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地球の舳先から vol.324
パリ2014編 vol.8
さて、ブルゴーニュ編の後編。(前編はこちら)
まずはジュヴレ・シャンベルタン村で畑と酒蔵を見学した。
植え付ける前の、赤い蝋で蓋をした小苗、まだほんの数十センチの苗木。
葡萄といえば背伸びをして収穫するものだと思っていたが、
収穫期にも腰の高さくらいまでしか大きくせず凝縮させるのだという。
盆栽のように1本1本の枝を大事に芸術品のように育てていた。
数日後に悪天候と病気の予報が出ている為、耕運機のようなもので薬を
撒いている畑が多いなか、案内してもらった畑では6代目が手で薬を捲いていた。
機械を使わないのか、と聞くと、「そうですね、彼は早死にしますね」といったコーディネーターと
6代目が話す何事かわからないフランス語の会話に「フクシマ」と唯一聞き取れる単語
が聞こえ、ああこんなところにまでジョークのネタとして浸透しているのか、と思う。
日本人的には、笑えない。無論、彼のフランス語が通訳されることはなかった。
じっくり試飲タイム。試飲というより、同じ葡萄でもこれだけ味が違う、
ということを見せるためのようで、いろいろな種類が1杯で酔っぱらうほどの量が出てくる。
熟成年が長ければそれだけでいいわけでは当然なく、
(そんなような発言をしたらまたもぐり扱いされるだろう。詳細は前編へ)
自分が一番好きなものが美味しいものなので、4種類ほど飲んで、1本買った。
残念なことに、それが一番高かった。いや、見る目があったというべきか…
お次はヴォーヌ・ロマネ村。かの最高峰「ロマネ・コンティ」が作られるところだ。
当主は畑へ出ているということで、娘のソフィーさんがひとりで切り盛りしていた。
といっても観光客が押し掛ける場所でないので、我々の一行をいれて10人程度。
ここでも、わたしでも知っている名前のものがどんどん飛び出してくるので
心臓に悪いのだが、あまりブランドに踊らされず飲むことである。
さすがにいいものは手が出る値段ではなく、セラーに置いておく用に安めのを買った。
…結局、買っている…。あと何軒まわるのだろうか…
昼食をはさんで、今度は白ワインの畑へ。
赤と比べて白の葡萄畑はコンパクトにまとまっており、ムルソー、サシャーニュ、ピルニュイ
といった村をまわって、試飲もいっぺんにできる場所に連れて行ってくれた。
畑によっては、いまだに馬に畑を耕させるところもあるということで、
ところどころに足の太い馬が突っ立っていた。
こうして1日が終わって雨が降り始める夕方には、
我々一行はすっかりほろ酔い(以上)のいい気分で車の中で爆睡。
帰りは、免税範囲よりも重さが敵だった…
とにもかくにも、「葡萄畑が見たい」という当初の目的は達成され、
意外と買える金額だったことも嬉しかったわけだが、なにより自然と歩む
ブルゴーニュという特殊さを知られたことが一番の収穫だったように思う。
「高ければいい」の時代も「美味しければいい」の時代も終わっていて、
何にお金を使うのかということとか、自分の食べたもので体はできているわけなので
何を口に入れるのかということについて、多分考え直す時期がきているのだろう。
こんなところで、今回のフランス弾丸旅行もおしまい。
多分、またすぐ行くけど。
地球の舳先から vol.323
パリ2014編 vol.7
ブルゴーニュに葡萄畑を見に行くことを、今回の旅の大きな目的にしていた。
広大な田舎町なので、車で移動せざるを得ずツアーを探していたが
大型バスはわたしの行きたい村にはほとんど乗り入れておらず、
個人でコーディネートをしてくれる人をネットで見つけていた。
ジュヴレ・シャンベルタン、ヴォーヌ・ロマネ、ムルソー、モンラッシェといった
主要な(というか、いわゆる、な)ワインの生産地を回ってくれることになっていた。
参加してわかったが、団体ツアーが乗り入れないわけである。
コーディネーターの日本人は現地の方から絶大な信頼を得ているのだろう、
案内してくれる畑は素晴らしく、小さな酒蔵も奥まで見せてくれ、
おまけに出してくるワインが質・量ともに「試飲ツアー」ではないレベル。
移動の車の中でブルゴーニュワインの手ほどきも受ける。
いわく、ボルドーワインなどはワインの「味を作る」プロというか職人のような「人」がいて、
その「人」のすごさがワインに反映されるのだが、ブルゴーニュはあくまで自然主体。
だから、ボルドーが「シャトー」といってワインをつくるワイナリーに対して格付けがなされるのと違い、ブルゴーニュは「土地」に名前がついていて土地に対して格付けがなされる。畑が命。
葡萄の味をいかに凝縮するかが大事なので、土地はやせているほうがいいし(意外な話)、
ボジョレー・ヌーヴォーなどはよく「当たり年」がどうこうと言ったりするが
天候の悪い年があったとしてもそれも含めて毎年同じものなんてひとつもできない、
オリジナルで唯一無二の自然がつくりだすのがブルゴーニュワインで、それがいいところなのだ、と。
なんとも素敵な話ではないだろうか。
余談だけど、だから、二言目には「作り手は?」なんてことを、ブルゴーニュものに対しても言ってしまう人は、適当にあしらっておきなさい、ということらしい。
そういえば無類のワイン好きの友人(しかしその人はナパ・バレー派)も
いつか「ボルドーワインは混ぜ物だら」といっていたことを思い出す。
なるほど。
しかし得てして、ワイン好きというのは面倒な人間が多いもんである。
そんな話をしきりに感心して聞きながら、車は南下を続けていく。
後編につづく
地球の舳先から vol.322
パリ2014編 vol.6
JunkStageライターとしてもご一緒している田淵寛子さん。
パリにお店を出すまでの紆余曲折については随時、コラムで拝見していたので
これは、パリに行って素通りはできない。
なぜパリでお好み焼き…と思いながら、バレエスタジオもあるマレ地区へ。
ビールもオタフクソースも日本製。コテにもオタフクのロゴが入っている。
お通し的に惣菜が出てきて、寛子さんが目の前で焼いてくれる。
お好み焼きはエビ入り、イカ入り、豚入りなど。山芋とキャベツでふわっふわ。
新しいこともあってかお店は開放的で、なんだか透明感すらある。
フランス人たちの間では、この店のトイレ(もちろん日本製)が話題だというが
日本人のワタシにはウォシュレットが特段珍しいわけもなく、行くのを忘れてしまった。
思えば寛子さんと出会ったのはもう10年近く前。
その頃、寛子さんは女性起業家としてバリバリやっていて、
「この人、ピンクのパソコン売ってる人」と紹介され、そのうえサンバダンサーだというので、
わたしは結局寛子さんのことがわからずじまいであった。
再会したときには、離婚して(これは余計か)お好み焼き屋を、しかもパリで店を出すという。
本当?と思っていたらあっという間に店がオープンしていた。
いや、前回パリに行ったときに一緒に飲んだので、それなりの準備期間はあったのだろうが
それにしても、一般人から見れば爆速なみのスピード感である。
「不安とかね、ないんでしょうね」と言うと、
「不安? ユウちゃん、何が不安なの?」と逆に聞き返される。
「いや、将来の不安とか」
「将来の何が不安なの?」
「…いやよくわかんないけどさ、野垂れ死なないかな、とかさ」
…これは冗談じゃなくいつもわたしにつきまとっている不安要素なのだ。
「アタシね、いまFacebookで友達が2000人くらいいて、そのうち家に泊めてくれそうな人が
何人くらいいるから、多分しばらくイケると思う」
………何がだwwwwwwwwwwwww
失礼、つい「w」などというネット専用語を使ってしまったが、ほかの表現が見当たらなかった。
相変わらず、パッキリ生きているなあ、と思う。
そしてやっぱり、正体のわからないものに妄想を膨らませて
不安や恐怖との無駄な戦いで消耗することは、当たり前だけど非常に損な生き方なのだ。
人生は、心ひとつの置きどころ。
テイクアウトもできるということだったので、おみやげにもうひとつ焼いてもらい
ケーキボックスに入ったそれを手に、最後の晩餐は終了。
すっきりした気分で、店を出た。
月並みな表現だが、明るくて前向きな人のところには、いい人が集う。
誰だって、あたたかい太陽のそばにいたいだろう。
ひと一倍の苦労も、ホントはしているのだろうからこそ、人間としての深みが出るのだろう。
やっぱいいなあ、寛子さん。
また行くね。
地球の舳先から vol.321
パリ2014編 vol.5
わたしは、パリの北のほうにあるモンマルトルの丘が好きで、ケーブルカーへ乗って
サクレ・クール寺院まで行くとパリが一望できるので、よくこの景色を見に行く。
もともとは独立したひとつのコミューンで、葡萄畑と風車、そして修道院があった
その地は皮肉にも、修道女たちがワインを作っていたことから
19世紀末から歓楽街となり、かの有名なムーラン・ルージュもできた。
アーティストの町でもあり、ピカソやモリディアーニらが住んでいた
洗濯船とよばれる安アパートは集合アトリエのようになっていたこともあり
今でも芸術家が集う場所ということになっているのだが、
いかんせん観光客相手の似顔絵描きが多いのが玉に瑕なところ。
ムーランルージュの真横の小路を上がっていくと
バレエスタジオもあり、日本人の先生も教えている。
この一風変わった場所にも一度滞在してみたくて、
今回は1泊だけ宿を取っていた。
夜になれば安っぽい赤いネオンサインが光り、
それなりな気品を保つムーランルージュの風車のわきは
パリとは思えないデザイン性の風俗店やサウナ(何の?)、
ビデオショップやアダルトショップが立ち並ぶ。
映画の『アメリ』で主人公が働いていたおしゃれなカフェもあるが
小洒落たビストロよりも、アメリカふうのビアホールが目立つ。
翌朝、SUBWAY(電車じゃなく、サンドイッチチェーンのほう)の
となりのコーヒーショップで往来を見ながら朝食をとっていた。
すると、ごみ置き場の隣の可動式公衆トイレから、ドレッドヘアーで
胸元を大きく露出した、体の大きい女性が出てきた。
しかし着ているものがやたらと安っぽい。
その扉の向こうに動くものが見えた気がしたので、ん?と二度見すると
そのあと、しばらくして、おなじところから男性が出てきた。
…なるほど。
ふたりは話をするわけでもなく、男性はどこかへ消えていき、
裏で待っていた女性はふたたび公衆トイレの中へ。
しばらくするとまた別の男性がそこへ入っていく。
で、また、女性のほうが出てくる。ほんの5分、10分の話。
…儲かってんなあ。
その効率に驚く。それに、時は日曜日の、まだ朝もあけたばかりの8時前。
なんて働き者なのか、もしくはそこになにかの必然があるのか。
事情も、しくみがどうなっているのかもわからなかったが
モンマルトルのおひざ元で、そんな光景を見ながらサンドイッチを食べた。
わたしは、ひとより感受性がないのか、もしくは想像力がないのか、
血みどろの暴力映画とか、猥雑なもの(めったに見る機会はないのだけれども)
とかを見ながらでもまったく問題なく食事ができる。
サンドイッチは、チェーン店らしく安定の美味しさだった。
注文を間違えて食べ過ぎ気味の胃にさらにアップルパイを押し込み、
出かける。バレエスタジオに。
不思議なパリ。
「光と闇」なんて、くだらない表現はしたくない。
朝が来て、そのうち夜が来て、そこにいろんな人が生きていて
いろんな人が生きていける社会があるというだけなのだ。
地球の舳先から vol.320
パリ2014編 vol.4
カジュアルでオープンなマレのスタジオ。
ダンスはクラシックバレエからアフロキューバンまで無数のレッスンが
10以上のスタジオで毎日行われていて、歌や演劇のコースもある。
劇場も併設されていて、コの字型の建物の中庭はカフェ。
メインの大スタジオにはこちらでは当然のごとくピアノが設置され
レッスンの生ピアノの音が響く。
年季の入った木製のバーはぼろぼろでたまに棘がささるし、
床もリノリウムじゃないけど、わたしは朝の眩しい陽光がたっぷり入るここが好き。
スタジオにはリストとかヴェートーヴェンとか、作曲家の名前がついている。
かすかに弯曲した硬い階段をあがる。
ここには日本人だからと特異がられる空気もない。
年齢層はそれこそ、20代から60台まで。
「会ったことあるよね?」
ジェスチャー込みで、ぎりぎり、そう言われたことがわかった。
日本びいきで、ラテンアメリカ生活が長かったからなのか
ユーモアのセンスもまるでラテン人のフレデリック先生。
「マエー」とか「ハンタイー」とか、たまに日本語で指示を出す。
当然、ほかのフランス人の生徒さんはわからなくなるわけだが、
みんな迷惑がるでもなく、可笑しそうに微笑む。
先生は、ノッてくると、ピアノに合わせてオペラを本気で歌い始める。
国境だけじゃなく、バレエはいろんなものを越えていく。
体が軽くなって、よく動いた。
音楽が、素直に体に入ってくる。
おなじオープンスタジオで比較しても、
日本のバレエ社会は、やはりどこかしら封建的だと思ってしまう。
コワい先生、よくわからない派閥、自分より上か下かを格付ける周りの視線。
自然と、内に閉じこもり、自分だけを見つめるようにして、心身の安定をはかる。
踊る喜びよりも、終わりの無い鍛錬…
そういう部分が、少なからずやっぱりあるのだろう、と思わざるを得ないほどに
ここへ来ると、自然に還って「踊れる」のだった。
ちなみに、更衣室は男女一緒。
何を隠すわけでもなく、談笑しながら全裸着替えがあたりまえである。
(ちなみにスタジオのあるマレ地区は、同性愛の聖地でもあるらしい)
確かに踊る人間にとって、肉体は、性的なものはほとんど感じず
機能というか道具のようなものなのだが…
やっぱり、バレエはいろんなものを越えていく、…のだろう…。
地球の舳先から vol.319
パリ2014編 vol.3
始発が動く前のRER空港駅には、明らかにヤバい人種がたむろしていた。
だいたい、朝の4時から手ぶらで空港駅にいること自体、おかしい。
ずいぶんと治安が悪くなったものだった。
しかも次から次へと目が合ってしまう。この電車に今日乗るのはギャンブルだった。
治安が悪いのはわかっていたので、街までの直通(ノンストップ)に乗ろうと
思っていたのだが、始発駅の段階でこんなのがたくさんいたら乗っただけで手遅れだし
だいたい、それでもちらほらいる観光客はほとんど始発列車に乗るだろうから
ぼっちでノンストップの列車を待つほうが危ないかもしれない。
結局、始発の列車に乗り、何もなかったものの、
ちょっと次を考え直す25分間だった。
レ・アール駅で電車を降り、とぼとぼと行きつけのホテルへ向かう。
地元の人に聞いてもあまり知らないホテルはまだ朝が早すぎて
ホテル名に5つ星が銘打たれた看板さえ、厚い扉の内側にしまっていた。
本当に、人に知られたくないのだなあ。
近くのカフェで説明もよく聞かず「スペシャルパンケーキ」をオーダーすると
25ユーロでとんでもないものが出てきた。まあ、ビタミンは摂れそうだけど…。
6時になるのを待ってホテルへ向かった。
チェックインは15時、それまで、天蓋つきベッドのあるプールサイドで
寝かせてもらおうと思っていたが、「特別に」と部屋をあけてくれた。
冬から100ドル値上がりしていたので、もうユーロ安のときでないと泊まれないだろう。
それでも、その「いつか」はきっと必ず来る。
スタンダードより下の「mini」という部屋はひとりで泊まるには当たり前に十分で
中庭のテラスでオムレツやベネディクトを食べ、コーヒーを飲む。
誰もいない早朝のプールは広いミストサウナも貸切状態で
疲れた体をほぐすために熱心に泳いだ。
このままここで沈んでいたい、ここへ来るたびそう思う。
エントランスで香るオーデトワレに包まれて酔い、
何時間いても気にしない激しくフレンドリーなスタッフのいるカフェでソファに埋もれる。
久々に、ペンで(つまり、パソコンやスマートフォンではなく、手で)ものを書いた。
もうどこへも行きたくない、と思ったが、
パリにはわたしを時間で拘束するものがひとつだけあるのだった。
踊りに行かなきゃ。
かぐわしいエントランスを抜けて、サントノーレ通りを東へ。
地球の舳先から vol.318
パリ2014編 vol.2
パリへ行った。
飛行機を降り、顔をあげる。
真っ先に飛び込んでくるのは、あらゆるところに張り付けられた広告たち。
外国へ行ってもこんなもんばっかり気にしてる、と思いつつ
広告の仕事を捨てたいまのわたしにとっては、その性癖も
「ワーカホリック」ではなく「ただの趣味」にすぎないはずだった。
今では世界中で見慣れた、某・新進気鋭の企業のロゴマークに、
とある友人のことを思い出した。
なんでこんなときに、と思う。
ある種の不愉快さをもって。
パリへ行く、ということはわたしにとって、
それ以上でもそれ以下でもなく、ただ行くことだけが目的だったりする。
いつものようなやること見るものがハッキリしたお勉強のような旅でもなく
現実というか、それだけじゃなくすべてからの逃避であって
パリでの滞在中は一切のことをあまり考えたくないし、
日本にある一切のことを思い出したくない、と思っている。
それは別に、日常のいやなこととか不安なこととか
そういうマイナスなことばかりではなくて、
楽しいことも、ワクワクすることも、大好きなモノやヒトのことも
なにひとつ忘れていたい、と思うこともあるのだ。
なにかが足りない、だからパリへ来たがったのだし
その「なにか」の正体も、行く前から十分にわかっていた。
何の山も谷もない生活を(このわたしが)1年近くもしていた。
毎日が平坦である、ということすらもはや認識しなくなり
そんなはずはないのに、明日も明後日も1年後も
なにもなくおんなじ日々が続くのだろう、という安定感は、ときに絶望にもなる。
それもあくまで平坦な、感情の起伏をけして伴わない絶望感。
だから、パリへ着いた途端に感じた
胸を刺す痛みと、ある種の不愉快さに、
一瞬で情感のもどった自分にやや驚く。
やはり、わたしにとってはパリはそういうところだった。
ここへ来ると人格が変わるんなら、
間違いなく本当はそっちが主人格というか本能なのだろう。
ここで感じたことが、きっとわたしの本心なのだ。
気の休まらない旅になりそうだな…
いろいろな感情が一気に溢れて、深い溜息が漏れた。
3時台のパリは当然真っ暗で、しかも気温は7度だった。
コートしか入っていないスーツケースを転がして、
ガラス張りの建物から街へ。
地球の舳先から vol.317
パリ2014編 vol.1
パリへ行くことにした。
気づけば、同じ国に2度行くことがないわたしにしては珍しく
もう6度目になるらしい。衝撃的である。
2007年、社会人になってはじめての年末年始休暇記念ということで、行った。
フランスなんて大っ嫌い、排他的でカッコつけてて。
そんなイメージはパスポートを見もせずに「オハヨゴザイマス、イエッ」とハンコをつく
やたらノリ?のいい入国審査官に見事に崩された。
今思えばこの頃が一番お金あったはずなのに、底値の中国東方航空で。
2度目は2008年の夏、中華国際航空で。
この頃わたしは人生最大の思春期を迎えており、しかもニートだったけど、
休養と称して3週間もパリのルーブル美術館真ん前のアパルトマンで豪遊した。
自炊を覚え、毎日踊っていた。メトロにほとんど乗らなくなり、歩きまくった。
帰りは飛行機トラブルによりANAの当日券を買うという号泣ものの事態を経験し、
まさに「安物買いの銭失い」という言葉通りで、以降の旅を見直す。
3度目は2010年の、やっぱり夏が過ぎた初秋の頃。
この頃ともなると、「転職をするとパリへ行く」というのが習慣化してきていた。
エールフランスで飛び、毎回行くカフェやビストロができて、すこしこなれて来た。
Passyという超高級住宅街のアパルトマンで過ごした。
そしてこの旅から帰った後、転職して家を買ったのでもうしばらく海外旅行には行かない、
などと妄言を吐いていた。
4度目は2012年の年末。
このときの旅の主役はイスラエルだったが、エールフランスでトランジットをパリにした。
はじめて、カフェだけの行きつけだったホテルコストに泊まった。
イスラエルに行きたくない気分になったので、パリでのトランジットはよくないと学習した。
帰りに乗り遅れそうになってエールフランスの素敵なグランドスタッフに助けられたうえに
涙目で飛び乗ったらビジネスクラスにアップグレードしてくれたので一気に機嫌をなおした。
5度目は2013年、というか、その1ヵ月後。
これもまた現地2泊という超短期間だったが、逆に、4日あればパリへ行けるのかと学んだ。
短期間だったけど、オペラ座バレエも、ミュージカルも、キャバレーも見た。
芸術に触れに行った旅だった。
このときも、行きも帰りもエールフランスのビジネスクラス。
はじめて、飛行機の中で飲みすぎて記憶を失った。だってすすめるんだもん。
そして、今回。別に、転職したのにパリに行くのを忘れていたからではない。
4日あればパリへ行けると学んだので、GWのいちばんいい時期を狙ったまで。
最近流行の、早朝に帰国してそのまま出社する「エクストリーム出社」というやつを、
社畜、もとい、サラリーマン生活を満喫しているのでネタ的にやってみたかったのだが
ある日、エールフランスから「アナタの予約した便がフライト変更で運休になったよ。」
という非常におもしろいレターが届き、結局有給休暇を1日使って5日間の旅に。
いつも、おんなじことをしている。
踊って。舞台見て。歩いて。スーパーで安いワイン買って。コストでお茶して。
かわらないものなんてないんだけど、自分の趣向があまりかわらないことに安堵
したり、することもある。
さて。いってきます。