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2014/12/16

地球の舳先から vol.347
チベット(ラダック)編 vol.10

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車が水に浮いてるんじゃないか。
そう錯覚するほど、豪雨のなかを車は駅に向かっていた。
駅、といっても、3時間ほど車で行ったところに
パタンコットという、デリーまでの夜行列車の止まる駅があるのだった。
バスなどの公共の交通機関だったら辿りつけなかったかもしれない。
モンスーンにも山の天気にも慣れっこの運転手は平然と水の中を運転する。

列車が定刻に来ても2時間はあろうかという時間に駅に着いたが
雷が落ちて近くの木は割れるわ、駅は爆発のような音がしたかと思うと
すべての電気が落ちるわ、建材が落ちたり物が飛んで来たりするわけで
沖縄の台風とはこのようなものなのだろうか、と思う。
幸い、1等車両のチケットを買っていたわたしは屋内待合室を利用できた。
しかし、夜行列車はその日に席順が決まり、ホームに張り出されるのだが
そんな張り紙などとうの昔に雨でグシャグシャになっている。
ポーターを頼んで、席を探してもらうことにした。(運び終わった後、理由なき
追加料金の請求があったのは言わずもがなである。この手の交渉はただ
「No」と言っていればいいので、わたしでもできる簡単なものだ。)

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昔は全部の席を買い取ってコンパートメントを個室にできたのだが、
今はそういうこともできないらしい。
同室したインド人男性が何かと難癖をつけてくるお喋りさんで閉口。
「Do I disturb you?」というので、わたしは「Be Japanese」を捨てて
「Yes I am sleepy」で幕引きを図った。

ちょうど夜も明けた頃にデリーに着き、雨も上がっていた。
19時台の帰国便までは丸一日あるが、あまりうろつきたいところでもない。
せっかくなのでチベット世界を見ていこうと、デリーにあるチベット難民キャンプへ。

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ここは、「難民キャンプ」ではなく「コロニー」と表現されていることも多い。
ダラムサラのような、チベットの人たちが世界を作って暮らしているところでもなく
雑然な細道に不衛生極まりない状態、人々の暗い顔に日の当たらない通りは
こんな表現をするのはいけないことだとわかりきっているが、スラムのようだった。
暗く湿った通りにはどこも、虫の大群が湧いて飛び交っている。
最初ハエかと思い、その空気を埋め尽くす量にびっくりしたが、それらが
ハエではなく蜂であることがわかり、二重に驚く。
ここからは、ダラムサラへ安く行けるバスが出ておりバックパッカーの絶好の滞在地
になっているとガイドブックに書いてあるのだが、とてもそんな雰囲気ではなかった。

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日が当たる小さな広場にはチベット式の寺院があり、
外国人向けのレストランもあるが、昼時になっても閑古鳥。
コロニーの中を歩こうにも、水はけの悪い道に足をとられるし、
なにせあの蜂の大群の中を歩くのはぞっとしないので、早々に外に出た。
外壁にはFREE TIBETの文字と、ダラムサラでもお目にかかった男の子の肖像。
5歳の時に中国政府によって拉致され今も行方はわからない。
(ちなみにこの子は中国側からするに「世界最年少の政治犯」ということになるらしい)
こちらに詳しい話。→ パンチェン・ラマ11世問題

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壁で囲われた居住区の外に、祈祷旗のはためく庭があった。
ここで、熱心に働くシマリスの写真を撮ったりしてぶらぶらしていたが
設置されたベンチで横になり、ずっと何事か呻きながら泣いている女性がいた。
明らかに精神を病み、老婆のように老け込んでいる。一日中、こうしているのだろう。
ここにいれば飢えて死ぬことはないようにできているのかもしれない。
しかし、故郷を追われ、家族と生否の連絡さえ取れない別れという苦しみは、いまだチベットの人々を覆っていて解決の見込みもない。

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大通りの向かい側に「NIRMAL HRIDAY」というどこかで見かけたことのある
文字列と、大きな建物が建っていた。イエス・キリストの肖像。
マザーテレサの建てた、通称「死を待つ人の家」ニルマル・ヒリダイだった。
わたしも大学時代にインドのコルカタにあるマザーハウスで労働をしたことがあるが
世界中からボランティアの押し寄せるマザーハウスを思い出して、
なんとも複雑な気分になったのは言うまでもない。

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2014/11/28

地球の舳先から vol.345
チベット(寄り道アムリトサル)編 vol.8

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(撮られ慣れているであろうイケメン兵士。この部隊は顔採用という噂もある)

さて、チベット文化圏から寄り道。一度は行きたかったインド・パキスタン国境。
ラダックで平和ボケした身には、国境へのベースとなるアムリトサルの街はいかにもインドで、
空港のタクシーカウンターの「今日は特別な日だからいつもより料金が高い」にも、
タクシーの運転手の「今日はこれ以上先に行けない」と1キロ以上遠くで下ろすのにも
すっかり閉口して「やっぱインド嫌い」は強固になり、
ホテルのすぐ裏の、シーク教徒の聖地である黄金寺院すら見に行く気がなくなった。

そんなわたしを癒してくれたのが西遊旅行で手配しておいた運転手さん。
大幅に遅れたわたし(というか飛行機)を延々と待っていてくれて、寡黙で安全運転。
車内で上着を着れば「寒いか?」と聞いてくるハイパーっぷりである。ここは日本か。
こうしてクルマに揺られること1時間弱。日没時の国境セレモニーに間に合った。

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(車を降り、国境まで歩いていく。)

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(いかにこの部隊が危険で誇り高い仕事かを語るポスターが多々ある)

翌日にインド独立記念日を控えるこの日は国境周辺もイベント尽くし。
駐車場から国境まで1キロほどを歩いていくのだが、展示や屋台がたくさん。
わたしも兵士と写真を撮ってもらったりしたが、アジア人が珍しいのか
逆に、来ていたインド人にバシャバシャ写真を撮られた。なぜ。
そして、セキュリティーチェックもたくさん。荷物はないに越したことはない。

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ここでわたしは多分人生で初めて「英語がわからなくて困る」思いをした。
途中に何回かある身体検査にて、女性係官に言われた。
「Check the bottle」
持っていた水のペットボトルを差し出すと、「No.Check the bottle」と繰り返す。
持ち込めないなら捨てていく、と言っても同じフレーズが帰ってくる。
彼女が何を求めているのか、まるでわからない。
「I can’t understand you」と言っても、別の表現で言い換えてくれたりはしない。
小さな身体検査の小屋の中で出口を失ったわたしに、後ろの女性が
「それが武器や毒物じゃないって証明するために、ここで飲んで見せろって言ってるのよ」
なるほどー?! そんな英語、知りません!!!
またしても一気飲みを始めたわたしに、「全部飲まなくていい」といって、無事解放された。

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(もっともインド側(国境から遠い席)の端にガンジー像。を囲むように席が配置されている)

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(パフォーマンスをする人のほか、警備員や観客を整列させる係の軍人もいる。
シャッターチャンスでカメラを構えて線から出るとすぐ笛を吹かれる。)

セレモニー会場は、小さなサッカースタジアムのよう。
インド側にはガンジー、パキスタン側にはジンナーの肖像画が掲げてある。
首相とかじゃない。そう、ここは政治よりも平和の象徴のためにある国境施設。
応援団の応援合戦を国家レベルにしたようなもので、ド派手な衣裳で
あくまで「演出」としての挑発・攻撃のパフォーマンス、
それに満員に集まったお客さんたちが掛け声をかけて盛り上がるというもの。
(衣裳も色違い、振付も同じという事で、両国で合同練習してるんだろう。)

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(国境が開いている状態。パキ側の肖像はジンナー。日本ではマイナーだが、パキスタン独立の父)

外国人はパスポートチェックだけで入れてもらえて、VIPシートに案内される。
「ふ~ん外国人だからか~」と軽く思っていたが式典後、わたしはこの意味を知ることになる。

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日没の直前、両国の国旗が降ろされ、門が閉まり始めると、敬礼で見守る人たち。
門が完全に閉まると客たちはその境目に殺到して壁に触ったりとかするのだが、
ふと後ろを向くと、十数メートル向こうにはロープが張られ、その向こうにインド人たちがいた。
つまり、国境にもっとも近いところに設置されているのが外国人も入るVIPシートであり、
一般のインド人は国境のすぐ手前までは近付けないようになっているのである。
聞いたところ、事前に色々申請やら審査やらを通ると、インド人でも
人(「位」という言い方をしてたけれども)によってはこのVIPシートに入れるのだそうだ。

ロープの向こう側もまた、人が前へ前へとすし詰め状態になっていたが、
勿論喧嘩がしたいわけじゃない。
むしろそれまでの掛け声や盛り上がりが想像つかないくらいしんみりとしていて、
郷愁とか哀しみのような表情の人たちには、複雑な思いを感じざるを得なかった。

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(ロープに区切られ、緩衝地帯?までは進めない席の観客。)

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(閉まった国境の壁。)

帰りも歩いて駐車場へ。クルマの前には見覚えのない姿の人が立っており…
「1 minute」と言って消え、Tシャツの上にあわてて白いYシャツを着て再登場した彼は、
確かに運転手その人だった。
想定したより私が帰ってくるのが早かったのだろう。
「客の前では正装しろ」と、この気候ではスポ根的無駄である“日本式”教育を
受けているらしいドライバーに、少々同情したのだった…。

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2014/11/11

地球の舳先から vol.342
チベット(ラダック)編 vol.7

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今回の旅の目的は、3か所あった。
まずはラダック。そして、インド・パキスタン国境のワガ。
そして、チベット亡命政府のあるダラムサラ。

とにかく空港セキュリティの厳しいインドだが、ラダックはさらに複雑。

機内まで持ち込む自分のバッグには自分でセキュリティタグを巻く。
1個につき1個。ちょっとしたエコバッグも許されない。首にかけたカメラも同様。
でないと、せっかく列に並んでも「取ってこい」とやり直しさせられる。
当然水など持ち込めないだろうと、セキュリティチェックの前で
一生懸命一気飲みをしていたら、「それは持って行っていい」と声をかけられる。
X線をくぐらせてタグにスタンプとサインをもらうと、今度は預けた荷物を見に行って来い
といわれて、スーツケースが集まっている屋外に出される。
荷物の番号を照合して、またサイン。何の儀式かわからない。

搭乗時にはまたテントの中で二度めの身体検査、タグのチェックとサイン。
搭乗券には座席番号とは別に手書きの番号が振られていて、
別の係官がその番号を照会する。またサイン。これも何なのかわからない。
一体、飛行機に乗るまでに何人のサインが必要なのか…
大きな銃を両手で構えた兵士に見守られながら席に着く頃は「ふぅ…」である。
でもとにかくわたしがテロリストだったらこんなところ選ばない。
そういう意味では守られている、ためのシステムだとも思うので文句は言わぬ。

一旦デリーを経由して、インド・パキスタン国境近くのアムリトサルという地へ向かう。
このデリーの乗り継ぎがまたよくわからず、国内線ターミナルへ行くと
国際線カウンターでチェックインをしろと言われ、半信半疑で国際線の行列へ並ぶ。
しかも、「これ、このまま入国審査するの?おかしくない?」と地上スタッフに言うと
「一番端にある、イミグレーションカウンターへ行け」と言う。
半信半疑で、でも搭乗券とパスポートさえあればもう飛行機に乗ったようなものなので
その二つを持ってなぜかイミグレーションカウンターへ行く。
ここでスタンプを押されて、入国審査の列を抜かしてセキュリティチェックへ。
ああもう全然わかんない!外国人だから?
で、セキュリティチェックを終える頃にはすでに疲れて、携帯を忘れてくる。

トイレに行ってから気付き、「マジか~あたいのスマホ…」と意気消沈しながら
セキュリティチェックのレーンまで戻り、レーンと忘れ物オフィスを3往復していたら
諦めていたけれど出てきた。おお、インド。
ようやく椅子に座って、朝から久々のビールを飲む。
銘柄はインドのKingfisher。こいつはインドの国鳥で色々なモチーフになっている。
ビールの味がする。どこぞのGODFATHERとはだいぶ違う。

国営のAIR INDIAはよほど人気がないのかほとんど人が乗っておらず
しかし余っているのか国際線用の超大型ジェットで、
国営なのに権力もないのか出発から1時間ほど離陸できずにタキシング。
そして目的地へ着いてからも全ての預け荷物をはき出したのは到着から2時間後…。
声を大にして言いたい。
インドへ行ったら、国営に乗るな。LCCにしろと。
しかしインドでは非常に日系の航空会社の評判も悪い。
インド人に「日本の航空会社は遅れるから絶対乗りたくない」と言われているほどである。
(確かに帰りの飛行機、ANAは2時間、JALは6時間遅れてまだ飛ぶ見込みが立っていなかった。日系神話などもはや日本人が思っているだけの都市伝説なのかもしれない。)

ああ、疲れた。
しかし旅はこれから。
ようやく、「インド」が始まった気がしていた…。

2014/10/28

地球の舳先から vol.341
チベット(ラダック)編 vol.6

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マダガスカルで NO MORE BAOBABと叫んだ わたしであるが、案の定ふたたび。
いや、バオバブが何も悪くないように、ゴンパは何も悪くないのだが、
途中下車が100%ゴンパだと、仏教に改宗でもしないとだんだんキツくなってくる。

久しぶりにゆっくり起きて、屋上に勝手に干したタオルを取り込み、出発。
すごい絶景と、昔ながらの服装(高地を生きる知恵だろう)の人々を見ながら東へ。

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相変わらず、すごい車道(?)をゆく道に、気が気でない。
最初にワンラという村に立ち寄る。平日なので通学する子供など普通の生活が広がる。
崖の上にゴンパがあり立ち寄ったが番人がいない。
さほど中が見たいわけではなかったのだが、扉の隙間から覗いていたら、
心を痛めたらしいガイドが、ここでは書けない方法で鍵をあけてくれた。

中にはまた尊師の写真が飾ってある。
ちなみに現ダライラマの写真はかなりフリー素材らしく、使い方にあまり決まりがないらしい。
そんなことも、どこへいってもお顔を見かける理由のひとつなのだと思う。
もちろん、多くの人に愛されている(師の性格やキャラクターゆえ、尊敬されている、というよりは、愛され慕われているという表現がしっくりくる)というのが一番だけれど。

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車はまた1本しかない大きな幹線道路をふいに横道にそれる。
と、荒涼なる大地の中にまたしてもゴンパが現れた!
ここ、リゾンゴンパは、戒律が厳しいことで有名らしい。
そりゃ、こんなところにあれば…と思いたくもなるが、トレッキングのコースの途中に
あることもあって、トレッキングステッキを持ったヨーロッパ人家族が多かった。

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谷を降りているようで山を上がっているようで、だんだん酸素が薄くなってくる。
ピャンと呼ばれる地に着く頃には息も絶え絶え状態で、ほんの少しの坂がキツい。
ふうふう言いながらゆっくり歩き、昼時の、やっぱりゴンパを見学する。
もう、同じにしか見えない。ごめんなさい。

観光客のヨーロッパ人の子どもが持っているiPadで何かしらの動画をみんなで見ていた。
少年僧が彼を取り囲み、色々とキャッキャしている。
子どもというものは人種や状況を越えてみんなで遊べるものなんだなあ、と改めて思う。

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途中の道路はこんな感じで、一帯全域が軍の施設という感じ。
秘境感あふれるレーの街も、高台から眺めると軍人に鉄格子に物々しい建物も多い。
もっともこの日はインド首相が来ていたらしく、いつもより厳戒態勢だったよう。

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最後に立ち寄ったのは空港近くのスピトゥクゴンパ。
上のほうに「シークレットルーム」があるので行くか、と聞かれるので
貧乏性のわたしはつい、うんと答えてしまう…また崖上りである。
何がシークレットなのかはよくわからなかったが、金平糖が置いてあった。
なんだか糖分で若干体力が回復したような。これも高地の知恵だろうか。

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ここのゴンパには犬や猫が多く住みついていた。
廊下で寝ている犬と違い、お猫様はやはり万国共通で自分が世界の中心だと思っているようで…
一番偉い人が座る椅子、なるもので太陽の光を一身に受けてお昼寝中。
これにはガイドも苦笑。
お寺のおじいちゃん(100歳くらい行ってそう)にガイドが通報すると、見に来たおじいちゃんが
まさに相好を崩すという表現がぴったりな表情で、歯のない顔でにこにこと笑った。
なにごとかガイドと現地語でしゃべるその様子に、どうしたらそんな境地へ行けるのだろう、と同じ人間として思う所深し。

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ふたたびレーに帰ってくると、角部屋から雨どいで卵を抱く鳩の姿があった。
びーびー泣くヒナ鳥も、たまに暴れて顔を出す。
のどかなまま、陽の落ちるままに、夜は更ける。

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ラダック編、ほぼ終わり。旅はつづきます。

2014/10/20

地球の舳先から vol.340
チベット(ラダック)編 vol.5

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さて主要な観光地も巡り、車は一路ラマユルへ。
途中休憩を取った小さな村であたたかいチャイを飲んだ。
クソがつくほど暑いが、ここは一応インド。生水系は避けるべし。
ふと呼吸が軽くなったのでガイドに聞くと、レーより200mほど標高が低く
このあたりは「Lower Leh」と呼ばれているらしかった。

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ふと手の届く範囲にイヌがいた。
だらりと垂れさがった脚は片方に麻痺がきていて、よだれを垂らしている。
まさに狂犬病の「こんな犬を見たら近づくな」の特徴を完璧に備えている。
いきなり噛んできそうにはないが、噛まれたら死ぬのかと思うといただけない。

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車は山というか崖道を登りつづけている。相変わらず結構なスピード。
なんだかとんでもないところへ行こうとしている気がしてきた頃、
とうとう「月世界」と称されるラマユルへ着いた。
大昔は湖だったのだそうで、確かにクレーターだらけの月面を思わせる。
「ラマユルゴンパへ行くぞ」とガイドが指さす方向を見て、
また崖登りか…と隠れてため息をつく。

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どこかしらSF的な光景の中お参りを済ませると宿泊するゲストハウスへ。
外観もゴンパを模したのかこのあたりの住宅はこういった外観なのかわからないが
部屋も小ぢんまりとして綺麗だった。
家族経営のゲストハウスらしく、牛の散歩へ出かけていた男の子が
帰って来たり、お姉ちゃんが甲斐甲斐しくお茶を入れてくれたり。
かまどのある土間ではお母さんが今日のご飯を炊いている。

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ラダックに来て初めてアルコールを取る。銘柄はGODFATHER…甘ったるい。
食事が終わるとお父さんとお母さんはリビングにやってきて、
話をしながら交代でマニ車(お経をとなえる行為と同等とされる)を回している。

ここは日本人代理店御用達のゲストハウスだったので、
滞在者は3組とも日本人だった。
屋上にビールを持ち込んでしばし歓談。
そのうちの1組のご夫婦は、考えられない距離を歩いてきたらしい。
前日が満月と、空の明るい日だったが、それでも結構な星が出ていた。

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客室とは別に、シャワールームの隣にはお姉ちゃんの個室があった。
とはいっても、小さなデッドスペースに、ブルーシートをロープで吊ったテント状のもので
ホームレスの段ボールハウスを思い浮かべてもおかしくないモノである。
ちらりとのぞく中には寝具と、本やおもちゃの類が並べてあった。
懐っこい笑顔。貧しさなど、微塵も感じるわけがなかった。
どちらかといえば思い出したのは、小さいころ空き地に秘密基地を
建設しようとしたあの感じである。

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そういえば、今回の旅で非常に重要なことがあった。
わたしは、突如英語が喋れるようになったのである。
いや、今までは、頭の中で文章を完璧に作って発話しないと通じないと思っていた。
それが、日本語英語色々混じったルー大柴英語で喋るようになると
異常なまでにラクになり、何も気負わずペラペラペラペラ喋るようになったのだった。
当然、ブロークン以前なわけだけれども、語学なんて気の持ちようだと実感した。

しまいにはガイドに「日本人は英語が喋れないのになんであんたは喋れるんだ?」
と聞かれるほど。確かにラダックへ行く日本人は年配の方が多めだろう。
「Old personはshyですからthey know English but not speak
 but young people speak ですよしかもso fluent
 まーI’m not so youngなのでso soっていうかso littleですけどねーハハハハ」
↑こんなもんである。何か文句がありますか。

今までもわたしは外国へ行くと(しかも英語が通じない国も多かったので)
頑なに日本語を喋り続けそれでも旅ぐらいどうにかなっていたのだが、
なにかしらひとつ視界が開けたような感じがしたのは、言うまでもない。

何事も、心ひとつの置きどころ。

2014/10/14

地球の舳先から vol.339
チベット(ラダック)編 vol.4

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色黒にパンチパーマ的髪型に黒のグラサン。
どこのチンピラかと見まがうドライバーが運転する車のアクセルには
クマのぬいぐるみがぶら下がっていた。

これから2泊3日をかけて、ザンスカール方面に西、下ラダック地方へ。
車で楽ちん、と思っていたのは最初の一瞬だけだった。
とにかく、鼻歌を歌いながら、飛ばすのである。
その飛ばしっぷりが、軍隊の車列を追い越しては軍車両の間に突っ込み割り込み、
車1台通れるくらいの崖っぷちも普通に40キロオーバー(彼にとってはかなり徐行なのだろう)、など
冷や汗をかくものばかりである。

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(こんな道絶対運転したくない 落ちる)

しかし当たり前だけれど慣れていた。
わたしが運転していたら、あの道はたぶん30回くらい死んでいるだろう。

そしてこのチンピラ風、軍隊の車両の間に突っ込んでいくときも窓を開け
相手のドライバーに「ジューーーーレーーーイっ」と手を振る。笑顔で。
(ラダックの言葉で「ジュレー」はあらゆるあいさつに使える便利な言葉)
クラクションも鳴らさず、苦笑で手を振りかえす軍人。
相変わらず、のどかなのか物々しいのかわからない人たち。

1本しかない舗装された幹線道路は、軍の拠点どうしを結ぶ軍事道路の
ようなもので、小さな村と軍施設が点々とする道路を駆け抜けていった。

途中のサスポルという所に洞窟があるというので車を降りると、やっぱり崖のぼりだった。
もう、ラダックへ来てから崖のぼりしかしていない気がする。高地トレーニング。
目以外の顔中をタオルで覆うという日除け技を身につけ、炎天下をゆく。
上りきったところにあった洞窟には一面に壁画が書いてあり、また涼しかった。

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(これを登るのか…また崖…)

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(瞑想するガイド(ここまで敬虔ではない。サービスショット)と、ドライバー。)

ガイドとわたしで先に出てまた道なき石の道を下って行くのだが
いつまでたっても出てこない人1名(ドライバー)。ガイドも心配した次の瞬間、
サーフィンでもするかのように斜面をショートカットで滑り降りてきた。
ブッダが力をくれたそうです。あ、そうですか…。

次に立ち寄ったのはラダックの中でもかなり大きな観光名所のアルチゴンパ。
しかしこのゴンパよりも、その直前に立ち寄った小さな町が非常に素晴らしかった。

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門番がわりの仔馬に出迎えられ、民家に入っていったガイドがおじいさんを
連れて出てくる。おじいさんは鍵をあけてごく小さいゴンパを見せてくれた。
人が来た時だけ開けて見せているらしい。本当に敬虔でずっと何か唱えていた。
家の壁沿いを伝って村内を探検し、農作業中のおばあちゃんの笑顔にも出会う。
わたしの見たかったラダックが、そこにはあった。

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そしてたくさんの、アンズの木。ラダック名物でもあり、また、旬でもある。
ガイドはおいしいアンズの木がわかるらしい。
レーに帰ったらアンズを買いにマーケットへ行こう、というような話をする。

車に戻ると例のやんちゃなドライバーが「あんずが食べたいか」と聞く。
なにとはなしに、うん、と答えると

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ちょっとあんたらwwwwwwwww
わたし、そんなつもりで言ったんじゃないですからー!
すみませーん!あんずどろぼういますー!

そこへ、民家のおばあさんが通りかかる。
この難局(?)も、彼は塀の上からとびきり笑顔の「ジュレー!」で乗り切ったのでした。

旅は続く。

2014/10/07

地球の舳先から vol.338
チベット(ラダック)編 vol.3

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デリーからわずかに1時間と少し。レーへ飛んだのはLCCのGoAirという
航空会社だったが、むしろインド国営よりもよほど信頼ができるというもの。
何せ、HPでも「GoAirは定時運行!」と堂々とうたっている。(そこですか…)

小さい空港に定時に降り立つと、荒涼なる大地と空の広さに圧倒された。
空港の建物まで送るバスの運転席ミラーの横で、ダライ・ラマの写真が揺れる。
見知らぬ土地へ来た、という実感が沸いてくる。

ターンテーブルと少しのベンチだけがある到着場で荷物をピックアップし
ここからは人任せ。久しぶりの、車もガイドもすべて手配済の楽ちん道中。

が、まずは高度順応のための休憩ということで、ホテルへ直行。
ちんまりとこぎれいなホテルで、何より驚いたのはベッドの布団がふかふかだったこと。

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コンコンとドアが一応ノックされ、答える前にガイドが荷物を持って入ってくる。
急に酸素が半分以下の富士山頂レベルの標高へ来たので、
階段を10段のぼるだけでも心肺に結構来る。
できるだけ緩慢な動きと深呼吸を心がけ、ベッドに横になる。

と、またしてもコンコンと一応ドアがノックされ、お茶が運ばれてきた。
鉄のポットで淹れた甘いチャイが体に沁みる。

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昼になると昼食へ近くのレストランへ出かけた。チベット料理。
そこかしこに、ダライ・ラマの写真が飾ってある。
好物のモモ(水餃子みたいなもの)の入ったスープを飲んだ。

そこから、シャンティ・ストゥーパ、ナムゲル・ツァモ、レー王宮と
小高い丘の上にばかり作ってある観光名所を見学する。
照りつける太陽は地面からの照り返しも半端な光量ではなく、
帽子や日傘などまるで役に立たず肌を焼く。太陽が本当に近いのだった。

近くまでは車で送ってもらえるが、基本的に徒歩で登る。
さっき高地に来たばかりの人間にはかなり辛く、のっけから修行の体。
しかし丘から見下ろすレーの街はまさに岩に囲まれた要塞で、
長く伸びたポプラの木の緑色が濃く、非常に絶景。

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タルチョという、チベット仏教独特の祈祷旗がそこかしこで風にはためく。
少しの日陰を見つけて休んでいると、ここにはモンゴル人の死体が埋まっている、
とガイドが説明するので、驚いた。そして、驚いた自分に驚いた。
仏教だって、生まれてこのかた、争いをしてこなかったわけじゃないのだ。
それを平和の象徴のようにまで高めた今のダライ・ラマはやはり偉大だと思う。

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日本人が建立したというシャンティ・ストゥーパでは、現在は袂を分つ
たとはいえ日本人の肖像画がいまだに飾られ細かく手入れをされていた。
堂内でガイドがラダック語で書かれた真ん中の展示物を指さし、
「これ、日本語だと思うよ。ナン…ミョー…ホー…レン…ゲッ…キョ…」
と読み上げ、ああそれね、とわたしがうなずくと、こぼれんばかりの笑顔で
「どういう意味??」と質問された。

…。

昔チベットへ行ったときに勉強したかじり知識を漁り、
「えーと、チベット仏教でもなんか、お参りするときとか唱えるやつあるでしょ?
オンマニなんとかってやつ」
「オンマニペメフム?」
「それそれ!それの日本語版だよ!」
「なるほどー!へー!!!」
…本当か?本当か?自分…。

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あまりに秘境感あふれる非現実的な光景に、ここがインドであることを忘れる。
一方で軍の施設は非常に多く、武器もった軍人がうようよと町を歩いている。
その、なかなか相容れないはずのふたつの側面。

インドというのは、EU加盟国を全部足したのよりひとまわり小さいだけだという。
複雑に入り組む、これだけの民族と宗教を受け入れたこの国のデカさを思った。
いまここにラダックという地方が存在しているのも、
不安定なバランスの上に成り立つ一瞬の奇跡なのかもしれなかった。

つづく

2014/09/24

地球の舳先から vol.337
チベット(ラダック)編 vol.2

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夜中、0時15分。
ほぼ定刻に、わたしは何よりの障壁「デリー」に着いた。
デリーといえば、もう話しかけてくる人は全員悪者だと思ってかかったほうがいい。
特に観光地で観光客に話しかけてくるようなインド人は信用しないほうがいい。
ありとあらゆる嘘、巧みな連係プレーは世界トップレベルの犯罪のデパート。
その商魂の逞しさを「生きる力」となぜか褒めそやす人もいるわけだが
わたしにとっては世界一、関わり合いになりたくない都市である。
危険なことはいやなのだ。人ともめるのもいやなのだ。静かにしてください。

ラダックまで乗り継ぎの飛行機は6時間後。街に出るなどとんでもない。
国内線のフライトが飛び立つターミナルまで移動して、空港内ホテルで寝ることにした。
エアポートシャトル(無料)の表記のある柱でバスを待つ。24時間運行と聞いている。

怪しいおっさんその1が近づいてくる。制服を着ているからといって安心してはいけない。
「もしもし、ターミナル1へ行くなら、チケット買ってください。」
…無視。無料だって知ってるんだっつーの。
「もしもし」
「ノー」←真顔
「……。」
おっさんその1はカウンターへ消えていった。まったくこれだからデリーは…
このバスは無料だって地球の歩き方どころかここの柱に書いて、あ、、、、、、、、
“乗り継ぎの方はカウンターでバスのクーポン(無料)を入手してください。
 それがないと車内でお金をいただきます。”

Σ(゚ロ゚;)

この段階ではわからなかったのだが、デリーの空港は鬼のようにセキュリティが厳しい。
デリーまで来た搭乗券と、乗り継ぐ便のeチケット、パスポートを照らし合わせて
PCに入力し、出てきたレシートのような紙をもらう。これがバスクーポンらしい。

乗り場の前でバスを待っていると、怪しいおっさんその2が現れた!
「バスはここじゃない。18番の乗り場だ」
旅行客っぽい格好のおじさんその2の指す先で止まっているバスは…
シャトルなんかじゃない、コルカタあたりで街中を走っていたようなおんぼろのただのバス。
明らかに疑惑の視線を投げるわたし。振り返って、カウンターのおっちゃんにも疑惑の視線を投げる。
「あれだ。18番」怪しいおっさんその1も言う。
グルか?よくあるらしいよね、そういうの。しかもただいまミッドナイト。

怪訝なまま一番端の乗り場まで歩く。バスにはたくさんの労働者ふうの人が乗っている。
10年前に来たインドとひとつ決定的に違っていたのは、全員がスマホでSNSを見てることだ。
切符売り(車内にいる)、運転手、外国人乗客の3人に行先を確かめ、わたしはそのバスに乗った。
最初にここを教えてきたおっさんその2が、ずっとこっちを見ている。
怪しい。いや、心配してくれているだけかもしれぬ。

ターミナル間の移動なんて短距離だろうと思っていたら、一回街中に出るかなりな距離。
(あとで調べたところ5キロもあるらしい)
どんどん暗い街中に向かっていくバス。一瞬、やっぱり乗ったことを後悔する。
が、しだいに「ターミナル3」という表示看板が現れるようになり、それらしき建物の前で
停車したバスからわたしは転げ落ちるように降りて、一目散に建物内へと走る。
とにかく屋内にいれば安全な気がする。

「もしもし、そっちじゃないよ」
こんな夜中に、閉まった出店の前にいる、手ぶらの怪しいおっさんその3!
聞こえないふりをして、空港の建物の入口へたどり着く。
「ガビーーーーーーーン」 なんと空港壁の掲示にわたしの乗るはずの飛行機がない。
「そこは到着用、出発はあっちのビル…」少し向こうから、さっきの怪しいおっさんその3が叫ぶ。

…。

……。

「センキュー」

小走りに道を渡り、コーナーにあった個室付のきれいなラウンジになだれ込む。
なんていうかもう疲れた。寝かせてください。
こうしてわたしは「デリー」をやり過ごした(はず)。
布団をかぶっても寒すぎる冷房の中でしばし、寝た。

2008/11/10

地球の舳先から vol.98
世界の家族のこと vol.6
インド編

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インドに行くときは、ホームステイで。なぜか、そう決めていた。
が、年とともに戦闘能力を失っていたわたしは(体力を要する旅は10代のうちにすべきである)、
日本でステイ先をさがしてから出国。

出国後の、デリーでの恐怖体験や、聖地ガンジス川沿いのバラナシでの戦いの記録は
またいつかにまわすとして、最後に訪れた西の地、コルカタでのこと。
コルカタは、英語名をカルカッタ。こちらの地名のほうが慣れ親しまれているかもしれない。
新興国、IT大国などと言われるインドだが、それは一部の都市。
コルカタでは、車線を無視して走る獰猛な車と、その人口、噴煙に驚かされた。

人口密度は東京の2倍。
人口の半分がスラム民、ハンセン患者などで占められ、街のいたるところで
観光客が落とした、水溜りに浮かぶポテトチップスを無我夢中で追う
もう死んでいるであろう赤子を背中にしょったまだ7~8歳の女の子の姿が見られる…
それが、わたしのコルカタの印象だった。
足が杖のようになった老人が、四つんばいの動物のような格好で飛びながら近づいてくる。
思わず後ずさりしてしまう、そんな光景があった街だった。

わたしが滞在させてもらったのは、とある中産階級の家だった。
毎日、バイトで都市部に勤める医師がわたしの部屋に通って英語を教えてくれた。
その先生から、いろんなことを教わった。一緒にドライブもしてもらった。
一番印象的というか、この街を顕著に表していると自分でも思ったのが、
わたしが「国会議事堂かなにかですか?」と聞いた大きな建物に、彼が答えた
「金持ちの“家”です」という台詞だったろう。

インドにはヒンドゥー教という古くから親しまれた宗教があるが
中流以上の貴族は自らの子どもをミッション系(=キリスト教)の学校に通わせ、
毎日お手伝いさんの車で送り迎えをさせている。
そのすぐ隣の道路では、前述の子どもが言葉もろくに喋れないまま観光客から
わずかな小銭や食べものを恵んでくれと訴えるのだった。

貧富の差がある国など、いくらでもある。
しかし、そういう国は住む場所、暮らすコミュニティからして貧富によって分かれていた。
これほどまでに、壁1枚を隔てただけで恐ろしいほどの差がある国は、見たことがなかった。

わたしのステイした中産階級の家庭は、とても平和だった、ように見えた。
ひとり息子は学校には行かず、毎日家庭教師が勉強を教えに来る。
お父さんは昼すぎに仕事から帰ってくるとすぐにシャワーを浴び、それからは
ふんどしがわりのバスタオル1枚。
お母さんは3食を手作りしてくれる。

…が。
否定も肯定もわたしはしないが、ひとり息子はヒトラー信奉者(苦笑)
未だに、毎年お正月になると「今年1年があなたにとって高貴で幸せな年でありますように」
というひとことつきの、しかしヒトラーの敬礼の姿を全面にあしらった
年賀状ならぬWebグリーティングカードを送ってくれる。
かならずそこには「I respect him」と添えられているのだった。

10歳のくせして(くせして、というのは勿論負け惜しみである)英語ぺらぺらの彼と語り
わたしはそれでも毎日、マザーテレサの施設に通っていた。
ボランティア登録をすると全員にもらえるマザーのペンダントを何度彼は馬鹿にしたことか。
しかし、霊的といってもいいほどの体験を多数マザーテレサの施設でしたわたしは
すっかりキリスト教というものに、感化はされないまでも怯えに近い感情を抱いていた。

ちなみに、食事は毎日カレーだった。いや、カレーだったというのは語弊がある。
日本人がいろんな料理に醤油を入れるような感覚で、インドの方々はカレーなのだ。
だから毎日、肉料理、魚料理、タマゴ料理…でも全部カレー味。というだけの話。
見方を変えれば、毎日毎食、献立は違うものを用意してくれていた、ともいえる。

加えて「ナン」はインド特有の伝統料理かと思っていたのだが、
実は高級品で、一般の家庭には食卓にのぼったりなどしないとのこと。
ナンは生地をねかせて発酵させてから作るので、パンのようにふわっふわ。
一方、これの代わりに毎日の食卓に上がるチャパティはクレープの生地のようにぺらぺら。
銀のアルミ容器に、カレー、いや、カレー味の料理が3品ほど。
それをチャパティで辛さを紛らわしながら食べるのである。

毎日サリー姿のお母さんといっしょに、チャパティをこね、
コンクリートのリビングにあぐらをかいて座る。
いろんなことがわからなくなるインド滞在であった。
いや、世界に出るたびに、世界をひとつ知るたびに、
わからないことがひとつずつ増えていく、そういう実感があった。

2007/11/16

地球の舳先から vol.30

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インド旅行記 vol.7(最終回)

コルカタを離れる日。
庶民(といっても私が触れ合えるのは中流階級なのだが)の生活にすっかり馴染んでいた。
床に座って、バナナの葉っぱをお皿にしていただくカレー味の料理も。
風呂上りが一番機嫌よく、トランクス一丁でふんふん鼻歌を歌うお父さんにも。

出発は夜だったので、マザーハウスへ寄って挨拶をしていくことにした。
そこで私ははじめて、マザーが今もそこに眠る礼拝堂に入った。
だれでももちろん無料で入ることは出来るのだが、無宗教の私が足を踏み入れるのは、何かが違う気がしていたからだ。

靴を脱いで、足を踏み入れる。
目の合ったシスターがにっこり微笑みかけてくる。
マザーテレサの棺が綺麗にバラで飾られている。
淡い光が差し込むその場所で、私はゆっくり歩いて近づいた棺の端っこのほうに、唇を触れさせる。
控えめに光を放つろうそくが綺麗だった。
姿勢をもとに戻し、しばし礼拝堂のなかを歩いていると、訪れた人が皆、棺にキスをして敬愛を示している。

そのとき初めて、わたしは自分の異変に気付いた。
人々の礼をあらわす仕草を見ながら、なぜわたしはついさっき、あれと同じことをしたのだろうと思ったのだ。
礼拝堂の中は空いていて、前の人を見習ったというわけではなかった。
加えて、教会に行ったこともないわたしが、キリスト教なりのルールや慣習マナーを知っているはずもない。

でもなぜかあのときは、それがあらかじめ知っていることであるかのように、自然に起きた行動だった。
不思議に思う気持ちはしかし動揺することもなく。
それが普通であると思えるだけの、雰囲気があった。

礼拝堂を出て、初日にボランティア登録をしたときに貰った、マザーハウスのペンダントトップを取り出す。
極力原価の安い、アルミでできた薄い薄い楕円形に、マザーの像が彫られている。
この軽さを、彼女たちは清貧と呼んだのだろう。

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ステイ先に戻り、部屋の掃除をして、初めてここへ来たときにあったチェスとの位置にマザーテレサの伝記を戻す。
スーツケースに鍵をかけると、お母さんがやってきて、チャパーティーを紙に包んでくれた。
「インドの飛行機は、何時間遅れるかわからないからね」
そう言って、笑う。

がらんどうな空港へ行き、案内ボードを見て驚いた。
12時間前に経っているはずのエア・インディア機が、まだ空港にも到着していない。
私はクアラルンプール経由の、マレーシア航空。
出発前は、直行便のエア・インディアを取りたいと希望を出していたのだが、
「う~ん…かかる時間は、結局同じだと思いますけどねえ」
と言った旅行代理店の担当者の言葉が蘇る。

私を乗せたマレーシア航空は、ほとんど定時で飛び立った。

帰国後数日して、渋谷で偶然、マザーの施設の証である青い三本線のサリーを着た女性を見た。
どこか神々しいそのオーラとすれ違いながら、どこかで宗教をすべて一緒くたに胡散臭いと嫌悪していた自分の、狭さを知った。
end

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