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地球の舳先から vol.222
東北/被災地 定点 vol.9(全10回)
「あ…すみません。こんなに波見えて、大丈夫ですか?」
怖くないか、と気遣われたことに気付くのに、一瞬だけ時間を要した。
もうこの旅にきて何度目だろうか。ここの人たちは、自分たちが最大限に大変なはずなのに、
どうして、こうも今日会ったばかりの“よそ者”に親切にしてくれるのだろう。
もうここ3日ほど、デフォルトのBGMのように当たり前になった波の音が、この日も一定のリズムを刻んでいる。
気仙沼滞在2日目、ぜひ話を聞かせて欲しい、とわたしが頼んだ味屋酒店の2代目・茂木さんは
店のあった鹿折地区からスタートして、かなり足を伸ばしたところまで案内してくれた。
名前の通り酒屋を営む茂木さん一家5人は、幸運なことに全員が無事だった。
一人娘が翌日に卒業式を控えた3月11日、地震を受けて茂木さんが配達の車のスピードを上げて家へ帰ったとき、妻は家に遊びに来ていた娘の友人を家まで送って帰ってきたところだった。
すぐに車で、出来るだけ離れようと海を背にして走り、国道の方向へ向かった。
ガソリンが抜かれたり、物を盗られたりといった情報も絶えなかったため、車を離れるに離れられず、ほんの少し離れた姉宅で仮住まいを開始するまでの間、車の中で生活したという。
小さな頃から、水難とはいつも隣り合わせだった。
大雨になれば膝のあたりまで冠水することもあったし、茂木さんが中学生の時の宮城県沖地震では店舗内の瓶類も多く破損。2010年のチリ地震の際には、気仙沼にも約1mの高さの津波が襲来した。
何か天災が起きれば、水難はつきもの―その覚悟が逆に働いた側面もあった。
海抜ゼロ地帯の鹿折地区の奥側は、それでもこの未曾有と表現するしかない20m超の津波の前までは「まさかここまで波は来ないだろう」という認識もあった。
「亡くなった人の中には、1階で見つかった人も多くてね。…逃げていなかったんですよ。」
茂木さんの家も、地震当初は無事だった。
「地震には強いんです。津波さえなければ…」
鹿折地区はその後、流されてきた船から漏れ出した重油でまさに火の海となる。
火の手が収まり、津波が去って、信じられない光景の中、人々は瓦礫の山と化した我が家へ向かった。「家がすっぽりなくなっても、もしかしたら何か出てくるかもしれないから…」
茂木さんは、味屋酒店の2代目。
父は山形県から、老舗の酒屋に丁稚奉公のような形で出向き、店の礎を築いた。
この地に父が家と店舗を建てたのは、茂木さんが小学生のときのことだった。
どこにいるかもわからない生存者の救助のため、捜索隊も瓦礫をかき分けて進んだ。捜索活動のための取り壊しが進む当時を、「自衛隊は一番優しかったなあ」と茂木さんは振り返る。
いつ何時頃壊しますから、と連絡のつく限り手を尽くして事前に告知もしてくれ、告知を受けた住民は携帯電話で近所の人と連絡を取り合い集合した。
取り壊しの日も、「何かあったら、言ってくれれば作業を一時的に止めますから」という通り、茂木さんたちは取り壊しの過程で何度も声をあげ、「危ないから本当に気をつけて」という静止の声を背に瓦礫の中へ入っていったという。
* * *
鹿折地区の味屋酒店は片付けられていたが、まだところどころ小さな瓦礫の中に酒瓶や徳利が見える。隣の大きな倉庫は、捜索活動を終えて中はがらんどうなものの骨組みは残している。
その後、4/1に屋上の青空市場で営業を再開したイオン気仙沼店を横目に、松岩地区・階上(はしかみ)地区を越え、地元の人が「お伊勢浜」と親しんだ海水浴場へ向かった。
茂木さんの母方の実家がある場所でもある。左手には、各報道でお馴染の気仙沼向洋高校。
海辺に近づくと、茂木さんは息を呑んだ。「こんな遠くから、海が見えちゃうんだ…。」
それだけ、海岸沿いのすべてのものが流された結果だった。
少し歩くと、緑に日差しを遮られて驚いた。緑を見るのは久々だった。
これまで見た松林のほとんどは、津波の潮で赤茶け、ただれ枯れていた。
だが、伊勢浜の陸中海岸国立公園の松林は、“まるで無事だった”。
岬の先端に建てられた名力士、秀の山の像も悠然と海を見下ろしている。
では、この地が奇跡的に津波から逃れられたのかといえば、すぐ横のペンションや陸地は壊滅的な被害を受けており、実にこのダイヤモンドヘッドのように海に突き出た小さな一角だけが、奇跡のように無傷なだけである。
伊勢浜の壊滅地区と、青々しい緑をたずさえる松林をつなぐように、七色の虹が架かっていた。
自然に恣意などない、と思っていても、ふとこみあげる畏怖があった。
―新しい町に生まれ変わりたい。
茂木さんはそう言った。それは、「復旧」という言葉のニュアンスとはまた別物であり、被災地の人々の疲労が窺い知れる表現だった。
「すべてを壊して更地になってしまえば、これから新しい町が生まれるのかとも思える。でも、いまだ取り壊しさえ部分的で、瓦礫の撤去も終わらない区画がある横で、プレハブで営業再開している店舗を見ても、“果たしてこれを復興と呼んでいいのか?”と疑問に思う。」
自身の土地も危険地帯に指定されて手を出すことはできず、かといってこれからどうするかも発表されず、とりあえず様子を見るしかない。
一方で、当然、食っていかなければならないという事情もある。
震災の復興支援を謳い、日本各地で様々なイベントが行われているが、その恩恵が地域の事業者にまで回ってくることはほとんどないのも現実だ。
現実的な話をすれば、自宅で商売をやっていた頃よりも営業経費は比較にならないくらいかかってくる。「どこで営業しているの?」「まだ店舗を借りていないの?」と問われるたびに焦りはするが、現段階で店舗を持つことが得策とも思えないという。
「今まで通りのやり方じゃ、おそらく生きていけない。
与えられた情況の中で、次に何をするか。それが何かはまだ、見つけられてないけれど
ゼロになったからこそ新しいことをやって、踏み出せる部分もあると思っている。」
ネット販売を本格的に検討し、東京の出展にも参加した。
未だ被災地を覆う停滞は、正直、大きな進展を見せてはいない。
わたしは、行政を諦めてよしとするのでもなければ、個人の“自己責任”などという無責任な言葉を振り回すつもりもない。
しかし、もし新たな流れが生まれてくるのだとしたら、そこに住む“個人”がその出発点になるよりほかないのかもしれない。
この日も、わたしが受け取った結論は変わらなかった。
“人”がいなくならない限り、“町”が滅びることは無い。
気仙沼の底力を、わたしは信じている。
そして自分に出来る、小さすぎることの寄せ集めを、これからもかき集めていくつもりだ。
地球の舳先から vol.221
東北/被災地 定点 vol.8(全10回)
安藤さんは、鮮魚や冷凍品、廻船の問屋業務も行う磯屋水産の代表。
磯屋水産の事業所は、漁港に面したまさに海沿いに位置している。
「我々、沿岸部の人は、津波に対抗しようなんて思いません。
小さな情報でも、すぐに逃げます。」
と言う通り、当時を振り返った安藤さんの行動は教科書のように的確だった。
大きな揺れで「ただごとではない」と感じ、すぐに事業所へ戻って従業員を避難させた。
初動の対応が早く、従業員は全員無事。
会社の車はすべて漁港の屋上に避難させ、自身も屋上から海の様子を眺めた。
「日頃から訓練をして、知識も備えていれば、逃げる時間は十分にある」
チリ地震の際の津波を覚えていた。それよりも何割増しかだったとしても、
漁港の屋上まで波は来ないだろうと踏んで、その場所から津波の前の引き波を観察した。
震災8ヵ月後、この日訪れた磯屋水産の土地は、砂利を敷き詰めて地盤沈下への対策がとられた後だった。安藤さんが私費を投入したものだという。
もちろん、後々自治体の対応が決まったら強制撤去になるかもしれず
無駄になるかもしれないが、待っていても行政に期待できないと判断した。
「役人や政治家に頼ってばかりはいられない。
私は、自分のお金を使って、やれることからやります。
下水の匂いがしんたんじゃ、水産都市気仙沼として、自分が恥ずかしいですから。」
きっぱりとそう言う安藤さんは、圧倒されるほどに気仙沼への愛と誇りに満ちている。
「地元の人間が地元を愛せなくなったら、日本はおしまいです。」
実際その判断が正しかったと思わざるを得ないほど、8ヶ月を要してこの地は手付かずだ。
漁港の前の仮設道路すら、国が渋るものを自治体にかけあって作ってもらったものだったという。
「魚市が動かなければ、気仙沼の再生はあり得ません。」
しかし、全力で掛け合って、ようやく道路一本である。
東京にいると原発のことばかりが取り沙汰され、もはや震災復興の話をあまり耳にしない。
一方で耳障りのいい「復旧から復興へ」などというスローガンが聞こえてくるが、
復旧すらままならないのが被災地の現状だとあらためて見せ付けられる。
今年、市場再開した気仙沼がカツオの水揚げ日本一になったというニュースが大々的に流れた。
気仙沼大島を湾の中にもち、波の穏やかなこの地にはかつて多くの船が航海の羽を休めるように来航していた。
「みんなでがんばった結果が日本一だったかもしれない。
でも、今年は気仙沼大変だったから、と船が来てくれている面もある。
来年、漁港がこのままの状態だったら、いったいどれだけの船が来てくれるでしょうか?」
原発の風評についても質問が出た。揚がった魚に関しては、検査もしているという。
ときにJUSCOが自主検査で0ベクレルを目指すと発表し、一部から絶賛されたこともあったが
小さな日本中が濃淡はあれ被爆対象となった環境で、「基準値以下」はまだしも、
「0ベクレル」など、現実的に有り得る話なのだろうかと、素人目に考えたって疑問が残る。
身を守るのも自己責任―自立を崇めるこのところの国民性に、行き過ぎた部分はないのだろうか。
明日が戻り鰹のピークになるだろう、と安藤さんは言って、一流の戻り鰹のルビーレッドがどんなに美しいかを語ってくれた。
「食って、飲んでこその気仙沼。ぜひ食べていってください。
気仙沼は、まだまだ頑張ります。」
地球の舳先から vol.220
東北/被災地 定点 vol.7(全10回)
海を見渡し、海から店舗まで、停泊した船以外に何も遮るもののない場所に酒屋「マルケイ」はあった。気楽会のメンバー、鈴木さんが店主をつとめる酒屋は、ビニールの暖簾を残して中は一切なにもなく片付けられていた。店の前には赤いポストが横倒しになり、角は地盤沈下でコンクリートがずれ、震災の大きさをあらためて物語る。
マルケイは、酒屋のほか、船舶仕込といって、マグロ漁船をはじめ3ヶ月、長ければ半年から1年かけてフィジー沖まで行くという長期航海の船のために、タバコや食料などを一括して仕入れて船に積む業務も行っていた。昭和30年代から続く、海の町ならではの商売だ。
店舗内は、震災時の様子が信じられないほど片付ききっていた。
震災後、ボランティアが丸3日をかけて掃除をしてくれたのだという。
「取り壊すにも、1000万くらいかかるから…4月から、補助金の申請はしているのですが。」
すぐ背後の高台に避難所になっているホテル観洋があり、震災時は鈴木さんもそこへ避難した。
津波が去った後、店は瓦礫で埋まっていた。
亡くなった人、不明者も多く、自衛隊が店舗内で瓦礫をよけては捜索活動を続けていた。
流された人が、そこに埋まっている可能性も大いにあったのだ。
捜索活動もとうに終わったはずのつい先日、店舗の裏を片付けていた近所の知人がやってきて、
「骨がある」と鈴木さんに打ち明けたという。
まさか、と思いながらも警察に電話。2人組の警察官はすぐにやってきた。
小太りの警察官のほうが、見るなり「こいつ、とんこつだから」と断言した。
そういえばラーメン屋が近くにあった。
警察官は、万が一ということで入念に別アングルから3枚写真を撮って帰っていったという。
安心した鈴木さんは、胸をなで下ろしついでにラーメン屋に電話をし
「おたくのとんこつ、今、うちで預かってるから!」と言っておいた、という。
今は、店舗の裏に小さなプレハブを建てて、目下新規事業の計画中という。
「なんにもなくなっちゃったので、逆に新しいことを考えるきっかけになったというか。
今までの事業とは全然違うことを始めようと、色々やってます。」
震災が来なければ、一生、平和に今までの商売を続けていたかもしれない。
不謹慎かもしれないけれど、わくわくしている、と鈴木さんは言った。
選ばなかった未来や選べなかった未来を、現実とおなじまな板の上に並べて比較することはできない。ただ、鈴木さんから感じたのは、怒りや痛みよりも――あるいはそれらを通り越した上で――現状をポジティブに捉えて再生しようとする力だった。
想像を超えるほどに、しなやかに未来を拓こうとする力。
たった半日来ただけで、何がわかるだろう――
そう思いながらやってきたわたしが、不思議なほどにネガティブではなく
だからこの地に、近いうちに帰ってこようと思ったこともまた、事実なのである。
地球の舳先から vol.219
東北/被災地 定点 vol.6(全10回)
「震災前のコヤマ菓子店は、あそこにありました」
震災以前の写真のパネルを持ち、気楽会代表の小山さんはとある一角でそう言った。
指差した方向はほとんど更地で、残った周りの建物と震災前の写真を照らし合わせて想像するよりほかない。
店舗のあった建物は3階建てで、小山さんはあの瞬間、ちょうどカステラを作っていたという。
車の通れる道路は限られており、家の前は避難の車で渋滞になった。
すぐ近くの河北新報社ビルが1次避難所に設定されていたため、避難。
70人位の人たちが避難してきた中には、津波の水に濡れながらようやく上がってきた人もいた。
お年寄りも多く、動ける男性はほんの5~6人。
誰ともなく、バランスを考えて3つの班に分けて協力しての共同生活が始まった。
中の飲み物を得るために自動販売機を壊すことになった際には、
力のある男性陣が手近な椅子やゴルフのドライバーを使い必死になった。
電気も通らず、建物中を探して掛け時計から電池を拝借したり、
エタノールとティッシュでランタン代わりの灯かりを作ったり、
緊急事態用のロープは屋上の旗を立てるポールからとった。
「生きる知恵が、急に沸いてきた」と小山さんは振り返る。
建物が密集し、海面を見渡すにはほど遠い。
津波がどこまで迫っているのかわからず避難し遅れて呑まれてしまった人もいた。
日ごろから、地域の人とコミュニケーションを取ることの重要さが身にしみたという。
現在、コヤマ菓子店は場所を移して営業を再開している。
震災前に店舗があった地は、70センチも地盤沈下し、
下水管からなのか埋め立てた土地のルートからなのか、日々、浸水を繰り返している。
土地自体も、震災で東南東に48mもずれていた。
コンクリートを盛って埋め立てられているのは、まだ仮設道路部分のみ。
広範囲にわたるこの地一体の沈下部分を埋め立てるには膨大な予算が必要だ。
加えて、未来を見据えて埋め立てを行うのであれば、下水管などの整備もし、
それらを地下に埋めた状態でないと、土を盛るにも、盛れない。
津波があった区域には建築制限もかけられており、
住民や土地の所有者には、「とりあえず何もせずに待つ」以外の選択肢がないのだという。
しかしもう8ヶ月が過ぎているなかで、ひとつの指針も出てこず、人々は困惑を強めていた。
小山さんは、終始穏やかに気仙沼の町を一周し、
語るのもつらいはずの震災のことを細やかにわたしたちに説明してくれた。
心境を勝手に想像することはできない。
だが、見ず知らずの人間に気仙沼を案内することにしたその静かで強い意思を、わたしは確かに受け取った。
とてもじゃないけれどこの旅のことは書けない、と固く思ったわたしがこうして意思を翻しているのも、そのためである。
地球の舳先から vol.218
東北/被災地 定点 vol.5(全10回)
志津川から、3本のバスを乗り継いでわたしは無事、気仙沼へ到着した。
運休になって久しい気仙沼線本吉駅で、代替バスの車体を取り替えるから待つよう手短に指示した運転手が、どこからか出てきた2匹のきれいで丸々とした猫を指差して言った。
「駅はもう、開いてないけど。あの猫、茶色いほうが駅長って呼ばれてるんですよ。
黒いほうが、社員。よかったら写真、撮っていって」
駅長は器用にわたしのカバンの中を勝手に漁り、社員はごろごろと足元にまとわりつく。
わたしは、カニカマを持ってこなかったことを後悔し、「駅長」と呼びかけてカメラ目線をいただいた。
最終目的地の気仙沼市役所前に無事、ほぼ定刻に到着したバスから降りると、気楽会の手作りのツアー旗をもったメンバーと、参加者、それからメディアの記者やカメラが集まっていた。
「気仙沼気楽会」は、気仙沼の若者が“いまの気仙沼観光マップ”を案内する有志のグループ。
この日11時に集合して、16時までみっちりと徒歩だけで気仙沼を回る。
気仙沼市役所から商店街へ降り、気楽会メンバーの斉藤さんの実家の茶屋からスタート。
1500の事業所のうち、1400が被災したというこの地域は、自衛隊が捜索活動にあたった証である丸印や「CR」という文字がすべての建物に赤々と記されていて、まだ瓦礫が建屋内に残る棟も。
立て壊しの申請はしているものの、順番を待つ期間が長く続いているのだという。
プレハブ小屋では、遅ればせながら仮設商店街の設営が始まっていた。
「食べていくだけなら、今現在に限ればできるけれど、
毎日仕事をしていないとやっぱり、なんだか生きている実感がないというか…」
南気仙沼地区は、地盤沈下によりあちこちが冠水していた。
車通りは多いが、信号は無く、大きな交差点には警官が立っているものの、危ない。
漁港に出ると、船がたくさん停泊していた。
「ライトがいっぱいついているのが、サンマ船。竿がいっぱいついているのがカツオ船。」
カツオは一本釣りだから、と、内陸で育ったわたしに気楽会のメンバーが説明してくれる。
「気仙沼は、加工の町。ここにいた97%の船が流されました。
残った船をかき集めて、ある漁師さんはすぐに漁に出て、サメが大量だった。
でも、加工ができないから気仙沼では水揚げできずに千葉に行って、損失はマイナス100万円。
それでも、水揚げしたあと、また漁に出るって言った。
すこしでも気仙沼の経済が動くなら、そこから復興が始まるのだから、って。」
プレオープンを迎えた、プレハブの飲食店が並ぶ「復興屋台村」で昼食タイム。
お客さんは多く、ランチタイムには満員で入れない店も多数。
まぐろ丼の店で、なかおち、中とろ、ねぎとろの3種盛りの丼をいただく。
屋台村の委員長、岩手佳代子さんに元気な笑顔の挨拶をもらい、
動き始めた街に希望を見て、参加者の心がこの日はじめてゆるんだ瞬間だった。
それでも、向かいのフェリーポートは桟橋が崩れて海に突き刺さったままで、
信号や避難所を示す立て看板が折れ曲がって地面に突き刺さっている。
午後はもっとも被害が大きく、船に積んだ重油で大規模火災にも見舞われた鹿折地区を歩いた。
大きな瓦礫は、同じだけ片付けられているはずなのに、この地域に漂う空気はまるで違う。
あらゆるところに、人力では動かせない船や、まだ解体できず歪んだままの建物が続く。
その中には、気楽会のメンバーの親戚が営んでいたという旅館もあった。
「身内からしてみたら、早く壊してもらいたい」と彼は言った。
高台であり、避難場所でもあった鹿折唐桑駅は波に呑まれ、もう電車は走っていない。
津波の大きさを”後から”思えば、実にさりげない程度の高度しかないのだった。
そして、建物という建物がなくなった今でさえ、海の水面をのぞむのが難しいほど離れたこの鹿折唐桑駅の目の前に、300トン級もの巨大な漁船が乗り上げていた。
もう動かしようもないという事情もあるのだろうが、ここを震災のメモリアルパークに、とする声もあがっているという。
電車が通らなくなった鹿折唐桑駅から線路の上を歩き、丘を上がる。
途中で立ち寄った「すがとよ酒店」のご主人は、震災以降、まだ帰らない。
今は息子たちが店を切り盛りし、女将の菅原文子さんが知人の勧めで書いて応募したご主人への手紙が「恋文大賞」を受賞した。この応募原作は現在、店内に展示してある。
同行していた記者の「ご主人はおいくつだったのですか」の問いに、文子さんは「数日前に、63になりました」と答えた。
スタート地点である斉藤さんのお茶屋に帰ってきたのは日も暮れかけた頃。
斉藤さんとお母さんが出してくれたお菓子とお茶をすすって、夕方の風で冷たくなった体を温める。
外は強い風が吹いていて、来るべき冬の足音を予感させた。
結論どころか個人的な感想を心の中でまとめることすらできないくらい、
目に映る光景の非現実さに彷徨う一方、被災地を初めて目にしたときの絶望感は薄れていた。
人がいなくならない限り、町は死なない。
1日かけて、この地の人たちに会って、話を聞いて得たわたしの結論がそれだった。
次回からは、気楽会のツアーで出会った人々の話を個別に紹介していきたいと思う。
つづく
地球の舳先から vol.217
東北/被災地 定点 vol.4(全10回)
果たして朝が来てはじめて、わたしは対岸がとんでもないことになっているのを見ることになる。
すべてを隠してしまう、夜の闇というのは恐ろしい。
昨晩露天風呂から見た対岸の光が数えるほどしかないことには気付いていたが
逆に、あの光はなんだったのか?と思うほど、対岸の志津川は“更地”だった。
フロントに「被災地を回りたいので」と伝えてあったので、迎えに来たタクシーは観光協会のロゴが印字された車体で、運転手さんは慣れた手つきでまず3.11前の空撮写真を手渡してくれた。
山道を走り、志津川地区へ着くと、文字どおりの更地に、ところどころに瓦礫や車の山、骨組みや土台だけが残った土地が目の中に入った。
被害状況を淡々と説明しながら、車を走らせ、頻繁に止まってくれる。
早朝ということもあり、ほとんど人はいないが、少ない歩行者は行き違う際にあたりまえのように挨拶を交わす。
大きな瓦礫は片付けられているものの、1か所に集められているだけではある。
加えて津波の被害があった場所は建築制限がかかっていて、持ち主でも手を出せない。
それでもクリーニング屋や床屋など、プレハブで営業を再開しているところが数か所あった。
泥のなかからかき出したのだろうか、きれいに洗ったぬいぐるみが手向けられているところもある。
テレビでよく映った防災対策庁舎の3階建ての建物も、骨組みだけになって残っていた。
自身が逃げ遅れるまで、無線放送室から避難を呼び掛け続けた女性職員は今も行方不明。
すぐ近くには、チリ地震時に来た2.4mの津波の看板があり、それを安全基準に建物が作られたことを示している。その6倍もの津波が、すべてを押し流したのだ。
庁舎の天井を眺めて、「こんな巨大津波が、SF映画以外で存在するのか?」と思う。
この目で跡地を見ても、想像の範疇すら超えていた。
漁港の近くへ行くと、一気に足場が悪くなった。
津波の影響で地盤沈下が起きており、満潮ともなれば海抜がゼロ以下に落ち込むのだ。
大破した堤防、海水浴場。絶好の遊び場になっていた小島へかけられた橋は跡方もない。
もはや海と化しそうな砂地を指して、ドライバーさんが「前はこのあたりに会社があって」と言う。
なにか、自分がとてつもなく非道なことをやっているように思えるものの、慮っておろおろするほどの余裕もなく、頷くしかない。
最後に、鮭の養殖場へ行ってくれた。そういえば、秋鮭の季節である。
卵を大きく育てるため、海に浮かべた檻の中で激しすぎるほど跳ねる鮭。
網に近づく、大きく黒い魚がはっきりわかるほど、水は澄んでいた。
「鮭は本来は白身の魚で、海老とか食べてあんな綺麗な色になる」という
海の人間からしてみたら当たり前の話すらわたしは知らずに驚き、
湾の鮑がどこかへ行ってしまったと嘆くドライバーさんにも、またしても頷くことしかできない。
自然の力、といってしまうにはあまりに、暴力的な光景。
「復旧から復興へ」などという言葉がちらほら聞かれ始めているが、
とてもそんな状態にないのは一目瞭然だった。
瓦礫を片付ける(というか1か所に集める)という1次処理は終わったものの
じゃあその瓦礫はどうするのか?地盤沈下した海沿いに建物は建てられそうもない。
では、この土地は?生き残った人が、生きていく道は?
おそらく、誰も、指針どころか、方向性の絵すら描けていないのではないだろうか。
しかしこの光景を目の当たりにしてしまうと、それを責められもしないと思ってしまう。
何から手をつけるべきなのか皆目見当もつかないのは、わたしが素人だからであって欲しい。
心と頭のどこかが、麻痺したように、考えること、感じることを制限しているように
うすぼんやりと靄がかかったようになっていた。
個人としての感想すらまとまらないまま、ほぼ1時間を巡って再びホテルへ戻る。
気仙沼へ行くバスの時刻が迫っていた。
今日は、長い一日になる。
こんなに心の準備ができていないまま移動をするのは気が引けたが、
おそらく見ても信じられないものに出会うのだろうから、準備のしようもない。
そう割り切って、駒をすすめることにした。
つづく
地球の舳先から vol.216
東北/被災地 定点 vol.3(全10回)
渡邊さんは、青森県出身。
お父さんが亡くなった時、「自分って、小さい」と思ったことが、青森から出るきっかけだったという。
仙台で、リクルート社の旅行雑誌「じゃらん」の営業として、南三陸を含む沿岸部を担当した。
ホテル観洋の女将や観光協会の名物熱血パーソンともその頃知り合い、南三陸が好きになる。
子どもが産まれたことをきっかけに去年の11月、転職をしてこの地に移り住んだ。
わずか4ヶ月での、被災。
雑誌用の撮影中に大きな揺れが来て、外に出ると建物が揺れているのがはっきり見てとれた。
お客さんを館内の避難場所へ誘導し、ホテルのスタッフは笹かま1枚でその晩を過ごした。
引き波は激しく、渡邊さんも津波がホテルを襲う瞬間を目撃した。
随分離れた島の方まで海底があらわになり、漁師の「これはまずい」という言葉に言葉にならない不安を抱く。
ブイが引かれて流れていき、ぶつかって戻るときには家や車が潮に呑み込まれていた。
そんな津波が20回以上も陸を襲っては、すべてを流していった。
ホテルも2階まで壊滅的な被害を受け、橋と道路が破壊されて一角は孤立状態に。
3日目の朝にようやくお客さんを仙台まで移動させたものの、自身の家族の安否はいまだ不明なまま。妻は、生後わずか6ヶ月の子どもを連れているはずだった。
4時間かけて山を越え、3箇所目の避難所で妻子の無事を確認した。
家は流されていた。場所を正確に特定することすらできず、仮設住宅ができた5月初旬までの間、ホテルで生活した。
「家族全員、命が助かっただけでいい。
ものは後々また買えばいいし、これから作っていけばいい。」
と当時の心境を振り返る渡邊さんだが、その後、思わぬ僥倖も訪れた。
被災地の瓦礫のなかから写真を見つけて、洗浄するボランティア団体の活動で渡邊さんの家から見つけ出された写真があったのだ。洗浄された写真は旧入谷中学校に展示され、申し出れば本人や知人が持って帰ることができるようになっていた。たった1枚だけ発見されたその写真は、渡邊さん夫妻の結婚式のときのものだった。
8/1の、娘が1歳の誕生日には、渡邊さんは街の写真家とホテルスタッフから、思いがけないプレゼントも貰った。
もう一度結婚式の写真を撮ろうと衣装を着込んだ渡邊さん夫妻を、ホテルのロビー階にある結婚式場でスタッフ・宿泊客・牧師さんが出迎え、一家三人で二度目の結婚式をした。
* * *
ホテル観洋はまさに海に面した場所にあり、壊滅的被害を受けたものの、建物が崩れることはなかった。警察にも地元の人にも「最強の要塞」と称されたという。
二次避難所として600人弱が生活し、生存者の確認・来館者対応など、震災関連業務に追われるスタッフ。それでも、下を向いている暇はなかったという。
「ホテルがなければこの街に誰も来なくなる。このホテルが、南三陸の復旧の拠点になるんだ」
前向きな女将さんは従業員を、ホテルを、明るく引っ張り、まず宿泊施設として必須となる温泉施設の復旧工事を決めた。その後のスピード感には、目を瞠るものがある。
水も満足に出ない中、4/23に隣接する別館レストラン「海フードBBQ」を、4/29には町内で一番早く売店を営業再開。告知する手段もないため、従業員が「営業中」と手書きの看板を持って道路に出た。
5/28には、延期した入社式が執り行われ、16名のスタッフがホテル観洋にやってきた。一人も内定を取り消すことはなかった。
6/27には、館内のトイレ、客室の洗面所・冷房が使用可能になり、宿泊施設としての設備を整える。
震災直後は東京の会社を通じ、それでも毎日更新していたというブログやtwitterを通じたホテル観洋からの情報発信は、いつも意外なほどの元気さと、スタッフの笑顔が伝わってきた。
もちろん、まだ道のりは長く、不透明だ。
ここまで、ひたすらに走り続けてきた被災地の人々の心のケアの問題もある。
「すべてが不安定で、未来のことまで考えられない。今できることを、やるしか…」
もうすぐ冬もやって来る。南三陸は、自分たちは、この冬を乗り切れるのだろうか。
それでも渡邊さんは、とにかく南三陸に旅行に来て欲しい、と言った。
「ボランティアに行くとなると、ハードルが高い。重いもの持てないし…とか。
でも、この地に来てもらうだけで支援なんですよ。そして一人でも、お友達に伝えてくれれば。
これから、きっと来年の3月あたりに”あれから1年”ってメディアで特集して、
それで終わりになっちゃうんじゃないか、という不安がある。
南三陸が、皆さんの頭の中から忘れられてしまうことが、一番の恐怖。
“観光”というところまで戻すのは長い時間がかかるだろうけど、
足を運んで、旅行してもらいたいですね。」
南三陸ホテル観洋
〒986-0766宮城県本吉郡南三陸町黒崎99-17
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Blog: ときめきピチピチ便り(毎日更新中)
地球の舳先から vol.215
東北/被災地 定点 vol.2(全10回)
このホテルをひと言で表現するなら、これしかない。
“心意気”。
南三陸町一番の規模を誇る、ホテル観洋。
避難所として機能し、いち早く営業を再開したことでも有名だ。
ホテルはわたしが想像したよりもずっと大規模で、
一歩ロビーへ入ると、きらきらに磨かれた大理石調の床が光る。
それもそのはず、すぐ脇には結婚式も出来るスペースがあるのだった。
幸いにも最上階である10階の角部屋をあてがわれ、お客さんが少ないのでは…などと思ったのも束の間。
もちろん震災を受けての視察団体などもあるだろうが、団体の宴会場も大変賑わっている。
エレベーターを降りると、夕暮れが迫る内湾が一望でき、
数えきれないほどのかもめが飛び回っていた。
部屋は和室にベッドが備えられた和洋室で、茶台にはお菓子とお茶、
おしぼりに、つめたい水がポットの中で氷とふれあう音がする。
さっそく、このホテルご自慢の海をのぞむ温泉へ。
温泉の暖簾をくぐると「やっぱり新しいから綺麗だね」という会話が聞こえた。
この温泉は、津波で壊滅的な被害を受け、全面的に新築されたのだ。
それでも、”あの”災害をもたらした海をのぞむこの場所に、元のように温泉をつくり直した。
温泉は、内湯に、温度の違う露天風呂がふたつ、そして海の見えるサウナ。
海側へ張り出した露天風呂は、海に浮かんでいるようでもあり、
ホテルの建物で波をせき止めているようでもあり、
津波があったあとで…と来る前は気後れもしたものだが、眺望のすばらしさにただ圧倒される。
ただし、湾を挟んだ向こう側の志津川地区には、数えるほどしか光がみえず、心持ち影を落としていた。
(右写真は 南三陸ホテル観洋公式HPより)
ホテル内の娯楽も盛りだくさんである。
ロビーには南三陸出身の画家の写真が展示され、
わたしが宿泊した日も、落語にピアノコンサートと目白押し。
かなり大きい売店は22時までやっていて、もちろん冷えた地酒もある。
何より驚いたのは食事だった。
港が大打撃を受け、流通も元通りにはほど遠いはずで、
まさか三陸の名産を味わうなどとは頭の片隅にもなかった。
ハンバーグとかナポリタンとか、周辺にお店もないし何か出してくれるだけで儲けもん。
と思っていたのだが、わたしは完全にこのホテルの底力をなめていたらしい。
まず、テーブルにセットされたお皿の数に驚き、次いでコース表に驚いた。
レストランの人は焼き物の蓋を持ちあげて「鮑は焼けてからバターを」と説明し
これでもかとウニの入った炊き込みご飯に火をつけて去って行った。
食前酒 梅酒
先付 秋刀魚の和え物
前菜 メカジキ照り焼き/鮪の卵の煮こごり/オクラ山葵漬け
酢物 万棒(マンボウ)と蛸の吸盤
御造り 鮪/メカジキ/カンパチ/帆立/アオリイカ/牡丹海老
焼物 鮑の踊り焼
鍋物 つみれ鍋
煮物 炊き合わせ ふかひれあん
洋皿 鰹のカルパッチョ
台の物 ずわい蟹
蒸し物 海鮮茶碗蒸し
食事 海鮮釜めし
汁椀 油麩と松藻
香の物、デザート 各2点
…ここまでくれば、こちら側まで背筋が伸びるような、ホテルの意地を感じる。
トーホクの美酒を味わい、部屋に帰る。
テレビをつけると、震度1でもテロップに地震速報が表示された。
ひと晩じゅう、波の音がしていたものの、それはおどろおどろしくもなければ「ざばーん」などと激しく打ち付けることもない、
さわさわと寄せては返す、静かな潮騒だった。
およそこの空間には、かの震災を思い起こさせるものがない。
美しいホテルとホスピタリティ、自然をのぞむ温泉に、贅を尽くした食事。
このホテルの中は、隔絶されたように”観光地”だった。
そこにはもちろん、街の復興を信じて、ホテルの復旧に全力を傾けてきた“人力”が存在する。
次回のコラムでは、そんな“人”のひとり――ホテル観洋スタッフの、渡邊陽介さんのお話を紹介する。
つづく
地球の舳先から vol.214
東北/被災地 定点 vol.1(全10回)
国境の、あの抗い違い引力とは、何なのだろう。
まだ見ぬ風景のなかに身を投じて、なにかを得ようとする。いや、感じようとする。
目に映った光景が、信じられないようなものだったとしても。
パスポートを置いて、“国内”であるところの被災地に行く気には、長らくならなかった。
「行ってもしょうがない」と「行く勇気がない」の主に2点が足を止めさせていた。
物理的にも非力なわたしなぞが行ったところでできることなど無いし、
行って心を紛らわせたいというのであれば、それは自分のため以上でも以下でもない。
軽々しく足を向けて、安っぽい感傷に浸りそうな自分が、とてつもなくイヤだった。
しかし、今まで自分が旅に出るのに、たいそうな大義などあっただろうか?
旅に出よう。遊びに行こう、被災地に。
そう思ったのは、有楽町の献血ルームだった。
お金もなければ力もないわたしが直接的にできる人道支援など献血くらいのもので
この日、1時間もかかる成分献血のベッドに持ち込んだ雑誌が新潮社『旅』だった。
贅沢にページ数を割いた気仙沼特集は、“新・気仙沼マップ”が紹介されると共に
「気仙沼は今の姿であっても、来てもらってじゅうぶん楽しんでもらえるところ」
とした現地の方のコメントが載っていた。
ボランティアとして、でなくても良いのではないだろうか?
救援物資や義捐金を、積んでいければそりゃいいのだろうけど、
一個人として、遊びに行ったっていい、旅したっていい。いや、「よかった」のだ。
それでも割り切れきれずに「大義」を求めたがるわたしは、雑誌で紹介されていた
気仙沼の若い人々が無料で街を案内してくれるという「気仙沼気楽会」のツアーに
申し込み、ただひたすらその日を待った。
3ヶ月がかりで出費を抑えて旅費を捻出したわたしは出発前夜、軍資金を並べて
東京で節約して東北で豪遊すれば、いまだにいくら調べても複雑すぎる“ふるさと納税”をするより簡単だ、などと思ったりしていた。(本質的にはまったく違うが…)
朝7時に起き、仙台へ向かう高速バスへ乗車する。久々の豪雨。
車中で、福井晴敏の『震災後~こんな時だけど、そろそろ未来の話をしようか』を
ハードカバーで読んだ。
福井晴敏は『終戦のローレライ』『亡国のイージス』などの作者であり、わたしの一番好きな作家だが、福井作品には珍しく、ヒーローの出てこない話だった。
あの震災から時系列を追って、ほぼ事実に即して展開されるストーリーの主人公は、作中でも“無辜の民”と表現されるほどぱっとしない。
しかし仕事をし、家族を守り、愚直にまっすぐ生きてきた無数の民衆が日本を作ってきたのだ、というメッセージは大いに伝わった。
そして、現状は、だれかのせいにできるものではない、たとえ未来に負担をかけていたとしてもそれは良かれと思ってやってきた結果であって、わたしたち全員が逃げずに当事者であると自覚すること、それもひっくるめた上で時代を紡いでいくこと。
それが、未来をつくることなのだ、ということも。
震災後、どうしても声の大きな人が目立つ。
そこに引っ張られてはいけない。
ほんとうの“現場”は、テレビの画面に映るようなものではないのだ。
できるだけ、普通の人に話を聞きたい。
そういう旅にしよう、と、いつもより格段にゆっくりページを繰りながら決めた。
まずは仙台でバスを乗り継ぎ、わたしは南三陸町へ入った。
途中、戸倉地域で、何かに削り取られたように崖壁化している松の木と、廃墟と化した建物を2棟見た。無論、何に削られたかは明白だが、その鋭利さに驚く。
泥に塗りこめられ、色を失った光景。
翌日、比較にならない光景を目の当たりにすることになるとは、
このときは、予測はできても実感はできていなかった。
つづく