に現場主義だったつもりはないものの、仕事と距離を保ち、“管理責任”を問われ
それまで意識していなかった「管理」が自分の役割になる。
チーム仕事は好きだったため、「それはまあ、まだいいとして…」
先週の出来事のようにうんざりした表情で振り返る。
「評価会議とかね…。」
その頃、岡康道氏(現:TUGBOAT)とともに「カンヌ広告祭」に派遣された。
当時、カンヌへの派遣はご褒美のような扱いで、前年に賞を取ったコンビとして乗り込んだ。
各国の広告と各国の広告人たちが集う、広告業界・世界最大のフェスティバル。
世界中のエグゼクティブが今の世の中のことを真剣に話し合い、夜の晩餐会ともなれば
スーパーモデルのような女性を連れスポーツカーで乗り付けたり、ジェットで現れる広告代理店もある、華やかなお祭りだ。
しかしその地で、田中さんは日本の惨敗を目にする。
賞だけの話ではない。日本のクリエイターになど、世界は興味を示さなかった。
「ああ電通ね、知ってるよ、世界一でしょ? 一応ね。
でも媒体の売り上げカウントしてるんだもん、ズルイよね。」
カンヌはお祭りではなく、ビジネスの場であり、ヘッドハンティングの主戦場だったのだ。
その4年後の99年、今度は審査員としてカンヌ入りした田中さんは
日本と世界の差、そして日本が勝てない理由を肌で感じ、
同時に“デジタル”に心を動かされてゆくことになる。
このとき、審査会長であるDDB WorldWide会長、キース・ラインハルト氏と出会ったことが、
のちの田中さんの人生を大きく変える。
「いちど、NYのDDBへ来いよ」
との誘いを貰い、広告雑誌のライターと一緒に取材へ行くことになった。
広告に興味を持つきっかけとなったフォルクスワーゲンの広告を手がけていた会社であり
昔の資料を垂涎の思いで眺める田中さんに、ラインハルト氏は言った。
「これからは絶対に、デジタルになるよ」
DDBは、すでにデジタル関連企業に投資をはじめ、準備をしていた。
現在、田中さんはDDBの日本オフィスのチーフ・クリエイティブ・オフィサーも兼務している。
「これも何かの縁ですね。」
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次回予告/Scene3;
広告人・田中徹氏の場合
ワンスカイ、そしてGTへ。“クリエイティブ・ブティック”の内側。
(6月21日公開)
Prologue
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わたしが、銀座のちいさな代理店に、つとめていたときの話。
ちいさな会社のいいところで、若い行動力と、異端を推進する力があった。
もっとも甘やかされた環境で仕事をしていた頃でもある。
「これからの広告会社やデジタルビジネスは、どうなるんだろうね?」という問いに
久々に日本に居た年末年始、1万字の作文を書いたら、ときの上司はにっこり笑って
「もう二度ときみのパワポは読みたくない。」というお言葉と引き換えに、
もう数年前のことになるが、宣伝会議の講座に通わせてくれた。
半年間、毎週水曜日に表参道まで通ったその講座の講師は、GT Inc.の3人だった。
社長である田中徹氏、のちにW+KのCOOとなる伊藤直樹氏、そして内山光司氏。
伊藤氏は、自分の感覚を信じ、愛していた。(ように感じた。)
内山氏は、いつでも万人がわかる言葉で語ることに、気を配っていた。(ように感じた。)
田中氏は、GTの仲間を、理屈を超越したところで愛していた。(ように感じた。)
大手の代理店を飛び出してできたのがGTであるように、出自もばらばらなユニットは
いずれまた方々へ散っていくのだろうが、それも“らしい”姿。
ひとりでやっていくことだってできる人たちが集っていることは、一瞬の奇跡だった。
受講者の属性によって、「誰の話が一番わかるか」がきっぱり分かれたのも興味深かった。
制作系、クリエイターは伊藤さんの話がいちばん共感できるといった。
代理店営業、マーケターは内山さんの話がいちばんわかりやすいといった。
わたしがよく覚えているのは、田中さんの話だ。
田中さんはいつも、意図的なのか否か、結論を聞く側に任せる話しかたをした。
なかでも「会社のネーミング」の話をしていたときの田中さんを、よく覚えている。
「たとえば、TUGBOAT(タグボート)。
タグボートっていうのは、大海に向かって最後の離岸を手伝うモノなんです。」
田中さんが言うのはそこまでだが、広告業界の人間なら、
TUGBOATの岡氏が電通から独立した身であることくらいは解っている。
明言はしなくとも、“離岸”という言葉は、強い意味を持って迫った。
「GTの前身は、ワンスカイという会社。
カンヌ広告祭の帰国時に知った、ワンスカイ構想というのは、当時、
ヨーロッパの空の国境をなくそうという運動だった。」
国境なき、ひとつの空。
縦割りでも横割りでもなく、メディアの枠を超えてコミュニケーションを構築していく。
横たわるひと続きの空を“ワンスカイ”と称したように
それは確かに、ボーダーが淡く消えていった先にある、新しい時代の始まりだったのだろう。
田中さんの“ワンスカイ”が社名を変えて再スタートを切った“GT”のオフィスは
空に溶けそうな、東京の高層階にあった。
窓際には色とりどりのブロンズ像が、たしかに整然とは並べられていたが
ガラス箱のなかで威光を放つこともなく、ソファの向こうの影に、ちんまりと鎮座していた。
このシリーズは、何かを「聞き出してやろう」などと意気込むことをほとんどしていない。
それでも、広告マニアのわたしが憧れの人に会いに行くのだから、それなりに緊張はする。
田中さんがわたしを招き入れた動作は、自宅に他人を入れるときのようなそれで
わたしは何か思い違いをしていたのかもしれない、と、ふと思った。
電通を飛び出し、現在の地位を築いた、野心あふれるCD?
少数精鋭でカンヌ常勝、気鋭の国産クリエイティブ・ブティック?
そのどれもが、正しくて違う。
独立とは、アップグレードでもダウンサイジングでもないのだと、わたしは思い知ることになる。
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Scene2;広告人・田中徹氏の場合
電通で20年、クリエイティブ一筋。(6月14日公開)