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2012/01/23

地球の舳先から vol.222
東北/被災地 定点 vol.9(全10回)

「あ…すみません。こんなに波見えて、大丈夫ですか?」
怖くないか、と気遣われたことに気付くのに、一瞬だけ時間を要した。
もうこの旅にきて何度目だろうか。ここの人たちは、自分たちが最大限に大変なはずなのに、
どうして、こうも今日会ったばかりの“よそ者”に親切にしてくれるのだろう。
もうここ3日ほど、デフォルトのBGMのように当たり前になった波の音が、この日も一定のリズムを刻んでいる。

気仙沼滞在2日目、ぜひ話を聞かせて欲しい、とわたしが頼んだ味屋酒店の2代目・茂木さんは
店のあった鹿折地区からスタートして、かなり足を伸ばしたところまで案内してくれた。

名前の通り酒屋を営む茂木さん一家5人は、幸運なことに全員が無事だった。
一人娘が翌日に卒業式を控えた3月11日、地震を受けて茂木さんが配達の車のスピードを上げて家へ帰ったとき、妻は家に遊びに来ていた娘の友人を家まで送って帰ってきたところだった。
すぐに車で、出来るだけ離れようと海を背にして走り、国道の方向へ向かった。
ガソリンが抜かれたり、物を盗られたりといった情報も絶えなかったため、車を離れるに離れられず、ほんの少し離れた姉宅で仮住まいを開始するまでの間、車の中で生活したという。

小さな頃から、水難とはいつも隣り合わせだった。
大雨になれば膝のあたりまで冠水することもあったし、茂木さんが中学生の時の宮城県沖地震では店舗内の瓶類も多く破損。2010年のチリ地震の際には、気仙沼にも約1mの高さの津波が襲来した。
何か天災が起きれば、水難はつきもの―その覚悟が逆に働いた側面もあった。
海抜ゼロ地帯の鹿折地区の奥側は、それでもこの未曾有と表現するしかない20m超の津波の前までは「まさかここまで波は来ないだろう」という認識もあった。
「亡くなった人の中には、1階で見つかった人も多くてね。…逃げていなかったんですよ。」

 

茂木さんの家も、地震当初は無事だった。
「地震には強いんです。津波さえなければ…」
鹿折地区はその後、流されてきた船から漏れ出した重油でまさに火の海となる。
火の手が収まり、津波が去って、信じられない光景の中、人々は瓦礫の山と化した我が家へ向かった。「家がすっぽりなくなっても、もしかしたら何か出てくるかもしれないから…」
茂木さんは、味屋酒店の2代目。
父は山形県から、老舗の酒屋に丁稚奉公のような形で出向き、店の礎を築いた。
この地に父が家と店舗を建てたのは、茂木さんが小学生のときのことだった。

どこにいるかもわからない生存者の救助のため、捜索隊も瓦礫をかき分けて進んだ。捜索活動のための取り壊しが進む当時を、「自衛隊は一番優しかったなあ」と茂木さんは振り返る。
いつ何時頃壊しますから、と連絡のつく限り手を尽くして事前に告知もしてくれ、告知を受けた住民は携帯電話で近所の人と連絡を取り合い集合した。
取り壊しの日も、「何かあったら、言ってくれれば作業を一時的に止めますから」という通り、茂木さんたちは取り壊しの過程で何度も声をあげ、「危ないから本当に気をつけて」という静止の声を背に瓦礫の中へ入っていったという。

 *        *        *

鹿折地区の味屋酒店は片付けられていたが、まだところどころ小さな瓦礫の中に酒瓶や徳利が見える。隣の大きな倉庫は、捜索活動を終えて中はがらんどうなものの骨組みは残している。
その後、4/1に屋上の青空市場で営業を再開したイオン気仙沼店を横目に、松岩地区・階上(はしかみ)地区を越え、地元の人が「お伊勢浜」と親しんだ海水浴場へ向かった。
茂木さんの母方の実家がある場所でもある。左手には、各報道でお馴染の気仙沼向洋高校。
海辺に近づくと、茂木さんは息を呑んだ。「こんな遠くから、海が見えちゃうんだ…。」
それだけ、海岸沿いのすべてのものが流された結果だった。

少し歩くと、緑に日差しを遮られて驚いた。緑を見るのは久々だった。
これまで見た松林のほとんどは、津波の潮で赤茶け、ただれ枯れていた。
だが、伊勢浜の陸中海岸国立公園の松林は、“まるで無事だった”。
岬の先端に建てられた名力士、秀の山の像も悠然と海を見下ろしている。
では、この地が奇跡的に津波から逃れられたのかといえば、すぐ横のペンションや陸地は壊滅的な被害を受けており、実にこのダイヤモンドヘッドのように海に突き出た小さな一角だけが、奇跡のように無傷なだけである。
伊勢浜の壊滅地区と、青々しい緑をたずさえる松林をつなぐように、七色の虹が架かっていた。
自然に恣意などない、と思っていても、ふとこみあげる畏怖があった。

 

―新しい町に生まれ変わりたい。
茂木さんはそう言った。それは、「復旧」という言葉のニュアンスとはまた別物であり、被災地の人々の疲労が窺い知れる表現だった。
「すべてを壊して更地になってしまえば、これから新しい町が生まれるのかとも思える。でも、いまだ取り壊しさえ部分的で、瓦礫の撤去も終わらない区画がある横で、プレハブで営業再開している店舗を見ても、“果たしてこれを復興と呼んでいいのか?”と疑問に思う。」
自身の土地も危険地帯に指定されて手を出すことはできず、かといってこれからどうするかも発表されず、とりあえず様子を見るしかない。

一方で、当然、食っていかなければならないという事情もある。
震災の復興支援を謳い、日本各地で様々なイベントが行われているが、その恩恵が地域の事業者にまで回ってくることはほとんどないのも現実だ。
現実的な話をすれば、自宅で商売をやっていた頃よりも営業経費は比較にならないくらいかかってくる。「どこで営業しているの?」「まだ店舗を借りていないの?」と問われるたびに焦りはするが、現段階で店舗を持つことが得策とも思えないという。
「今まで通りのやり方じゃ、おそらく生きていけない。
与えられた情況の中で、次に何をするか。それが何かはまだ、見つけられてないけれど
ゼロになったからこそ新しいことをやって、踏み出せる部分もあると思っている。」

ネット販売を本格的に検討し、東京の出展にも参加した。
未だ被災地を覆う停滞は、正直、大きな進展を見せてはいない。
わたしは、行政を諦めてよしとするのでもなければ、個人の“自己責任”などという無責任な言葉を振り回すつもりもない。
しかし、もし新たな流れが生まれてくるのだとしたら、そこに住む“個人”がその出発点になるよりほかないのかもしれない。

この日も、わたしが受け取った結論は変わらなかった。
“人”がいなくならない限り、“町”が滅びることは無い。
気仙沼の底力を、わたしは信じている。

そして自分に出来る、小さすぎることの寄せ集めを、これからもかき集めていくつもりだ。


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