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地球の舳先から vol.278
イスラエル編 vol.13(全14回)
張り切りすぎて5時間前に空港に着いた。
グランドスタッフの、大変良くしてくれた担当の男性からまたしても電話が入り
最後の会話をした。
ひとりになったものの、「2時間後に来い」と言われ、予想通り入れてもらえない。
それでも話しかけ続けて規定の30分前に滑り込む。
荷物のX線検査に進むまでに30分。
パスポートチェックの尋問を受け、荷物チェックを受けるまでに1時間。
(ちなみに差し迫ったフライトの人が優先されるので、早く行っても全く意味ない。)
イスラエル名物の一種の「プレイ」という印象は、出国する頃にはなくなっていた。
わたしがもしテロリストだったら、こんな厄介な空港ではなくて、
どこぞの非公式の陸の国境から爆弾を運ぶだろう。
これは牽制でもあるのだ。大学時代に目の前のテロで難聴を患ったガイドも言っていた。
「セキュリティは確かにうざったい、でも君を守るものでもあるのだ」、と。
荷物のチェックは、入っているものをすべて出し、手袋をはめた検査官がひとつずつ確かめる。
電機製品はあるかと言うのでないと言ったら、「こういうのを電機製品って言うんだ」
と、ドヤ顔でコンセント変換プラグを発掘された。あ、そーなんですか。
スーツケースは半空きのまま。エアラインのチェックインに進み、急いで再度パッキング。
そしてパスポートコントロール。その前に捕まるが、別室に行っている時間は無い。
「イスラエルには何日?」 -5日。
「どこへ?」 -ホテルのバウチャーを出し、答える。
「宿泊は、ホテル、キブツ、ホステル、それとも人の家?」 -全部ホテル。
「OK」
・・・・・・・・・えっ?!
出国のほうが厳しいと聞いていたのに。
ここで、欲が出た。
もともと、パスポートを潰すつもりでこの時期にイスラエルを選んでいる。
しかしここを切り抜ければ、イスラエルのスタンプなしにスルー出来るではないか!
「Stamp…」と言い、しかし口にしてみて気が変わった。
毎日毎日、好きこのんでやってくる外国人どもに「ノースタンプ」と言われ
祖国を否定される彼女の思いはどんなだろう。
「じゃあ、来んなよ、旅行だろ?」であろう。
「あ、押してください。記念なので」と、しどろもどろに言い換えた。
しかし、イスラエルはイスラエル。
超絶美女の彼女は、わたしと目も合わせようとせず、表情ひとつ変えない。
…そのうえで、こう言った。
「It might be a problem someday,because you’ve been traveling so many countries.I understand」
手元に帰ってきたパスポートには、何の印も無かった。
搭乗ゲート前で1杯のカールスバーグを飲みながら
(買うときに年齢を聞かれて、また気をよくした)
バックパッカー数人の会話が耳に入った。
皆、「ノースタンプ」に成功していた。
「でも、荷物のチェックのときにパスポートに貼られた黄色いシール、
あれ、絶対はがれないのよ!はがしても、はがし跡がわかるから、
それでアラブの国に行くとバレちゃうんだって!」
・・・・・・・・・・・・・なんですと?
パスポートをひっくり返すと、確かに裏表紙に、出国時と入国時に貼られた
黄色いバーコードのついたシールがある。
片隅を爪でひっかいてみたが、表面を溶かして吸着する特殊接着剤か
なにかなのか、まるではがれる気配は無い。なんだこのノリは。
「Oh My Goodness…」
わたしと同じ動作をしたとなりのバックパッカーが、そう呟いた。
にしても裏表紙に傷をつけることはないと思う。
表面は美しい金捺しのJAPANの文字と紋章なのに。
まあ、いい。当初の予定通り、10年ぶりのキューバを見て、このパスポートは潰そう。
敵対国の入管以外はきっとわからないであろう、わたしがイスラエルに行った証拠。
パスポートを取り出すたびにわたしはこれを思い出すだろう。
そういえばパスポートに残っていない国も、沢山ある。
ビザを申請しなかった1度目のキューバ、チベット、北朝鮮。
これでいいのだ。
パスポートには、そういう”行間”が、あるのだから。
おしまい。
地球の舳先から vol.277
イスラエル編 vol.12(全14回)
出国の日。残したイベントは軍事博物館だけである。
これは、空港と旧市街の間にあるので、最終日に立ち寄ることにしていた。
ガイド兼ドライバーのお喋りのおじいちゃんともこれでお別れだ。
朝、5つ星ホテルで(←貧乏人はこれを強調する)
やはり超豪華な朝食を取って外へ出ると、とんでもない空の色に気付いた。
「嵐が来る」と彼は言った。
「君が来る前も、1週間くらいずっと大雨だったんだ。ラッキーだったね」
最後に見たいところはないか、と言われたので、オリーブ山に連れて行ってもらった。
ここからは、エルサレム旧市街が見渡せる。(冒頭の写真)
いわゆるイスラエルのガイドブックの表紙なんかに使われる写真。
…なのだが、とにかく天気が悪いので、光景がおどろおどろしい…。
「最後の審判」ゆかりの地なので、手前側はすべて墓、墓、墓。
ちなみに第一次中東戦争でヨルダンが墓地をすべてぶっ壊したらしい。
どいつもこいつもである。
ちなみにもうひとつの山、スコープス山にはヘブライ大学がある。
ガイドはそこの出身だったらしい。思った通りの超エリートだった。
「大学の時に、学食で食事をしてたらね、3つくらい隣に女の子が座ったんだ。
で、君が持っているみたいなそういうやつ、小さいバッグをテーブルに置いて」
…話の続きは、書くまでもない。
「小さいバッグ」は爆発し、彼はそれから一生、難聴を患うことになる。
イスラエルでは、どこで何が起きるかわからない、と彼は言った。
戦争が日常で起きるものではない、というか、日常が戦場になる、というか、
残酷なのは、ある日どこかの路線バスが爆発しても
またそのバスに乗って通勤しなければならない人たちがいるという事。
たとえ爆弾を仕掛けたやつが捕まったとしても、
事態はつねに、ゴールのない未解決事件。
あんなに混んでいた道路も、土曜日のこの日は数えるほどしか車が走っていない。
思ったよりずっと早く目当ての博物館「ラトルン戦車博物館」へ着いた。
わたしは外国へ行くと軍事博物館に行くのが趣味なのだが、なぜか
イランでもラオスでも臨時休館だった(ただし、いずれも屋外の戦車を見物して楽しんだ)。
ここは幸い空いていて、まず問答無用に悲劇のビデオを見せられるのだが
やはりメインは屋外に無造作に展示されまくっている戦車たちであろう。
ちなみに、この場所も第一次中東戦争の激戦地で、警察要塞だったらしい。
イスラエルはアメリカの莫大な”支援”を受けていたし、ゴラン高原でも見たように、アラブの色々な国と戦争をしては戦車を捕捉したので、実に色々な戦車がある、ということらしい。
イランの軍事博物館でも、イラク戦争の「戦利品」が展示してあったがその比でない。
そして、戦死者の名を刻んだ壁には、クリスマスの名残か、リースが添えられていた。
ここからすぐのところに、同じ地名を冠した「ラトルン修道院」がある。
時間は余っていたが、異教徒がそんなところへ顔を出しては失礼なので、…
「ワインが有名だ、行くか」 「行く」
及び腰で教会内にも立ち寄ったが、わたしが経験したいちばんの静寂だった。
緑に包まれた敷地内には確かに何か独特のオーラがある。
外で出店を広げている自称カザフスタン人に中国茶を売りつけられ
(なんで買ったのかわからない。なにかがとりついたのだと思う)
修道院の公式ショップで、すこしだけワインを覚えたわたしはうんうん唸りながら1本選んだ。
これで荷造りはやりなおしだが、どうせ空港でカバンの中身を
すべてひっちゃかめっちゃかにされるので同じことである。
こうしてわたしは空港へ向かう車に乗り込んだ。
安全で、おかしな旅だった。すこし空を見上げて、思わず「ふぅ」と溜息らしきものが出る。
…これで終わったらつまらないだろうから、
ほぼ最終回へつづく。
地球の舳先から vol.276
イスラエル編 vol.11(全14回)
イスラエルに「国教」はない。
キリスト教徒もイスラム教徒もいるから、とかいうより
「近代国家として政教分離は原則だ」ということらしい。
…アメリカ的ですね。(←また言っている)
しかし国の制度やローカルルールで、宗教の影響を色濃く受けるのは当然。
「シャバット」いわゆる「安息日」もそうで、
金曜日の日没から土曜日の日没まで、労働しちゃならないのがユダヤ教。
ちなみになぜ2日にまたがるのかと思って調べたところ、
旧約聖書上「日」は24時ではなく夕方で区切るため、らしい。
シャバットになるとエレベーターが各階停止になったり(ボタンを押すという行動がダメ)
厳格な人たちは動いている救急車に投石したりするとか…(都市伝説であってほしい。
そんな宗教に果たして救いがあるのか?)
しかしユダヤ教は国教ではないし、もちろん強制でもないし、
どこぞの国のように宗教警察が徘徊して風紀指導などをしているわけでもない。
だから、別にシャバットに出歩いていたところで怒られたりはしない。
が、安息日には公共交通機関はストップする。
…わたしはこれを、本気にしていなかった。
金曜日の移動を避ける行程にはしていたが、その実「いやいやいや」くらいに思っていたのである。
しかし万が一があってはよくないので初日に時刻表をチェックしたところ
本当に1本も電車がない。ガチなのである。
タクシーは白目をむくほど高価だし、わたしはエルサレム旧市街から
3~4キロ離れた小高い丘の上のホテルを取って、ゆっくり籠ろうと思っていた。
最後の晩の贅沢で、このあたりでいちばんいい5つ星ホテルだったのだが
さらに、オーバーブッキングで部屋はアップグレードされており、
バルコニーからはシャバットを迎えた旧市街のようすが綺麗に見えた。(冒頭の写真)
さて最後の夜はいいホテルで食事をして旅に思いを馳せながらゆっくり…
などと思っていたのだが、意外と光の消えない向こうの街を見ていたら、
安息日の嘆きの壁に行ってみたくなってしまった。
ホテルに付けたタクシーと交渉してみたが交渉は一方的に決裂し(高すぎ)
「ようし、シャバットしよう!」ということで(正確には意味が違うが)
わたしは一路、旧市街を目指して歩きはじめた。
道はほとんどまっすぐだし、路面電車の線路をなぞっていけば間違いは無い。
スタンドバイミー気分で線路の上を歩き、たどりついた旧市街は、
意外なことにまさに「花金」状態で盛り上がりまくっていた。
嘆きの壁には、なにやら円陣を組んで嬌声を発している集団がそこかしこに。
完全に祭り状態である。安息日の名が泣く。
そして、我関せずで壁に向かって祈りをつぶやき続ける黒服のユダヤ教徒正統派…
さすがに、少し同情した。
旧市街を一周し、タクシーの客引きを振り切ってまた歩いてホテルに戻った。
ホテルの食事は当然のごとく豊富で、サラダだけでも20種類以上ある。
イスラエル産の赤ワインをもらって、ほとんど無事に済んだ旅の最後の安全を祈る。
となりのテーブルでは、今日エルサレム入りしたらしいツアー客の集団が
神妙な顔をしてガイドの説明に静かに耳を傾けていた。
一夜明けたら、日本へ帰る。最後の夜だった。
つづく
地球の舳先から vol.275
イスラエル編 vol.10(全14回)
アラブ人ドライバーの彼は車を止めると「待ってるから、ご自由に」と言った。
下ろされるとは思っていなかったので一瞬びっくりしたが、つまり「下りても大丈夫」という事だろう。
車から這い出して、壁沿いに写真を撮って回った。
この分離壁には、もはやアートと呼ぶべき絵が所狭しと描かれている。
“英語”のメッセージと共に。
有名なのは、バンクシーという、風刺画を描く覆面アーティストが描いたもの。
火炎瓶の代わりに花束を投げる男の絵や、壁の壊れた向こう側に青空が見えている絵。
もちろんそれだけではなく、色々な人が絵を描いている。
誰かによって上から塗りつぶされているものもあるし、便乗した企業広告もあってウンザリしたりもする。
想定内ではあったが、アメリカを揶揄したものも多い。
世界で一番有名な「壁」はおそらく「ベルリンの壁」だと思うが、ことこの地の場合、
壁が崩壊したその先に平和はあるのだろうか。
と、いうか、この「壁」は、本当は誰を守っているのだろうか?
考えればきりがなかったし、個人的なものであれ結論も出るはずがなかった。
壁は高かった。
ここでわたしが思い出したのは、北朝鮮の38度線だった。
あそこにあった「壁」は、高さ10センチくらいの駐車場にある車止めみたいなコンクリ片だった。
が、そこでは、銃器を携えた2つの国の兵士が24時間向き合っている。
同時代とは思えないほどの差がある、軍服と装備で。
ここには、誰もいない。聞こえるのは自分の足音のみ。
近くに小さなクラフトショップがあったけれど、帰国の際の執拗な荷物検査のことを思い浮かべ、
なにを買うわけにもいかず覗くだけにして、車へ戻った。
一応、ホテルもレストランもあるし、営業もしている。
それにしてもほんとうに、静かだった。
帰りのチェックポイントで止まると、ガタン、と大きな音がした。
イスラエル兵が検査の為に後ろのトランクを開けたのだが、
この車は全然おんぼろでないガイシャなので、そんな音がするわけがない。
持っていた「何か」を故意に打ちつけでもしたのであろう。
銃をぶっ放すわけじゃない、みみっちくって、言い逃れ可能な、ささやかな嫌がらせ。
その人工的な音が一瞬、わたしのどこかの神経を一時的に断ち切った。
「切れる」という感情というか状態を体験したことはたぶんないのだが、おそらくそんな感じ。
頭よりも何かが突っ走って、たぶんものすごい形相で後ろを振り返った。
わたしがこの複雑な旅で怒りというものを明確に感じたのは、多分この瞬間だけだったと思う。
隣ではドライバーが、当然うしろなど振り返らず、わたしのほうも、バックミラーも見ずに言った。
「No problem」
じっと前を見つめる姿はえらく凛としていて、達観した修行僧(仏教じゃないけど)のよう。
わたしは、鼻で息くらいしたかもしれないが、とにかくもう一度前を向いて座りなおした。
「No problem」
彼は、うなずきながら、もう一度、ものすごく静かに言った。
今度は、なんともたとえようのない悲しみに襲われた。
この人に何があったのか、いやなにも無くてただの性格なのかも知れないけれど、
この人は一生、怒ったり悲しんだりしないんじゃないかと思った。
手元にかえってきたパスポートを膝の上に置いて、深呼吸をした。
― いずれにしたって、わたしが怒るところじゃないのだ。
「イスラエル側」には、馴染んだ顔のガイドが待っていた。
中で撮った写真を見せてくれといって、へーへー言いながら興味深そうに見ていた。
「この絵はいいね!」とか「美しい」とか、言っている。
そこの英語が、目に入っていないわけではないだろうが、
きっと自分の国籍がイスラエルであることと、イスラエルという国は別のハナシなのだろう。
金曜日だった。
ユダヤ教の安息日が始まる。
イスラエルでは、安息日は公共交通機関は全部ストップするし店も閉まる。
「またまた」と最初は思っていたがこれが本当にガチでやるのである。
外を歩いたって宗教警察みたいなものにとっ捕まるわけではないけれども、
いつもの大渋滞がウソのように、車通りも数えるほどになったエルサレムの街を、ホテルへと急いだ。
つづく
地球の舳先から vol.274
イスラエル編 vol.9(全14回)
陽が傾き始めるかという頃に、この日の本当の目的地へ到達した。
パレスチナ自治区、その中で最も観光地化されている「ベツレヘム」である。
キリスト教にもユダヤ教にも縁のないわたしでも、その地名くらいは知っている。
イエス生誕の地。旧約聖書のユダの町。クリスマスツリーのてっぺんの「ベツレヘムの星」。
しかし、想像していたよりも“全然観光地じゃなかった”。
エルサレムの街中を過ぎ、徐々にひと気がなくなっていくと、「壁」が見えた。
パレスチナ人居住区を高い壁で封じ込め、行き来もままならない、悪名高き分離壁。
ライフルを構えたイスラエル兵が執拗に出入りのチェックを行っている。
中へ入るには、アラブ人の車とドライバーに乗り換える必要があった。
ガイドを替わることに、不安がないわけではなかった。
アラブ人運転手だという彼は、頼んでもいないのにぺらぺらと、急いでいるにもかかわらず車の速度を下げてまで喋るイスラエル人のガイドとは正反対に、寡黙な人だった。
イエスとノーしか言わない、目も合わせようとしない。
最初は、招かれざる客なのだろうかと考えもしたが、そういうわけでもなさそうだ。
なにかをつたない英語で言うと、一所懸命にこちらの意図を汲み取ろうと見つめ返してくる。
半径10センチに小鳥がいても驚かせないだろうというような、空気を震わせずに喋る人だった。
むろん、わたしの個人的な印象。彼だって酔えば暴れるのかもしれない。あ、ムスリムか。
まずいことはすぐに教えてください、と言うと、彼は「OK」とだけ言った。
踏切のような、壁に囲まれたチェックポイントへと向かう。
カメラを構えて、シャッター音をONにしたまま、何回かシャッターを切った。
彼が「NO」と言ったのは、警備要員がこちらを振り返ってからだった。
カメラをしまったわたしに警備兵が近づき、パスポートを確認してすぐに通す。
パレスチナ自治区へ入った。
といっても、ほとんどの観光客がエルサレム観光のついでに立ち寄る、御馴染みの場所。
エルサレムは、ユダヤ人の町。パレスチナは、アラブ人の町 ― そう思い込んでいたわたしは、エルサレムのアラブっぽさにも驚いたが、パレスチナでまた驚いた。
ふんわりと続く、白い壁と建物。
わたしは、こんなに白くて美しい町というものを、ほとんど初めて目にした。
すでに夕方になっていた。後光を受けて白い建物は輪郭がぼやけ、美しい。
「神の住む町」と言われれば確かに納得しただろうというくらい、幻想的だった。
こんな状況でなければ、新婚旅行のメッカになっていたって、おかしくない。
むろん、ものものしいイスラエルの検門が物語るように、平和とは程遠い。
一番の観光スポット、イエス・キリストが生まれたとされる「生誕教会」は、
ローマ・カトリック教会・正教会・アルメニア使徒教会の共同管理下にあり
10年ほど前にはここでイスラエル人とパレスチナ人の銃撃戦も起きている。
ちなみにそれを知らずに訪問した日本人バカップルが世界中から総バッシングに遭った。
エルサレムと違って、広い何車線という道路が整備されているわけではない。
狭い路地を、徐行する車と人々が目を合わせながら通行する。
見所はそんなに多くなく、いくつか教会を巡れば終わりだ。
見晴らしのいい丘にさしかかると、ドライバーの彼は最小限までスピードを落とした。
わたしが、「写真を撮りたいのでおろしてもらえますか?」と言うまで。
「死海にダイブしろ」「写本を見に行くぞ」といういつものガイドとは大違いである…。
パレスチナから見る、エルサレムの景色。もうすぐ帳がおりようとしていた。
この地を「パレスチナ」と呼べば一気に政治色が増すし、
「ベツレヘム」と呼べば宗教色が増す。
この、隔離された区画は、一体、何なのだろうか。
いつだか政治を仕事にしている友人が「ビンラディンはコンセプトであって、生存している必要はない」と言っていたが、つまりそういうことなのかもしれない。
しかしここにも「市長」はいるし、2万人以上が住んでいる。
そしてすでに現在、ここにキリスト教徒は1%ほどしかいない(データ上)。
人が何らかの“御都合”で無理に引いた線というのは、その土地をどこかしら不自然なものにする。
ガイドを振り返ると、無言でじっと目の中を見詰められた。
「“壁”の写真が撮りたいんですが」と言うと、うなずいて「OK」と言った。
もと来た道とできるだけ違う道をゆっくり、走りながら、再び壁の方向へ向かった。
つづく
地球の舳先から vol.273
イスラエル編 vol.8(全14回)
ゴラン高原のドライブを終えて、わたしはすでに100%満足していた。
あとは定番の観光地を巡りながらエルサレムへ帰る。
イスラエルの北半分をぐるっと国境沿いにゆく計算だ。
ティベリアスから南下し、死海を見ながら砂漠地帯へ。
一路、「マサダ」という、古代ローマ時代の要塞の遺跡へ向かう。
マサダはイスラエル観光の中でもエルサレムに次ぐ人気という。
あまり遺跡を見る趣味は無いのだが、知人の推薦もあり、さらに
ローマ軍に包囲されながら集団自決で戦に幕を閉じた記憶は
今なお四面楚歌状態に他国に囲まれるユダヤの人々には特別なものであるらしく
イスラエル国防軍の入隊式はいまだこの地で行われるのだという。
イスラエルの人々のメンタリティを理解することはまったくもって不可能だが、
そんな話を聞いて少し興味が湧き、立ち寄ることにしたのだった。
選挙を約2週間後に控え、幹線道路には所々にネタニヤフ首相の巨大ポスター。
「誰が勝つの?」と聞くと、ガイド兼ドライバーは「私は応援していないがネタニヤフだ」ときっぱり。
「そしたらテロ減る?」とKYに聞いてみたところ、「それはムスリムに聞け」と言われた。
わたしは決してアラブ人贔屓ではないのだが、なぜか結構イラッとした。
途中、「ヨハネがイエスに洗礼を授けた」というヨルダン川の聖地「ヤルデニット」に立ち寄る。
熱心な教徒たちはここで専門の白衣に着替えてこの川に入り、イエスの洗礼を追体験するというのだが、透明度の高い水には人間をなめているビーバーと、見るだけで総毛立つ巨大ナマズの大群がウヨウヨと泳いでいる。あんな中に身を沈められるなんて宗教とはなんて凄い威力をもつものなのだと恐怖を覚えた。
その川の水がパックされて5ドルで売っていたので、クリスチャンの会社の先輩にお土産で買った。ご利益は知らないが、レアであることだけは間違いないだろう。
「友達がクリスチャンで」と言うと「素晴らしい」と言われた。初めて褒められた。
(ヤルデニット。一見、きれいですけどね。いや、きれいだから生き物が大量に棲まうのか。)
バナナ畑の「キブツ」が立ち並ぶ道を走り続けると、緑豊かな高原の雰囲気とはうってかわって
砂漠地帯へ突入した。
ドライブインのような休憩所はノースリーブにサングラスをした人が
コップに汗をかいたグラスを傾け、ラクダが2頭、宙に視線を泳がせている。
どこだここは。
イスラエルのこの、少し走るだけで全く別の国になってしまったような多彩な光景は相当である。
整備された海岸線の道路はずっと左手に死海が広がっていた。
「本当に死海で浮遊体験をしないのか」と何度も聞かれ、「特に興味が無いです」というと
しきりに首を傾げていた。人の好みはそれぞれです。
途中、とても親切な旅行会社の担当者(彼はガイドではなくグランドスタッフなのだ)から、
ドライバーの携帯に電話が入った。
オールOKですか?と言うので、ホテルの礼を言い、すべて予定通りと伝えると
「ホントニダイジョウブデスカ?」と日本語が返ってきた。
本当に彼には三顧の礼をもってしてもまるで足りない。
この日も相変わらず、時間に余裕は無い。
わたしの行程が詰めすぎなのももちろんあるが、喋り始めると車の速度を半分に落とす彼のせいだと思う。
マサダへ着くと、その真夏っぷりにわたしは自分の服装を呪った。
出来る限りのものを脱ぎ、水と帽子を支給され、賄賂を握らせてショートカットする(ガイドが)。
この旅で二度目のロープウェイに乗り、天空の遺跡を見渡す位置に来た。
イスラエルの多くの博物館がそうなっているらしいのだが、まずビデオツアーによるオリエンテーションがあるのでわかりやすい。
マサダの遺跡は…広大な地上絵のようだった。
ローマ軍によって陥落したため建物はほぼ残ってはおらず、欠片と再現で想像を馳せる。
コロッセオのような広場には真新しい鉄パイプのセットが組まれていた。イベントなどが行われることもあるらしい。
どうせ軍事関係のイベントだろうと思ったのだが「音楽イベントとか」と言う。
……。
こんなところで野外フェスですか!イスラエル人!おかしいでしょ!
ここは、今も四面楚歌状態の祖国を憂い、「ノー・モア・マサダ」の精神で他国に蹂躙された忘れがたき記憶を次世代に刻む場所ではないのか。
少なくともわたしはそう聞いている。「地球の歩き方」にもそう書いてある。
だが、この地では色々なことが意味不明であるということに対する免疫はできてきていた。
そんなわけである意味では非常に面白かったマサダだが、どうもわたしの海外旅行における「城(寺)・美術館(博物館)・遺跡」という三大苦手はここでも変わらなかった。
「死海写本」という歴史的価値ある文書を見に、クムランというところへ行こう、とお誘いされたが断った。
バーターとして、延々とイスラエルの歴史を選民特別感たっぷりに聞かされ、クルマの速度は落ち、次の地までまた移動に時間がかかったのは言うまでもない。
つづく
地球の舳先から vol.272
イスラエル編 vol.7(全14回)
長い一日の行程が無事終わった。
ユダヤ教の香りのまったくしない港町アッコーから、レバノン国境を見学しゴラン高原へ。
博識で頑固そうなおじいちゃんがガイド兼ドライバーで旅の道連れ。
一日じゅう車に乗り、到着したのは、キリスト教聖地巡礼の拠点となる街ティベリアス。
「山上の垂訓教会」(?)、「ペテロの再召命教会」(??)、「カペナウム会堂跡」(???)、
「ピリポ・カイザリア」(????)、「受胎告知教会」(想像つく)、「パンの奇蹟の教会」…等々。
あまり無知で外国へ行くのは良くないと思っている(知った気になるよりはマシだが)ものの
聖書を一通り読むほどの気力はなかったので、まるで話がわからない。猫に小判。
観光のためではなく、単に地理的に便利なこの場所に宿を取ったというだけだった。
最初から最後まで世話を焼きに焼いてくれた旅行会社の担当者に薦められたホテル。
お湯が出て隙間風が寒くなければ問題ないので、比較的安めの所を予約してもらっていたため
ガイドが車を寄せたホテルの看板の輝く4つ星に、うとうとしかけた疲労が吹っ飛ぶ。
「やや、ここじゃないです、ここじゃない、ディス、イズ、ノット、マイ、ホテール」…そりゃそうだ。
「知ってる。アップグレードしておいた、と聞いている。追加料金は不要」
「はい?!なぜ?!」
「疲れているだろうからとの事だ。」
「(…それは理由になっていないような気が…)」
「私も疑問だ。なぜあの会社は、こんなに君の事を厚遇してるのか?」
…わたしが聞きたい。
しかしホテルで簡単に食事でも取ろうと思っていたのに、こんな高級ホテルに
連れて来られては外に食べに行かざるを得ないではないか。
わたしは、お金が無いのだ。そして、この国の物価は高過ぎる。
外はもう暗いし、知らない街。でも、出歩いても危なそうではなかった。
せっかく来たし、もうひとふんばりするか。そう思った頃、ガイドが言った。
「夕食の事は、聞いてる?」
豆鉄砲を食らったハト的な顔をしたのだろう。ガイドが苦笑して続けた。
「ノアツアーズ(手配をお願いした旅行会社)から、プレゼントだそうだ。」
こうしてわたしは、クリスマスツリーの煌めくフロントでチェックインし、
ふかふかのじゅうたんの廊下を歩き、やたら広くて窓からはイエス・キリストが水面の上を
歩いたというティベリヤ湖を一望するホテルの部屋におさまった。
バスタブのサイドには、死海のバスソルトとアメニティ。
ベッドサイドのテーブルには、3つの瓶に入ったおつまみと、茶菓子が並んでいた。
トランジットのパリで大晦日にバレエを観に行った時のワンピースとヒールのついた靴を
引っ張り出して(イスラエルで使うとは思わなかった)、レストランへ出向く。
何十種と並ぶ豪勢なビュッフェ。お肉も卵も目の前で調理してくれる。
チーズバーに並んだチーズは約30種。クリームチーズだけで10種類以上ある。
ワインは、ガイドが奢ってくれた。わたしは本当に、彼らにとって「客」なのだろうか…。
いや、「カスタマー」じゃなくて「ゲスト」のほうの客なのだろう…。
ガイドはしきりにわたしに今日の感想を聞いた。
それもそうだろう。女一人でイスラエルに来て、無宗教で、しかもゴラン高原を巡りたいと言う。
薄気味悪いことこの上なかったのではないだろうか。
わたしはわたしで、ごりごりのシオニストっぽい彼にいろいろと質問をした。
たとえば、このホテルも、もとは病院だったというのだが、なぜそんなに病院が多いのか。
宗教と病院とは深い関係があるんじゃないか、と彼は「個人的な意見だが」と前置いて言った。
「生死はとても根源的な問題で、聖書にも、イエスが人の傷や病気を治したという話が多い。
もちろんイスラエルが敵国や海に囲まれているという地理的な問題もあるとは思うが、
人の命を助けるというファクターが、宗教には必要だったんじゃないだろうか。」
違和感を覚えた。とても、敬虔になんらかの宗教を信じている人の言葉には感じられなかった。
「ツヴィカさん(ガイド)は、ユダヤ教徒じゃないんだ?」
「違うよ。私はもみあげも伸ばさないし、なんでも食べる。」
君のように、無宗教ではないけれど、と言った彼の口調は、非常に穏やか。
トラベラーなら一度は聞いたことがある話(都市伝説かもしれない)だが、宗教色の強い国へ行ったら、「無宗教」というより異教でも「仏教」と答えた方がいい、という説がある。
宗教を信じている人にとっては、「無宗教であること」というのが、同じ人間と思えないほど薄気味悪いらしいから、というのがその理由だ。
「“無宗教”って、理解できないこと?」
彼は、フォークを置いて、「真剣な話をするモード」に入った。
「たとえば、私がキリスト教徒だとする。何か決断や判断をしなければならないとする。
我々は“イエス・キリストがこう言ったから、聖書にこう書いてあるから”とそれに従う。
でも、君は? 自分で考え、自分の意志と良心に従う。
それは、素晴らしいことだよ。
そして、国民のほとんどが“神”を持たず、それでも社会と平和を保っている
日本という国は、本当に国民のレベルが高い国なんだろうと、私は思う。
我々は、イエス・キリストを信じる。君は、自分自身を信じる。それでいいんだ。」
日本の独特の無宗教というのはしばしば自他共に「無節操」の延長線上で語られることが多い中
そんな考え方があるものかと、軽いカルチャーショックを受けたのを鮮明に覚えている。
やはりなんだかこの国は、当たり前だけれども考えさせらることが多い。
翌朝は久しぶりに、多少ゆっくりできる時間に起きれば良かった。
大の字になってもまだ余るキングサイズのベッドで、気を失うように眠った。
朝も豪華なビュッフェのレストランにはスズメがおこぼれをあずかりにやってきて
美しい湖に反射する強い朝日に目を凝らしながら、わたしたちはティベリアスの街をあとにした。
つづく
地球の舳先から vol.271
イスラエル編 vol.6(全14回)
わたしの大学時代の研究テーマの1つでもあったゴラン高原PKO。
日本の自衛隊は17年にわたって参加し、ついこの間任務が終わった。
(自衛隊の撤退が決まっただけで、ゴラン高原のPKO活動は続く。)
わたしがイスラエルへ行った一番の目的はこの地。
そもそものきっかけは少し切ない個人的思い出なのだが、まあそれは昔の話。
ゴラン高原、以前の通称をシリア高原。
イスラエルはこの地を第三次中東戦争で制圧するが、シリアを始め国連も、
この地をイスラエルのものとは認めておらず、国際的にはいまだ係争地。
ここへ来られなければ、イスラエルに来る意味は無かった。
通常の観光地でもないので、専用車とガイドを手配する必要があった。
しかしあまりに物価も相場も高いので、手配は最低限の距離と日数にしていた。
だから、イスラエルの情勢が急展開で悪くなり、公共交通機関での移動は取り止めるのが
妥当だろうと判断したとき、一度は旅の延期を決断した。
さすがに2日間の長距離のフルアテンドを手配するほどの資金力は全く無かった。
が、「テルアビブやエルサレムだけの団体ツアーに乗れば危険はぐっと下がる」と言われても
10年目指してきたゴラン高原へ行けないならば、イスラエルを目指す理由がもうなかったのだ。
その後、現地旅行会社とキャンセルの手続きの話を進める中で
旅行会社は、無期限延期にも全額返金にも対応するとしたうえで
わたしが路線バスでの移動を想定していた分の行程の送迎をサービスすると言ってきた。
(送迎というほど短距離ではない。拘束時間はおよそ倍になる。)
まさに青天の霹靂だったが、お金の問題がすべてではない。
首都のテルアビブにさえ、湾岸戦争以来の空襲警報が鳴り響いたというのだ。
そうこうするうち、外務省の安全レベルは騒動の前まで引き下げられた。
こうして様々な運と、縁と、タイミングによって、ようやくわたしの旅は実現しようとしていた。
そのゴラン高原には、ある意味では、「なにもなかった」。
延々と続く、綺麗に整備された道路。兵士の姿もない。チェックポイントもない。
普通の車はもちろん、軍用車とすらほとんどすれ違わない、ただ山沿いを横断するだけの旅。
綺麗に舗装された道路。「こんなに車が少ないのに道路が整備されているんだ…」と問えば、
「イスラエルの道路はイスラエルが責任をもつ必要があるから」とガイドが言う。
「人が住んでないのに、電気が来てるの?」と、一定間隔で続く電柱と電線らしきものを指すと
「あれは電気じゃない」と返ってくる。その先の回答は、少なからずわたしの想像の斜め上を行った。
「あの電線みたいなのの下が道路みたいになってるでしょう。でもあれはコンクリートじゃない。
侵入者を感知すると、その侵入者を“排除”する。衛星でも管理している。ここは、国境だから。」
もうとっくに、人が銃を持って撃ち合う戦争など、終わっているのかもしれない。
建物やまとまった倉庫らしきものが見えるといちいちガイドは解説をしてくれたが
「あれはワインを作っているキブツ」「あれはリンゴを栽培しているキブツ」と「キブツ」に終始した。
要するにキブツしかないではないか!と思うが、これこそが実態なのだろう。
農業共同体として全世界から人々を受け入れ、自立と共生を目指すコミューンという理想を掲げて始まったキブツは、シオニズム主義の実験とも、イスラエルの国策ともいわれる。
かつてシリアやヨルダンであり、今でもシリアやヨルダンかもしれないイスラエルの主張する「国境のイスラエル側」にはキブツばかりが立ち並び、彼らが栽培するブドウやオリーブなどの畑が膨大に広がる。
「国を守るには、いろいろな方法がある。兵士になるのもそうだが、“住む”ことでも国を守れる。」
それが、ガイドによるキブツの説明だった。
占領と、実効支配。
逞しきイスラエルはワイン産業をモノにした。諸外国(ワイン先進国)での評価も高め続けている。
「戦場だったところが、今やブドウ畑!平和って素晴らしい!」…とは、やっぱり、思えない。
13世紀から現代までに渡る、戦争の痕跡もある。
十字軍がダマスカス防衛のために山の上に建てた要塞ニムロド城。
今も赤茶けた廃墟が残る、シリア軍の要塞跡や、打ち捨てられた戦車。
小高い丘の上には、モサドの元情報基地と、それを取り囲む地雷の警告板。
いつの時代になっても、争いの絶えない地。人間のやっていることも、変わらないということか。
たまに車を降りて、写真を撮る。静寂が、緑豊かな豊かな自然を包んでいた。
途中、馬だか牛だかの放牧に遇った。
放牧しているからには人間がいるのだろうが、人とは会わずじまいだった。
またしても思う。人が居なくなった場所のこの美しさは、何なのだろう。
「こんな国境沿いに住みたがる人なんていない。この街を見るといい。工業もない、大学もない。
ここは“成功しなかった”場所。テロリズムとの戦いで、いっぱいいっぱいだった」
ようやく人の気配が見えた小さな街のマクドナルドで、ガイドは怒りに震えてそう言った。
「マックがあるなんて十分都会だけど」という口答えは、もちろん謹んだ。
ナゲットを食べたマクドナルドの屋外テラス席の横には、「ヨルダン川」の源流が流れていた。
ちなみに、ガイドはガイドで、このあたりは久しぶりらしく気ままに車を走らせていた。
マクドナルドもおごってくれたし、リンゴも買ってくれた。わたしの話はあまり聞かない。
この地では、「ドライバーを雇う」というスタンスでは居ない方がよさそうだった。
日が暮れるぎりぎりまで車を走らせ、ほとんど日没と同時にホテルに到着した。
つづく
地球の舳先から vol.270
イスラエル編 vol.5(全14回)
どのガイドブックを見ても「最低3日は必要」と書いてあったエルサレムだが
元々宗教に造詣が深くもないわたしは1日で満足し、翌日から本来の旅の目的へと駒を進めた。
国境巡りである。この日から、直接コンタクトを取り、信じられないほど厚遇してくれた
現地の旅行会社にお願いしたガイドとも合流することになっていた。
朝5時台の列車に乗り、北上してまずはアッコーという港街へ向かう。
そこから海岸線をさらに北上して北端のレバノン国境まで。
そこから東に路を取り、シリア・ヨルダン国境(というか領土…?)に近く
日本の自衛隊も17年もPKO活動に従事したゴラン高原へ向かう。
国境の旅の終着点はイスラエル最大の湖でありイエスキリストゆかりのガリラヤ湖。
水源をめぐりシリアと熾烈な戦いを極め、第三次中東戦争で制圧した地だ。
大事を取って暗いうちに着いたエルサレム・マルハ駅は、まだ開いていなかった。
警備員らしき人が駅に滑り込むのに、素知らぬ顔であとに続く。意外とザルである。
(なぜ出るのが大変で入るのが簡単なのか、わたしはいまだによくわからない。)
しかしもうあと15分で電車が来るという頃になっても、切符売り場が開かない。
乗客もおらず、いるのは制服に銃を抱えた軍関係者らしき人が数人。
財布を持って、激しく首を左右に振って周囲を見渡していたら、軍隊のお兄さんが
「どこ行くの?」と聞いて、自動券売機を操作してくれた。いい人だ。
豊かな草原地帯を見ながら夜明けを迎える。
8時17分、定刻にアッコー着。すでにガイドは着いていて、
「なんで待ち合わせ9時にしたの?」「電車遅れるかと思って…」という会話をする。
まず、アッコー発祥の地というところに連れて行かれた。
彼は歴史の詳しさに関しては、「観光ガイド」のレベルを超えていた。
地中海に面したアッコーは、十字軍時代には首都として本拠地機能した。
その後イスラム勢力に支配されたためアラブ人も住んでおり、ミナレットも建っている。
世界遺産にも登録されている旧市街の地下は、騎士団本部や病院、修道院だったところ。
浅瀬に浮かんでいるごつごつしたものは明らかに岩ではなく人工的。
聞けば、「テンプル騎士団」の要塞だった跡らしい。
十字軍の街を出て、ヨットや漁船が所狭しと停泊するマリーナへ出た。
カシュルート(食事規制)もここではフリー。エビもイカも食べられる。
夏は一大観光地となるのだろう。
再び車に乗り込むと、透明な海を見ながら北上した。
国境から手前わずか10kmを切る場所にある地ナハリヤは、2006年のレバノン侵攻で
ヒズボッラーがカチューシャ砲を何百発と打ち込んできたという場所である。
そのナハリヤを過ぎ、海岸線沿いをさらに北上してイスラエルの最北端、レバノン国境へ向かう。
「戦場」というと、銃弾と人間の叫び声が響き渡る地獄絵図ばかりを想像するのは
それこそが、わたしが戦争を経験していない証拠なのだろう。
係争地からは人が消え、静寂に包まれ、この上ないほど豊かに自然が育つ。
わたしはこれから、そんな皮肉な光景を、何度も目にすることになる。
紛争後も、直近でいうと2011年にも、レバノン南部からロケット弾の砲撃があった。
外務省安全HPには「イスラエルとレバノンとの国境付近に渡航・滞在を予定されている方は,
どのような目的であれ渡航を延期されるようお勧めします。」とあり、ここの訪問は回避する
予定だったのだが、日本でプランニングをしている際に行き先候補を聞かれ、「ローシュハニクラ」という著名な観光地を言うと、「なら問題無いだろう」と現地の旅行会社の担当者は言った。
そういう線引きは、わたしにはわからない。
とにかく、危険情報マップの「オレンジ色」領域に入ったことだけは、間違いなかった。
「あれが国境だよ」小高い丘と、赤と白の鉄塔に近づいていく。向こう側は、見えない。
(丘を登りきったところ。眼下は通ってきた道=イスラエル側。)
最高にいい天気だった。丘の上から、ロープウェイが出ている。
これに乗って、イスラエル版“青の洞窟”「ローシュハニクラ」の中へ。強風などで閉鎖されやすい上、数日前まではイスラエルは大嵐に見舞われていたというので、ラッキーだった。
さすがにここは外国人観光客ばかり。しかし待ち時間はゼロというくらいには少人数だった。
一通り見学が終わると、すぐそこにある門の前に連れて行ってもらった。
「JERUSALEM205⇔BEIRUT120」という距離の表示。まさに国境だった。
「Quickly」と小声で言うので、危険なのだろうかと早々と後にしたが、
車に乗り込んでから、「ホントは写真、撮っちゃダメなんだよね」だそう。
とっとと撮れ、の意味だったらしい。
(国境ゲート。解放されていないので、通過することはできない。)
国境を背にして一路、今度はイスラエル東部へ横断していく。
つづく
地球の舳先から vol.269
イスラエル編 vol.4(全14回)
エルサレム旧市街。
ユダヤ教・イスラム教双方の聖地であるがゆえに血を見てきた「神殿の丘」、
黄金色に光るモスク「岩のドーム」、嘆きの壁、それを取り囲む8つの城壁。
ユダヤ教、イスラム教だけではない。
キリストが十字架を背負って歩いたという「ヴィア・ドロローサ」、イエスが十字架に磔にされたゴルゴダの丘があったといわれる「聖墳墓教会」など、キリスト教徒にとっても聖地。
「エルサレム」という言葉でまず想起する光景がここにはある。
ということで、旧市街の「中」にあるホテルに宿を取っていた。
旧市街の中は、アラブの国のスークそっくり。
同じような細い小路に店が立ち並び、迷うこと迷うこと。
驚いたのは観光客の少なさ。
旧市街なんざ歩くのはほとんどが外国人観光客だろうと思っていたが、
当時の情勢の不安定さも影響してだろうか、ほとんどがここで生活したり、
または買出しや働きに出ているイスラエル人。
たまに聖地巡礼の団体ツアーはいるが、個人観光客も思った以上に少ない。
まずは旧市街を概観するために、ここを取り囲んでいる城壁に上がり、
ぐるっと一周しながら主要な建物を見下ろして地理感覚を叩き込むことにした。
ガイドブックに載っているようなビューポイントはだいたい把握できる。
何より、城壁を歩いていると、2階だか3階だかに張り出したベランダのようなところでバーベキューをやっている家族だとか、屋上に無数に置かれた衛星放送のアンテナとか、ゴミ捨て場とか子供がサッカーしている公園とか、ここが普通に人が暮らしている町なのだ、ということを身をもって感じられる。ものすごい生活感。
特筆すべきはやはり「嘆きの壁」だろう。英語では単に「Western Wall」すなわち西の壁という。
敬虔な正統派ユダヤ教徒は、もみあげを長く伸ばし、タキシードのような黒服に帽子という完全装備に身を包み、この壁で祈っている。
旧市街からこの広場に入るには、またしてもガラスの壁に囲まれたX線検査を受ける。
イスラエルへ来て2日目、何度手荷物検査やX線検査を受けただろうか。しかしその「厳重な行程」がわたしを疲れさせると同時に、心配を取り除いてくれることをも感じ始めていた。
あんなに血走った目で検査をされなければ、わたしはもっとテロの不安と戦うことになるのだろう。
もっともそれがどこまでの効果が実際にあるのかなんて、わからないけれども。
夕方、メアシェアリーム地区という、ユダヤ教正統派が住む地区へ行った。
まさに別世界。宗教画やかつらを売る店などが立ち並び、タイムスリップしたよう。
何より例の「黒服、もみあげ、帽子」の人ばかりが歩いているのである。
観光客の少ない旧市街だったが、逆にここには「普通の」イスラエル人が見当たらない。
集合住宅のような古い建物に、ところせましと並ぶ洗濯物、ヘブライ語のポスター…
イスラエル人の中には、正統派の人を軽蔑したり、嫌っている人も少なくないと聞く。
「女子ですら課せられる兵役も免除され、国の手厚い保護を受けて働くこともしない」、
「“純ユダヤ人”の人口を増やすため、大家族繁栄に励むのが義務」と揶揄する人もいる。
(確かにイスラエルにおいて、もしも「人口の過半数がユダヤ教徒以外になった」なんて事態になればこの国は大きく揺らぐ以上のことになるだろうし、そういう意味でも必要な存在なのだろうとは思う。)
しかしメアシェアリームは、少なくとも私の目には「特権階級」などには見えなかった。
むしろ、押し込まれ、区画を区切られ、独自の生活を閉ざされた空間で過ごす、
外の人間の言うことは何も聞こえない、被差別区域にすら感じられた。
単一民族無宗教国家で生まれ育った日本人なんぞに、何かがわかるはずもなかろう。
しかし、正統派ユダヤ教徒に露骨に嫌そうな顔をするイスラエル人、彼らと会話もしなければ目も合わせようとしない正統派の人々、その光景はやはりどこかしら異様だ。
人種、宗教、そういうものの上に成り立つ区別や差別に、歪みが生まれないわけがないのかもしれない。
テルアビブと違い、街中の商店街のようなところにお酒がないのもエルサレム。
物価が多少安いのは助かった。
夜の早い旧市街で、夕食すら食べ逃しそうになりながら、ようやくとカバブにありついた。
城壁の外では、青空屋台がいい匂いで串焼きを焼いている。
夜更けまでオープンスペースで団体客が騒ぎ、フロントのお兄ちゃんはタクシーの予約もできず、シャワーは1滴の水も出ない隙間風のする1泊100ドルのホテルで、棒になった足をすこし高くして、眠った。
万歩計は3万歩超、20キロをさしていた。
つづく