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2016/10/07

地球の舳先から vol.367
東北2016年秋 編 vol.1

八重山編を一旦延期にし、先に秋の東北旅について記録しておきます。

岩手県の山田町というところを知ったのは、もう5年近く前。
『東北食べる通信』でこの地が特集されたことで、
なんとなくながら深い興味を持ち、自他ともに「海賊」と称される
「第八海運丸」乗組員の皆さんの上京に合わせて開催された飲み会に参加した。

彼らは、「自分たちの手で獲る」ことにこだわっており、
船を出しては「お宝」と呼ぶ魚や生き物を獲ってくる。
シュウリ貝(ムール貝の和種。もともとムール貝のほうが、
外国の海を渡ってきた船舶にくっついて住み着いたそう)は
大きいものでは人の顔くらいになり、養殖にしてはワイルドだと
思っていたところ、危険な岩場に登って人力で獲ってくるのだそうだ…

詳しくは、下記のページへどうぞ。

そんなわけで山田町に興味を抱きつづけながら、
しかもこれだけ三陸地方のほとんどの沿岸を回りながら、
ついに山田町だけに行ったことがないという状態になったのは
交通の便の悪さだけではなく、「取っておいた」という面も強い。

その後、職を変えたことで山田町とはまた別の縁ができるのだが
関係者から多く山田のことを聞く機会も増えたのと反比例して
一向に公務は回ってきそうにないために、ようやく今回
「よしもう山田に行くぞ」としびれを切らした、のだった…。

新幹線で、盛岡。急行バスに乗り換えて2時間ほどで宮古。
岩手県に上陸した台風10号の影響で、現地では甚大な被害が出ていた。
交通網が内陸中心になっているため、大動脈である国道が寸断されたことで、
観光、経済、医療などすべての面において「長い11日間」を過ごした後だった。
倒れ重なる大木、石岸に乗り上げたバイク、折れた橋と
片側通行での復旧後もバスの窓から見える光景は凄惨だった。

山田町に到着し、一通り町を見学した後、海賊さんたちのアジトへ。
仮設の小屋がいくつか立つ仕事場の、屋根も吹き飛び自分たちで直したという。
台風から半月ほど経ったその日も、流されたものを回収しながら、
漁だけでなく、各地で開催されるイベントに出かけては出店をする。

 
(修復されたアジト)

 
(左:ホタテの稚貝を入れる網  右:タコをとる網)

そして、夜(漁師の朝は早いので、早い人は15時頃)になれば
集会所である少し大きな長屋で、子どもからじいちゃんまでが集う。
支援でやってきたというぴかぴかのテレビで大相撲のゆくえを見守り、
茹でたツブ貝に、開けたビール缶を器用にコップに加工して酒を注ぐ。

わたしはまたしてもここで、「不思議な家族の形」を見た。
気仙沼の仮設住宅でも思ったが、ここでは複数の年代も構成も違う家庭が生活をしていて、
それは「助け合っている」というよりも、もっと普通に
「みんないるからたいていの事は出来る」ということになっている。

核家族と、分断された隣の家との線引きが明確過ぎるところで育ってきて、
今も引っ越せば「防犯のために表札は出さない方がいい、オートロックだから、廊下から
ピンポンされたら無視するように」と“指導”される生活とそれは真逆のところにあって、
そして、どちらが当たり前かと言われれば、東京の生活はやっぱり変だし、不自然だった。

海賊の乗組員さんからも、海や漁に関する話を沢山聞くことができた。
漁のスタイルについても、ポリシーがとても明確で、貫き通していることに驚く。
なぜわざわざ危険なことを、、と聞けば
「それが漁師ってもんだと思っている」とは、若頭の台詞。
他にも多くの名言が飛び出したが、公共の電波に乗せていいかどうか自信が持てないので
これで一旦締めておきたいと思う。

 

第八海運丸では、漁師直送のCSAもやっているので、ぜひご覧ください。
Facebookページ
第八海運丸のCSA

山田の海賊のみなさん、素晴らしい時間を、ありがとうございました。

2016/05/16

地球の舳先から vol.365
東北2016春 編 vol.1

DSC_3399

「東京から、乗換1回」
そう言った人がいた。

夜のうちに、移動をする。
駅での時間調整によく使っていた、ヤクルトをくれる食堂は、もうない。
瓶ビールは大瓶しか置いていない、さんまラーメンのおいしかった食堂。
朝に納豆定食で酔いを覚ましたあの食堂…
代わりに、駅前にはピカピカの災害公営住宅が建っていた。

震災で、1万5000棟以上が被災したという気仙沼。
5年が経った今も90箇所以上の仮設住宅が、公園や学校の校庭など
あらゆるところに点在する。
5年も生活していたら、もはや「仮設」という言葉も
あてはまらない気がするが、
震災による地盤沈下と将来の津波に備えてかさ上げの盛土が続いており
整備は2020年まで続くという。
(むしろ、2020年に本当に終わるのかのほうが疑わしい)

“東京オリンピック”その単語を聞くたびに、わたしが何かしら
空虚なものを感じるのは、このためである。
そしてこの「20年五輪」は、被災した地域にも新たな問題を生んでいる。
建設需要の急上昇における需給バランスの崩れだけではなく、
完全復興を世界にアピールしたい政府、追随する行政の、事を急いだやり方が
各地で問題化し始めているのもまた、今ここにある事実のようだった。

とんでもなく大規模な集合住宅が、次々に完成していた。
仮設住宅からの定住を視野に入れているが、事はそう単純でもないという。
「仮設から出たくないという人たちがいる」
そう聞いたとき、わたしは率直に驚いた。
しかしわたしもまた、ぴかぴかの公営住宅が復興のシンボルであると、
イメージに踊らされている一人でもあった。

個別の具体的な問題については、一面的な問題ではないし
第一わたしは外の人間なのでここで一方的に誰かを批判することはない。
ただ、わたしは今回、はじめて気仙沼の仮設住宅を訪れた。
そうそう簡単に足を踏み入れるべきではないと思っていたし、
家やそのほかにいろいろなものを失った方の悲しみや感情については
経験していない人間には、永遠に想像もつかないことだった。

しかし、そこにあるコミュニティは非常にあたたかなものだった。
3世代、いやそれ以上がともに暮らしている。
子育ても、地域でしている。
東京の、仕事をしながら子育てをして、無理な完璧を自分に求め
壊れていく孤独な母親、がもはや当たり前の光景になりつつある
ような姿は、ここにはない。
高齢者の方もとても多いが、そこに(通いのプロは場所によってはいるが)
「顧客と介護職員」のような関係性はない。
今後高齢化に比例したスピードで福祉が整備されるとも思えない今、
地域、いやコミュニティで助け合いともに生活している仮設住宅には
もちろんそこに大きな援助の手が入っているとはいえ、
学びや気づきが大変に多いはずだった。

一方で、単身世帯の多い仮設住宅では、締め切られたカーテンの外からも
部屋の中に不規則に荷物がうず高く積み重ねられているところもあり
中の人の生活状況や状態が心配になることもあった。
2020年までに仮設住宅を撤廃したい政府の意向で移住を急がれたり、
復興バブルで土地の価格が急騰し買い戻せないといった問題も発生している。

単純な問題ではないし、だから今回のこの投稿に結論もオチもない。
しかし、「3.11」は昔のことではないのだ。
こうして、今も。
たぶん、東京にオリンピックがやってくる頃になっても。