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地球の舳先から vol.301
気仙沼(2013)編 vol.5(全5回)
さて気楽会の一行は、気仙沼プラザホテル内のレストラン「海舟」にて刺身や焼き魚を堪能。
定食にさらに秋刀魚の塩焼きをつける人が続出。だって旬ですもの。
ホテルの1階にはお魚市場が入っていて、説明を聞きながらいろいろ買える。
昼食後、ホテルの屋上へ上がった。
説明をしてくれたのは支配人の堺さん。ホテルのFacebookページにもよく登場する有名人だ。
このホテルは私も大好き。広い部屋にライトアップされた港を見下ろし、温泉もある。
気仙沼湾を眼下に一望するロケーションで、かつての写真と比較して解説してくれた。
「あの大きい白い建物が、水産工場の会社。昔はボーリング場でしたね。
市場が再開しても、水産会社が営業できないと成り立たない。」
魚をあげる市場が復旧しただけでは、水産業はたちゆかない。
氷屋さんや函屋さんがいなければ輸送や貯蔵ができず魚をあげても生で食べるくらいしかできない、という現地の人にしてみたら当たり前のことも気仙沼に来るようになって初めて知った。
「震災後、おかげさまでたくさんのお客さんに泊まっていただいています。
でも、2~3年して、お客さんが来なくなることも考えられますからね」
下りてから、我々の姿が見えなくなるまで笑顔で両手を振って送ってくれた堺さん。
ホテルの階段を下りていったところに、黒いサーカス小屋のような建物ができていた。
その隣の大きな建物が、午前中に訪問した安藤さんが準備しているといっていたお店で、
その大きさに「うわっこれか」と参加者から驚きの声があがる。
黒サーカス小屋は、K-portといって、あの渡辺謙さんが復興支援のために作ったカフェ。
印象的な外観も聞けば納得、世界的大家の伊東豊雄さんが手がけたという。
話を聞かせてくれたスタッフの小林さんは、ETICのメンバー。
オープン前ということでこの日は詳細を明らかにされなかったのだが、
現在確認したところによるとピザがとても美味しく、アートスペースとして映像作品の
展示なども行うとのこと。新名所の予感がする。
次に向かうは気仙沼横丁。いち早く営業を開始し、震災直後はとくに重宝した食事処。
海の幸からホルモン、ラーメン、BARまでいろいろある。お土産も買える。
最近では街コンなども実施してかなり手広くエンターテイメントを追求しているようだ。
説明に出てきてくれたのは小野寺さん。(右手は気楽会メンバー、三陸新報の三浦さん。)
「今は、飲食が14店舗、物販が6店舗。道路の状態が悪いのもあって冬場は足が遠のいたり
しましたが、3月くらいからまた戻ってきています。
この地はかさ上げ対象。いずれ立ち退かざるを得ないのはわかっているのですが、
市の計画が定まらないことには、考えようもないので…。
自分の土地で商売をしていた人たち以外の、もともとテナントでお店を出していたところは
もう営業を再開するための土地がないなど、問題はいろいろあります」
計画が定まるまでにあと何年かかるのだろうか。予定を立てようにも立てられないストレスは
相当なものだと思うが、それでも観光するのにさほど支障を感じないのだからこの町はすごい。
日が暮れようかという夕方、最後にうかがったのが、すがとよ酒店。
津波で別れたお父さんの体が、あれから1年5ヵ月後の今年の6月に見つかったという。
どんなにかほっとしたことだろう。
「うちはあと6年で100周年。それまでには本格的にお店を再開したいと思っています。」
酒屋には配達がつきもので、つまりスピードが求められる。
そのため、もとの場所とは違う場所に、小さなプレハブのお店を建てた。
8坪のプレハブに、最初は「小さくて情けない」と言っていたお母さんに、息子は「商売ができるだけでもありがたい」と言ったという。
「地元の人も、蓋をするような気分で、忘れたり、無言で頑張っているのだと思います。
こうしてあの震災のことをお話をする機会があるのは私たちにとってもいいこと」と言うお母さん。
「のどかな風景は私たちの宝」というその光景が、別の形ではあれどこの気仙沼に訪れる日を願って止まない。
小山さんに大変お世話になりながら、わたしはコヤマ菓子店のお菓子を食べたことがなかった。
(去年、お店に行ってみたのだがちょうど休業日だった。)
「気楽会で、商売っ気を出したくない」といって、自社製品をお披露目しないのである。
しかしこの日、気楽会名物、ゴール地点である斉藤茶舗でのあたたかいお茶とお菓子の歓談タイムにようやくコヤマ菓子店の「はまぐりもなかくっきー」を食べることができた。
すがとよ酒店のお母さんが、「小山君は気楽会で自分のところのお菓子出していないんでしょう」
といって、参加者に持たせてくれたのだった。なんと粋な心遣いだろうか。
一昨年、はじめて気仙沼へ行ってこのツアーに参加したときもそうだった。
こちらは話を聞かせてもらっている立場なのに、ツアーでお話をしてくれたある方が
寒かろうといって、追いかけてきて人数分のあたたかいたい焼きを手渡してくれたのだ。
旅や土地の魅力は、まず人にある。今回も、それを実感する旅行だった。
地球の舳先から vol.300
気仙沼(2013)編 vol.4(全5回)
気仙沼の観光案内課、気楽会の最大の特徴は人めぐり。
この日もたくさんの地元のメンバーや、別の地方から帰ってきた気仙沼
ゆかりのメンバーの皆さんが町をめぐりながら自分の話しをしたり、
いろいろな人をめぐって話を聞かせてもらう場をセットしてくれていた。
参加者もいつもバリエーションが豊かで、木の診断士?的な専門家や、
僧侶の先生、気球家(あげるほう)など。
現在は文筆家で、以前この地で教員をしていた方もいて非常に面白い。
以前参加したときは平地から出発したが、今回のツアーは高台から下りていく。
視界がひらけた場所で、その更地の面積の多さに目をみはった。
津波の被害が甚大な南気仙沼地区で、まず当時の写真をもって説明してくれたのは桑原さん。
競馬ライターとしても活動しており、このコラムでもインタビューを行わせて頂いたことがある。
桑原さんは当時、この更地が目立つ地区の真ん中の病院で働いていた。
津波の浸水にあわせておばあちゃんを背負って上の階へと避難させ、翌日になってから
ヘリで救出されたというが、「70代くらいの人のほうがむしろ落ち着いていましたよ」という。
救出されたあと、スコップをかついで、がれきの中、道を作りながら病院へ戻った。
約2週間後の3月29日には小さな空き家で院長のもと病院を再開させた。
卓球台での診療に、「日本一狭い整形外科だったと思いますよ」と当時を振り返る。
「ここは魚市にいちばん近い病院。漁師の患者さんが多いです」という解説に参加者から
漁師でも病院にかかるのか、と意外の声が出ると苦笑した。
「骨折してるのに、出港するんだからあと1時間で治せとか、無茶言いますよ。
インフルエンザで船に乗るのだけは、本当にやめてほしいですね」
次に向かったのは、旧・河北新報ビル。以前ツアーに参加したときにも話を聞いた場所だ。
1次避難所に指定されていたここには70人ほどが集まり、自動販売機を壊して飲料を得たり
社旗用のロープを命綱がわりに準備するなどまさにサバイバルな状態だったという。
今回、はじめて中に入ったのだが、公民館としてリニューアルオープンしていた。
解説してくれた小山さんが、「この3部屋を、3班に分けて生活しました」と案内してくれる。
施設は大変きれいにリノベートされていて想像もつかないが、階段の柱にはここまで津波が
きたという表示が貼ってあった。
「顔もわかってて、協力しやすかった。防災・減災の1番の鍵は地域の人のコミュニケーション」
と当時を振り返る。「減災」。新しい言葉だったがそれこそが進めるべき対策だろう。
その旧河北新報ビルからほんのわずか区画を進んだところに、小山さんの店はあった。
小山さんは気楽会の代表メンバーでありながら、お菓子屋さんの跡継ぎなのである。
ふかひれゼリーの看板を出していた当時の店舗の写真を見せてくれる。
2階の喫茶店は、気楽会のミーティング場所になっていたという。
「僕はいつか必ずここへ帰ってくる。隣の土地も買っちゃって、店を大きくして」
2年前にもこのツアーに参加し、当時の様子を語ってくれるメンバーも同じ人が多いのだが
これから先、しかも目先でなくてもっと先の話がたくさん出てきたことが印象的だった。
次に向かったのは魚市場。ここの魚屋、安藤さんのファンは私だけではないだろう。
安藤さんは有名人なのだが、「防潮堤イラネとか言って、あいつらアホじゃねえかとか思ってるでしょ!そういえばあのテレビに出てた魚屋バカそうだったし気仙沼のやつみんなあんな感じかとか」と、謙遜(?)する。
安藤さんの男前っぷりはぜひとも以前のインタビューでご確認いただきたい。
気仙沼、とくに魚市の近くに店をかまえる方々の震災対策や、逆に陸地で逃げ遅れた人が
多く出たことへの驚きと衝撃、最近取りざたされている防潮堤問題について話を聞く。
こちらではその詳細を自粛するが、船を休めに来た漁師さんに「いつもありがとう!」と
絶叫した姿と、「気仙沼いいとこですよ。太陽と、おいしい魚と、ちょっとバカな人たちと」
というからりとした言葉が胸を打った。
人の話を書いていたら、やっぱり長くなってしまったので、今回はこの辺で。
次は午後の人めぐりツアーをご紹介したいと思う。
つづく
地球の舳先から vol.299
気仙沼(2013)編 vol.3(全5回)
日曜日に参加した気仙沼の気楽会観光案内課。
写真は、スタート地点である気仙沼市民会館の駐車場で道路を横断するカマキリ。
有志でごく丁寧に気仙沼を案内してくれるのだが、あまりの変わりっぷりに驚いた。
まずはまちの様子から。
★
一番びっくりしたのは、フェリーターミナルの建物が撤去され更地になっていたこと。
ここは甚大な被害のあった湾に面した場所で、1年たってもコンクリートの桟橋が
海に突っ込んだままだった。
これが以前のエースポート。
建物がえぐられ、2階の上あたりにここまで津波が来たという看板が貼ってあった。
↓
その跡地。いや、跡地というよりは再開発とよぶべきか。
大島へ向かうフェリーは健在なので、暫定的にプレハブ小屋の切符売り場があり
更地はバスと車の広大な駐車場になっていた。
人の行き来が活気を感じさせる。ここが観光バスでいっぱいになればいい。
★
こちらは、すぐ近くにある、かの有名な男山のかつての姿。
三階建てだったが底部全壊で1・2階がつぶれ、このように。
シンボリックな屋根が残ったのが、むしろ奇跡だったのかもしれない。
↓
こちらが現在の姿。寄付金での復旧プロジェクトが開始したとおしらせが貼ってある。
ナナメ感も補正されてよかった。明るい陽の光がまぶしい。
★
津波と火災で甚大な被害を被った鹿折地区。
震災半年後の当時はまだ手付かずの建物も多く、
地盤沈下によりかさ上げされた舗装道路との高低差が激しかったが
↓
現在は土地もならされ、もともとなにもなかったかのような外見になりつつある。
穏やかな山並みからは、2年前のこの地がすでに想像しにくくなっている。
車の往来も多く、ママチャリ族はそのたびに砂利側によける。
★
そして誰もしもが一度は見たことのあるであろうこの巨大船。
クレーン車でも到底動かすことができないこんな船が、津波で陸地ど真ん中に流れ着いたのだ。
↓
賛否両論の議論を経て撤去が決まったこの船は解体されることになり、
私が訪れたときにはすでに囲われていた。日曜だったので隙間から撮ったショット。
このコラムを公開するころには、解体作業も終わっていることだろう。
★
南気仙沼地区。
ここも車輌道路の舗装は進んでいたが、地盤沈下でところどころに海水が浮き出し
撤去されないがれきが点在していた。
以前来たときは雪がぱらついて、その寂しげな光景に心を搾られるような気持ちになった。
こわれた家よりも、築年数の浅い頑丈な家がぽつんと残っている風景のほうが戦慄的だった。
↓
あらかたが片付けられ、かさ上げもずいぶん進んだようだ。
でも、震災のすぐあとに、国や自治体が動いた暁にはやり直しになるのをわかっていながら
決定が遅すぎるとか、商売が始まらないとか、あるいはもっと別のさまざまな思いで、
自費でかさ上げをはじめた人たちがいる。
そういうひとたちが、第一歩をはじめたのだ。
★
気仙沼魚市。
まだ手に届くのではないかというほどのところに、がれきが漂流していた。
それでもあらゆる地からの船は、気仙沼にやってきた。
魚屋は、「今年はみんな、気仙沼大変だったねって寄ってくれる。2年目が勝負」といっていた。
↓
今回、日曜日でお休みだったこともありふたたび入った魚市。
水揚げはないのに大型船が到着したのでびっくりしたが、穏やかな気仙沼の湾には、
悪天候の一時避難所として停泊する船も多いのだという。
となりの魚屋が、「いつもありがとー!!!!」と、船に向かって絶叫した。
泣きそうになった。
★
あたらしい兆しも、たくさん見かけた。
プラザホテルから見下ろした気仙沼魚市近辺。
前は、平地と海と船しかあった記憶がないのに、建物がたくさん建ち始めている。
魚市は、市場があるだけでは成立しない。加工場や函屋さんなどがなければ、
水揚げをしたって出荷ができない。新しい大きな建物は、見ているだけでワクワクした。
★
見下ろす反対側も、きれいに片付けられ、「あの商店街がこんなに近かったのか!」
とびっくりしたりする。
中央の黒いテントのような形の建物は、渡辺謙さんがプロデュースし、伊東豊雄さんが設計した気仙沼の新しい名物(になるかもしれない)。
おいしいピザでみんなで飲んだり、映画上映やイベントなどを行う、皆が集うカフェになるそうだ。
★
いったいこの地に何ができていくのだろう。
気仙沼といえば魚とフカヒレ、だったけれども、これからもっといっぱい「気仙沼といえば●●」
ができていくのだろうと思う。
さて、次回は気仙沼で会った人たちをおとどけします。
つづく
=おまけ=
「そんなにおもしろいか?」って、沼人たちにあきれられた。
地球の舳先から vol.298
気仙沼(2013)編 vol.2(全5回)
気仙沼は食道楽のための地のようなものである。
魚はもちろん、ホルモンやクリームパンも有名で、コーヒー、お酒、いろいろおいしい。
しかし、まずはこの秋のすばらしい時期に気仙沼へ行くならなにをおいてもまず魚。
そしてわたしは回転寿司へ行っても「アジ・イワシ・サンマ」のローテーション
というくらい青魚派なので、目的はサンマとカツオである。
夜、一ノ関からの最終便で気仙沼入りすることにしていたため、一ノ関で時間の余裕を取った。
迷い無く、駅から10分ほどの距離にある「あさひ鮨」(本店は気仙沼)へ。
晩酌セット2300円は、酢の物・刺盛り・秋刀魚のつみれ汁・秋刀魚の焼き・握りにお酒2杯つき。
1杯じゃなくて2杯というのが、なんとも心遣い的にウレシイ。
ほろ酔いで2両編成の電車に乗り込み、無事に気仙沼入りした。
以下はわたしがローテーションでほとんど毎回行くお店のリストである。
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アンカーコーヒー&バル 田中前店
気仙沼の朝は、アンカーコーヒーから。猟師町らしく、コーヒーもおいしい気仙沼。
気仙沼へ行くたびにここのドリップを大人買いするのが恒例(通販もあるのだが)。
だいたい、町の中心から10~15分ほど自転車を飛ばして行くのだが、
開店前に着いてしまったため、焼き上がりのクロワッサンにありついた。
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気仙沼復興商店街 揚げたてコロッケ屋
気仙沼駅からも港からも近く、全54店舗(2013年11月現在)が入る南町紫市場。
ここに行列のできるコロッケ屋がある。メンチカツやらコロッケパンやらもある。
常に揚げ立てを提供するのでやや待つが、オリジナルの衣には野菜が練りこんである。
壁に貼られたB級グルメグランプリのポスターを見ながら、今年は気仙沼がどこまでいけるか、お客さんが盛り上がっている。
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気仙沼プラザホテル 和食処「海舟」
海が見えて船の夜景がきれいで、空いていればぜひ泊まりたいホテル。
刺身定食1200円は、6点盛りの豪華版。焼き秋刀魚をオプションでつけられる。
またしても秋刀魚。美味しい。でもまだ足りない。量が。
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マルト齊藤茶舗
お茶屋さん。ただしアートギャラリーということになっていて、
おかあさんの甘味が食べられるのは気仙沼気楽会の案内ツアーの特典なのかも。
壊滅的な被害を受けた地域なのに、ここには昔の空気が息づいている。
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気仙沼あさひ鮨
いわずと知れた気仙沼を代表するお鮨屋さん。元祖ふかひれ鮨のお店だそう。
コロッケ屋と同じ復興商店街に入る仮設店舗ながら、出前もやっていて大忙し!
ホヤぼーやの人形の目の前の角席をあてがわれ、特上寿司 2,600円をオーダー。
隣の方の、「お刺身1人前」も山盛りですごいものでした。
あと、お嬢様って呼んでもらえる(えっ…
地元の人も来ていて、ここ来たらふかひれ食べないとって隣のご夫婦がご馳走してくれた…
(ふかひれ鮨。姿のものと、この千切り金箔乗せとがある。)
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ますや食堂
朝早くからやっていて、しかも気仙沼駅前(むしろロータリー構内)。
結果、午前中の電車で帰らなければならない際に重宝する。普段はふかひれラーメン屋。
朝は、納豆定食、目玉焼き定食、いかの塩辛定食など500~550円でなんか懐かしい味。
会計後、なぜかヤクルトをサービスでくれる。
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ヴァンガード
大好きなコーヒー屋。ジャズ喫茶。雰囲気がものすごいのです。
朝のブレンドコーヒー。280円。でもコーヒー1杯だけ頼むのが申し訳ない。
おじさんが、ごく丁寧にゆっくりと入れてくれます。椅子も年季入ってる。
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番外編。一ノ関からの帰りの駅弁で、平泉うにごはん。
上からしょうゆをぶっかけるんじゃなくて、ごはんに味がついているタイプ。
このサイズも、すっかり胃拡張になった身にはちょうどいい休憩なのでした。
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番外編その2。市場で買ってきた戻り鰹。
「戻り鰹があがるのはここだけ!冷凍する前のモノなんかないからね、しかも300円、
これが気仙沼。気仙沼にきたら、こういうのを買ってってもらいたいの!」
のセールストークで思わず戻って買った。1g1円?!
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番外編その3。函詰めの秋刀魚はクール宅急便で。
さっそくさばいて、生でいただかなくてはとなめろうにしました。
しばらく秋刀魚料理が続き、私が1年で最も台所に立つ季節となる。
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ご馳走様でした、気仙沼。
今年も美味しかったし漁港が復活して本当によかった!!!
地球の舳先から vol.297
気仙沼(2013)編 vol.1(全5回)
「気楽会の観光案内課」。気仙沼の比較的若いひとたちが気仙沼の
まちと人を、あるいて案内してくれるツアー。
春~秋の間、もう7年も(つまり震災の前から)続けているというのだからすごい。
2011年に参加してから2年ぶりに、参加してきた。
気仙沼そのものは、1年ぶり。1年に1度は行っておきたいと思っている。
そして、だんだん知恵がついてきて、魚のおいしいシーズンを選んだ。
そのまえの1年では感じなかった、明らかな変化があった。
あたらしい建物がたくさんできていた。
土地のかさ上げもはじまっていた。
こわれた建物の痕跡は、ほとんどなくなっていた。
いい天気だった。とっても。暑いくらいの、厳しすぎる冬へ向かう最後の秋。
そして気仙沼を1日かけてぐるりと歩き、ゴールの斉藤茶輔へ帰るころ
あっけらかんと「あ~楽しかった!以上」な自分に気がついた。
もちろん今回だって、悲しい話も聞いたのだ。
「楽しかった!以上」でいいのかよくわからなくなったが、多分いいんだと思う。
* * *
わたしがはじめて気仙沼へ行ったのは、今は廃刊となった『旅』という雑誌を見て
この気楽会のツアーのことを知ったからだった。
ツアーに参加するために気仙沼を訪れた。
被災地といわれる場所に、行きたいような、行ってはいけないような、
そんな折に「気仙沼は震災後の今に訪れてもらっても十分楽しめる」
という彼らの言葉に背中を押された。
きっとわたしが気仙沼へ行ったのは、はじめから、いや、はじめは、
震災どうこうではなかったのだと思う。
ボランティア雑誌を見て行った訳じゃない。旅行情報誌を見て行ったのだから。
でも2年前、ツアーに参加したときは、やっぱりどうしたって「被災地を見た」と思った。
あたりまえである。
暗澹たる消化しきれない思いを抱えて、この地をあとにした。
1年前に行ったときは、深夜まで明かりが点る商店街や市場の活気、人々に
気仙沼と「被災地」ということばのイメージがなんだかつながらないと思って
とりあえずわたしは「復興途上地を歩いてきた」とよくいっていた。
今回、気仙沼を訪れて、「復興」という言葉にすらわたしは違和感をおぼえた。
「復興」とはいったい、なんなのだろうか。
もとにもどすことだろうか、更地からあたらしいなにかを作ることなのだろうか。
なにより「復」の字にはどうしたってリベンジのイメージがつきまとうし、
なんとも、いまの気仙沼に、その言葉というか字面は似合わない。
なくなったものを取り戻すことはできないということを受け入れた町なのかもしれない。
昔あったものをもう一度再現することをやろうとしているようには見えない。
だったらそれは、単に新しい気仙沼を作る「町づくり」なんじゃないだろうか。
「復興」なんてものがもしあるとしたら、そんなことばが使われなくなるときのことなのだろう。
* * *
新しい町づくりが、
日本のあちこちにまだまだたくさんあるであろう、昔ながらの町が人々によって
古いものも、新しいものも、いいところをたくさん集めて「いまの町」へ進化していく。
きっとわたしは、その貴重な過程をいま、見ているのだ。
真面目な人々に怒られるのは百も承知でいうと、
テレビのクルーに「防波堤問題をどう思うか」とカメラを向けられるのも鬱陶しかったし
「メディアと真の報道とは」と下を向いて語る外地の若者も鬱陶しかった。
気仙沼には、海があって、山もあって、ママチャリはたまにきついがサイクリングも楽しくて、
友だちがいて、美味いもんがたくさんある。
それがわたしにとっての「気仙沼」なのだ。
ようやく「旅」ができた気がした今回の旅行を
これから何回かに分けて、自慢げに振り返っていきたいと思う。