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広告人・佐藤尚之氏の場合
Scene;4 ソーシャルメディアという希望。
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2010年は、ソーシャルメディア元年と言われた。
twitter、次いでFacebookも話題を呼んだ。
世界の距離は短くなり、皆が発信し、ポジティブに関わっているソーシャルメディアの世界。
会社、家族、組織、国といったヒエラルキーが崩壊し、ソーシャルグラフで再編成されてフラットに変わっていくという予感。それは、佐藤さんがWebに対して感じた可能性としてぼんやり見えていた“理想形”だったという。
「…もうさあ、待ち焦がれてたんだよ。」
「インターネットって、なんだかおかしな方向に行きかけていたじゃない。
Googleが情報を全部フラットに扱っちゃって、冷たい世界になっちゃった。
2ちゃんねるで犯罪がどうのこうのっていう話になって、企業も炎上が怖くて使えないとか。
そんなはずはない、世界をもし我々が変えられるとしたらそのきっかけはインターネットしかない。
ソーシャルメディアがやってきて、“これだ”と思った。理想の姿。感動したよ。」
ソーシャルメディアの普及はバブルとも言われ、
広告やマーケティングの業界では今なお今後が注視されているが
佐藤さんは、ソーシャルメディアを客観的に論じる人を見ると、腹が立つのだそうだ。
「おれたちの手でおもしろくして、この千載一遇 のチャンスをつかむんだ」
自ら動くべき時がきた、と感じていた。
同時に感じたのは、自らが長らく関わってきた「広告」というものに対する考えの変化だった。
「ネガティブなものをポジティブに変えて世の中を楽しくしちゃう、っていう
昔の広告のアバウトな感じは、いい加減、許されない時代になってるのかも。」
トップダウンで一方的に語りかけていた「広告」は、かならず変わっていく。
これまで、どこにいるのか見えないことが前提だった生活者が、
ソーシャルメディアの登場により、勝手につながってくれた。
もう、“Attention”を取りに行く広告はコミュニケーションではないのだ。
「“広告”っていう概念が、もう古い。
“人に伝わるテクノロジーを使ったコミュニケーション”を模索していきたい。」
「モダンコミュニケーション」を自らの残りの時間に課し、ひとつの大きな決断をした。
四半世紀―実に25年間勤めた、電通の退社。
理由をひとつに絞るのは難しい。
残された時間を、大きな組織のマネジメントで終えたくないとも思った。
偉くなることで、自分で動く事を忘れた人間もたくさん見てきた。
「もちろん、世代間のつなぎをきちんとやりたいとは思っている。
今年、50歳でしょう。世代間がよく見えるんだよね。
旧来文脈の人たちは戸惑っていて、もう逃げきろうとしている。
新しい人たちはそれを追い払って新しいことをしようとしている。
でも、世の中そんなに単純じゃないからね。両方の力を使って、世の中をよくしないと」
その言葉には、佐藤さんが社会人生活を通じて常に、何かを批判し駆逐するのではなく、
橋を架けることで建設的な方向を追求してきた生き方が現れている。
それでも、今までの居場所を捨てなければ成し得なかったこととは、何なのだろう。
ソーシャルメディアを「透明な世界」と表現する佐藤さんは、“一貫性”を例に挙げた。
「やりたいことができない不自由さ、というよりも、個に戻らないと無理だと思った。
個を手に入れて自由にやらないと、信用されないし、共感もされない。
たとえば、僕がどの会社の広告を手掛けたのか、ということがオープンになる時代でしょう。
そして、たとえば僕はタバコを吸わないということも、オープンになっている。
そんななかで、タバコを吸わない僕がタバコの広告をやるのって、
なんだか、不誠実だし、信用もされない。たとえばそういうこと。」
人を集め、そしてつなぐ。
意志さえあれば、“ひとりの個人”でもそれが可能になる―
ソーシャルメディアが変えたインターネットの世界だった。
「何十年、何百年に1回のチャンスが、もうそこにあるんだ。
つながりで再編成される世界を良くして、社会を生きやすくするのは、
僕たちこの時代を生きている人たちの使命。」
貴重なたった1回の人生、「個」に戻ることを選んだ佐藤さんは
非常に晴れやかな表情で、最後にこう言ってくれた。
「それをやってから死にたいなあ。
何もできないかもしれないけど、なにかしら、じたばたしてから。」
了
佐藤尚之(さとうなおゆき)
1961年東京生まれ。電通にて、CMプランナー、ウェブ・プランナーなどを経て、クリエイティブ・ディレクターを勤める。社内に「サトナオ・オープンラボ」として、コミュニケーション・デザインを追究するチームも結成。JIAAグランプリなど受賞多数。
広告人としての著書に『明日の広告』(アスキー新書)。
1995年より個人サイト「www・さとなお・COM」 を運営。「さとなお」名義で、『人生ピロピロ』(角川書店)、『沖縄上手な旅ごはん』(文藝春秋)、『うまひゃひゃさぬきうどん』(光文社)、『ジバラン』(日経BP社)など著書多数。
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Special Thanks to Naoyuki Sato
広告人・佐藤尚之氏の場合
Webの可能性を確信した、阪神・淡路大震災。
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1995年、阪神・淡路大震災。
その日、佐藤さんは神戸に居た。
夜は停電し、ようやく電気が通った頃にも横に人が埋まっているような状況。
テレビをつけて、佐藤さんはその違和感にしばし現実感をもてなかったという。
東京でこの地震が起きたら…という、お決まりの検証番組。
東京偏重の報道を、被災地で見る違和感に、怒りすらこみ上げたという。
ときはパソコン通信の頃、ネット創成期。
個人サイトなど100くらいしかない時代だったが、電気が通ってから、試しに回線を繋げてみると
そこには、インターネットで避難所の状況を発信している人たちがいた。
二度目の衝撃だった。必要な人に必要な情報をデリバリーできる、その画期的なテクノロジー。
それが技術の問題で終わらずに、善意の個人が発信し、見知らぬ誰かの役に立つ。
インターネットに可能性を見出した佐藤さんは、その夏、「さとなお.com」を立ち上げた。
もう15年以上、続けている個人サイトだ。
「人生で唯一、続けていることかもしれない。実際、いいこともいっぱいあったしね。
本も出したし、マスコミにも取り上げてもらったし、友達も増えたし。
この媒体だけはちゃんとやっていこう、と今でも思っている。」
当時、やりたかったのは、好きな本の書評。
活字の虫の習慣は途絶えることなく、会社へ入ってからも月に10冊は本を読み、
週刊誌に書評を書いたり、文春文庫で斎藤美奈子さんの著書の巻末解説を書いたこともあった。
しかしそこはマスを相手にしてきた広告会社社員。
「個人の書いた書評なんて誰も読まないと思って、目玉になるコンテンツが要ると思った」
そこで、自腹でレストランに覆面調査をしてくるレストランガイドのコンテンツを立ち上げた。
* * *
その頃にはもう、生活者が変わっていた実感があったという。
CM作って、納品して、終わり。それのどこが、コミュニケーションなのか。
コミュニケーションがやりたくて会社へ入ったはずなのに、なぜみんなやらないのか。
オリエン聞いてすぐテレビCMを考えるのはやめよう、と。
「広告はテレビだろ!オリエンから帰ったら真っ先にコンテ書くだろ!」という相変わらずの風潮。
まずキャンペーンをどう構築するのか、コンタクトポイントをどこにもつのか。から入り、
「どのメディアを使うか」ではなく、「何を伝えるか」。繰り返し主張した。
ほどなくして、当然ながら社内で「デジタルが強い」との評判が立ったとき、
「CM、やめます!」と宣言し、
先輩と2人で「デジタルクリエイティブ部」を立ち上げた。
仕事でもデジタルに舵を切るほど、インターネットが再構築していく新しい世界の可能性を感じていた佐藤さんだが、「さとなお.com」を始めた当初は、同僚に馬鹿にされたという。
2000アクセス程度で喜んで、CMだったら何百万人の人が見てくれると思っているのか、と。
しかしそこには、伝わっているかわからないCMにはない、
「生活者がすぐ横にいて、反応がかえってくる」という大きな手ごたえがあったのだ。
そのうち、“旧来文脈”の人たちもインターネット領域へ入ってくるようになったが
彼らはネットを「動くポスター」くらいにしか考えていなかったため、自由だった。
予算も重要度も、大したことないから好きにやっていい、という空気があった。
同時期に、東京にもようやく、デジタル関連の部署ができ、お呼びがかかった。
関西生活14年が、幕を閉じようとしていた。
* * *
博報堂電脳隊と同じく、ここ電通でも“伝説”となるチームが生まれていた。
インタラクティブ・コミュニケーション局 —— 局長:白土謙二氏、次長:杉山恒太郎氏。
Webを「メディア」ではなく「クリエイティブ」の一環の「なにかあたらしいもの」と位置付けた。
「あれは、ほかの会社には無い、電通の素晴らしい所だったね。」
白土氏と杉山氏は、ネット専業会社などのいう「コンバージョン」や「クリックレート」に対して
「そんなものは広告じゃない。広告は人の心を動かすものだ」と大反発した。
「効果は見えないところにある−—そのことを僕ら、創成期の100人くらいは叩き込まれたよ。
Google Adwordsも、広告じゃなくてInformation。元々興味関心のある人に向け情報を流す。
広告は、ゼロベースで気持ちをうごかして、『これ、いいかも』って思わせるもの。
そこを間違えると、広告はどんどんInformationでOK、っていう話になってくる。」
「効果が数字で見えること」が、それまでの広告にはない利点として注目されているのも事実だ。
それを否定すれば、「効果がないのがバレるのがイヤなんだ」と穿った見方をする人もいる。
しかし広告は「効いていないほうの半分」という言葉がよく持ち出されるように
数字では語れない情緒に語りかける部分が大いにある。
人間を相手にしているのだから、計算式でバチっと決まらないのはあたりまえのことだ。
「違うんだよなあ。…ぜんぜん、違うんだよ。」
佐藤さんも、噛みしめるように言う。
そして、“ソーシャルメディア”という革命がやってきた。
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次回予告/Scene3;
広告人・佐藤尚之氏の場合
ソーシャルメディアという希望。
(5月31日公開)
広告人・佐藤尚之氏の場合
関西式コミュニケーションと、クリエイティブへの疑問
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「東京っ子なんです、僕」
「…見えないですね」
「…そうでしょう。」
「もともと、性格も生き方も“広く浅く”。人生の目標とか、なかったから。」
小学校時代から活字の虫だった佐藤さんは「フツーの」大学の経済学部へ入り、
雑誌・新聞・出版・メーカー・商社、すべてできる領域の大きさに惹かれ、広告会社を選ぶ。
85年、日航機事故の年に電通に入社した佐藤さんはそれから14年間を関西で過ごした。
希望したもののまさか行けると思っていなかったクリエイティブへの配属にも大いにびっくりしたし、
何の縁もゆかりもなかった大阪での生活で、相当人間が変わったのだという。
衝撃を受けたのは、まず、関西式のコミュニケーションに対してだった。
「東京の人って、見栄っ張りというか、カッコつけるでしょう。
ズボン買いに行っても、おなか引っ込めて買う。
関西人は、おなか出して買うから。その方が楽やん?って。
関西人はまず“自分を笑う”。
このコミュニケーションは、“カッコイイ”事をするのより余程オトナだと思ったよ。」
時代もよかった。電通のよいところでもあるメリハリ文化。
ワーっと仕事して、ワーっと遊ぶ。それはとにかく、振り切れていた。
「広告代理店っていったら、都会で、カッコよくて、ハワイでタレントがにっこり、みたいな。
そんなイメージ、すぐに吹っ飛んじゃったよね。」
コピーライターとして、入社2〜3年目から錚々たる企業の仕事を、
俯瞰した立場で任される状況は、東京にいてはあり得なかったことだと振り返る。
それ以上に、縦割り横割りではないフラットな組織カラーにより、コピーだけではなく様々な仕事に触れることができたことが、後のキャンペーン志向を強めていくきっかけにもなったようだ。
* * *
3年目に、会社のローテーションシステムにより営業に転籍となったとき、
そのダイナミズムに、「広告会社にいるなら営業だな」と思い直したという。
クライアントが“何銭”の単位でモノをつくっていることを、頭ではわかっていたつもりだった。
しかし、みんなに恐れられていた某企業の名物宣伝部長が佐藤さんのことをなぜかとても可愛がってくれ、込み入った話もするうちに、事業主側の課題と現場を初めて肌で知るようになる。
それに対する、広告会社のクリエイティブの仕事の、なんと傲慢だったことか。
クリエイティブを作品と呼んではばからない人たちを佐藤さんは素直に「バカだと思った」という。
人のお金を使って、自分のやりたいことをやるとは何事か、と。
クライアントの課題解決が目的なのに、コピーの賞があることすら、おかしいと思うようになった。
営業はいつも「クリエイティブ様々」と立ててくれていた。しかしそれは尊敬によるものではない。
クリエイティブを諦めて甘やかし、つまりは馬鹿にしていたのだとわかってしまった。
「本当にモノがつくりたいのなら、プロダクションに行けばいいんだよ。
本当にクリエイターになりたいのなら、個展でも開けばいい。」
その思いは、佐藤さんだけが感じたものではなかった。
営業へ行ったクリエイティブの人間は、みな
「クリエイティブに戻る? 営業に残る?」と何度も話をしたという。
結局、佐藤さんは、1年でまたクリエイティブに戻ることを選択した。
“見えた”うえで、営業感覚を持ったクリエイティブの人間でいることを望んだのだった。
その頃には自然と、「キャンペーン全体をどう構築するか」に興味が行くようになっていた。
端的なエピソードがある。
とある企業のコーポレート広告の仕事で、目的が「病人を励ましたい」というオリエンだった。
佐藤さんはコピーライターとしての責務も背負ってはいたが、“病気の人を励ますコピー”をのせた広告を出しても意味がない、と思ったという。
広告を「読んで」もらっても、仕方が無い。
だったら、励ますことにお金を使ったほうがどれだけいいか。
結果、アーティストに絵を描いてもらい病室の壁に貼るホスピタルアートプロジェクトへ昇華した。
* * *
コピーライターの傍ら、CMプランナーとしても多くの仕事を手掛けた。
1社のCMを10年の長きにわたり担当し続けたこともある。
「でもCMって、伝えるための部品でしかなくて。伝わってるかどうかわからない。
そんなもの作ってどうするんだろう、と思うようになった」
自然な変化ではなく、自らの手で産み、肌で感じた「Web」との差だった。
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次回予告/Scene3;
広告人・佐藤尚之氏の場合
Webの可能性を確信した、阪神・淡路大震災。
(5月24日公開)
Prologue
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「インターネットの可能性を確信したのは、やっぱり、阪神大震災。」
ようやく訪れる気配を見せ始めた春の光が射し込む電通ビルの高層階で、
わたしの問いかけに“さとなお”こと、佐藤尚之さんはそう答えた。
おそらく何度となく人に聞かれ、自分の中でも思い直してきたのであろうその言葉は
穏やかながら、凛とした断定だった。
奇しくもそれは、3月8日―あの東日本大震災の、3日前のことだった。
あの日のあとに、それまでの世界の事を語るのは、とても困難なことのように思う。
地震、津波、原発、帰宅困難、計画停電、買い占め…
そういった物理的な震災と二次災害のなかにあったのは、誤解を恐れずに言うならば
協力、団結、世界の賞賛、フラストレーション、言葉に塗られた集団躁鬱に近い状態だった。
約2か月が経ったいま、わたしたちはそこかしこで、何かが“壊れた”事を感じている。
それは、日本という国に対してであったり、資本主義や価値観に対するものであったりする。
今に始まった事ではない。しかし、意識の奥底で、本質的な変化があったように思えてならない。
「情報って、権力じゃない?
そのピラミッドが、崩れてきている。」
そう言った佐藤さんの言葉も、あの日より後には、違った意味に響く。
月をまたぐ頃、電通は佐藤さんの退社を発表した。
電通で、コミュニケーションの片翼に“デジタル”をもったCDとしての
“佐藤尚之”は、地震に始まり、地震に終わったのかもしれない。
もちろん結果論であり因果関係などないが、偶然にも、時代の区切りは重なった。
「電通を辞める」と佐藤さんから聞いたとき、「やっぱり」と「なんでだ」が同時に浮かんだ。
後者の「なんでだ」は多分に、勝手ではあれど非難さえ含んでいた。
誰かが会社や業界を去って行くたび、業界ごと見捨てられた気分になるのはなぜだろう。
「やっぱり」と感じたほうのわたしが思い出したのは、佐藤さん著『明日の広告』の序文だった。
わたしはその本を、勝手に『恋する広告』とタイトルを変えて呼び、今も何度も繰り返し読む。
諳んじることさえできるようになってしまった序文のこの文章を紹介して、
この連載第2回目、佐藤尚之さんのインタビューをはじめたいと思う。
――消費者がどんどん変わっていっているのに、彼らと密にコミュニケーションを取って売って
いかないといけない我々のやり方が十年一日の如く変わっていないのではヤバすぎる!
~
でも、ちょっと煽りすぎている部分もあったと思う。ネットがテレビを凌駕するとか、
テレビCMが崩壊するとか、新聞は生き残れるのかとか、マスメディアは死んだとか、
グーグルが世界を制覇するとか。とかとか。
~
そして表面的な手法やテクノロジーにとらわれて「コミュニケーションの本質」が
軽視されている空気もちょっと感じるので、そこもなるべく意識して書いた。
話の出発点は「消費者が根本的に変わった」という事実である。
ゴールは「すごくエキサイティングで楽しいじだい」というボクの実感だ。
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Scene2;広告人・佐藤尚之氏の場合
関西式コミュニケーションと、クリエイティブへの疑問(5月17日公開)