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2014/04/18

地球の舳先から vol.316
ミャンマー編 vol.14(最終回)

旅において重要なファクターを占めるものが「食」だとわたしは最近になって目覚めた。
キューバなんていう、「食べ物を大事にしなさい」と説教したくなるくらい
料理の下手な国で生活していたこともあり、あまり食にこだわりがなくなった。
しかし世の中には、安くて美味いものがたくさんあるとようやく知る。

ミャンマーは物価が安くていい、と言われるが、
高いものを食べようとすればそれなりにする。
あと、意外と観光地なのにレストランなどがあまりないところだと
ホテルで食事をせざるを得なくなり、びっくりするような値段だったりする。
ひととおり経験してきたのでこれからご紹介したい。

<<カレー>>
ミャンマー名物は、というと、「カレー」ということになるらしい。
しかし日本のカレーや欧風カレー(いわゆる「ホテルのカレー」)とは全く別物だし、
タイカレーやインドカレーともまったく違う。
ここでは「カレー」と便宜的に呼ばれているだけで(なんの便宜かは不明)、
油の中に具を入れて煮込み、具の味がでた油でたっぷりの米を食べる、というのが
ミャンマー流の「カレー」であり、正確(?)には「油戻し煮」というらしい。

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↑もっとも標準的な「カレー」。食べかけではない。この量で大量の米を食べる。
ほかに惣菜や生野菜がいろいろ出てくることもありお腹はふくれる。主に、米で。
具はいろいろあり、一番高いのがこのエビ。
★マンダレーにて/地元の食堂/約400円

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↑ホテルの野菜カレー。野菜は安め。多くとれるのだろう、ミャンマーの
食事では野菜に不自由しない。手前は別注のキュウリのサラダ。
「ガスコンロが停電」ということで調理に非常に時間がかかっていた。
★インレー湖にて/ホテルのレストラン/約600円

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↑高級ホテルのフィッシュカレー。屋外テラスで外灯がないので夜は闇鍋。
テーブルキャンドルで火をつけたままいただく演出効果も残念ながら暗くてよく見えない。
★パガンにて/ホテルのレストラン/約1000円

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↑現地で比較するところの「中華風」カレー。いわゆるミャンマー風の「油料理」ではなく
もっとも日本のカレーに近く、細かくダイスしたトマトがたっぷり入ったベース。
パガンで採れるという川海老もぷりぷりでたっぷり。非常に非常に美味しい。
★パガンにて/観光客向け食堂/約600円

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↑ドライカレー。見た目はかなり微妙だが美味しい!
ご飯の中に、チキン(レッグ)がまるごと入っている。フォークでほぐれる。
イスラム教レストランも多く(イスラム教徒のほうが確かに商売は上手そう)ここもそう。
★ヤンゴンにて/地元の食堂/約300円

<<野菜炒め>>
そんなわけで、この「カレー」という名の油を毎回食べると危険。
胃腸が疲れていそうなときは「野菜炒め」がいい。量もたっぷりで味付けもやさしく、
あたりはずれがなく、体にもよさそうな上、安い。ということで重宝した。

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↑標準的な野菜炒め。いろいろ入っている。野菜、けっこうワイルド。
★船内にて/クルーズ船のレストラン/約300円

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↑洒落たレストランになると、こうなる。
★インレー湖にて/ワイナリーのレストラン/約500円

<<麺>>
ミャンマーへ行くと、「ミャンマー料理」というもののレストランが少ないことに驚く。
というのも、ミャンマーでは食事は「振舞う」ものであって「売る」ものではない、
という概念がここ最近まであったから、というのがその一因らしい。
そんなこともあり、数が多くて手軽に入れるのが、いわゆるヌードル屋。
屋台なら数十円、食堂に入っても100円程度で食べられて、米粉の麺なので
胃腸にもよい。これも旅中、重宝する。

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↑シャンヌードルというシャン族由来の麺。中身の具が選べる。これはチキン。
★マンダレーにて/地元の食堂/約100円

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↑こちらもシャンヌードル。美味しい。外人が女性1人で入ると注目を集めるけど。
★ヤンゴンにて/地元の食堂/約100円

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↑モヒンガーという名物屋台料理。レストランにはない庶民の味。
ナマズのスープに具をいろいろ入れる。
★ヤンゴンにて/屋台/約30円

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↑ココナツヌードル。やさしい味。
★パガンにて/ホテルのレストラン/ビュッフェ

<<その他>>

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↑サテ。焼き鳥みたいなもの。日本のアジアンレストランでもお馴染み。
チリソースでいただく。空港レストランということもあり、安定感が半端ない。
★ヤンゴン国際空港/空港内レストラン/約1000円

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↑魚。そこの湖でとれた魚!。…それ以外の形容が思いつかぬ。
そして、この焼き魚をナイフとフォークで食べるのは非常に難しかった。
★インレー湖/観光客向け食堂/約300円

ごちそうさまでした。

2014/04/10

地球の舳先から vol.315
ミャンマー編 vol.13

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さて、ここから2回は、ミャンマー旅の番外編ということで
横断的に、時系列や場所区切りでなく特記しておきたいことを。
まずは、各地にあった日本人慰霊牌をたずねたときの話。

1)マンダレーにて

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天空寺院、マンダレーヒルにのぼったときのこと。
寺院の敷地内なのだが、参道には小さなスペースで生活している家族などがおり
途中、子どもが何事か話しかけてくるので指さす方向を見ると日本が建立した
戦没者慰霊牌があった。上にも横にも広い参道では、言われなければ見落とすだろう。
ここはミャンマーの聖地。そのど真ん中によくこんなものを作らせてくれたものだ。
慰霊牌にも、ミャンマーへの感謝が綴られていた。

鎌倉で買ったお菓子を持っていたので、通りかかった袈裟を来た僧侶に、
お供え物をしていいかと聞くとうんうん頷くと、僧侶が子どもに何事かビルマ語で指示をする。
子どもは泣きそうな顔で首を横に振る。
片言の英語で今日は線香の用意がないというようなことを言う僧侶。
どこかの日本の神社のように「一礼二拝二拍手」とか書いてくれていないのでお参りのルール
もわからずとりあえず手を合わせたわたしの隣で、僧侶は膝をついて一緒に、いや、
わたしよりはるかに真剣に祈りはじめた。

なんなんだ、この国。
ミャンマーでは多くの国民が日本を恨んでいないとはいえ、ただ驚くばかり。
かれは僧侶、宗教家だから、人類すべてについて祈ってくれるのだろうか。
ちなみに、『地球の歩き方』には、「日本人が通りがかるとこれみよがしに掃除を始め
チップを要求してくるので注意」などと書いてあったがまるでガセネタだった。

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2)パガンにて

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続いて訪れたパガンでも、日本人慰霊牌を尋ねた。
もちろんわたしは戦没者家族でもないし、お参りに来たわけじゃない。ぜんぜん違う。
しかしあのマンダレーヒルでの一件以来、一応通り道にあるなら寄って行こう、と思っていた。

立ち寄ったのはタビニュイ僧院という僧院。日本語の表示もあった。
ここでも、慰霊碑はすみずみまで綺麗に磨かれていた。
一日に何度も手を入れなければ、この砂地でこんなにきれいな状態は保てないだろう。
どこからともなく現れた身なりも貧しい人が、売りつけるわけでもなく線香を手渡してくる。

こんにちの平和の礎となった・・・以下、碑文。そうなのだ。
日本は、平和だ。でもそれもたったここ60年ばかりの話。一寸先は闇。
実験国家にすぎない。周りの国だって日本に対する見方を「保留」しているに過ぎないだろう。
この地球にあって、戦を完全に放棄して、本当に国が成り立つのだろうか。
恒久の平和なんてものがあるなんて、わたしには残念ながら思えていない。
争い殺しあうのが人間の業なのだと思うことでしか納得できないほどに、この世界は殺戮に満ちている。

線香をくれた男性に、ほんの少しのお金を渡す。両手を振って固辞する彼。
なんだかカネで解決しているようで自分が下世話なような気もしてくる。
結局、押しの弱いミャンマー人気質なのか最後は受け取ってくれたのだが、
英語を話さない彼はしきりにお金と僧院を指差し、自分がもらうのではなく
僧院に届ける、というようなことを必死でジェスチャーしてきた。

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3)ヤンゴンにて

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ヤンゴンでは規模の大きい日本人墓地があり、毎日日本人が訪れている。
最終日、空港の近くにあったので寄ってもらった。冒頭の写真の地だ。
個人だけではなく、都道府県が立てているお墓もあった。
現地の人に愛されたのだろう、つたない平仮名で墓石を書かれた「からゆきさん」
女性のお墓もあった。またひとつ、教科書に載ることのない、知らない歴史に触れる。

ここには管理人がいて、記帳台も募金箱もあり気を揉む必要がなくてよかった。
やはりきれいに管理の行き届いた墓地は静かな高台で、穏やかな風が吹いている。
きれい好きで故人を大事に思う、それは親日というより国民性も大きいのではないだろうか。
遠いミャンマーの地で、戦死した日本人をこうして毎日思って手をかけてくれる
赤の他人がいるということが、ありがたい以前にとても不思議な感じがした。

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ミャンマーを旅していると、「そんなにいい人で、大丈夫ですか」と突っ込みたくなる
ことが、何度もあった。
遠くへ来てしまったのは、わたしのほうなのだろうか。

書かなければならないことを、ようやく書けた気がする。

2014/04/02

地球の舳先から vol.314
ミャンマー編 vol.12

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帰国の日、呼んでおいた専用車で、ワッチェ慈善病院で医療ボランティアを行う
「ジャパンハート」が運営するもうひとつの施設、子ども養育施設「Dream Train」に向かった。
(ワッチェ慈善病院の訪問記はこちらから。)
ミャンマー東北の国境地帯で、主に人身売買などの犠牲になる子どもたちをヤンゴンのこの施設で養育している。というと、逆にかっさらってきたようなイメージを受けるかもしれないが、「勉強したい」「進学したい」というモチベーションでやってくる子どもも多く、当然親と本人両方の承諾を得る契約関係だという。

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女の子は縄跳び、男の子はサッカー、とどこにでもある光景。もちろん悲壮さはない。
先生が来て寺子屋的に勉強している子どもたち、仏教キリスト教両方のお祈りスペースも。
ちなみに、1人につき1人の足長おじさんがつく形で資金提供を受けているらしいのだが、
資金提供を要望する方の人数のほうが多い状況だとか。
しかし、進学を希望するものの今年は大学への合格者は残念ながらゼロとのこと。
それでも子どもは成長する。日本でいうパラサイト問題のようなことが発生しないとも限らない。
そんな可能性は孕みつつも、とにかくこのような施設を作ったということ自体がやはりすごい。

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ヤンゴン中心部を離れ、空港に近いところに施設はあるのだが、
夜の帰国便まではずいぶん時間があった。
ダメ元で、運転手に「シェエダゴン・パヤーへ行けないか?」と聞いてみる。
あの大渋滞をもう一度かいくぐってヤンゴン中心部まで戻るのは、手間も時間もかかるし
第一事前予約の拘束範囲を大きく外れていた。
一度、ちょっと難しい、と言った運転手は、「じゃ代わりに日本人墓地でいい」といったわたしを
近くの日本人墓地に連れて行く間もそわそわと時間の計算をしており、やれ飛行機は何時だなどと何度も聞いた後、「はっ。これは間に合うぞ」ということになったらしい。
「一応オフィスに許可を取る」と電話でなにごとか話をし、結局追加料金も取られなかった。

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ちょうど日が沈む時間に見たシェエダゴンパヤーは、言葉にならない荘厳さだった。
もちろんライトアップを受けて輝くのだが、「金色」という種類の色をわたしははじめて見たのかもしれない。
出口がたくさんありすぎて迷ううえ(靴を預けるので、入ってきたところから出なければならないのだ)、どこから入ったかわかるシールを胸に貼るのだが、中の案内人はみな案内が適当で
何度もエレベーターを往復する。そろそろパニックになっていたところ、日本の代々木に行ったことがあるという地元のおばちゃんが出口まで案内してくれた。

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久しぶりに、フルオーダーではなく、ずいぶん自力で動く比率の高い旅だった。
わたしは決して旅慣れているわけでもないし、また根性もないので、いろいろ困ったこともあったが、総じて、ミャンマーの人々に最初から最後まで助けられて終わった印象しかない。
「困っている人がいたら助けなければならない」とか、「人が悲しんでいると自分が悲しくなる」
とか、そういう神経を持ち合わせているのだと思う。
それは、相手が全然知らない人であったとしても。
生まれながらにそういう人種なのか、ミャンマーという国が人をそうさせるのかはわからない。

ミャンマーの人は、幸せそうだった。きっと、幸せなんて、意識したこともないのかもしれない。
わたしたちが「幸せ」というとき、なんだかどこか無理を感じる。
自分の価値観の中での「不幸」の定義と、無意識に較べるからだろうか。
「豊か」を自認するときも、どこかの誰かの「貧しさ」と較べるのかもしれない。
本当に豊かで、幸福な人は、自分のことを「私は貧しくても豊かです」なんて言ったりしないだろう。

文明は、貨幣経済は、情報革命は、世界をどこに向かわせようというのだろう。
「またその話か」と自分でも思うのだが、いつも、その疑問に行き着いてしまう。

しかしかく言うわたしも、そんな集団神経症に感染したほうの一人なのだ。
いまさら、自由になんか生きられない。
不自由にとらわれた自分を思う。
その不自由の殻なんて幻想で、自分が作り出していることに過ぎないと分かっていても。

それは、貧しい生き方なのだろうか。巡りめぐって、不幸なことなのだろうか。
いや、世界の相対価値として「豊かさ・貧しさ」や「幸・不幸」を語ること自体が詮無い事なのだと
別の世界を見ると実感として分かる。

mm_何かの表紙に

ミャンマー、おすすめです。

いったん、おしまい。(番外編あり)

2014/03/28

地球の舳先から vol.313
ミャンマー編 vol.11

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ヤンゴンへ帰り、最終日を迎える。
この日も朝はゆっくりで、初日の弁当とは比べ物にならない食事をとる。
最終日。夜の便で日本へ帰る。もうひとつ、目的地を残していたが、まだ時間があった。
ふらふらと向かったのは鉄道駅。わたしは鉄道を見るのが好きなのだ。(鉄なんとかではない)
そして、ヤンゴンには1週2時間ほどの環状線が走っているらしい。
時間が合えば乗ったらおもしろいだろうと向かったのだった。

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(駅の至る所にも、ほとんど現地の人しか乗らないぼろぼろの在来線にも、このような
看板が貼ってある。こういったこともミャンマー人の親切さに影響しているのだろう)

駅の外の切符売り場に並んだものの、環状線はホームの事務室での発売だった。
手書きの切符を受け取り、1日何本かしかないという環状線がちょうど出るところだったので、乗車。
足で歩くだけでは見られないところを見たい、と軽く景色を楽しむつもりで乗ったのだが
この環状線は、ヤンゴンじゅうの商人たちの大切な商売道具になっていた。
大きめの村があるらしい駅では、ものを売りに行く人々が大量に農作物等を運び入れ
また、そんな彼らに売るちょっとした食事を頭の上の盆に積んだ女性たちが乗ってくる。

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そして、どこへ行くのだろうか、赤いバラの花束を抱えたおじちゃんなどもいる。

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窓の外には確かにヤンゴンを歩くだけでは見られない光景が広がっていた。

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農作業をする人々やら

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キックバレー(?なんですかねこの競技は)をする子供たちやら

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僧侶たちの行列(托鉢にしては時間が遅い、なんだろう)やら

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家のことをする女性と子供たちやら

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この列車で通学する制服の女子やら(自力で乗車できず周囲の乗客が引き上げる)

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こういった景色を、ごくゆっくりの車内から見渡すことができ、かなり興味深い。
壮大にヤンゴン市内をぐるりと周り、2時間すこし後に、もと来た駅へ帰還する。
どうせなら対照的なゴミゴミしたヤンゴンも見ておこうと思い、高い建物が並ぶ区域へ向かう。

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安宿やインターネットカフェ、食堂が並ぶ通りを抜けて

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大通りの歩道には屋台が立ち並ぶ

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ランドマークにもなっている、ショッピングマーケット

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本物かどうかわからないが、日本軍駐留時代の軍票がとんでもない値段で売られていたり

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地図に「軍事博物館」と書いてあったので勇んで行ってみたら廃墟になっていたり
(ちなみにその向かいの軍の施設ではモーターショーが開催されており、派手な
アドバルーンが出ていた。いかにも社会主義から脱却した上昇志向な光景)

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一方でイスラム教徒の多いモスクなどもある

不思議な街だった。
ひと皮むけた多様性というよりは、いろいろなものがごちゃ混ぜになり
それでいて別に違和感をもたずに非常にのどかに人々は生きているように感じる。

そうやって、変化を常態として生きること、だけど目の前の自分の
人生を生きることだけが現実であり、当たり前であるというように。
きっと、そうなのだろう。

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2014/03/17

地球の舳先から vol.312
ミャンマー編 vol.10

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猫が輪くぐりの芸をするので有名な僧院とか(僧侶は仏像を見てくれと嘆いているらしいが)
インレー湖にはまだ見るべきものも沢山ありそうだったが、陸に上がった。
船着場までは、来たときと同じようにボート。貸切なので割高なのは仕方が無い。
1月も元旦を1日過ぎれば普通に学校もあるようだ。制服の子どもたちが多い。
陸に着いても頼んでもいないポーターが寄ってくることもなく、目の前の観光案内所へ。
ホテルですでに料金を払った手書きの手配書を見せるとおんぼろの車に乗り込む。
車で15分程度、わたしが向かったのは、ミャンマーに2つだけあるというワイナリー。
フランスの資本が入っていて、様々な葡萄を育てている。

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やたらとワインに詳しく、降水量や年間平均気温などを矢継ぎ早に質問する
ドイツ人の一行とともに施設の中を見学し、見学もそこそこにレストランへ。
たったの200円で4種類のワインのテイスティングができた。
シラー、ピノノワール、ソーヴィニヨンブラン、カベルネ、一通りある。
このほかにマスカットワインなどもあり、軽い食事を頼んで久々にワイン道楽。
おみやげに買った、売店ではそこそこいい部類のシラー2011年は1000円ちょっと。
ヤンゴンの禁酒文化を忘れるわけもなく、今晩用のハーフボトルも調達する。
ちなみにインレー湖の拠点となる(とはいえ山をふたつくらい超えかなり遠い)
ヘーホー空港には色々なワインが置いてあったがヤンゴン国際空港には皆無だった。
やはり、ここはリゾートなのだ。

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おんぼろの車は、ニャウンシュエ、シュエニャウンという似たような名前の村を越え、
巨大な鉄橋の架かった山を越え、空港へ。
マンダレーを経由して約2時間で、ヤンゴンへと帰る。
わたしのミャンマー周遊もこれでおしまいだった。

さて、ここまでぼったくりにすら遭わなかったのに、一度だけ嫌な思いをした。
ヤンゴンの国内線空港のタクシーカウンターで、国際線空港より高い値段を提示されたのだ。
普通、逆である。
初歩的な対処法、いや、「ぼったくり」という言葉すら忘れかけていたわたしは一瞬ポカンとし、
次の瞬間には「嫌だなあ、面倒だ」と思いながらも“口論スイッチ”をオンにした。
しかしここは腐ってもミャンマー。怒っている人ははしたない感じがする。
ごく穏やかにゆっくりと「Please tell me,」と切り出し、なぜ国際線が7ドルなのにここが9ドルなのか教えてくれと「頼む」。
「ここから国際線ターミナルまでは5分かかる」

…まったくもって理由になっていない。気をつけてはいてもカチンとくるものだ。
「8.no more discount」…そりゃそうだろう、それ以上値引きしたらキックバックが1円もない。
「Oh,I understand!」とわたしは比較的大声で驚き、「国際線は公定価格だからここでしか
コミッションが取れないんですね!じゃいいです、5分だからあっちのターミナルまで歩きます」
あと1秒怒るな、と自分を励まし、笑顔で「Thank you」と申し上げた。顔で笑って心で激怒。

いや、こんな100円ごときでここまで怒れるなんて、ミャンマーで
いままでなんと嘘や不正の無い旅をさせてもらっていたのだろう。すごい国だ。
…そんな敬意が勝ったあたり、わたしの心も仏に近づきつつあったのかもしれない。

そもそも国際線の肯定料金制度は、横行し始めた不正を正すために導入されたのだろう。
そのわかりやすいしわ寄せがこれだ。彼らはもちろん、空港オフィシャルの業者なのに。
とにかく、回れ右!!!!!! で空港から鼻息あらくプンスカと一歩を踏み出すと、またひとつ予想外のことが起きた。

さきほどタクシーカウンターまで案内してくれたトランシーバーを持った青年が追いかけてきて
「Miss, It’s OK. 7. Orchid City Hall.」と言い、
彼はすぐにタクシーをつかまえて行き先と料金を運転手に伝えたのだ。
…いい人だった。それだけに、複雑な気分にもなる。
ぼったくりの当事者自身が罪悪感を抱くような「悪さ」を「ルール」にするのはやめたほうがいい。

こんなことは、きっと破綻する。
もしくは、このミャンマーでも遅かれ早かれ、「別の価値観が生まれる」のかもしれない。

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運転手は渋滞を避けて縦横無尽に車を走らせながらホテルへ向かった。
日本のように走行距離でハラハラしなくていいので、メーターは無いほうが安心だ。
何やかんやとミャンマー訛りの英語で説明をしてくれる陽気な運転手だったが、
宿の近くの仏塔、スーレー・パゴダが近づく一本道になるとハンドルから「両手」を離して
手を合わせ祈り始めるのに仰天した。
翌日ヤンゴンで暑くてタクシーに乗ったが、その運転手もそうだった。
仏塔に向かう道路では、多くの運転手が両手を離して運転しているので、注意したほうがいい。

ホテルにチェックイン後、街の両替屋(ヤンゴン中心部にはいくらでもある)で両替をした。
夜だったので一応周囲を警戒して、札束を握り締めて右に左に首を振っていたら
可笑しそうに笑われた。やっぱり、平和だった。

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(道の屋台。ままごとのような小さいテーブルと椅子が並ぶ。)

最終日へ。

2014/03/10

地球の舳先から vol.311
ミャンマー編 vol.9

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翌日、何日かぶりに太陽より遅く起き出して豪華なホテルの朝食にありつく。
しかし、オムレツに唐辛子の実が具で入っているのもミャンマー流。

ボートで湖上民族や僧院を見学するのがインレー湖の定番コースだが、
奥地、その名も「奥インレー」というところに行けるということで頼んでいた。
以前は外国人の立ち入りを制限していたが、今は少数民族のガイドを雇わずとも行けるとのこと。
ガイドブックにも載っていないので何があるのかわからないのだが、とにかく向かった。

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(止まるくらい減速してすれ違う小船同士)

小船に乗り込み、浮島のあいだにできた航路を沿っていく。
このあたりは、湖に浮かぶ浮島の上で農業をしており、トマトなどの野菜が育っているらしい。
湖の上でどうしてそんなものが育つのか想像がつかなかったが、
浮島は頑丈に草が生い茂り、大の大人が十分上陸できる強度があり納得した。

インレー湖の一番奥、サガー村に着いたのは2時間後のこと。
サガーはプルメリアのミャンマー語。その昔、プルメリアの木で作った仏像がこの村に持ち込まれたことが村の起源であったことから、この名前が使われるようになったという。
見事な水上寺院に出迎えられたが、船着場にごみ集積所があるなど(そりゃ暮らす身としてはそれが効率的だ)のっけから観光地化されていない感が伝わってくる。

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(サガー村の水上寺院群)

カメラの持込に1000K(100円)がかかるとガイドが非常に済まなそうに説明する。
「この村は今ツーリストを呼ぼうとしていて、外国人が使えるトイレも無いので、
そういったものを建設しようとしています」とその用途を説明される。
そんなにしどろもどろにならなくても、そのくらい払いますよ・・・
普通に入場料を取ればいいと思うのだが、ミャンマーの各地は入域料を払えば個別の入場料などはすべて無料、ということが多いので、入場料などの名目では徴収できない事情があるのかもしれない。

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(廃墟になったものの色々に利用されているらしい建物)

大きな僧院は訪問客もおらず、僧侶たちが午後の談笑をしている。
入っていくとやたらと渋いお茶を出してくれて、離れたところからにこにことこちらを観察している。
裏には廃墟になった木造建築があるが、鍋が並べてあったりして誰かが使っているようだ。
骨組みだけになったその廃墟にも、2階部分に置かれた仏像には清潔な袈裟がかけられ、僧侶が瞑想をしている。
とにかく、静かだった。

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2000人ほどが住む小さな村だというが、学校も病院もあった。
「昔は、勉強は僧院で教えました。でも今は、学校がなくてはなりません。病院も」
ガイドが少し残念そうにそう説明する。
物事には両面があり、両面にそれぞれの正義が存在している。
豚もいた。ニワトリは親分顔だ。子どもが2人がかりでノコギリで木を切っている。
カラフルな洗濯物。製糖工場に運ぶというサトウキビの束。二毛作でこれから苗付けだというニンニクを植えている農民。

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「村だなあ」「村ですねえ」ひとりでそんな会話をしたくなる光景だった。

別の小島にレストランがあるということで、対岸の村で焼酎作りを見学し、遅い昼食を取る。
ここまで来たらこのあたりで獲れる魚を食べなければ、と思いグリルを頼んだところ
ほんとうに、さっきそこで釣ってきました、という体のサカナが出てきた。
ライムを搾って食べる。開いていない魚をフォーク1本で食べるのは至難の業だった。

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ここのところ6時ぴったりに日没を迎えるミャンマーで、日が傾き始めていたがガイドは
気にすることなく、仏塔が大量に並んだ寺院に上陸する。
彼女は敬虔な仏教徒のようで、どこでもかしこでも膝をついて祈っている。
こちらの寺院は、「お米の売買をする港」という名がついていた。
およそ200ほどの仏塔が並び、ほとんどがシンガポール由来だという。
廃墟とまでは言わないがひと気はあまりなく、仏塔には普通仏像がおさめられているのだが
それがなかったり、頭が取れたりと破損しているものも多かった。

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帰り道、「チェックポイント」という大きな看板がかかった集落を通った。
きっとここが厳戒区域だった時代には大きな役割を果たしたのだろうが、
子供たちが水浴びをし、夕餉の煙がもくもくと匂い立つのどかな光景になっている。

遠くへ来たもんだ。
わたしのミャンマー旅行、最後の目的地もこれにて終了。
まあ、実はこれから影の大目的があるんだけれども。

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つづく

2014/03/05

地球の舳先から vol.310
ミャンマー編 vol.8

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元旦の朝。もうこれで5日連続の5時起きにも慣れ、第三の目的地へ向かう。
インレー湖。南北に20km以上になる大きな湖に湖上民族が暮らす景勝地だ。

バガンのポータルとなるニャンウー空港は小さな空港で、
空港に入ってすぐのチェックインカウンターのすぐ横の扉から滑走路に出る。
しかし飛行機は1時間遅れ、2時間遅れた。
「雪で天候調査」に耳を疑う。…雪?

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果たして2時間遅れでインレー湖の麓ヘーホー空港へ到着。
今回は旅しやすい地であろうということもあり(ある意味その想定は甘かったわけだけれども)、この日だけガイドと専用車の手配をしていた。
シャン族である女性が非常に微妙な日本語でいろいろと説明をしてくれる。
「魚を、食べたい、か?」くらいの、おそらくわたしの英語と同等レベル。わからなくはない。
しかし目の前で旅行会社に提出するアンケートに記入させられ、「LANGUAGE」欄で「excellent」にマルをつける手が震えた。
山をふたつ越え、インレー湖の手前でチェックポイント。入域料として10ドル払う。
「ありがとうございます」なぜかガイドが言う。

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すぐの船着場から船に乗るが、想像以上の小船に驚く。
木の椅子が縦に3つ備え付けられただけの、細長い船。
それでも立派なスピードボートだ。毛布も、座布団も用意されている。
涼しい風に青い空のなかを、水しぶきをあげて湖面を切っていく。とかく気分がいい。
片足で櫓を漕ぎながら漁をする伝統法の猟師たち。船を追いかけ上空を一緒に飛ぶカモメ。

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丸太を杭に打ち、その上に木で編んだ小さな小屋のような家が続くが、れっきとした民家だ。
人々は岸で水浴びをしたり(女性も。このあたりはオープンなようである)、洗濯したり。
子どもが多く、きゃあきゃあと遊んでいる。船が通るたびに満面の笑みで手を振る。

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生活があった。生活を「営む」ということを忘れた自分の生活を思った。
それは、明日も変わらない仕事と、明日も変わらない日々が想像できているからだ。
たとえそれが、妄想に過ぎなかったとしても。
そして、生き甲斐を探す。なんのために生きているのかわからない、と言う。
当たり前だ。そうなったらもう、日々を「生きる」ことは明日に駒を進める目的になどなり得ない。
「贅沢病」はやっぱり、「病」に違いないのだろう。

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湖のほぼ真ん中にあるコテージタイプのホテルに着く。
ホテルのスタッフは非常に親切で、いろいろと世話を焼いてくれるおばちゃんが居た。
彼女に明日のボートとタクシーを頼み、ニューイヤー気分のレストランで食事を取る。
そろそろミャンマー料理の油っ気が胃に来そうだったので、キュウリのサラダにした。
ガスが止まって調理に時間がかかっているらしいが、文句を言う人はいない。
どうせほかにすることもないのだ。
なぜか、ロビーに、北朝鮮拉致被害者の家族が書いた手記の英訳版の本が置いてあった。

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「雪が降った」があながち嘘とも思えないほどの冷え込みに驚く。
ターンダウンではベッドに蚊帳が丁寧にかけられていたが、蚊など出そうにもない。
ホテルの「スパ」なるものも、極寒の部屋でマッサージというもので予想外である・・・
蛇口から出る水の黄色がかった色は気になったものの浴槽にお湯を張って暖をとり
ベッドに入ると、にゅる、とあたたかいものが触れた。湯たんぽだった。
「おおおぉぉぉ・・・」と何年ぶりかに見た湯たんぽに感動しつつ、
蚊帳と湯たんぽというよくわからない組み合わせ。
しかし結局、そいつを首の下に敷いたり、足の下に置いたり、抱いたりしてよく寝た。

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湖上ホテルだし、夜の湖に灯りはないので、一歩も外には出られない。
時間があるとなんだかんだと動きたがりがちなので、このくらいがちょうどよいかもしれなかった。

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2014/02/21

地球の舳先から vol.309
ミャンマー編 vol.7

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ポッパ山を早々に退散し、車は小さな民家の軒先の土産物屋のようなところへ立ち寄った。
牛をぐるぐると歩かせて臼をひき、ピーナツのオイルを絞らせていたり、
決して若いとはいえないおじちゃんがものの何秒かで縄梯子をのぼってココナツを収穫したり、
焼酎の蒸留の火の番を子どもがしていたりする。
タナカと呼ばれる日焼け止めは木をこすって汁を出し、すすめてくる。
伝統産業や文化を一気に見せられたようで、小さな博物館に来たようだ。
ゴマやパームシュガーも売っているが押し売りはなく、子どもは非常に控えめ。

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(ピーナツオイルをしぼる牛とおじさん。)

東ティモールでも、ラオスでも、東南アジアの小さな村ではいつも見た光景を思い出す。
嵐が来たら吹っ飛びそうな、木を編んだ家と藁葺きのような屋根。
よれよれのカラフルなタンクトップで、外で家のことをする小さい子。
庭でとれるもの。料理のようす。家で飼っている家畜。そういうものを自慢げに見せる。
ひとことも分からない現地語も、指差しながら説明されれば疎通に不具合も無い。
国によっては、狡猾に、ときに残酷なまでに、子どもに何をさせるんだというほどに商売道具にする光景にも会うからこそ、素朴な村や人々を見ると、「変わらないでいてほしい」と、勝手な旅行者の感傷で思う。

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(日焼け止めのタナカはミャンマー名物。)

旅に出るとき、わたしの両のポケットにはだいたいお菓子が入っている。
足を失った人やホームレスの高齢者には小銭を渡すが、子どもにはあまりお金をあげたくない。
(そんな線引きだって個人的な理不尽なものだけれども。)
かわりに、日本が誇る駄菓子を渡す。だいたい、美しすぎて「食べ物か?」と訝しがられる。
写真をせがまれたり、カメラを向けると家族や友人を呼びに走るときは、チェキに持ち替える。
服を着替えて出てくるお母さんも居る。そして何十秒かの後に、魔法のように手のひらの上に浮かび上がる写真を見たときの子どもたちの歓声。
遠い日本のフジフィルムを、夜空に光る一番星のごとくスーパースターに感じる瞬間だ。

パームシュガーは涙が出るほど甘すぎたので、ゴマを買って、その場をあとにする。
来た道を辿り、たまに「岡山県です」などと意味不明な日本語を喋るナビを積んだ車はホテルへ着いた。

まだ午後は始まったばかりだったが、ゆっくり旅をしよう、と決めていた。
どうしても海外へ行くと欲張りがちで、好んで時間に追われてしまう。
自動車のスピードは、輸送手段としては素晴らしくとも、ものを肉眼で見るには速過ぎる。
歩くためには時間が必要だし、いつもの半分の予算で旅をしているわたしには、都合よくお金も無かった。

昭和を思わせる旧式のママチャリをレンタルした。実際、注意書きのシールが日本語だったりして、日本から中古を輸入したか寄付されたかしたものなのだろう。
前言撤回になるが、坂が多すぎて、なぜ電動にしなかったか後悔するはめになるのだが。

町全体が遺跡になっている城壁に囲まれた旧市街を観光化するにあたり
一般住民が移住を強いられたという新市街、ニューパガンへ行く。
見事なパゴダ(仏塔)がいくつも続き、写真を撮っているときりがない。
平日の小学校の下校時間に当たったようで、子どもがわらわらと駆けてくる。
伝統的な民族衣装の制服とカバンを持った中学生もいた。僧侶の学校もある。
牛が枯草を食んでいる。のどかだった。そして、生活があった。

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こういうミャンマーを見たかったのだ。よかった。

屋台のような店に「DAGON」という銘柄のビールの看板があったので勇んで入る。
これでミャンマービール、マンダレービール、ダゴンビールとミャンマーの三大ビールを制覇した。
満足である。

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ふたたび、あても無く自転車を走らせていると、民芸品工房があった。
手彫りで工芸品に装飾をしたり、染物や織物をする職人たちがオープンスペースで手仕事をする。おそらくお土産調達スポットとして整備されたのだろう。
道端には、昔ながらに大きな木を広げて、延々とかごを織っている人たちもいる。

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そのままオールドパガンまで戻ってきて通過し、今度は東へ。
旧市街を出るところにあるタラバー門は、城壁で作られたオールドパガンの入り口だが、
わたしはその向かいで工事をする人の姿のほうが気になった。
なんとも伝統的な建築法。なにを建てているのだろうか。
眺めていると、まだ枝の枠組みだけの屋根から手を振ってくれる。
この国の人たちは、よく手を振る。

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パガンの町は大きく分けて、西から順番に、移住政策により新しくできた人々の町ニューパガン、遺跡と城壁に囲まれ高級ホテルが数軒のみのオールドパガン、安宿やレストランが集まる賑やかなニャンウーの3地域に分かれている。さらに東に進むと、船の発着する港がある。
ニャンウーに入ると、にわかに騒々しくなった。
レストランや安宿の看板、インターネットカフェなどが立ち並ぶ。

端のほうに、地球の歩き方に載っていたカレー屋さんがあったので休憩。
ここは中華風味らしく、ミャンマー流でないカレーが食べられるという。
パガンでとれる川海老を使ったというカレーは確かにものすごく美味しい。
トマトと玉ねぎのたくさん入った油汁でないカレーで、海老も具が存在している。

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忘れていたけれどこの日は日本で言う大晦日。
だからよけいに人手が多かったのかもしれなかった。
夜の帳がおりたらサイクリングが危険なのは想像に難くない。
思わずカレー屋で長居をしてしまったので、帰りは必死に自転車を漕ぎ
日没とほぼ同時にホテルに帰り着いた。

ミャンマーのニューイヤーはといえば、お世辞にも上手ではなくわたしのカラオケ以下のシンガーが奇声をあげ続け(住民が騒いでいるのではなく、れっきとした、ホテルがこの日のために特別に用意したイベントである)、夜通し寝られない。
レストランも到底手が出ない特別メニューになるうえに、旧市街には手ごろなレストランは存在しないので滞在される方はご注意を。

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前日、闇鍋をした「リバーサイドレストラン」、ようやくその姿を確認できた)

それにしても自転車を漕ぎすぎて疲れた。
眠れぬ夜のまま、旅は続いていく。

2014/02/17

地球の舳先から vol.308
ミャンマー編 vol.6

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ミャンマー人のしゃべる英語がわからない。
自分がしゃべる分には、わたしはたいがいどこの国へ行っても日本語をしゃべりつづけているが
身振り手振りと相手の好意(他力本願)により、疎通がはかれなかったことはほとんどない。
が、聞き取ることがまったく出来ないとなると厄介だ。

2日目のパガンでは、気球に乗って遺跡群を空から見ることにしていた。
気球のチケットを出し「明日これに乗るんですけど集合時間はワッ タイム バス」(←ほぼ日本語)
と聞くと、フロントの人が「ボキ?」と言う。
「ぼ、ボキ?」と聞き返しても、「ボキ」だという。 …「booking」だった。
「ホッカッ?」としきりに言ってくるコンシェルジュも、「Horse Car」(馬車)だった。
ミャンマー訛りというか、揮発音が強めに出るのかもしれない。ふむ。

出発は5時40分だという。「ソー アーリー?リアリー?」と言うとノートに同じ時間を書かれた。
そんなわけでまたしても5時に起き、ツアー会社の差し向けた窓のはまっていないバスに乗る。
極寒かつ真っ暗闇の中、屋外であたたかい紅茶を出されてまた闇の中のティータイム。

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今まで乗ってきたバスに気球をくくりつけ、職人工が火を入れ始める。
気球を組み立てるところを始めてみた。なんだか理科の実験みたい。
どこかの国で気球が落ちていたが、この高級ツアーは3万円もしたので大丈夫だろう。
操縦士だけヨーロッパ人。乾季しか気球ツアーはないらしいので、出稼ぎに来るのだろうか。

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気球というのは上下運動しかしないらしい。
風向きを見ながら上下運動だけで目的の場所へ進めるのだ、とは、そんな解説(英語)がわかるわけもなく、秋の気仙沼の旅を偶然ご一緒した気球士に聞いた話。
くるくると空が表情を変えていく。
紫色にけむる朝もや。眼下にひろがる雲の薄膜。朝日が照らす褐色の乾燥地帯。
やがて無数の、まさに無数の仏塔や遺跡群があらわになる。なんだこれは。スゲー。

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この一帯の観光地化政策により、居住していた多くの人が離れたニューパガンに移住させられたというが、ところどころ、ほんの少しだけ小屋のような民家が残っており、毎日のことだろうに地上から子どもたちが気球を追いかけてくる。
約1時間ほど空の旅を楽しむと、気球は見事に空き地に着陸した。が、操縦士の英語がよくわからないわたしは、伏せるのが遅れて後頭部から大木の枝の合間に突っ込んだ。
ヘルメットをしていたので怪我はなかったが、その日は一日中後頭部からレモンバームか何かの香りがしていた…。英語大事。すこしだけ改心する。

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(力仕事をするミャンマー人たち。我々は柵の中で朝食…)

気球の着陸をどこで見ているのか、お土産売りがわらわらと数人集まってくる。
気球から降りたあとは朝日の中でシャンパンを飲むのがこのコースのハイライトなのだが、
テーブルを囲んで丸く縄のようなものがぐるりと張られ、
お土産売りはそこから中に入らないという子どものような決まりごとがあるらしい。

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帰りがけ、控えめに言っても塗り絵以下のレベルの絵葉書を手にバスの下まで近づく子ども。
買う気にはならないので、クッキーを渡すともうひとりが「私は?!」と見つめてくる。
…や、友達じゃなかったのかよ。分け与えようよ。仏教でしょ。
いや、分け与えるのはキリスト教だったか?半端な知識に自分が混乱しつつ、
その子にも同じだけ渡すと、ふたりは飛び跳ねながら消えていった。
あ、その絵は、もういいんだ…そうですか・・・と、どうせ買う気もないのに微妙な気分になる。

まだ朝食を提供している時間にホテルに帰ってきたので、ミャンマーへ来て初めて、
どこのホテルもたいがい豪華だという朝食ブッフェを食べることが出来た。確かに豪華だった。
エッグステーションでオムレツも焼いてもらった。

その後、ホテルでタクシーを手配してもらい、これまたパガン観光の「仕様」といってもいい定番中の定番、ポッパ山へ。

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(あれに登る)

こちらも参道をあがった山の上にある寺院(?)なのだが、心惹かれることはなかった。
お札をべたべたと貼り付けた展示物、アントニオ猪木さんそっくりの仏像など
あまり有難味はない別の見所はあるのだが、とにかくいろいろと品がない。
「掃除をしている」といって喜捨を要求する人(ミャンマーにもいた!)は人が近づくと掃除のふりを始める。
汚れた参道や廊下には、バカづらの猿が大量に走り回り、観光客で溢れる頂上は窮屈だった。
「拝金寺院」という単語が思い浮かんだ。完全に観光の順序を間違えたのだ。
あの清廉なるマンダレーヒルへ上った直ぐあとでは、すべてが俗っぽく見えて仕方なかった。

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(お札が貼ってある。賽銭なのだろうがなんとも下品)

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(ガラが悪すぎて有難味がない何かの像)

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(間抜けな顔の猿の軍団がバナナに歓喜)

ただ、運転手はいい人だった。
車を止めて麓の喫茶店のようなところで待っていたのだが、わたしが思ったよりも
ずっと早く帰ってきたために、「ちょっと待ってくれるか?」と聞いてくる。
見たことのない果物や、安全祈願のためなのかフロントミラーに飾る花などを買い出してきた。
ようやく日差しがあたたかいと感じられるくらいの昼過ぎに、そそくさとポッパ山を出た。
帰り道には思わぬお楽しみがついていたのだが、それはまた次回。

つづく

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2014/02/06

地球の舳先から vol.307
ミャンマー編 vol.5

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夜のあける気配もない早朝、頼んでおいたタクシーでホテルを出発した。
この日は、王都マンダレーから古都パガンへ1日かけ船で移動する。

まだ暗い町はすでに起き出していた。
僧侶の托鉢のための炊き出しが家々から温かな煙をあげている。
夜明け前のその毎日の用意に、人々は朝何時から起きるのだろうか。
ラオスのルアンパブランでも、托鉢を見た。
整列した僧侶が歩き、観光客は三脚にカメラを構える観光名所。
彼らだって見世物でやっているわけではないのだが、外灯もない中の
マンダレーの自然の托鉢光景には、より生が息づいていたように思う。

桟橋はいくつかあり、最初、一番有名な間違った場所に連れて行かれたが
そこで責任放棄してポイと放り出さないのがミャンマー流。
なんだのかんだのと同僚のタクシー屋に聞き、船のチケットと行き先を照合し
荷物に船会社のタグをくくりつけるところまでしてくれた。
親切なのだ。この国で何かむっとすることがあっても、だいたい悪気がないので
いきなり怒ったりすると自分の分が悪い目にあう。

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雨季にはずいぶんと水かさが増えるのだろう、急な階段をおりて乗り場へ。
子どものポーターはいることはいるが、押しが弱く、いらないといえば去っていく。
一応、室内は指定席になっており快適だ。フリーの朝食(といっても下記のようなもの)、
それからはちょっとした食事もキャッシュオンで提供される。ビールやワインもある。
割高だけれども、久々に見たロゼワインを頼む。1杯5ドル。…2杯目はない。

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朝もやのなかを出発した船は、スピードボートと思えないゆっくりさで川を切っていく。
出発してすぐ通りかかった、丘の上に無数の寺院が立ち並ぶサガインの地は、
離れたところから見るとまた荘厳だった。
川沿いに張り出したジャパンハートの診療所のあるワチェ病院も離れて見るとかなり大きい。

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ふらふらと、本を読んだり、景色を眺めたり、食事したりしているうちに時間は過ぎていく。
飛行機で10時間なんて苦痛しかないことと比べると随分快適な移動だった。
ただ単にわたしが閉所が嫌いなだけかもしれない。
ヨーロッパ人は屋外の席に椅子を引っ張り出して全身を焼いている。
お世辞にも澄んでいるとはいえないエーヤワディー川。
なぜヨーロッパ人は太陽が出ているとどこででも脱ぐのだろうか。

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途中、いくつかの村に立ち寄った。急行便ではなかったのかもしれない。
人がひとり、ぎりぎり渡れるかというおんぼろの板を渡して、人を乗せる。
川の中まで入ってきて、バナナやサモサを売る町の女性。
お金は、船の中から投げれば拾ってくれるというシステムらしい…

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夕焼けが一面を満たした頃、遠くに切り立った丘のような土地が見えた。
「あと1時間くらい」というミャンマー人のとおり、18時の日没ぴったりにパガンに到着した。
さてここからオールドパガンと呼ばれる、町全体が城壁に囲まれたなかにあるホテルへ…と
思ったのだが、ふたたびの悪夢が訪れる。
タクシーがいないのである。皆無である。
事情をよく知る(というかロンリープラネットと地球の歩き方の実力の差かもしれない)
欧米人たちはホテルにあらかじめ頼んでおいたらしいタクシーで早々と散っていった。

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ここは本当に観光地なのか!と思いつつ、10キロもないので歩くか…と思ったわたしは、
10分ほどでその野望を捨てた。
おそらく一本道なのであろうが、ぎりぎり舗装されているような状態で外灯もごく少なく、
対向車がくれば車はクラクションを鳴らして減速してすれ違う。当然のごとく歩道はない。
相変わらず治安に不穏は感じなかったが、こんなところを歩いたらホテルに着く前に
車に轢かれる。ダメだこりゃ。

わたしは人通りのそれなりにある交差点で立ち止まり、
地図を開いてスーツケースの前をぐるぐるぐるぐる自転し始めた。
半分は、「誰か拾ってよ」の小芝居だったが、だんだん本気で不安になってくる。
しかしここはミャンマー。困っている人がいたら助けなくてはならないらしい国民性。
わらわらと数人が寄ってきて、事情を聞かれ、
「アイ キャント ゴー トゥー ホテル」
「オー ドント クライ」という会話を交わしたのち(ちなみにまだ泣いてはいない)
わたしは無事、おっちゃんがヒッチハイクしてくれた馬車に乗りこんだ。

おそらく歩くよりも遅いスピードで、車にあおられるたびに停止するが、
真っ暗闇の車道をひとりでえんえん歩くことを考えるとぞっとする。
ホテルまではそんなこんなで1時間近くかかった。馬車の若者もいい迷惑だろうが
何度も何度も「アイムソーリー、イッツ ファー」といい続け(なぜ謝るのだろうか)
すこしでも動くと「アーユーオーケー?」と心配そうに言う。もうしわけない。

当然、夜のライトアップされた遺跡でも見に…などという気は捨て、
ホテルのリバーサイドレストランという名の屋外テラスレストランへおさまった。
しかしここも真っ暗闇で、リバーサイドといいながらリバーも見えない。
どころか、自分が頼んだ食事も見えず闇鍋状態である。

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(フィッシュカレー。ぐつぐつとキャンドルで温められている。おしゃれ。暗くて見えないけど。)

そのかわり、星が出ていた。
いや、出ているんじゃなくて、星はいつだってそこにあって、
好きこのんで見えなくしているのはわたしたち自身なのだろう。
そんなことを考えたら、ここで少し、自然に逆らわずにゆっくりするのもいいだろう、
という気になっていた。

つづく

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