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2015/09/14

地球の舳先から vol.364
東北2015夏 編 vol.2

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モノではなく「人」で、地方と全国を繋ぐ。

わたしが何度もこのコラムでも紹介している「食べる通信」の試みの根幹はそこだが、
東松島の食べる通信はその色合いがぐっと濃くなる。
リアルな人と人とをつなぐことのできる、現実的な規模感でもあるのかもしれない。
人が増えれば、コミュニティの濃度はだんだん薄くなる、そういうものなのだろう。
人が増えれば、インターネット上での「やりとり」も、やがて「メディア」化する。
その手前の、息遣いを感じるからこその、東松島の生産者と全国の読者の人間同士の関係がある。
わたしは比較的、いろいろなところに友達や知り合いがいる方だとは思うのだが、それでも、ここまでひとつの地域に「顔と名前が一致する人」が密集している場所もない。

編集長の太田さんは、千葉県出身で東北にはゆかりのなかった人。
今では、地元の人に「アイツは漁師か」といわれることがあるほどに愛されている。
そして、読者が東松島を訪ねれば、自らハンドルを握って案内してしまう。
ヘイコラしたりも、威圧したりもしない、垣根のない人。
ずっと東松島のほうにいた人ならともかく、都心の悪いほうの効率資本主義にヤラれていない。だからわたしは、太田さんが東京でエリートサラリーマンをやっていたと聞いて、とても驚いた。
口は悪いが、いい人なのである。口は悪いが。

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(編集長の太田さん。牡蠣漁師、阿部晃也さん撮影。)

太田さんが東松島に関わり始めたのは、震災のあと。
あのころ、程度の差はあれきっと誰もが心のどこかで持っていた「何かをしたい」という思いに突き動かされ、知人の知人を辿ってボランティア先を探した結果、浮上したのがこの地だった。
地元の再生を願うお祭りを手伝い、束の間、清々しい高揚感に包まれていた太田さんは
翌日、ひとり東京に帰る際に通った県南部の手つかずの海岸の光景を見て愕然とする。
復旧活動がひとまわり終わった後の、人の賑やかさがあり道路もある程度整った街との、あまりの落差。
「自分の薄っぺらい使命感が恐ろしくなった。」
報道では見られない現実を―と意気込んで携えてきたカメラでシャッターを切ることはなく、色々見て回るはずだった予定を変更し、すぐ高速に乗ってまっすぐ帰った。
自己嫌悪にも似た気持ちに整理がついたのは、「とにかく1年住もう」と決めたとき。
その後移住し、東松島食べる通信の創刊だけでなく、様々な場で奔走を続けている。
「1年」がとうに過ぎ去った今、太田さんは、「自分がやってきたことは”復興支援”だけではないし、人のためではなく自分のためにした決断だった」と振り返る。

実際、東松島には多くの資源がある。
わたしも今回ほぼ1日滞在しただけだが、太田さんに連れて行ってもらった先は
牡蠣漁師さん(東松島は種牡蠣の一大産地である)、海苔漁師さん(皇室献上の浜とよばれる)、希少米かぐや姫を作る米農家さんの畑、何十種類という野菜を作る農家さんの畑といった農漁業のほか、地元の海苔とのコラボ商品も出す肉屋さんやお菓子屋さん、海産物加工物で新たな価値を加える人、それに、その魅力を消費者の側の立場で解説する役割ももつアンテナショップの方々など
まさに海・山からわたしたちの食卓までの一線のながれにある様々な立場の人だった。
そして太田さんは、漁師の所へ行けば肉を与えられ、農家さんの豪邸ではお茶を啜ってとうもろこしを貰う。

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(庭のバーベキューで、東松島座談会。会話は尽きない。)

職人と、それを世の中とつなぐ人。
職人には、硬派で多くを語らない人も多いので、太田さんのような接着発信剤も必要なのだろう。ただし太田さんは、大きく見せようとか、どうだ凄いだろうというような大げさな演出はしない。
ただ、淡々と。ハートは熱いが、決して暑苦しくドラマティックに語る人ではない。
東松島という地に、そこにいる人に、絶対の自信があるからにほかならなかった。

「偶然」と呼べば、そうもいえるものなのかもしれない。
しかし、有機的に重なる「タイミング」を「縁」に変えるには、相当な人力が要る。
「東松島にとって“+1”の人間として、何が出来るか」を問い実行すること―
と、太田さんは自分の立場を語った。

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(特集した農家さん宅で打ち合わせをする太田さんと生産者さん。)

わたしは、太田さんのように、直接的にその地に居ついて何かをする人間ではない。
けれど、たとえば観光客として考えれば、こうして観光客の「+1」として
東松島というところに関わっている、ともいえるだろうし、
現地へ行かずとも東松島の海苔を気に入ってお取り寄せしている人もまた、
別の意味での東松島の「+1」だといえるだろう。

それは、新鮮な発見だった。
何かができるわけでもないのに、とかくどこかで「何かをしなければ」となぜか無駄に焦る肩の荷をおろしてみると、意外と、あれから広がった世界が、あるはずだった。

好きな土地ができるのは、たぶんそれだけで、とっても幸せな事。
加えてそこに「会いたい人」がいるんだとすると、
(せつない遠距離恋愛はのぞいて)やっぱりとっても素晴らしい事だった。

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(ちなみにわたしの会いたい人は… いっぱいいるけど…
 やっぱりこの、アンテナショップまちんどのアイドルたちかな…)

2015/09/01

地球の舳先から vol.363
東北2015夏 編 vol.1

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最近のわたしは気仙沼一辺倒だと思われているけれど、他の所へも行っている。
ただ、何度も行く場所は、観光名所以外の何かがある場所というのは共通のようだ。
そして、二度めと三度目の壁というものもある。
マーケティング業界でも風俗業界でも同じというが(つまり万象なのだろう)、
「リピーター」と「ファン」の間には、途方も知れない高い壁が聳えているのだ。

わたしが二度通った場所は、数えきれるくらいにはある。
ただし、「三度」以上通った土地は、海外ではパリ、国内では気仙沼だけ。
…だった。
このたび、「東松島市」というところが、それに加わった。
東松島との出会いについては、書くことが多すぎるので、次回に譲る。

今回の東松島訪問では、「大曲浜(おおまがりはま)」という地の海苔漁師と会った。
「皇室御献上の浜」とよばれ、海苔漁で名を馳せた場所である。
ここでわたしは、まさに三者三様という言葉のふさわしい三人の漁師に会った。

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(紹介する漁師さんと、米農家の木村さん、東松島食べる通信編集長の太田さん)

津田大(つだひろし)さんは、柔和な笑顔に似つかわしくない武闘派だ。
東松島に実はある本格サーキットを貸し切った漁師カップでも優勝したというが(それを教えてくれた人に、優勝者はと聞くと「もちろんヒロシですよ」と返ってきたのが印象的)、海苔漁に関してもとことん「攻め」、そして「勝ちにこだわる」人。
「のり工房」は津田さん一族が暮らす豪邸だが、お坊ちゃんとは思えない気質。
余談だが、この豪邸でわたしは津田さんの息子に撃たれた。空気の入ったライフル銃で。血は争えない。

三浦正洋(みうらまさひろ)さんは、対照的に、震災後へこの地に帰ってきて
お父さんの家業を継ぐことを決めた、Uターン。
というとなにかしら「ベンチャー」的気質を想像するが、その逆という感じがする。
大曲浜の歴史と伝統を愛し、調和を是とする、世界平和を絵に描いたような人。
ふたりの好対照はわたしには一見意外なように見えて、
一度故郷を離れた三浦さんにこそ見える世界があることを深く納得させられた。

相澤太(あいざわふとし)さんは、ふたりに比べるとどこかしら兄貴分な存在。
仕事の上でも、次々と海苔に関する新しい価値観を発明しては市場に提案している。
海苔の佃煮を東松島土産にしたのも相澤さんだというし、最近は海苔うどんがヒット。
全国を飛び回りイベントを主催までするなど、いわば漁師の領域を「一次産業」だけではなしにしようとしている人で、相澤さんという人は、その存在じたいが革命だろう。
漁師仲間からも「男」と呼ばれ、アンテナショップの店員さんは「これはふーちゃんが作ってくれたの」とうれしそうに海苔の佃煮を紹介してくれる。(相澤水産HP

同じ浜で同じものを生業にしているわけで、競合関係なのではと思ったが、
ここでは海苔の網は1人100棚と決まっていて、養殖場所も輪番制(!)。
「同じ条件」でいかに工夫をするかで、生産者どうしが腕を上げていったのだそう。

三人がそろってつけていたのが、スカイブルーのリストバンドだった。
これは、大曲浜サポーターズクラブというシステムで、簡単に言うと
「1万円払うと、いつ来ても大曲浜を案内してもらえる」というもの。
船に乗せてもらったり、海苔漁の見学、時期によっては地引網など…
「モノじゃなくて、コトを売りたかった」と相澤さんは言うが
みんないつでも来ていいということになれば大変なことにならないのだろうか…
現在、サポーターズクラブの会員は200人を超えている。
しかし彼らを見ていると、まあ、「来るなら来いっ」くらいの勢いなのだろう…

訪れた人がよく同じことを口にするが、東松島には人の魅力がある。
それは、「だれとかさんに会いたい」という個人的な感情ではなく、
魅力的な人が集まっているところというのは、独特の空気を発するのだ。
言葉にすると「面白い人が沢山いて活気がある」とかの平凡な表現になってしまうが、
「人」が「地」の空気をつくっている。そういう場所がある。

そしてここには、その魅力を客観的に理解し再編集しこの地の「売り」にしていこうとする(もちろん、良い意味で)― とある「参謀」がいる。
次回はその人の話をしたいと思う。

つづく。

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アンテナショップで買った海苔商品の数々と、東松島の夜の〆 のりラーメン。

2015/03/25

地球の舳先から vol.357
東北(2015)編 vol.9

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番外編です。備忘録。
全体的に肉寄りです。魚は、海の方に譲るとして…。

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炉ばた(国分町)
繁華街のど真ん中にある、周りの喧騒をすっと忘れるしっとりとしたお店。
元祖炉端(炉端焼きとはまた別らしい)のお店で、
おかみさんがお燗を大きなしゃもじで差し出してくれます。
1200円のお膳3品はどれも地味に手の込んだとても美味しいもので
これだけでお腹いっぱいになっちゃうかも。

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CRAFTMAN(あおば通)
女性でいっぱいのオシャレなドラフトビール&イタリアンのお店。
店内に備え付けられた、30種以上の樽生!飲み比べセットもあり。
食事もいちいちオシャレで美味しい。
「日本一のフライドポテト」は見逃せません。

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と文字(一番町)
ひとり立ち食い焼肉のお店!! しかもちゃんと七輪。
この形態、東京にも定着させてほしいです。
お肉は希少部位を1枚から頼めて、なんだかお寿司屋さんみたい。
仙台牛を堪能。

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Le Chic(国分町)
地産地消を気軽にあれこれ楽しめるお店!
蒸し牡蠣(すごくレア)、絶品。目の前で焼いてくれます。
お料理もお酒もリーズナブルでちょいちょい色々頼めてうれしい。
旬ごとに行ってみたいお店。

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サッポロビール仙台ビール園(名取)
堂々と昼から飲める。
ジンギスカンだけど食べ放題じゃないものも多いのが良いです。
そして、やっぱ、ビールでしょ。

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とんとんラーメン(広瀬通)
大通りでやたら目立つラーメン屋さん。
「牡蠣ラーメン」の文字に引かれてつい…
いわゆる「ラーメン」。この素朴で昭和な感じがいいです。

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フルセイルコーヒー(サンモール一番町)
ちょっと中心部から離れてるけど、滞在中もっとも通い詰めた場所。
気仙沼名物アンカーコーヒーの仙台店。
おいしいコーヒーとアットホームであかるいお店。
ソーセージサンドやらクロワッサンやら、朝軽食に重宝。

2015/03/16

地球の舳先から vol.356
東北(2015)編 vol.8

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東京に帰る前、仙台から、逆方向の新幹線に乗って八戸まで行った。
ローカル線を乗り継いで、到着したのは久慈駅。
ここから三陸鉄道に乗るのが、実は今回の旅のハイライト。
『あまちゃん』やら、萌えキャラを活用した破天荒なプロモーションが注目されているが
明治の三陸大津波の経験を元に「津波のときでも運行する安定した公共交通機関を」
というポリシーでつくられた路線である。

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乗ったのは期間限定の「こたつ列車」。レトロ調の車両を使用した掘りごたつ仕様。
1か月前に予約したので、1号車1番A席という鉄道おたくみたいな席が確保されていた…
そして車内は男性グループの多いこと多いこと…乗り鉄に大人気の三鉄。
2014年4月に全線復旧したのだが、ここも、クウェートが支援をしていたらしい。
クウェートやカタールは、本当に手広く様々な被災地支援をしている。
列車を復旧させたり、海町に超巨大ハイテク冷凍庫を作ったりと、絶妙。

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写真を撮らねばならないので、急いでうに丼をかきこむ。
うに丼のほかにあわび弁当、ほたて弁当もあり、予約をしておくと切符と一緒に渡される。
切符の明細は手打ちでパンチされている。車内のパーサーはあまちゃんだ。かわいい。

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リアス式海岸を縦断していく路線には長いトンネルも多い。
田老~摂待間のトンネルはなんと6532mで、非電化区間では日本最長なのだそう。
その間は「もなみ」という、なまはげ的なもののパフォーマンスもあるなど工夫されている。
お面をとったらいいおじちゃん。よくしゃべる。解説が面白い。

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さてここからは、北リアス線沿線の紹介をしながら震災を振り返りたい。
意外にも、車内で震災に関する説明はなく景色を楽しむことが主目的とされているようで
帰って来てから調べたものだ。あれから4年。長い。

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○安家川橋梁
あっかがわ、と読む。高さ33m。列車は徐行し、久慈からの列車では最初の撮影ポイント。
秋になると車両からも肉眼で、鮭の大群が確認できるらしい。

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○大沢橋梁
野田玉川~堀内にある橋。堀内駅は『あまちゃん』の袖ヶ浜駅として使われた場所で
見ていないので知らないが「ユイちゃん」が「アイドルになりたい!」と叫んだ場所らしい。
アーチ形の橋は三陸鉄道の象徴的な光景。でも、乗っていると車体が見えないことに気付く。

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○普代漁港
海岸から300mのところに15.5mの巨大水門と防潮堤がある普代村。
昭和初期当時のお金で35億円超をかけて建設された。
あの津波の日、並んだ防波堤と消波ブロックで津波は7mもの高さが吸収され、職員が手動で閉めた水門以陸の集落は守られた。この立地で、村内死者はなんとゼロ。
防潮堤の手前の被害は凄まじかったというが、漁港も機能を取り戻している。

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○白井海岸
秘境駅ランキング2014(なんだそれ)で14位の駅。キャッチフレーズは「ウニの香り」。
その名の通りウニの名産地、そして北リアス線一の風光明媚な箇所だというが
県道が1本走る以外には何もなく駅の近くには民家もないところらしい。

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○田野畑駅
愛称「カンパネルラ駅」(言わずもがな、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』より)。
津波では、海抜は20m近くあるものの線路上に瓦礫が散乱、駅舎内も浸水した。
写真左奥は、三陸鉄道を模した水門で、震災前からここにあるのだが、今となっては一瞬、寸断された線路と残された車両かと思ってヒヤリとする。
水門の向こうには立派な防潮堤があったらしい。

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○島越駅
コバルトブルーの美しい海水浴場。島越集落があり、このあたりは一面が民家だった。
最も激しい被害を受けた地域で、津波により、高架上にあった駅も含め集落ごと消失。
高さ10mの高架橋は崩落し、駅舎・ホーム・線路・路盤などは全て壊滅した。
旧駅舎跡地はメモリアル公園として生まれ変わるそう。

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○小本地区
左側に見える不自然な柱のようなものが、高さ12mの小本川水門。
ここでは、水門を閉めたことで流れを変えた津波がかえって市街地に流れ込んだという。
防波堤は粉々になり、人々の住む市街地は甚大な被害を受けたが、奥にある小学校は
震災の数年前に新しく建設された、高台に上がる非常階段のおかげで避難児童は無事。

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○田老地区
江戸時代の慶長三陸地震津波で町が消失、明治三陸地震(M8.5/到達最大津波15m)では人口の80%以上が亡くなり、昭和三陸地震(M8.1/同10m)で9割の住戸が流失した「津波の町」、田老町(現在は宮古市の一部)。
「万里の長城」と呼ばれた世界一の「スーパー防潮堤」で町を覆い、災害標識・避難経路・教育面などあらゆる手立てをおこない、国内外から研究者も訪れる「防災の町」として知られた。
それでも、10mの防潮堤を乗り越えた最大16mの津波は、数えられる程度の鉄筋コンクリート建物の枠組みを残して、町を流した。
湾内の防波堤は早い段階で決壊し、乙部地区は瓦礫すら残らないほどの被害だったという。
いま、住民の8割が高台移転に賛成している。

つくづく、正解などどこにもなく
ただやれる限りを備えるしかないことに愕然とする。

それでも、昨日に戻ることはできない。
ここから先には、未来しかないのだから。

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宮古駅に着いてから、空き時間で歩いて行ける市場を訪問。
高級品のいくらの売られ方に唖然としたのだった…

2015/03/10

地球の舳先から vol.355
東北(2015)編 vol.7

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年越しを日本で迎えたのは、何年ぶりだっただろうか。
元旦の混雑を避けて向かったのは、東北随一といわれる鹽竈神社。
ここの鹽竈神社は、全国にある鹽竈神社の「総本社」らしい。フランチャイズなの?

仙台から電車に乗ってすぐの本塩釜駅。雪を踏みしめながら参道へ向かう。
破魔矢らしきものをぶん回して歩く地元の親子連れもいる。

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この階段をのぼっていくのが一興だけれど、車道コースである
迂回道のほうが精神的に楽なので、地元の人はそちらから来るよう。
朝早くだったが、階段の雪の凍結は綺麗に除去されていた。

東京や東南アジアばかりを回っているわたしには、
雪という時点でやたらとテンションが上がるのだが、
この雪見初詣は想像した以上に素晴らしかった。

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美しい庭園にはうっすらと雪が積もり、遠くに水平線が見える。

これまた何年前からこのままなのだろう、と思わせる売店で
甘酒と味噌おでんを購入。こちらのこんにゃくは白くて、三角じゃない。
あと、笹かま。味噌は白味噌で、甘い。全国おでん巡りをしたら楽しそう。
三色団子はお土産に包んでもらって、仙台へ持ち帰った。

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おみくじを引く。

行動は早いほどよく、積極的に出ていくのが得策。
この時期は豊かな人間関係を広めていく時。
そのためにもゆとりと思いやりのある心が欲しいもの。
物質欲にとらわれるとせっかくの開運が遅れる。直感を大事にしましょう。

すべてにスピードをもって当たること。一拍遅れるとせっかくの好機は逃げてしまう。
情に流されぬよう気をつけよ。ことばが不要なほどの豊かな愛情が育つ。良縁にして幸福。

思わず、苦笑する。
日本の伝統的な宗教がやることって、なんでこう牧歌的なんだろう。
(日本国的な定義上は、神社は宗教ではないんだけれども)
おみくじひとつ取ったって、当たる当たらないとか権威がどうこうじゃなくて
どう捉え何を心がけて生きていくのか、人生哲学と人間性を問われてるみたい。

ちなみに、わたしがこういうところで祈るのはだいたい、「世界平和」。
無宗教なわたしは自分のなにかを神に委ねようという気がそもそもないので、
「神頼みするしかほかに可能性がなさそうなこと」なんて
それくらいしか浮かばない。
でも今回は、東北で眠った方たちのことを思った。
いずれにしても、わたしにはどうすることもできなかったこと。

儚い望みでも、祈りつづけるんだろう。
永遠で当たり前にように思えるけど、なんの保証もない奇跡のような今日。
だから「スピード命、とっととやれ」なのか、神様。そうだよね…。

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帰りは別の道から帰ったので、参道の入り口で警備員さんに念のため道を聞いた。
駅までは徒歩5分程度。迷うはずもない。方向の確認をしたかっただけなのだが、
地面の雪に絵を描いて説明をしてくれる。

美しい東北の景色が、自分のなかでまたひとつ増えたことを
いまはただ幸福に思った、新年の明けだった。

2015/03/04

地球の舳先から vol.354
東北(2015)編 vol.6

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「行きたいけれど、行けないところ」というのがある。
「行きたいけれど、行っても仕方なさそうなところ」というのも、ある。

前者は、治安や情勢、政治的な問題でいま物理的に入れない、ないしは
そこへ入るための責任や覚悟や知識やスキルが、自分を上回っている場所。
わたしにとっては、今のコーカサスや南イラク、リビアやスーダンがそれに当たる。
(わたしは、どこへでも飛ぶ軽率なやつだと思われているが、違うのだ)

後者は、単独で足を運んだとしても、専門家や現地の人のガイドが無ければ
行ったとしても結局、その地を堪能満喫するに足らないと思われる場所だ。
この筆頭株が、わたしにとっての「岩手県西和賀町」だった。

まずは、『東北食べる通信』のこの特集をちらりと見てほしい。※クリックで拡大
(同誌とわたしのつながりについては、過去の記事をどうぞ)

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この、壮観としか言えない美しい写真の数々に、わたしは完全に心を奪われた。
「絶対にここへ行く」と発作的に思ったものの、その写真たちは、雪や山の歩き方を
完全に心得た人のみが立ち入りこの目で見られる景色であることを語っていた。
しかし一度焼き付いた写真の景色は、いつもわたしの頭のどこかに居ては
「次はどこへ行こうか」と考えるたびに、激しく主張してくる存在だった。
…そして、あまりに悶絶するので、もう行くことにした。

なんと、食べる通信で地元と読者をつないだ瀬川さんが案内してくれるといい
しかも!あの写真の数々を撮ったという瀬川さんのお父さんにも会えることに。
勇んで「ほっとゆだ」駅に到着したわたしは、外を見てまず面食らう。

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(クリックで拡大、してももはやこれらがどういう事なのかよくわからない)

ブルドーザーだかショベルカーだか、とにかく黄色い重機が道路を走っている。
車は、走るそばからの豪雪を集め、ナンバープレートすら雪で隠れている。
家の高さくらい雪が積もっている。というか、雪の中に家がある?地面はどこだ。
家の屋根の形が、皆おかしい。一直線だ。ハの字じゃなくて、/こんな形。
そして、駅の売店には、なぜかとてつもなく長い大根が売っている。
なんだか変な王国に来た!というのが、第一印象だった。

「いや~今日はなんだか、暖かくて」となぜか残念そうに言う瀬川さん。(氷点下です)
「雪の上を歩く」とは聞いていたが、次にわたしが目にしたのはスキー板。
スキーと言えば、小学校の時に両腕を折ってから雪に乗っていない。
○十年ぶりにスキー板とストックでへっぴり腰の散策が始まった。
ちなみにこれはクロスカントリースキーで、つま先部分のみを固定するので
歩きやすいらしい…? 確かに、長靴で雪の中を歩くよりはいいのかもしれない…
が、素人のわたしは明日の全身筋肉痛を覚悟した。

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履いているのはクロカンだが、整備されたクロカンのコースがそこにあるわけもなく…
道なき道を、瀬川さんが前日にロケハンしてくれていたという…!
雪に覆われた湖(わたしにとっては雪山)をどんどん入っていく地元民3人。
ズサーっとコケるわたし。を起こす皆さん…
雪は鮮度が高いからなのか積もりたてでフワフワしてコケても痛くないのだけれど
コケるとひとりじゃ起き上がれないのが困る。唯一うまいのはターンだ。どやっ。

そして、この雪に閉ざされた世界で逞しく生きている命を発見。
…ではなく、瀬川さんお父さんに教えてもらって気づく。さすが西和賀のプロ。
わたしは自分の足元でいっぱいっぱいである。

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帰った山小屋のお家がまたなんとも素敵だった。
人力で丸太で建てたのではと思うようなお菓子の家みたいな山小屋には
ひと冬分割られた薪が積み上がり、室内にはやかんをのせたストーブ。
お母さんが、魔法瓶の水筒からお茶を注いでくれる。
何から何まで、おとぎの国みたい。

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ちなみにお父さんの瀬川強さんはプロのカメラマン・プロのガイドで
Facebookにはものすごい写真がたくさん上がっているので必見。
しかし、本当にお気に入りの写真はFacebookにはアップしないとのこと。
現地でその秘蔵お宝写真を見せてもらったのは、言うまでもない。

発想の貧困なわたしは、雪国に住まう一家と言えば
無口で怖い頑固親父と、おしんのような物静かで忍耐強い妻…
のような家庭を想像していたのだが、まったくもって逆の
西和賀愛に溢れるのびのびとあたたかい瀬川さん一家のファンにもなり
再訪を誓ってこの地をあとにしたのだった。

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(帰りは駅前で名物の納豆汁であたたまる。)

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(後日、西和賀町にふるさと納税をした。選べるギフトより湯田牛乳ギフトセットを頼んだら、その量にたまげました。ふるさと納税の西和賀町のページはこちらから。)

2015/02/26

地球の舳先から vol.353
東北(2015)編 vol.5

※こちらの記事には、2014年12月末及び震災当時の
 東松島市の写真を掲載しております。

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しとしとと雨が降っていた。
東北の年末はそれなりに寒かったが、傘なしで歩けるギリギリの雨だった。
松島海岸から乗った、復旧工事中の仙石線代行バスをひとつ前の東名で降り
野蒜の駅までひと駅分だけ、歩いてみることにした。

川が近い。雨だったので平時がどうなっているのかわからないが
随分とせり出した水量は、このあたりも地盤沈下の影響があるのかもしれない。
右手に見える海岸線までのしばらくの距離にはもうほとんど何もなく
盛土の工事と、その土を運ぶためのジェットコースターのレールのような
見たことのない大きさの物体がそびえ立っていた。

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野蒜の駅はすっかり廃駅の様相で、折れ曲がった柱もそのままだ。
駅にあるファミリーマートの前が代行バスの乗り場にもなっており
米国のトモダチ作戦の模様が屋内の広場に展示されてある。
野蒜の駅からまっすぐ海岸線までは早歩きで5分ほど。
防潮堤なるものが何なのか、見てきたいと思っていた。

「防潮堤問題」
最初、私には何が問題なのかがわからなかった。
テトラポットが並ぶような海岸線は普通に見たこともあるし、
何より津波であれだけの命を失った現地の海町の人たちこそが
あれだけ強固に声をあげて反対することに、意外ささえ覚えていた。

それが、気仙沼に出入りするようになってからは、
「海と共に生きてきた街。それを遮断し、海イコール怖いもの、
とするのはどうかと思う」という海町だからこその深い意見に遭遇する。
そう、そこで生きている人は、自然の怖さなどすでによく知っている。
だからこそ、自然と人間を対立構造にし「戦う」なんて考え方そのものが
お門違いだ、と感じるのだろう。
女川のように、防潮堤を作らないことを選択した地もある。

私のような、海のない県で育った素人目にも、疑問点は沢山ある。
10mの防潮堤を作ったとして、それ以上の津波が来たらどうなるのか。
○年に1度、みたいな想定でその防潮堤の高さを決めているらしいが
正に○年に1度、というミクロな可能性の津波が来たのが今回の震災ではなかったのか。

しかし防潮堤があることによって、食い止められる被害も多分にあるのだろう。
仮定と想定は、常に「でも」「しかし」「ただし」の連続だ。
私はこの問題については、何も言えない。
いや、何かを言うには、勉強不足だし知識不足すぎる。

が。この目で見た「防潮堤」なるものは、恐ろしすぎて
「これは、なんだかやってはいけないことをしようとしている」
と思わざるを得なかった。

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野蒜海岸へ行ってからもう2か月ほどが経つが、今でも思い出す。
水平線の代わりの、黒いビニールシート。
その上に立ってもなお、海の方に土が盛られ埋め固められている。
そして、建物がほとんどなくなった海岸に響く
「ドーン、ドーン」という間断のない思い重低音が
波が防潮堤に当たって立てる音なのだと、随分してから気付いて驚愕した。

日本海沖の演歌に出てきそうな「ザッパーン」的な波とは違う、
地下に押し込められたマグマが立てるようなその音は大地すら揺るがしそうで、
おどろおどろしいとしか表現できない恐怖を感じた。
加えて、そのあまりの重い音に、抗い難い力の強さを感じ
「こんなものでこの海が抑え込めるわけがない」と思うのは易かった。

海は、人類の敵になったのだろうか。

わからないけれど、戦ったら多分負けると思う。
そう思うには余りある、五感の体験だった。

-野蒜駅にて展示されていた、震災直後の様子。(クリックで拡大)
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2015/02/13

地球の舳先から vol.352
東北(2015)編 vol.4

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明日、東松島来れる?
そう声をかけてくれたのは、「東松島食べる通信」の編集長。
(「食べる通信」については前回の記事をどうぞ。)
東松島市は、「松島や ああ松島や 松島や」というふざけているとしか
思えない名句に出てくる「松島」のすこし先。
私が東松島に行きたい行きたいと言っているのを見かねた編集長が、
お使いになら付き合わせてやる!とアレンジしてくれたのだった。

松島から先、東松島市アンテナショップのある東名までは
震災の影響が強かったところで、いまも電車の代わりの代替バスに乗って向かう。
いつもFacebookで紹介されているので見覚えのある店舗に入ると
これまたFacebookで見覚えがありすぎて他人と思えない方が。
ひとしきり買い物をしてから車に乗り込み、「東松島食べる通信」で特集される
牡蠣漁師の阿部さんのいる奥松島水産の事業所がある港へ案内して頂いた。

外洋に近い東松島は、もっとも甚大な被害を受けた区域の一部であり
米軍の「トモダチ作戦」で知っている方も多いのではないかと思う。
ご自宅も被害を受けたというが、案内してくれた伊藤さんは
東松島への深い愛情で満ちている。
雨の日だったが波は穏やかで、当時のことなど想像もつかない。

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年末の忙しい中、牡蠣漁師の阿部さんに牡蠣漁について教えてもらう。
ホタテの貝殻に牡蠣の幼生を付着させ大きくなることも初めて知る。
だから、大量のホタテの貝殻が綺麗に並べて保管されていたのか。
「ホタテによくつくんです」と言われても、
なにも知らないわたしは「…?」である。
で、漁師さんも、「…えっ」てなる。すみません。

ホタテの貝殻につかまって水中で大きくなった牡蠣には
海藻やら小さい貝やらがたくさんついている。
小宇宙というか小地球で、感動する。
阿部さんの所では、過剰にこれらを洗い落とさないようにしているらしい。
「牡蠣の洋服みたいなもんなんで」…職人は言う事が違う。

生食用に出荷するものは、特殊な処理をするらしい。
なんだ、新鮮かどうかだけで決まるわけじゃないのか。
↑こういう人間がノロウィルスをつかまえるんだな、と我ながら思う。
命の学校である。海の命、だけでなく、自分の身を守る命。

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試食にと貝をあけてもらってびっくりした。
よくその殻に入りきっていたね、というような大きさですごい食べごたえ。
冷たい水で締めるとまた味や食感がきゅっとしてこれまた美味しい。
こんな牡蠣を食べてしまったら、オイスターバーの牡蠣を
「縮んだ青い貝」と呼ぶ、いやなやつになりそうである。

帰りはいくつか東松島の名所を案内いただきながら、
伊藤さんに駅まで送って頂いてしまった。
「電車が通るんです」と、真新しい線路を指して教えてくれる。
6月には仙石線が全線復旧するということで、貴重なバス体験だったのかもしれない。
綺麗な海に再訪を誓って、東松島をあとにした。
人を巡る旅は、つづく。

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*この時は1週間ほど家に帰る予定がなかったので、阿部さんの牡蠣は後日蒲田で行われた物産展でGET。生牡蠣も勿論、よくダシをとった牡蠣飯も最高でした。
帆立も買ったけれど、元気すぎてあけるのに大格闘。じゅりあんのお菓子も美味。
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2015/02/06

地球の舳先から vol.351
東北(2015)編 vol.3

東北旅の振り返りを始める前に、すこし前置きしなければならないことがある。
色々な地で色々な方にお世話になったが、その多くが「食べる通信」を通じたご縁だった。
この「食べる通信」について、最初にご紹介をしておきたいと思う。

「東北食べる通信」からはじまったこの「食べる通信」というシリーズは、
表面的にだけ一言でいうと、定期購読専門の、食べ物つきの月刊誌。
震災後の2013年初夏に発刊したばかりの試みだ。
毎月、ひとつの地域や生産者を取り上げた雑誌と、あくまで付録としての
食べ物がついてくる。帆立とか、短角牛とか、山菜とか。

普通じゃないのは、その情報誌が大変に素晴らしいハードボイルドドキュメンタリーなこと。
流通を介しては絶対に見えない生産者の日々、一次産業の問題などが深く
クローズアップされるのだが、とにかく「人」の魅力に満ち満ちている。
自分の口に入るものを、どこか他のでも同じ人間が作ったのだろうという事は
考えればわかっても、肌感としてはなかなか湧かない。

「今日は漁が不調なので発送を延期します」ということだって当然にある。
生産者がFacebookのコミュニティに登場し、読者がレシピや料理を投稿していく。
相手が見えなかったのは生産者の側も同じなようで、濃いコミュニケーションが交わされる。
生産者が食べ物を持って東京にやってきて交流会をすることもあれば、
生産現場に読者が手伝いに行くツアーが開催されることもある。
車を出すからあの人に会いに行こう!と言い出す読者がいる。
そうして人に惹かれ「CSA」という、生産者との直接契約を結ぶ人がいる。
地域や生産者が気に入って、CSAの立ち上げに手を挙げる読者もいる。

創業者の東北食べる通信編集長の高橋さんは、グッドデザイン賞のプレゼンでこう言った。
「私たちがデザインしているのは、雑誌ではなくて関係性」
(全文の書き起こしがこちらで読めるのでぜひ。ものすごく素晴らしいプレゼンテーション。)

稲刈りに際し不測の事態におちいった生産者の米農家さんがHELPを訴えたところ、
全国各地からのべ200人もの読者が駆けつけたこともあった。
農家さんに負担をかけないよう率先して皆の行程をとりまとめる読者が現れる。
違う号の生産者や、行けない読者からも次々に差し入れが届けられ
大自然の中でみんなで稲刈りをしたそうだ。

インターネットは革命だと言われて久しいけれど、
「ソーシャルメディアって、こういうことだったのか」とようやく真に思った。
「食」と「インターネット」から、小手先のテクノロジーではなくて、
何か大きなものが変わろうとしている。
たぶん、価値観を経由して、生き方そのものが。
いや、最近の何十年かのほうが、きっとクレイジーだったんだろう。

食べる通信は、クラウドファンディングで資金を得て、全国リーグ制に拡大。
私が向かったのは、姉妹紙の「東松島食べる通信」で知った東松島市。
次回は東松島について、書いていこうと思う。


こちらは東松島食べる通信<2014年秋号>のお米とイクラ。
冒頭のの写真は東北食べる通信<2014年5月号>の西和賀町の蕨です。

2015/01/23

地球の舳先から vol.350
東北(2015)編 vol.2

※こちらの記事には、2014年12月末の名取市閖上地区の
写真を掲載しております。閲覧の際はご注意ください。

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見渡す限りの、オレンジ色の土地。
「きついな…」というのが、最初に抱いた感想だった。
仙台へ着いた翌日、津波で壊滅的な被害を受けた閖上(ゆりあげ)地区を訪れた。
瓦礫がなくなり、盛土も進まない土地を草木が覆い始め
真冬を迎えるオレンジの枯れ草色に似あわず、逞しく生き始めていた。

閖上地区の被害については幾度もの報道で見聞きはしていたし、
震災後、事情あって仙台で働き始めた閖上出身の知人のこともあった。
しかし実際、1メートル半ちょっとのこの身をもって現地に立つと、
生活の失われたその土地・空間の、肌で感じる広大さに言葉を失う。
報道の文字が写真になり、カラー映像になっても、
そこにリアリティなんてこれっぽっちもない、と思い知る。

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丘のように盛られた高台「日和山」の上に、鳥居が見えた。
一段高いところからこの場所の全貌を見るのは気も引けたけれど
ここまで来たのだから見られるものは見ていくしかない、とも思う。
その鳥居は、宮大工だったとある方が、震災後に残った部品を少しずつ
集めながら作ったものであるらしかった。
登る階段の設置費用はクラウドファンディングREADY FORで集められたものだという。
当時の写真もあるので、ぜひこちらもどうぞ
海に向かって牌が何本か立てられている。桜の木もあった。

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すぐ近くのブロックにはまた立派なモニュメントが建っていた。
そして、被害に遭った人たちの住所と名前がひとりずつ刻まれている。
同じ苗字の人が続くところもあり、当時の状況を物語る。
「街がいっこ消えた」――そんなホラーかSFかいずれにしても
映画みたいなことが、起きるわけがないのだ。
ひとつの広大な空間が、すべてが失くなったように見えるけれどもそれは
1人の人間が突然いなくなる、ということが大量に起きた結果。
刻まれた1人1人の名前こそが、ここで起きたことのリアリティだった。

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たくましい光景もあった。
廃車になったのであろう車2台の間に木を通し、大根の一本干しを作っている。
となりでは、野菜の青々した葉が育ち、コンクリートなのか土なのかも
よくわからない家の基盤だった部分が、違って見えてくる。
しかし、1台はナンバープレートをはがし、1台は隠れるように物を置いてある
ところを見ると、何か嫌なことがあったのだろうかとも思い
カメラを向けるのもじゃっかん躊躇する。

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想像しようとしても、しきれない。
それでも、想像しようとするしかなかった。
ここも大川地区同様、今も様々な被害当時の検証が続けられている。
ダイヤモンドオンラインより

海沿いに建ったゆりあげ港朝市は、年末と毎週日曜日の開催。
出足が遅かったので、名物の赤貝丼は逃したが、活気があり温まる食べ物も沢山。
飲食店が入った屋内のスペースもあるし、外のバーベキューコーナーでは、帆立や牡蠣、海老などをその場で買って焼いて食べることもできる。

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帰りは、名取の駅まで出ている無料のバスを利用した。
目印になるのだろう、このあたりで唯一残された建物の所に建て看板があり
ミニバンに拾われる。仮設住宅を回って駅へと繋ぐが、ほかに乗客はない。

久々に見た海沿いの地震痕だった。

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