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2012/05/30

地球の舳先から vol.240
東北/被災地 定点 vol.7(最終回)

鹿折から、内湾を抜け、南気仙沼地域に入った。
津波被害が大きかったため、急に開ける視界。
しかし更地になりきるわけでもなく、ところどころ残る建物。
立派な二世帯住宅、河北新報のビル、7階建ての病院、魚市場――
ひとつひとつに、エピソードがすぐに浮かんでくる。
“あの日”のことを様々に、気仙沼の人たちから聞いてきたことに気付く。

移転が決まった店舗もあり、さらに人の気配が消えたようにも感じる。
たまにすれ違う車の音以外は、鳥の声と、自分が乗った自転車の走るタイヤの音だけ。
5ヶ月前、参加した気仙沼気楽会のツアーは、このあたりを重点的に回った。
旧店舗の跡地で話をしてくれた小山さんは、内陸の別の場所にコヤマ菓子店を出店した。
磯屋水産の安藤さんが自費でかさ上げしたかつての店舗には、移転を伝える看板が立っている。
マルケイの鈴木さんの住居兼店舗は、重機が入って、取り壊しが始まった。
より人の居なくなったこの地は、それはそれで寂しかった。
…こんなことを思うのは、不適切なのだろう。

自転車が砂利を踏みしめて進む音を聞きながらしばらく行くと、
偶然、気楽会の一行に出会った。手製の船のイラストの旗と、久しぶりの面々。
ほんの少しの時間だったが、みなさん元気そうで、会えてよかったと思った。

進んでいるのだ。とにもかくにも、前へと。

変化の無い日など一日たりとも無く、
その変化のすべてが、例外なく前へと向かっているのだろう。

地盤沈下の影響で、ポコポコと気泡が浮かんでは海水が浸み出してくる場所も、
いまだ片付けられることなく大漁のカラスやカモメの溜まり場になった場所もあった。
市の計画はまだ大雑把な計画にすぎず、自分の土地がどうなるのか分からない、
地面のかさ上げや防波堤設置の是非すら協議段階だ、と人は言う。
この地を去って行った人たちは決して少なくなく、
人が居なくなることで復興が遅れるという負の連鎖も、地域によっては存在する。

それでも、ここに留まった人たちはたくさん居る。
残された土地に囲いと屋根をつけ、生活を、商売を始めた。
それは単に、「官の遅さ」や「民のたくましさ」というだけの問題なのだろうか?

「復旧から復興へ」
聞き飽きた、当たり前のようなスローガン。
がれきを片付ける。それから、土地をならす。そのうえに、建物を建てる。
そういう”段階”を、どうしたって想像する。
しかし、「1が整備されなければ2にいけない」という考えは、
なんと不自由ない環境で生きてきたために形成された思考回路なのだろう。
復興が、復旧を追い越すことがあるのだ。
わたしは今回の旅で、それを知った。

人の、生きる姿を。
街を、もとに戻すのではなく、新しい街ができていく過程を。
間接的にでもこの目で見ていきたい、と思った。

2012/05/22

地球の舳先から vol.239
東北/被災地 定点 vol.6(全7回)

「バイパス混んでるから、違う道通っても大丈夫?…被害のあった、真ん中なんだけど…」
気仙沼市に入ると、タクシーの運転手さんがそう言った。暖かな気遣い。
毎度毎度のことではあれ、胸が熱くなるとともに、ああ気仙沼へ来たんだなあ、と思う。
更地の目立つ南気仙沼地域をリアシートの窓越しに眺めていると、
「見るもの、なんもないでしょう」と言われて、否定も出来ずに黙ってしまった。
4月初旬の季節はずれの雪をうっすらかぶった光景は、あまりに寂しい。

 

2度目の気仙沼、宿泊は高台の気仙沼プラザホテル。
ランドマークにもなっている三角の塔の真ん中の部屋だった。
海を臨む温泉は美しく、対岸には新しく建てていると思われる水産工場。
夜の外灯も5か月前とは比較にならないほど明るく、確実な歩みを肌で感じる。

 

翌日は朝から、気仙沼駅前の観光協会でレンタサイクル(500円)を借りていた。
ギアもない、懐かしささえ漂うママチャリだが、街をめぐる足としては最適かもしれない。
ただし、気仙沼のゆるキャラ「ほやぼーや」がついていて、少し恥ずかしい…。

かさ上げしてあり歩道がない道、大きな砂利道も多く、車に気を使いながら走る。
これから観光面でも復興すべき所。観光客が増えて交通マナーが…なんて言わせたくない。
以前来たときよりも、格段に信号が増えている。小さな変化も、大きな一歩。
この旅は仮設だがいくつもできた商店街巡りと決めていた。さっそく、出発。

●福幸小町・南が丘通り
気仙沼市南が丘1-2-2 / 事務局 090-4550-9750

 

まずはホテルからエースポートを抜け、気仙沼駅周辺へ向かう。
前回来た時はプレハブの骨組みだけだった、大規模な商店街がオープンしていた。
わたしは、そこから真っすぐ、わずか数十メートルのコーヒーショップ「ヴァンガード」で朝の1杯。
地元のおじちゃんたちが、復興計画や堤防計画について熱く話している。
黙々とコーヒーを淹れる大将。コーヒーの味なんてわからない、と思っていたのだが
見事に覆された。なんだ、この美味しいコーヒーは。

 

●南町 紫市場
気仙沼市南町1-1-15/ 事務局 090-8612-6031

 

日曜日の朝にも関わらず、はるか遠くからも大音量のジャズが聞こえていた。
そういえば、昨日の晩も聞こえていた、この音の正体は何なのだろう。
音に吸い寄せられるように進むと、一軒の店先に大型スピーカーが設置されていた。
クレームを気にしなくていいのは、もうこのあたりに住んでいる人がほとんど居ないからなのだろうか…?
一番大規模で50店舗以上が入っているという、南町商店街。
ここでお寿司を食べそびれたのが、今回の旅の反省点である。

●東新城 かもめ通り
気仙沼市東新城1丁目6-6/ 090-9039-6177

 

こちらには、前回訪問時にインタビューをさせて頂いた茂木さんの味屋酒店が入っている。
店長の茂木さんが迎えてくれた。お店はお酒はもちろん野菜や花もある。
土地は皆で5年契約で借り、上物は市の補助で建ててもらったそうだ。
以前、店のあった鹿折とは、駅を挟んで逆の地域になるが、早期の出店を目指した結果だった。
つい先日も市の説明会があったというが、茂木さんのかつての家と店舗があった場所は
「Cランク」と設定され、住んではいけないとされる区域なのだという。
しかし、そのランクのラインは説明会のたびにころころ変わり、真に受けられないと言う。

日本酒の「福宿」と「酔仙」を買った。自転車だといったら、丁寧に包装してくれた。
このあたりは津波の被害もほとんどなく、ギアの無い、いつもの半分位のスピードの
自転車運転に、思わず鼻歌などが漏れる。
ただし、道行く人々がわたしの自転車のほやぼーやを見ている気がしてならない。

●気仙沼 さかなの駅
気仙沼市田中前2丁目12-3/ 0226-21-1231

 

評判がいいと定評のあるこの市場。5ヶ月前に来たときはまだ、なかった。
小腹が減ったので、市場の前のキッチントラックで串焼きを買う。
美人女将で有名な斉吉商店でも、買い物をした。にしんの南蛮漬け、他。
野菜やお茶も売っていて、確かに値ごろ。
市場の場内を思わせる活気は、商店街とはまた違う賑わいがある。

●復幸小町 田中通り・田谷通り
気仙沼市田中前4丁目2-1・田谷11-1/ 事務局 090-4550-9750

 

前回取材をさせていただいた安藤さんの磯屋水産や、
人気コーヒー店、アンカーコーヒーが入っているのはこちらの田中通り商店街。
夜明けの灯台や早朝の漁師など、海街らしいネーミングとパッケージの商品を買い込む。
前の晩に横丁の屋台でご一緒した、関西から来ている2人組のチャキチャキお姉様コンビと再会。
また森川さんとも偶然にここで再会し、気仙沼名物というクリームパンを頂いた。
そのままでもおいしいが、家に帰って少しトーストしたらまさに絶品だった。
酒や魚はもちろんとして、コーヒーやパンまで美味いとは、この街はどうなってるんだ。

 
(アンカーコーヒーにて。)

●復興屋台村 気仙沼横丁
気仙沼市南町4丁目2-19/ 事務局 080-1692-8000

5ヶ月前と同じく、気仙沼横丁で昼食を取る。カニ。
自転車なので、ビールは控えた。
「おいしい?」店員さんが入れ替わり立ち代わり同じ事を聞くので、こちらもボキャ貧になる。
気楽会に参加していた、外国人の2人組と一緒になる。
ちなみに彼らとは東京へ行く新幹線まで一緒だった。
旅の理由を聞くことはできなかったが、何にしてもありがたい話である。

●鹿折 復幸マルシェ
気仙沼市中みなと町107-1/ 事務局 080-5225-5151

 

ひときわ凄惨な雰囲気が漂っていた鹿折地区も、随分とがれきがなくなった。
車道が整備されただけでなく、幅の広い歩道までできている。
手付かずの部分が目立つ最海側、ヤヨイ食品の倉庫は大型鳥類の楽園になっていたが…。

鹿折の商店街は団平うどんが有名と茂木さんから聞いていたので、それを食べる。
気付けば2時をまわっており、暖簾も内側に仕舞ってある。
「閉店です」なんて言わないのがこちらの人らしく、そそくさ立ち上がって、お店を辞した。

こうしてお土産を、スーツケースと自転車のかごいっぱいに買い込んで
気仙沼駅でほやぼーや自転車を返しながら、一関へ行く電車を待った。
気付けば、2012年4月時点での商店街を制覇したかもしれない。
気仙沼にこんなにたくさんいろんなお店があったとは、「以前」を知らないわたしには
ちょっとした驚きでもあり、またしても暖かい出会いもたくさんあった。
とはいえ食べ逃したものもたくさんあるので、次回は綿密な計画で食を究めたいと思う。

VIVA! 気仙沼。

2012/05/16

地球の舳先から vol.238
東北/被災地 定点 vol.5(全7回)

森川駿平さん(本名:桑原吉成さん)は、競馬ライターとして
東北の地方競馬を中心に活躍しながら、気仙沼市内の病院で働いている。
病院ではまさに「なんでも屋」。医療事務もドライバーも兼務する。
震災の日、津波警報を受けて、男性ヘルパーと一緒に送迎車で患者さんを避難させた。
大きな揺れに、南気仙沼の街は避難の車で大渋滞となった。

携帯電話は通じにくくなっていたが、ラジオから「東京が大津波」という情報を得た。
「でも震源地はこのあたり。それで東京が大津波だというなら、ここはどうなってしまうのかと…」
カーナビをワンセグに切り替えた15時20分、
大船渡の大津波第一波が小さな画面に映し出された。
ただごとではない――しかし、自身の身の安全より「何をすべきか」が先に立った。

なんとか病院までたどり着くと、病院職員は総出でカルテを上階へ移動させていた。
津波は3~6mと予想報道されており、1階は危ないと判断した。
カルテが無ければ薬も出せない。致命的な事態になる患者さんも出てくる。
森川さんは、高齢の女性患者が車に忘れ物をしたというので、一旦車に戻った。
その時、黒い波が押し寄せてくるのが見えた。
これはとんでもない津波だと判断し、非常口から引き返すと、1階にいた人々を避難させた。
その間にも、浸水した水位はどんどん上がってくる。
水位と戦うようにして、患者さんをおぶって階段を上がった。

浸水した地域に取り残され、救助のヘリコプターが来たのは、翌日の夕方のことだった。
幸い、3階以上が職員住宅になっており、毛布など防寒に耐える物資があったこと、
ホワイトデー前で院長先生の奥さんが大量のチョコレートを用意してくれていたことが救いだった。
助け出されたその日、院長は「やるぞ」と宣言。
森川さんも、町を歩けば患者さんと会い、「薬、出してよ」の言葉に奮起した。
元はミシン屋だった小さな空き店舗を借り、まさに野戦病院のような体で、病院はすぐに再開した。

震災後、県外の人との交流も非常に多くなったという。
森川さんもガイドとして参加する「気仙沼気楽会」という、気仙沼の若者が
「気仙沼のいま」を案内する観光ツアーには、毎回全国・全世界から人々が訪れる。
自分たちにとっては話題にするまでもなく普通のことも、外の人からは興味深い未知なる世界。
様々な気づきを与えられ、森川さん自身も気仙沼を再発見するきっかけになっているという。
「この街には、漁師町のトリビアがたくさんあるんですよ。」
目黒さんま祭りの舞台裏や、港町のスナックの開眼やるかたない雑学は
ぜひとも気仙沼で、お酒を片手に地元の人から聞いてほしいと思う。

競馬ライターとしても活躍する森川さんだが、
競馬を通じてをも、被災地と県外とのつながりを肌で感じている。
この日、森川さんが案内してくれた、復興屋台・気仙沼横丁の「男子厨房 海の家」には
福来旗(ふらいき)と呼ばれる、大漁と航海の安全を願う縁起物の旗が飾ってあった。
これは、去年の秋から、東京の大井競馬場にも飾ってあるものだ。
「馬から、人を元気にしたい」というコンセプトを銘打った大井競馬場には、
復興支援の思いを込めて、気仙沼のボランティアから贈られた250枚もの福来旗が飾られた。
森川さんのブログからも、当時の様子が確認できる。

地元気仙沼と、全国各地を行き来しながら、日々感じてきたつながりの数々。
森川さんの二束のわらじは、これからも続いていく。

2012/05/01

地球の舳先から vol.237
東北/被災地 定点 vol.4(全7回)

千葉淳也さんは、豆腐屋、マサキ食品の5代目当主。
海上自衛隊を経て、8年前に跡取りとして帰ってきた。
店は海から100メートルもない海抜ゼロ地帯。

震災の日はちょうど、いつもの通り50~60軒のお得意さんのところへの配達を終え、
後片付けをしているところだった。
避難所へ行くものの、ごった返しており電気もないその場所に見切りをつけ、
叔母の家で3週間を過ごした。
看護師の妻は、病院での対応に追われていた。

震災の直後は、明日をどう生きるかだけで精一杯だった。
「生きるために食べる」ことが主となっていた生活の中、久しぶりに食べた豆腐の美味しさに目を瞠ったという。
千葉さんは豆腐作りの再開を堅く決心した。

避難時に携帯電話だけを持って逃げたため、早いうちから安否確認も含め、業界の知人とやりとりをしていた。
「同じ同業の、気仙沼の豆腐屋が困っている」という情報は、業界内を駆け巡った。
東京には、気仙沼にはない「豆腐商工組合」という業界団体もあり、支援の手がどんどん繋がっていった。
「道具はこちらで探す。建物はそっちでなんとかして」
力強い後方支援に、千葉さんは仮設ではなく本設の店を建てることを決めた。
もともと持っていた荒地をならし、地目変更の手続きを行い、建設が始まった。
一筋縄でいかないことも多々あったが、豆腐ネットワークの熱い思いを一心に受け、
街でお客さんに会ったときにかけられる「待ってるよ」「いつからやるの」という声にも支えられた。

着工、7月末。11月11日、店を再オープンした。
店の奥行きは深く、一通りの仕事場が揃っている。
今は、定期顧客への配達のほか、豆腐ラッパとリヤカーで仮設住宅にも出向く。
その姿はまさに、我々が想像する「古き良きお豆腐屋さん」の姿そのものだ。

しかし店舗とは対照的に、千葉さんの住まいはまだ仮設住宅。
住居より店舗を優先したわけを聞くと、「収入がないとね」とも言うが、
「仮設の商店街に入ろうかとも思いましたが、期限付きだし、
思い切って自分の店を本設で作ろう、と。」
今をどうするかよりも、持続性と将来計画を見据える方向に、舵を切った。

もう一つ、千葉さんには、自分だけで店を再建したとしたら思いもしなかったであろう決意があった。
「横のつながりで店を再開できた。目を向けてもらったみなさんに、恩返しをしないと。」
千葉さん自身が招かれたこともあれば、東北まで出向いてくれた関東の豆腐屋仲間もいた。
人に会い、話をするたびに、新たな展開が見える。
「人のつながりでしか、商売は出来ないのだ、と気付きました。
これまでは、お客さんとの1対1の関係しか見えていなかったかもしれない。
でも、豆腐を作り、売るまでには、問屋さん、機械屋さん、原料屋さん…その他多くの
人たちがいて成り立っている。心強い、と思いました。」
千葉さんは、様々な人々の思いを背負って再建した豆腐に「気仙沼復興豆腐」と名付けた。

「気仙沼は被災したけれども、この地でもきちんとしたものが作れること、
商売ができるってことをアピールしないといけない。」
被災したから、万全のものづくりが出来なくても仕方ない――などと思われるわけにはいかない。
「復興支援だから」という理由が無くても、選ばれ、買ってもらえるものを
作ることこそが、真の復興となるのだろう。

2012/04/25

地球の舳先から vol.236
東北/被災地 定点 vol.3(全7回)

陸前高田ドライビングスクール。
東京からも運転免許合宿生を多く受け入れているため、聞き覚えがある方も多いだろう。
この教習所が、震災時、初動対応の要塞となった。

田村光さんは、陸前高田ドライビングスクールの取締役。父が2代目の社長だ。
アメリカの大学を卒業し、東京の造園会社で勤務した後、この地へ帰ってきた。

あの日、高台にあるドライビングスクールに出社していた社員は、全員が無事だった。
大学生の春休み期間でもある3月11日は繁忙期のため、全社員が出社していたからだ。
また、授業は毎時10分スタート、00分終業のため、大地震のあった14時46分には
路上研修に出ている車もほとんどがスクールに帰ってくる時間帯であったことも幸運だった。
しかし、凄まじい揺れで校舎の2階の天井は落下。校舎内は騒然となった。

生徒と社員の無事を確認して息をつく間もなかった。約150名の生徒のうち、約半数が合宿生。
東京方面の生徒は、姉妹校である平泉校に一旦集合させ、スクールのガソリンタンクを提供することを条件に、田村さんのタフ・ネゴシエーションで大宮までのチャーターバスを確保。
北海道方面の生徒は秋田の空港に、県内の生徒は一人ひとり、全員を送り届けた。

もちろんその間、生徒の保護者が心配しているであろうことは容易に想像がついた。
県内の生徒を送っていく途中、田村さんは、1箇所電波がつながるところを発見した。
いつまでつながるかもわからない微弱な電波。
すぐさま「合宿免許」でインターネット検索し、一番上に出てきた会社に「陸前高田ドライビングスクール 全員無事」とメールを打った。
すぐに移動してしまった田村さんは自分のメールの行方を長く知らなかったが、一報を受けた東京都の運転免許学校は、考えられる手段を尽くしてその報を広知してくれたという。

田村さんの父、社長の田村満さんはすぐに「状況がどうあれ雇用は守る」と宣言。
陸前高田ドライビングスクールの新たな業務が始まった。
中小企業同友会を通じ、スクールには全国から物資が集まっていた。
物資の供給について市に掛け合うものの、4分の1を消失した市役所は通常機能するはずもない。
田村さんたちは、まず避難所の情報収集を始めた。もちろん、社員が足でかせぐ。
朝晩のミーティングを通じて情報共有をし、各避難所に物資を運び続けた。

ロジスティックだけには留まらない。
重機の免許を持っている社員もいれば、スクールには発電機もある。そして、業務用の車輌。
「できちゃうんだから、しょうがない。やるしかないでしょう」と田村さんが振り返るように
教習用の車輌は、その本来の本領を発揮し、瓦礫の撤去に向かった。

怒涛の毎日の根底には、田村さんのある覚悟があった。
「この場所から、津波が見えました。とんでもない高さ。
あれを見たときに、大船渡に住んでいる家族をあきらめました。
気持ちを切り替えて、生きているお客さんのために今できることをやろう、と。」
幸運にも、0歳と3歳の娘を含め、一家は無事だった。
しかし、田村さんが無事な姿をその目で確認するのは、ずっと先のことになる。
ひと段落した後に、避難所の名簿で生存を確認すると、すぐに職場へ戻った。一度職場へ戻ったらしばらく帰れないとはわかっていたが、“今すぐにやるべきこと”は山積していた。

毎日、支援物資を避難所に運搬し続け、40日後、通常業務も再開する。
津波で流された広大な敷地を見て、果たして生徒がいるのだろうか…というわたしの思いは
この日スクールの扉をあけた瞬間飛び込んできた学生特有の活気ある嬌声で吹き飛んでいた。
「この2月で、岩手県のトップは奪還しましたよ!」
ただし、もう落ちることはわかっているんですが――とも付け加える。
市役所業務や復興支援のため、名古屋から人材を受け入れる陸前高田市から協力要請があった。
通常3~4人で1室の合宿免許用の宿舎を1人につき1室貸し出すことになり、春からは生徒の受け入れを大幅に減らさなくてはならない。状況が長引けば、億単位の損失も見込まれるという。
落ち込む収益は、地元にとっても当然打撃だ。
復興支援の名の下に(たとえ名実が伴っているとしても)、地元の産業と民間企業に負担を強いることを、どう捉えるべきか。
「当然、それだけのことをしてくれるんだと思っていますよ。」という期待に応えないわけにはいかないだろう。

だが、初動対応で街の要となった経験も手伝って、田村さんには、官に頼る風は微塵もない。
「これ、見ます?」と言って、大きな紙をテーブルいっぱいに広げた。
一見しただけで地形からすぐにわかる、陸前高田市の湾岸地域の地図。
それは、“復興計画”として、市にも提案しているという、新しい陸前高田の未来図だった。
色々な専門家からも話を聞き、地に足をつけた復興計画を練っている段階だ。

思い起こせば、初めてコンタクトを取った際、田村さんはこう言っていた。
「復興は、心配しないで下さい。我々も心配していないです。」
物事を動かす力。まさに物理的に、人と物を動かし続けてきた一年間。
肩に乗っている“陸前高田の未来”は、田村さんにとっては“荷”でもなんでもなく、自分が生きる当然の道程なのだろう。

2012/04/20

地球の舳先から vol.235
東北/被災地 定点 vol.2(全7回)

美容師・西條智子さんは、今年2月2日、陸前高田市内の新店舗で営業を再開した。

母の濱守民子さんも美容師であり、西條さんが小さい頃に独立し、店舗兼住居を建てた。
西條さんは、3人きょうだいの中でただ1人美容師の道を選ぶ。
上京し、東京の専門学校を卒業後、東京と地元を往復しながら働いていたが
母の疲労骨折や祖父の入院という事情もあり、本格的に店を継ぐことを決める。
キャリーケース1つで陸前高田に帰ってきたのは、2011年1月のことだった。

店舗はまさに海沿いにあり、津波で真っ先に被害を受けた場所にあった。
西條さんも、津波が波打つのをその目で見たという。
数日前の余震では数十センチほどの津波が来ており、これほどの被害規模は想像しなかった。
父の先導で避難所である体育館へ駆けつけるが、すでに人でごった返していた。
「混んでいるから、別のところへ行こうか…」
そう言って、より遠くの高台へ移動。この判断が、命運を分けることになる。
津波の被害によりその場所は避難所ごと流され、数人の生存者を残すのみとなったのだった。

岩手県内陸の一関市に住む弟の圭さんも、真っ先に陸前高田へ駆けつけた。
震災当日は交通が封鎖され、翌12日に朝から山を迂回するルートで陸前高田へ入った。
避難所を探して回っていると、当時の西條さんの恋人であり、現在のご主人とばったり会った。
多くの場所が津波に流された陸前高田では、残る避難所は限られていた。
“生きていれば”――1日も探し回れば必ず見つかるはずだったが、家族の姿は見当たらない。
2人とも言葉少なに、しかし心の中に凝り固まった疑念を口に出すこともできず、
その晩、圭さんは少し離れた広田湾のほうにある彼の家に泊めてもらったという。
その3日後、ようやく母の友人のところに避難していた西條さんとようやく再会を果たす。
東京では、偶然連絡の取れた西條さんの美容師仲間がGoogleのPersonFinderという生存者情報サイトに登録し、後方支援してくれていた。

しばらく母の兄宅に避難し、5月に仮設住宅に入る。
「みんなで東京に移ろうか…」
学生時代から東京で暮らした西條さんには土地勘もあり、東京での生活に不安はなかった。
陸前高田にはもう土地も無い。家の借金も残っている。
東京に移り、みんなで集まって稼げばどうにかなると考えたが、父母は反対した。
震災前の美容室れもんは、地域の憩いの場の役割も果たしていた。
震災後、周りの要望に応える形で、施術を行うようになった。
仮設住宅のキッチンに鏡を置いただけの簡素なスペースが、西條さん親子の仕事場になった。

「震災の前は、陸前高田に帰るのも躊躇っていました。」
出来ることなら東京で仕事をしたいと思っていたが、震災後は地元への思いも変わった。
お店をもう一度建てよう。この地でやっていこう――
母娘はまさに二人三脚での美容室再開に奔走する。

2店舗集まれば仮設店舗を建ててもらえるため、まずはパートナーを探し、土地を提供してくれる知人を当たった。
しかし仮設店舗を建てる資材の不足で、夏を予定していた完成は10月、12月と徐々に延びてゆく。
市が建ててくれるのは上物だけだったが、大工の父を中心に、一家総出で内装工事を進めた。
復興需要で多忙ではあったが、「お父さんには1カ月仕事休んでもらいました!」と言う通り
自身の生活もままならない時期から、お店を中心に一家は団結し、2012年2月2日、営業を再開した。

美容室れもんのお客さんは、季節はずれの吹雪のこの日も、途切れることがなかった。
テキパキと明るい民子さんが、長年この地で築いてきた人望と信頼だろう。
機材は、業界団体からの貸し出しや、西條さんが東京で働いていたときの仲間が贈ってくれたものもある。

「先の事はわからないけれど…私はここで、頑張っていきます。」
今、西條さんのお腹の中には、新しい命が宿っている。
生を紡いでいくこと。”家族”というものの本質を、なお一層見つめ直させられた。

2012/04/11

地球の舳先から vol.234
東北/被災地 定点 vol.1(全7回)

 

東京と、被災地とのギャップは、広がり続けるばかりのようにも思える。

東北へ行けば、(見える見えざるに関わらず)人の縁や熱量といったものに強く圧倒されるのに、
「絆」という表現をした途端、なんだか陳腐化してしまう。
あの大震災をも、消費の対象としてしまったのだろうか。

わたしが初めて被災地へ行ったのは、去年の11月。
今までだって、別にボランティアをしに海外へ行っていたわけではないのに
この状況下で海外にばかり飛ぶことに、ある日、負い目を感じるようになった。
かといって用もないのに被災地へ行くことは、モラルに欠けた行為であるとも感じていた。

それは、正しいのだろうか。
いや、そもそも、正しいことなんてないのだろう。

悩みながらも東北入りを決めたとき、
わたしは、自分が被災したわけでもないのに絶望感の中にいた。
だが実際に、その筆舌に尽くしがたい光景を見るうち、
時間が経つほどに心が落ち着いていくのを感じた。
同時に、“壊滅” “全てが失われた”という言葉に、どうしても違和感を覚えるようになる。
最初に気仙沼という地に縁を持てた、わたしの幸運のなせる部分もあるとは思うけれど
あえて批判的に否定的にナナメから見たとしても、“何もなく”なんか、なかった。
「また遊びに来てね」という現地の人たちの健やかで温かい言葉には
震災を受けて、なおさらに地元を愛し、誇りを持った自信が溢れていた。

非被災地域の人間が、わたしも含めて、どこか震災というものを神聖化、
もっと言えばタブー視する(それは、今もなお)、ということは、少なからずある。
しかし、被災地に「配慮する」ことと、目を背け口を噤むことは、絶対に異なる。

そして、今ではそのギャップはわたしの中で、最大の課題として表出している。

先週末、金曜日にそわそわと早い時間に退社し、一路 仙台へ向かった。
陸前高田を経由して、ふたたびの気仙沼へ。
これから6回にわたって、2つの復興途上の地のレポートをお届けしたいと思う。

つづく


(お酒も魚も野菜も美味しい東北。予算1万円で好きなものばかり買ってきた。)