Home > vol.8 山崎浩人

2013/01/09


広告人・山崎浩人氏の場合

“日本”を見つめ直した、震災後の決断。

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「遠回りをしている場合じゃないじゃん、って思ったんだよね。」
山崎さんは当初、あの震災で日本のマーケティングが変化すると信じて疑わなかった。
自らにとっての「豊かさ」を見直し、本当に大事なものにしかお金を使わないという
価値観の中で、マーケティングや広告の役どころは、当たり前に変わるはずだった。
が、クライアントも変わらず、広告会社も変わらない。

もちろん変わったものもあった。
しかしそれらは、たいがいが、公式に組織が変わったのではなく「分かっている人達」が個人の力で変えたものだった。
「もう、ひとりでやろう」。
3.11後の山崎さんは決心した。

「日本企業を、なんとかしたい。」
外資系クライアントの多い会社らしからぬ答えが返ってきた。
日本企業は、その技術力と比較すると世界でほとんど評価されていない、と山崎さんは言う。
「グローバルブランドランキングでも、日本の1位企業がようやくの11位。
 世界では商品単価100円台の消費財を扱う企業がブランド価値1位ですよ。」
その陰には、技術力を重視するあまり、マーケティングをおろそかにして他国に抜かれていく、
ある意味「真面目」な日本らしい姿があったのではないだろうか。
しかしそれを「美徳」と呼ぶのは、もはやお人好しすぎる。

日本企業のブランド価値をつくり直す―
山崎さんは目下、日本企業がグローバル時代に勝ち残るためのやり方を考えている。
幸いなことに、周りにも、それを体現しようとしている人たちの姿があった。
その大きなテーマを、自分だけでなく業界全体で考えることができないかと、
実務だけではなく、セミナーの企画実施など場作りにも力を入れている。

それはもはや、従来の広告会社の仕事ではないかもしれない。
組織の枠組みの中では、理解も評価もされないかもしれない。
しかし山崎さんからは、逡巡はまったく感じられない。

しかし、よく言われるような、「広告会社崩壊」などというラディカルな姿勢は
山崎さんはまるで持ち合わせていない。
広告会社の今後は、一体どうなるのだろうか。
最後の質問に、山崎さんは、広告会社の「中の人」として答えてくれた。

「ドコモが親会社のNTTを凌駕したように、
 広告会社の“媒体”ではない領域を扱う子会社が本体を凌駕するときがくるのかもしれない。
 クライアントのほうが業界の事をよくわかっている、ノウハウがあるというのは当たり前で
 そこを、広告会社は業務実績の幅広さで対峙してきたわけでしょう。
 色々な業界を知っていて、色々な会社の事例を知ってて……
 自分たちの強みを、見失っていた部分もあるんだと思う。
 あんな震災が起きた後の今だからこそ、広告のあり方を見直すべきときなんじゃないかな。」

きっと、山崎さんの受難の時は、これからもしばらく続くだろう。
しかし、自ら選び取ったものであっても、周りから与えられたものであっても、
“使命”を手に入れた人間は、走るための原動力に満ちている。

日々の仕事に、矜持や使命はあるだろうか。
自戒も含め、いまだからこそ、一歩止まって、考えさせられるインタビューだった。

山崎浩人(やまざき・ひろと)
モバイルキャリアレップ他CEOを経て、ネオ・アット・オグルヴィ株式会社 チーフ・マーケティング・プロデューサー。社団法人日本アドバタイザーズ協会「第10回Webクリエーション・アウォード」にて、2012年「Web人 of the year」受賞。中央大学ビジネススクール 戦略経営アカデミー講師。

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Special Thanks to MR H.YAMAZAKI / Ogilvy & Mather (Japan) Group / cyber communications inc.

2012/12/27


広告人・山崎浩人氏の場合

10年ぶりに帰って来た広告会社の現場で、見たものとは。

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流れに逆らわない。
世の中の側が動いているのだから、自分も動いて当然だろう―
身軽な決断からは、そんな印象さえ受ける。
かくして山崎さんが再び移籍したのは、携帯電話のキャリア会社。
動きの早かった先行他社を追って動いていた、そのさなかだった。
すぐに広告グループだけを切り出して別会社化し、2年後に山崎さんはCEOに就任する。

「なぜ広告を?」と思われるかもしれないが、当時の携帯電話キャリア会社には
NTTDoCoMoなら電通とD2C、KDDIなら博報堂とmedibaなど、広告会社と「レップ」と呼ばれるメディアを販売する専業会社が組んでそのマネタイズを支える構造があった。
その横のつながりは深い。
「日本で、モバイル広告という新たな市場を構築する」という志のもと、各社はモバイルを新たなプラットフォームにすることに一丸となった。一人勝ちで抜きん出ることを目指すより、仕様を合わせてまずは「市場を作る」ことが優先と考えたのだという。

しかし、物事の黎明期にはつきものの「選択と集中」の潔さの中、予想外のことも起きた。
出向元であった携帯電話キャリア会社は、経営の方針を転換。
伴って、CEOを退いた山崎さんは、広告会社に拠を移し、今度はテレビとモバイルの掛け合わせによる事業の可能性を模索する道を選んだ。

*     *     *

山崎さんの常駐するネオ・アット・オグルヴィ社は、広告業界世界1位である英国WPP傘下の
「オグルヴィ・アンド・メイザー・グループ」に属する。
10年ぶりに戻ってきた広告会社の「現場」にブランクは感じなかった。
「むしろ、エージェンシーの仕事が変わっていないことに衝撃を覚えた。」
しかし、クライアントである企業側の課題は明確に変わっている。
「昔のように、クライアントの側から、“こういう製品が出るのでオリエンをしますから来てください”という仕事はどんどんなくなっている。」
“面を取るためにメディアを売る”という広告会社の変わらないビジネス構造に対し、
山崎さんが自分の思うやり方を通せたのは、会社の元々の特性によるところも大きかった。

「持ち物がないから。」
その理由を、シンプルにそう語る。

ネオ・アット・オグルヴィ社では、自社メディアを持っているわけでも、電波の権益を握っているわけでもない。そうした「売らなければならないもの」を持つということは、一見、特権のように見えて、足枷になることもある。
広告会社の売り物といえば「媒体」を真っ先にイメージするが、ネオ・アット・オグルヴィ社には、媒体部という部署も存在しない。
「営業部隊と、企画部隊と、あとはコンサルとクリエイティブだけ。ネオ・アット・オグルヴィの事業
 領域はデジタルだから、メディアの提案が必要であれば、営業が他の広告会社に発注する。」
いわゆる電通や博報堂といった広告会社とは、まるでポジショニングが違うのだ。
「だから、高額でマスメディアを売らないと収支が成り立たない、という構造に陥ることがない。
 でも、本当はそれが当たり前なんだよね。
 メディアプランニングは、プレゼンの場でだって、最後のほうのページでしょう。
 それを全面に出されても…と、クライアントなら思うよね。」

「売りモノありき」でない山崎さんの行動様式は、外部のスタッフに接する際も共通だった。
「キャンペーン事務局をやっています、という会社が、インサイトに詳しかったり、
 データ入力の会社が解析に強かったり、会社の売り物には直結してないけれども
 価値のある意外なものを持っていたりする。
 話を聞くうちに、じゃあ、そっちやってよ!ってなる。」

イレギュラーなチーム編成による仕事で、自分の新たな役割も明確になった。
「インサイト調査の人はマーケティングに落としたことがない、と言うし、
 クリエイティブの人はマーケターと直接やることがない、と言う。
 でもそれを直接くっつけると本当におもしろいことが起きる。
間にあるのは“戦略”で、それが広告会社の仕事の醍醐味だと思うようになった。」
戦術の発見と、スタッフィング。山崎さんの立ち回りは、ネオ・アット・オグルヴィ社での肩書「プロデューサー」そのものになっていった。

しかし、当初期待されていたような「マネジメント」職としては、なかなかにうまくはいかず苦戦していたのも事実だった。
組織を作ること、自分の仕事のやり方をメソッドとして会社で浸透させることの難しさ―

そんな頃、突如日本を襲ったのが、あの3.11の震災だった。

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次回予告/Scene4;
広告人・山崎浩人氏の場合
“日本”を見つめ直した、震災後の決断。
(1月9日公開予定)

2012/12/12


広告人・山崎浩人氏の場合

テレビ全盛期に、“広告”の立ち位置を考える。

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山崎さんが最初のキャリアをスタートさせたのは、中堅の老舗広告会社。
入社2~3年目にはバブルが訪れ、マス広告の全盛期だったといっても差し支えないだろう。
マスメディアグループでTV、雑誌をはじめとしたマス広告の媒体を担当。
メディアとは何かを勉強する基礎的な期間となったという。

2年目で営業に配属され、社長に向かってみんなの前で「聞いていない」と言い放ったが
「営業だからフロントマンではあったけれど、プロデューサー的な思考を
 2年目から持てたのはとても良い機会だった」と振り返る。
予想外だった異動を経たのち、その会社での後半4年間は、TVCF最盛期。
山崎さんの担当クライアントでも朝の情報番組の提供をしていた。

違和感を感じたのはその頃だったという。
「“何が”というよりも…、本当に、感覚。番組を見ている人の年齢とかが、
 クライアントの商品と合わなくなってきていないか、と思ったんです。
 でもテレビには、効果の出しようがないから、その感覚の根拠も掴みきれなかった。」
このCMは届いているのか?その答えはさっぱりわからない。
違和感はしだいに「そもそもテレビって…」という疑問になり、手ごたえのなさに変わってゆく。

クリエイティブの華やかさよりもマーケティングの世界に憧憬を抱いたが、
広告会社の「マーケティング」は、実態はリサーチ業務だけということもしばしば。
「顧客の声をマーケティングに」―そう謳ったテレマーケティング会社と出会ったのはその頃。
いっこうに見えてこなかった「顧客」。
リサーチではない、事業を下支えしている「マーケティング」という存在―
これだ、と思った山崎さんは転職を決意する。
史上最年少での役職ポストが用意されていたが、出世欲が好奇心に勝つことはなかった。

*     *     *

テレマーケティング会社とはいえ、コールセンターの「仕組み」の部分を
インフラ化し売り物にしていた会社だったため
コールセンターの3大顧客である「通信・金融・通販」の業界の深い部分に触れる事が出来た。

事業会社に移ってすぐに感じたのは、「広告は遅い」という点だった。
広告の業務領域は、プロモーション。
商品を世に出す、言い換えるのであれば産みの最後のプロセスである。
これまで、最後の最後の部分だけを見て、売る方法を考えていたのかと驚愕もした。

時は、CRMの黎明期。
「1 to 1 マーケティング」という言葉が流行り、市場シェアから顧客シェアへと視点が移っていた。
その後、ITの普及があり、データマイニングという概念が出てくるなど、マーケティングの世界も大きく動いていたが、世には「モバイル」という革命が訪れようとしていた。
1999年2月、iモード誕生。2002年6月には、そのドコモの広告スペースを開発・販売する―つまり、モバイルマーケティングという全く新しい領域をマネタイズするべく―
ディーツーコミュニケーションズ社(現・D2C社)が生まれた。

その頃、山崎さんのもとにひとつのオファーが届いた。
「携帯電話のキャリア会社が、ポータルサイト・広告・決済の統合ビジネスをやろうと
 しているから、手伝ってほしい」
「モバイル」という生まれたてのフィールドで、山崎さんがこれまでやってきた「マーケティング」と、時代の寵児である「モバイル」を統合する―
それは、想像するだけで悶絶するほどワクワクする、新しい未来の形だった。

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次回予告/Scene3;
広告人・山崎浩人氏の場合
10年ぶりに帰って来た広告会社の現場で、見たものとは。
(12月26日公開予定)

2012/11/28


Prologue

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「所属の会社はどこでも、自分のやるべきことは変わらないから。
どこの会社にいても、社外の人たちと一緒に仕事をしてきたからね。」
現在、ネオ・アット・オグルヴィ社へ常駐という形で勤務する山崎浩人さんは、そう語る。

その経歴は、非常に目まぐるしい。
マスメディアを中心とする広告会社から、事業会社へ。
事業会社でのCRM関連の経験を生かす形で、携帯電話のキャリア会社へ。
その会社から広告事業を切り出す形で別会社化した組織のCEOを務め、
“結果的には”、広告会社へ帰ってきた。

2011年、「若者のクルマ離れ」をテーマに自動車メーカー8社が共同で行ったプロジェクト「Drive Japan」において、山崎さんは17社以上に及ぶチームのプロデューサーとして立ち回った。
これがきっかけで、「Webクリエーション・アウォード」では「Web人 of the year」を受賞。ノミネートは個人としてであったが、「あくまで、17社40名以上のこのプロジェクトの代表としての受賞と認識している」とコメントしている。

自身は、「マネジメントよりも自分が動くほうが好き」というが、
山崎さんからは、広告人にままある、一匹狼気質というかある種の“孤高感”がない。
このフラットさは何なのだろう、と、某所で最初に山崎さんにお会いしたときに
わたしが感じた好奇心は、そのコメントがよく説明しているだろう。

世の中があり、自分があり、その中間に、仕事人としての自身が居る。
冷静に、自分を眺め、あるべき立ち位置に移動してきたその仕事人生は
一見とても能動的なようでいて、世の中の流れに突き動かされてきた結果なのかもしれない。

「一歩先」を見つめるのは、そう難しいことではない。
誰もが自分の専門領域に対しては「かくあるべし」「きっとこうなる」というものを持っている。
しかしそれを、「今ここにある仕事」に変換する作業というのは、言うならば“とてもシンドイ”。
それでも誰かが一歩を踏み出さなければ、道はできない。
道を作るべく、まさに「立ち回って」きたのが、これまでの、そして今の山崎さんだ。

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次回予告/Scene2;
広告人・山崎浩人氏の場合
テレビ全盛期に、“広告”の立ち位置を考える。(12月12日公開)