Home > vol.9 佐藤達郎
広告人・佐藤達郎氏の場合
-動き続ける。世界も、人も。
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真ん中を退き、参謀に回った佐藤さんが、よく言っていたという言葉がある。
「僕が理屈を考えるから、きみはとにかくおもしろいものを書け。」
今、佐藤さんが教えている学生にはグラフィックデザイナーの卵が多い。
「学生の自由な発想は強い。美大生はやっぱりセンスも高いし、
すごくひねってるクリエイティブでもすぐ理解する。」
随分と時代は変わったが、逆に
「80年代は、今思えば本当につまらなかった」という。
「枠の中で技を競う。新しいチャレンジもしにくい。テレビCM全盛期の頃、
広告でスマホを宇宙に飛ばそうなんて、誰も考えなかったじゃない。」
※筆者追記 Samsung GALAXY S II「Space Balloon プロジェクト」
「たしかにものすごく動いてるけれど、大騒ぎする必要はない。
もともと、伝統芸能をやりたいような人が来るところじゃない。
20世紀の後半が変わらなさ過ぎた。10年変化のない中にいると
もう変わらないって思ってしまう。本当に危険なのはそのこと。
歴史を振り返っても、それまで命かけて新聞広告作っていたのが、
50年前にいきなりテレビが出てきた。
それで、映画や映像出身の人が業界に入ってきたりして、俄然面白くなった。」
佐藤さん本人が、気づいているのかいないのかは、わからない。
しかし、佐藤さんが「広告の話」をしているとき、それはいつもかならず
「広告の仕事をしている“人”」の話をするのだった。
登場する後輩たちの名前につく形容詞はだいたい、「スーパー優秀」。
大学教授になった、というと、どうしても現役引退を想像するが、
今も含めて、クリエイティブから離れたと思ったことはないという。
「今も、論文を書くとき、タイトルからしてコピーワークしている。
それで研究費も決まったりするから、真剣ですよ。
相手がどう思うか、どう言えば伝わるのか。インサイトも分析してね」
結果は、上々だそうだ。さすがコピーライター、と思うが
佐藤さんは、しばらく前から「いちコピーライター」の枠の中にはいない。
「コピーだけやってて、成功してたら、谷山雅計になってるよ」
そうしたら、組織の活性化も美大生の講師もやっていないだろう。
「でも、コピーはいまでも好き。
世の中を騒がせるような一言じゃなくても、生きてて言葉を抽出することって
すごく大変で、すごく大事じゃない。」
“職業”。
それは社会の中で分担する“役割”ではなく、人の生き方そのものであるようだった。
了
佐藤達郎(さとう・たつろう)
株式会社アサツー ディ・ケイ、博報堂DYメディアパートナーズ社を経て、2011年4月より多摩美術大学教授。専門は、広告論/マーケティング論/メディア論。コミュニケーション・ラボ代表、コンサルタント、クリエイティブ・ディレクター。
2004年、カンヌ国際広告祭フィルム部門日本代表審査員。著書に『教えて! カンヌ国際広告祭 広告というカタチを辞めた広告たち』他多数。
最新著書『「これからの広告」の教科書』2015年6月10日刊。
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Special Thanks to MR T.SATO
広告人・佐藤達郎氏の場合
デジタル時代の到来で生まれた、新たな使命。
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佐藤さんは、クリエイティブ計画局の局長になっていた。
広告代理店で局長といえば、その上にはもはや取締役くらいしかないポジション。
「局長になる前は、カード会社の仕事とかしていて、現場が楽しくて…
局長はな…と思っていた。でも、200人いるクリエイティブ部門の
マネジメントにも、それなりに興味はあった。」
与えられた任務は、長沼新社長率いる新しいADK社の「ビジョン検討委員会」。
「ADKらしさを作る」―いわば組織のブランドデザインだった。
一方、時は2000年代初頭。確実にデジタルの大きな波が来ていた。
博報堂のメディア事業部門に特化した「博報堂DYMP(メディアパートナーズ)」社から、佐藤さんに声がかかったのはそんなタイミングの2008年だった。
今まで通りに電波や雑誌のスペースを売る媒体買付だけではもはや広告会社は生き残れない――クリエイティブ部分を強化したいという、はっきりとした強い意向があった。
メディアとの関係性が先にあり、それを生かして広告企画を行う従来の広告会社のやり方は、クリエイティブの企画を売ることで媒体を買ってもらえるという欧米のメディア企業とは真逆。
長年組織のデザインに関わってきた佐藤さんは、その非常にクリアーな方向性に惹かれた。
長年のクリエイティブ分野を、手を動かす立場としては退くことになる。
しかし、ほとんど迷いなく決断できたのは、やはり部下の存在あってこそだったと言う。
「優秀な部下が多すぎて、もう、別に自分はいなくてもいいかな? って。
だいたい、“コイツは凄い”と思う人は、年下ですね。」
* * *
広告業界に「新たなスター」が生まれ始めたのもこの時代だ。
今まで、広告業界でいえばスターというのは「凄い画を撮る人」や「凄いキャッチコピーを書く人」などだった。
しかしデジタルコミュニケーションが生まれて、領域は無限に広がった。
建築を専攻していたような人がプログラムを書いて見たこともないクリエイティブを作り出したりと、思いもよらない手段で世の中に流行を生んでしまうようなことが起き始めた。
今でこそデジタルは広告業界の花形としてひとつのポジションを得ているものの、
出始めの頃は「Webは物好きがやっている」「低予算だから好きにできる」などと言われ、企画ひとつ取っても見たことが無さ過ぎて社内の理解も得にくかった頃である。
佐藤さんの新たな仕事が生まれた。それは端的に言えば
「なぜ秋葉原でコスプレ動画を撮るとナイキのシューズが売れるのか。
それを62歳の役員に説明すること」。
まさにそのことに邁進した佐藤さんの情熱の源は、どこにあったのだろうか。
「説明しきれないがゆえに、通らなかった」
なんてことが、あってはならない企画があった。
それを作り出す才能ある若手が「理解も評価もされない」
なんてことも、あってはならなかった。
――佐藤さんが汗をかき続けた原点には、そういった思いがあったのではないか、と
私はあくまで想像を巡らせていた。
いま、佐藤さんは 美術大学で、10代からのクリエイターの卵たちに
「自分の作品をどうやってプレゼンテーションするか」を教えている。
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次回予告/Scene4;
広告人・佐藤達郎氏の場合
いま再び、クリエイターとして。
(6月30日公開予定 ※6/25 下線の公開予定日を変更しました。)
広告人・佐藤達郎氏の場合
狙ったコピーライター職。飛び込んできたニューヨーク出向。
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「子どもの頃は、ビートルズになりたかった。」
私の時代には「イチローになりたい」男の子が沢山いたことを思い出したが、
佐藤さんの場合、スターに影響を受けたというより、ものを書く原点がそこにあった。
バンドに明け暮れた中高生時代も、作詞作曲活動のほうに熱を込めていたという。
ものを書いて食べていける職業というのは今も当時も大変に希少だが
幸いにして、コピーライターという職業の存在を早いうちに知った。
当時、クリエイティブ職には経験者の中途採用しかしていなかったADK社に
宣伝会議の受賞歴を引っ提げて応募し、見事入社する。
さぞや鳴り物入りだったのではないかと想像するが、
「いや、全然。若い時から、CDに向いているタイプと言われるたびに、
コピーがいまいちって言われてるのかな、と思って落ち込んだ」
と、あくまでも本人は語る。
CD(クリエイティブディレクター)というのは、クリエイティブチームの中のトップだが、全体を俯瞰し、ときにチームマネジメントや交渉調整までを行うゼネラリストでもある。
今では早くして独立したり、業界の方も変化し若いCDというのも存在するが
当時の広告会社では、最初はTVCMプランナーやデザイナー、コピーライターといった専門分野で修業をし、年齢が上になるにつれて出世のような形でCDになるという場合も多かった。
一方で、広告業界の巨匠とよばれるような人たちのなかには、
「いくつになっても現役コピーライター一筋」と、究極の専門職として生きる道を選ぶ人もいる。
いちクリエイターとして広告人生を歩み始めた佐藤さんに転機が訪れたのは、1991年。
アメリカにある、世界最大級の広告会社のひとつ、BBDO社への出向が決まった。
会社としても初めての試みであり、様々な部署の人から声を掛けられては応援されたが
必要以上に肩に力が入ることもなかったようだ。
「初めてのことをやるって、実はラクなんだよ」との言葉に、はっとする。
前例がなければ、目に見えない厄介なものに縛られることもない。
* * *
米国のエージェンシーのクリエイティブの現場では、
コピーライターとアートディレクターは「パートナー」と呼ばれ、常にコンビで動く。
佐藤さんは、日本人ADと共にペプシの仕事を任され、主にCM企画を行っていた。
ひたすら企画し、ラフを書き、ディスカッションをして、CDへ提案する。
しかしその「本業」の脇で、真に佐藤さんの興味を引いていたのは広告会社のあり方の違いだった。
「時代もあるけれど、その頃のBBDOは、CMの仕事が8割で花形。
10億未満の仕事なんてやらないし、いわゆるBTLの仕事なんて別会社。
じゃあそんなにADKと別世界なのかといえば、規模としてはさほど変わらない。
BBDOのニューヨークオフィスが当時800人、ADKは1000人くらいだったから。」
月に一度、日本に送っていたレポートの内容も自然と組織論が多くなっていった。
「それから、ものすごく客観的になれた。マンハッタンの真ん中にいると
働く場所も、住む場所も、ずっと同じところにいなくてもいい。
ニューヨークは“そういう街”だから、他人のことは気にかけない。
いわゆる常識みたいなものを、自然ととっぱらうようになっていた。」
帰国した佐藤さんの仕事は、組織をデザインすることだった。
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次回予告/Scene3;
広告人・佐藤達郎氏の場合
デジタル時代の到来で生まれた、新たな使命。
(6月19日公開予定)
Prologue
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「尊敬している人はいますか?」
今までも毎回聞いてきた質問に、やはり「沢山いる」と即答が返ってくる。
ただ、そこにまず出てきた名前は、私にとっては少々意外なものだった。
「伊藤直樹。」
勿論、伊藤直樹さんは、天才と呼んで誰も否定しないであろうトップクリエイターだ。
しかし私を驚かせたのは、挙げられた人物が皆、年の若い方ばかりだったこと。
普段この質問をすると、皆さん、師匠や巨匠、目標としていた方の名前を挙げる。
それだけに、この質問の答えに意表をつかれたと共に、なるほど、と思った。
佐藤さんというのは、こういう人なのだ。
* * *
佐藤達郎さんは、1981年にコピーライターとして現 株式会社アサツー ディ・ケイ(以下、ADK社)に入社。以後四半世紀以上、同社でクリエイティブ畑にいたあと、博報堂DYメディアパートナーズへ。
現在は多摩美術大学で教授として広告論、メディア論などを教えている。
クリエイターという専門職でありながら、けしてヒールというわけでもなく
大きな会社で局長にまで登りつめたサラリーマンとしてのエリートでもあり、
しかしそうして長らく務めた会社をキッパリ辞めてしまう潔さも併せ持つ―
そして今は、「先生」。教えているのは、コピーではない。
単に職歴の年だけを追っていても、特殊さが際立つ。
必要最低限の情報だけをインプットして、直接佐藤さんにお話を聞くことにした。
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次回予告/Scene2;
広告人・佐藤達郎氏の場合
BBDO出向時代のマンハッタンで(6月12日公開)