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2011/04/26


広告人・須田和博氏の場合

After Talk – 一問一答

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※この回は、インタビュイーの言葉をそのまま掲載します。
 解説はつけませんので、各々のうけとり方でお楽しみ頂ければ幸いです。

●現在過去問わず、衝撃だったメディアは?
ニコニコ動画。
映っている人が何をしていようとも野次られるあの感覚。
社長が収支決算を大真面目に話していても、コメントは「ハゲ、ハゲ」ですよ。
炎上が怖いとかじゃなくて、ああいうのにさらされるのが当たり前と思わないと、
今の時代、仕事やってられなくないですかね?

●マスvsデジタル について
分業しないと間に合わないという部分はあります、実際。
でもやっぱりTVは強力。CMだって、使い方ひとつ。というのが、Webをやっているから
こそわかる。
田舎に帰ったら、うちの父親なんてテレビしか見てないですから。
僕自身も、ネットニュースより新聞を読みます。知るつもりのない情報にも接することが
できるから。
今ちゃんとやるべきことは、各メディアのながれをどうつくるかでしょう。

●広告はどうなる?
広告は終わりません。
みんなが不可欠と思っているGoogleだって、広告で成り立っている。
人間の本質は変わらないし、広告も昔からやっている事は同じ。カタチが変わるだけ。
広告がなくなったら、みんながなくしてしまうものが、たくさんありすぎます。
ただ、“ウザい”と思われてる広告がいっぱいあるのは事実で、そういうものは淘汰されて
いくとは思います。

●今後、注目の分野は?
スマートフォン。
前問で「人間の本質は不変」と言いましたが、スマホが出現して、人間ちょっと変わるか
もと思った。
人間は進化しない。でも唯一、進化しているのは「面倒くさい」という感覚。
全自動洗濯機がある日突然壊れたら、マジ勘弁してくれと思いますよね。今の僕の家です
けど。
スマートフォンを持つと、「超能力」を手に入れたみたいに、できることが俄然増えた。
だから、逆に電源が落ちたり、圏外になったりすると、強烈な「無力感」に襲われます。
これが広告の新しいフィールドになるかもしれないと思っています。

●尊敬する人はいますか?
藤子・F・不二雄、ゴダール、大貫卓也。

●これからの広告のキーワードは。
「広告」から、「広場」へ。
いろんなところで言ってますけど。
一方的に告げるやり方から、ユーザが伝えあう場づくりへ。
そういうものになるぞ、というよりは、そういうものになったらいいなあ、と。

●総合広告会社のこれから
総合だからできることはある。たとえばメディアやクライアントを組み合わせること。
仕掛けを作るというのは、クリエイティブを極めるブティック系ADが持たない発想。
デジタルじゃ儲からない、たしかにそう。だけど、これは必須の武器。
組み合わせ価値の提供こそが、要は「総合」の仕事。だからこそデジタルが出来なきゃ、
もう無理っていうシンプルな話なんです。
もうひとつの、その先の仕事は、企業の中に入り込んで、そこでマーケティングを変えて
いく仕事です。
この2つが総合広告会社の未来の仕事になるはずです。

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Special Thanks to K.SUDA & C.NISHIO / Hakuhodo Inc.

10:00 | vol.1 須田和博 | □須田和博/Scene;4 はコメントを受け付けていません
2011/04/19


広告人・須田和博氏の場合

TV⇔Web。「画面1枚」の圧倒的な差。

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「紙の“デザイン”っていうのは、極めて具体的な作業で
 自分で手を動かして、自分が納得するものを“つくる”仕事だった。
 印刷物の色合いに至るまで、自分で決める仕事なんです。
 でもCMプランナーは、“プランニング”こそが仕事。
 最終的な映像は、必ずしも自分の納得がすべてではないんですよ。」
決して不満なのではない。プロのディレクターが作り上げる映像は、
未熟な自分の想像を超えて良いものであることも、当然多かった。
しかし、それが良いものであってもなお、
自分が何をする人間なのかが腑に落ちず、違和感が次第に沈澱していった。

そんな折の99年、転機が巡ってくる。
CMでありながら、企画から演出・撮影・編集までを、自主映画や紙の仕事のように自分で出来る機会に恵まれた。CFディレクターがいないので、フィニッシュまで自分にまかされたのだ。
皮肉にもその理由は、“予算が無いから”だった。

そして、その仕事で須田さんは、TCC新人賞とACC賞を受賞する。
——そうかCMでも、アートディレクションのやり方でやってもいいんだ。
そう思い、企画だけでなく、フィルム演出まで手掛けるようになっていった。

しかし、やがてその体験が須田さんを、本人いわく「まじめな気持ちに」させた。
2年ほどフィルム演出にトライした後、CMプランナーは本業である「企画」にこそ専念すべきなのだと反省し、自らにフィルム演出を禁じたのだという。
職転して5年。当初CFに感じた違和感はとうに薄れ、演出を手がけることで一時は醍醐味も得られたが、次第に行き詰まりを感じ始めていた。

行き詰まり感の中で、須田さんが掴んだ光は「デジタルテクノロジー」だった。
ときは、デジタルインディーズフィルムが流行り、モーショングラフィックという言葉がもてはやされていた時期。従来の映像制作よりも、小規模でフットワークよく動く新しいやり方が、Macの普及と共に注目を集めていた。デジタルで撮影し、現場ですぐにデスクトップで編集し、映像がつくれてしまうテクノロジーの発展に魅せられた。
「重たい制作プロセスから解放されることで、もっと企画の自由が得られるかもしれない。そこに希望を見いだそうとしたんです。」

デジタルの予感を決定づけたのは、縁あって上海でCMを制作することになった体験だった。
出張でCM企画の監修をする仕事だったはずが、トラブルの連続に見舞われ無事納品するまで帰国できなくなった。
当然中国語など話せないが、Macで上海のスタッフと直接データのやりとりをし、15秒CMの編集をi-movieで試してエディターに指示し、デリケートなCGを日本から電話回線で送ってもらうなどして、なんとかした。このサバイバルの中で、言葉がわからなくてもデジタルが助けてくれる、ということを身を持って知った。
「そうか、デジタルが使えて、絵が描ければ、世界中どこでも、なんとか仕事はできるんだなって、ピンチの連続の中で悟ったんです。」
この逆境を乗り切った体験が、のちにまったくの未経験者ながらWeb領域に移る時の、自信につながったという。

*     *     *

“インタラクティブ・クリエイティブ部 部員募集”
公募メールの一行に、目が止まった。2004年、暮れも押し迫った年末のことだった。

最初に相談したのは、福田敏也氏(現:トリプルセブン・インタラクティブ代表)。
もともと大貫氏と同じチームで、以前から知る先輩だった。
あたたかい助言に背中を押され、2005年1月1日付けで、“志願”異動。
当時は、今なお社内で伝説のように語られる「博報堂電脳体」が解散し、
先駆的パイオニア達が、ちりぢりバラバラになったしばらく後。
笠井修二氏(現:2nd design代表)を中心に、3人ほどの部員で、
デジタル領域のクリエィティブを模索し始めた頃の公募だった。
幸いにも隣の席に、Webの叩き上げという出自の螺澤裕次郎氏(現:電通CDC)が居た。
二人は毎晩徹夜する中で、お互いの領域のスキルを交換しあったという。

Webの実績はまったくなかったので、文字通りどんな仕事でも引き受けた。
勝っても100万円も予算がない競合案件を、昔なじみの営業が頼んでくれたところから、自分のWebでのキャリアを始めることが出来たという。
「仕事は誰かに頼んでもらわなければ、絶対に出来ない。だから、どんなご縁も粗末にしてはならない。自分はラッキーだった。」
今でもそう思う、という。

その1年後、須田さんは、自身の代表作とも言える大塚製薬ファイブミニのキャンペーンを手掛ける。
体内の毒素や不調を「体内怪人」としたキャラクターが話題になり、オーガニックにバズが発生。
第2弾としてmixiで「怪人が美人を襲う」という出没ウソ情報を、ウソ写真付きで、発信すると共に怪人の写真や音声をすべてフリー使用素材として提供し、ユーザからの投稿を促進。
交通広告と連動した携帯サイトでの占いコンテンツ、地域限定のバイラルCMはYoutubeを中心に広がりを見せ、デビューから6ヶ月でグーグルで22万件、ヤフーで1万7千件がヒットするほどの大人気を得る。
まさに、Webで化けたコンテンツだった。
そのとき「わかった」のだ、という。

——Webって、こういうことか。

様々な体験が、いちどにフラッシュバックされた。
ドラえもんに憧れノートにマンガを描き続けた少年時代。
8ミリ映画を文化祭で上映し「感動した」と言われた学生時代。
博報堂の面接官に笑ってもらうことに喜びをおぼえた就職活動。
そして、大貫さんに「くだらねー」と言われたくて、作品を見せに行った新人時代——

「目の前の人に、“ウケる”こと。それが広告の仕事の本質。」
「ウケる」。それが、Webによって直接の体験として自分に戻ってきた。

*     *     *

「自分の前に、モニターが1枚。読み手の前に、モニターが1枚。
 その2枚のモニターを通じて、反応がじかに伝わってくるのがWeb。」
ファイブミニのmixiコミュニティを続ける中で、ウケる作法は毎晩蓄積されていき、須田さんの中で「Webとはこういうものだ」と明確な手応えを得たという。
どうしたら、お客さんが喜んでくれるのか。それを考えることこそが、広告の基本だと確信した。

「そのときようやく、わかったんですよ。なんで自分が、TVCFというものに絶望したか。
 CFでは、ウケてるのか、ウケてないのか、わからなかった。」
じゃあ、CMで“ウケ”が毎回ビジブルだったら、Webに来なかったか?という問いに、頷く。
「表現じゃなくて、ウケなんですよね。そこに、気づいていなかった。
 自分の、ほんとうの喜びが、仕事に直結していなかったんですよ。」

漫画家の山岸凉子氏は、クラシックバレエを題材とした自身の作品のなかで、こう書いている。
「踊りを選んだのなら、極めなさい。踊りに、選ばれるまで」
話を聞けば聞くほど、須田さんという人は、広告の仕事に“選ばれた”のではないかと思わざるを得ない。

紛れも無く、自身の才能と努力と好奇心がなければなし得ないことでありながら、
パズルのピースが埋まっていくような、須田さんと広告との、出会いと別れが生む、妙。
かれは今、赤坂の摩天楼で大手広告会社の部署長という役職を背負いながら
それでも身軽に、毎週メルマガの校正にいそしんでいるという。どの見出しが“ウケ”て、何クリックされるかを、楽しみにしながら・・・。

現場とか、管理職とか、そういう問題ではないのだ。
ひとりのクリエイターが見つけた“接点”が、
今日も、広告というプラットフォームを支えている。

須田和博
株式会社博報堂 クリエイティブ・ディレクター
90年、博報堂入社。アートディレクター、CMプランナーを経験後、
05年からインタラクティブ・クリエイティブの領域へ。
主な仕事に、ミクシィ年賀状、大塚製薬・ファイブミニ「体内怪人」、
ポカリスエット「ブカツの天使」、マイクロソフト「ニコニコメッセ」、
NTTレゾナント「goo脳内検索メーカー」など。
09年東京インタラクティブアドアワード グランプリ、
カンヌ国際広告祭メディアライオン ブロンズなど受賞歴多数。
著書に「使ってもらえる広告」(アスキー新書)。

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次回予告/Scene4;
広告人・須田和博氏の場合
After Talk – 一問一答
(4月26日公開)

08:00 | vol.1 須田和博 | □須田和博/Scene;3 はコメントを受け付けていません
2011/04/12


広告人・須田和博氏の場合

「アート・ディレクション」という職業。

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「『ドラえもん』みたいなものが、描きたかったんですよ。」
クリエイティブに根っこをもつ須田さんに、幼少からアート志向があったのか、と尋ねると
自らの小中学生時期がいかに日本アニメ全盛期であったかを熱く語り始めた。
「初めて買った本は『ドラえもん 1巻』。小学校でヤマト、中学校でガンダム。」
藤子・F・不二雄に憧れたマンガ少年は自然と、「絵描き」への志向を強めていく。
高校で在籍した美術部は、村上隆氏とともに「新ジャポニズム」の代表選手として海外からも高い評価を得る美術家、会田誠氏が一学年上の先輩という環境だった。
その頃に“前衛”と出会い、8ミリ映画を撮り始めたという。
新潟大学の美術教師コースにでも進むのかな、と漠然と考えていた須田さんは、
“会田先輩”が目指している「美大」なるものの存在をはじめて知る。
とはいえ地元には美大の予備校のようなものはない。
絵画教室のアトリエで石膏デッサンや平面構成などの勉強をしながらも、不合格。
翌年には、東京の予備校へ身を移すことになった。

そんな折に手にした、一枚の通知。
自主映画ブームのなか、若手の登竜門としての権威であった映画祭
「ぴあフィルムフェスティバル 1985」の入選の通知だった。思いがけない朗報。
「あれがあったから、腐らずに1年間やれたのかな…」
と振り返る東京での一年間の浪人生活ののち、多摩美術大学へ。
グラフィックデザイン科ではあったが、心は映画制作にあったという。
「短いコマ切れの、ちょっとしたアイディアの断片を、
 いくらでも入れていけるのが映画だと思った。」
バラバラなものがつながって意味を成していく面白さに、
“平面の一枚絵”を超える魅力を感じていた。

*     *     *

ギリギリの時期まで就職というものにリアリティを感じていなかった、という須田さんだ
が、それでも、多摩美大に入学してすぐに、広告研究会に入ったという。
思わず、なぜ、と問うと、ご本人も、にこりと笑って答える。
「8ミリ映写機があったから。」

多摩美のグラフィック科といえば、指定校推薦のように
毎年、ある程度の人数が大手広告会社に入社するのが恒例だ。
先人たちの実績は、暗黙の学内選考―“電通・博報堂どちらかしか受けられない”
というようなルールも生み出していたという。
須田さんは、どちらの広告会社の面接を受けるのかという選択を迫られて、はじめて「ど
う違うのか」を調べ始めたという。
そして、図書館で広告年鑑をめくり、
好きだった「としまえん」の広告を、博報堂が手掛けていたことを知る。
アートディレクターのクレジットには、後の師匠となる“大貫卓也”の名前があった。
それじゃあ、自分は博報堂を受けよう——至極、単純明快だった。

博報堂は入社試験も面白かったという。
1つの「お題」でアイディアラフを100枚書いて来い、という課題もあったが苦にはならず、
試験官にウケるのが楽しくて、どんどん書いては見せにいった。
その他の一般メーカーなどの企業も受けてはいたが、
広告会社の内定が出たとたん、すべての就職活動を打ち切った。
「面倒くさかったんです」と、本人ははぐらかすが、広告こそが自分にとって一番面白い
と予感していたのだろう。

こうして入社が決まった、博報堂の入社式、1990年4月1日。
見慣れない新聞広告に目を奪われた。
「史上最低の遊園地」

広告史上有名すぎるキャンペーンは
大貫卓也氏による、「としまえん」の広告だった。

*     *     *

入社後、クリエイティブ局に配属された須田さん。
おそるおそる大貫さんに学生時代の作品を見せに行っては
「くだらないねぇ」「デザインヘタだねぇ」といわれながらも、
1年後にはアシスタントとして引っ張ってもらうことになる。
そこで参加したのが大手食品メーカーの某製品の競合プレゼン。
大貫さんを筆頭に若いスタッフが担当し、のちに世界的に大きな賞を得るプロジェクトだ
った。

そうして環境にも仕事にも恵まれながら紙媒体のクリエイティブに携わって7年。
90年代も末を迎えた頃、社内や業界に、妙な風潮が漂いはじめた。
——これからは、CMだ。紙の仕事は無くなる。ADをやっていても、未来は無い。
いつの時代も、この手の「ナントカ崩壊論」は尽きないものらしい。
危機感と変革を常に内包する体質、という見方も出来なくはない、ともいえる。

実際、現場では、CMの仕事は増えつづけ、CMプランナーは不足しつづけた。
「CM、興味あるか?」上司と廊下で交わした短い立ち話に、
「まあ、自主映画とかやってたんで」と軽く答えた翌週、辞令が出た。

…仕事とはかくも簡単に、変わってしまうものなのか。
CMプランナーに転職を命じる内容の通達を聞きながら
沸いてきたのは、必要とされ期待されるという高揚感よりも、むしろ失望だったという。
「デザインを精一杯がんばってやってきたつもりだったのに、
 俺にデザインをやめろというのか・・・と、その時は思いましたね」
珍しく仕事仲間と酒を飲んで荒れたりしたと、振り返る須田さん。
しかしこの異動が、のちに須田さんの進む方向を
決定付ける大きなターニングポイントとなったことだけは事実だったようだ。

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次回予告/Scene3;
広告人・須田和博氏の場合
TV⇔Web。「画面1枚」の圧倒的な差。
(4月19日公開)

11:42 | vol.1 須田和博 | □須田和博/Scene;2 はコメントを受け付けていません
2011/04/05

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——「書き手」と「受け手」のあいだには
  たったディスプレイ2枚だけど
  「受け手」は「書き手」の「人間」に敏感で
  「やらせ」「つまらん」「なんかいや」は、すぐばれる——

セミナー会場というには、あまりに無機質な会議室。

100枚近くあったのではないだろうか、
スピーディーに展開されるスライド。
文字ばかりの一語一語が、重なり合ってたたみかけてくる。

ヒヨっ子のわたしが広告の仕事をなんとなく始めて
はじめて受けたセミナーと呼べるような勉強会だった。
勝手がわからず持ち込んだパソコンは、気付けば床までおろして、
必死で手書きでメモを取っていた。

2006年初頭。「CGM」なんてコトバが、広告業界を全速力で走っていた頃。
わたしはブログメディアを使ったプロモーションのアシスタント、
というよりは使い走り及び暴走特急的雑用をしていて
そんなわけでその場に「勉強してこい」と遣わされていたのだった。
来場者用の最前列には、mixiの笠原社長が座っていた。

スライドがほぼおなじスピードで繰られていくたびに、
体の血が逆流してくるかのような、動悸・息切れで、くらくらし始めた。
もしあと30歳ほど年を取っていたら、心停止したかもしれない。

…なんておもしろいんだろう、ソーシャルメディアって。
…なんておもしろいんだろう、広告って!

登壇者は、須田和博さんだった。

その後の輝かしいご活躍——TIAAグランプリ、カンヌ国際広告祭メディアライオン・ブロンズ、
——などはあえてわたしがここで語る必要もあるまい。
須田さんの仕事にはいつも、須田さんらしい色があった、ということだけだ。
大塚製薬「ファイブミニ」の「体内怪人キャンペーン」でユーザと心通わせ、
ミクシィ年賀状で本人どうしさえ見えない糸でリアルとネットをつなぎ、
マイクロソフトの仕事でニコニコ動画という怪物に慄然と立ち向かう。

「ソーシャルメディア」と騒ぐ世論など どこ吹く風、
須田さんのスタンスはなにひとつ変わっていないように、傍からは見える。
その陶然たる余裕はどこから来るのか。
ソーシャルメディア元年と言われた2010年が終わってすぐ、
わたしは赤坂の博報堂本社を訪れた。

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Scene2;広告人・須田和博氏の場合
「アート・ディレクション」という職業。(4月12日公開)

08:00 | vol.1 須田和博 | □須田和博/Scene;1 はコメントを受け付けていません