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地球の舳先から vol.248
イラン編 vol.8(最終回)
イランへ旅立つ前、それこそ30冊以上のイラン関連の本を読んだ。
そしてわたしは、怒(いか)っていた。
どうして日本の世界史教育は、「イスラムシーア派」を「過激派」と教えるのだろう。
我々が「過激派」といって想像するのは、おそらくタリバンやアルカイダ等が具体例だが
それらは、「穏健派」と教科書に書かれる「スンニ派」である。
イランは200年以上も、自分から他国に侵略戦争を仕掛けていない唯一の国である。
どうしてイランを、「核の国」の代名詞のように報じるのだろう。
核問題は「核エネルギー」と「核兵器」を混同すると話が全然変わるはずなのに、
あえてそれを混同するようなこの報道は、誰がコントロールしているのか。
イランは核兵器を保有していない、とは、「アメリカの」レポートにすらある。
それどころか、アメリカは核を持っているインドもパキスタンもイスラエルも黙認しているが
それらの国が開発やら保有をしているのは、例外なく核「兵器」のほうである。
ちなみにイランは核不拡散条約(NPT)のメンバーであり
NPTでは、米、露、英、仏、中の5か国を「核兵器国」と定めている。
…世界中から嫌われるアメリカという国を思って、キューバに住んでいた頃を思い出していた。
実際、テヘランからエスファハンへ向かうイラン2日目で、
わたしはこの国がどこかしらキューバと似ている、と感じていた。
かたや、中東のオイルマネーの国。
かたや、いまだ配給制度で成り立つ貧しい中米の農業国。
そして、かたや「イスラム共和国」を国名につけるほどの宗教国。
かたやキューバは宗教を禁じるマルクス主義の社会主義国。
一見正反対で、どんな共通点があるというのか、と、いわれるだろう。
イランは、白色革命(イスラム革命)で軍が実質上の実権を奪取し
キューバは、キューバ革命で軍事的に政権を奪取した。
どちらも、アメリカの傀儡といわれた政権を倒した「革命」の記憶が残っている。
その記憶から、中高年層や地方では一定の支持をもちつつも、リベラルな都市部では人気がイマイチな点も、カストロ政権にもアフマディネジャド政権にもいえる。
両者ともにアメリカからの経済制裁を受けながらも国民はアメリカ文化を好み、
宗教警察の指導下にありながらファッションもギリギリのところで楽しむイラン、
公安的監視機関がありながら制限ギリギリにあっけらかんと花を咲かせるキューバ。
わたしのなかでは、ふたつの国が交差した。
ひとことで言えば、イランという国にある種の共感と、懐かしさを覚えたのだった。
イランがいまだ難しい局面にある点は否めない。
イスラエルとの対立問題を抱えるばかりか、周辺のアラブ諸国とも蜜月とは言えない。
イラン人は「ペルシア」を自称しており、「アラブ」と混同されると怒り狂う。
エミレーツ航空の地図の「アラビア湾」という表記を「ペルシャ湾」にしろと猛烈抗議した過去もあれば(現在、該当の湾に名前は書かれていないようだった)、
人々の見た目もヨーロッパやロシア寄りの風貌で、およそ「中東」とは一線を感じる。
しかしそれらはいずれも、”外からみた”イランの、ポジショニング論に過ぎない。
わたしの旅したイランは、そんな政治をさておいた不思議の国だった。
とてつもない親日国で、日本人といえばスプライトの値段すら値引いてくれ、物価も安い。
食事は(毎日食べるには油っこいが)美味しく、お酒が飲めないのは難点だが
テヘランから飛び立った途端スチュワーデスにワインをねだるイラン人たちは憎めない。
テヘランにはドバイ中心部と見紛うような超高層マンションが立ち並び
「経済制裁」という言葉とはかけ離れた印象を持つ。
一方で、観光消費されきっていない、息を呑むような世界遺産がある。
治安も、勿論地域によるがこれまで旅した国の中でも指折り数えるほどに良く、
人々にはどこへ行っても親切にもてなしてもらった。
そしてわたしは今一度、日本人である自分を見つめなおすこととなった。
どうしてイラン人がこんなに日本人に親切にしてくれるのかといえば、
長い歴史の局面という局面で、日本はイランを助け続けてきたのだという。
時の損得勘定に基づいたものだったとしても、わたしたちは、先人が築き続けてきた
「日本人」という血を生きているのだ。
人種や文化に大差のない、いまだ隔離されたような日本という国に生きていると、
そのことを忘れそうになるけれども。
「イランといえば」で画一的に報道される現実は、勿論ものごとの一面にしか過ぎない。
しかし日本にいながらして「本質を見極めよ」とは、無茶に近い無理難題でもある。
楽しくて、おもしろおかしくて、とにかく笑いの絶えない旅行だったにもかかわらず、
帰国後、一緒に行ったちえさんもこう言っていた。
「日本のなかで生きていること、危機意識のなさだったり、周囲(海外含めて)に無関心で
いることの罪を痛感した。これを経て、自分の生きる国のことを考えたいと思っています。」
外から言われる「イラン」と、わたしたちが歩いた「イラン」の印象の溝は一向に埋まらない。
わたしにもいまだ、答えが出ていない。
偏見も、澱のように積もった無意識下の印象までをも含めて、
それが、いまの「わたし」という人間のフィルターなのだろう。
この目で見たものでさえも、大きな大きな氷山の一角にすぎないのだと、そう思った。
だから、きっとまた旅をする。
見果てぬ世界を見るため、というよりは、自分の小ささを再認識するために。
おわり。
地球の舳先から vol.247
イラン編 vol.7(全8回)
さて、ゾロアスター教の聖地ヤズドからテヘランまで、夜行列車で帰る。
わたしは列車が好きで、外国に出るとさらに夜行列車にとてつもなく乗りたがる。
趣味の問題もあるが、寝ながら移動ができて宿泊費も浮き、弾丸トラベラーには一石三鳥。
列車は時間通り来ないだろう、と踏んでいたとおり、定刻を過ぎて1時間。
なんだかふらふらする。旅行キャリアがそれなりにあるので、「来たな」という印象。
…熱射病である。みんなが回復したころにやってくるとは。
売店がないので水も買えない。同行のちえさんに頭痛薬をもらって、駅のベンチに横になる。
テヘラン駐在の友人・M氏がこまごまと「列車はまだか」と聞きに行ってくれている。
定刻から2時間。AKを斜めに提げた、迷彩服の革命防衛隊らしきごつい人が
われわれに向かってまっすぐ進んでくる。両手は当然AKに。目線は完全ロックオン。
「オイオイこれ何だよ大丈夫かよ…」とさすがにひやりとしたのだが、
なんのことはない、「オイそこの日本人!列車来たぞ!」のわざわざの声かけだった。
2段ベッドが2つのコンパートメントはきれいで、4人分の列車代を払って貸し切っていた。
オレンジジュースとよくわからないお菓子の入ったお弁当箱と毛布が配られ、
椅子を倒してベッドにし、寝床を組み立ててゆく。
その後、M氏と現代イランについてアツく議論を交わし深夜も過ぎ去ったころ、
そろそろさすがに寝るかと、車両の端のトイレへ行ってコンパートメントに帰ってくると…
…内鍵が閉められているではないか。
「やろー、寝やがったな…」
ノックをしたりはしたが、深夜なので、「もしもーし!!」などと大声を出すわけにもいかない。
わたしはこのへんの諦めは早いので、自由席の椅子席を見に行くことにしたが
案外埋まっていて、睡眠は取れそうにない。
顔を洗うために大判のタオルを持って出たので、ここがインドだったら
廊下にタオルを広げて遠慮なく横になるところだが、ここはくさってもイラン。
女性がそんなことを絶対にするべきでないのはわたしだってわかる。
ちなみに、わたしはよく「海外に行くとおとなしくなる」という評価をもらうのだが、
その国の習慣や価値観を侵犯したくないのである。それは最低限の礼儀。
仕方なく、廊下で、ドアの外から扉を観察していたところ、内鍵をかける場所が
外側にもネジのようになっていることを発見した。
ただ、当然外側からそう簡単に開けられる構造になっていては困るのでつまみは小さく、
回そうとしてもびくともしない。というか、その鍵穴がわたしの頭30センチほど上にあるために、
手を思い切りのばしてようやく届く程度で、力が入らないのだ。
タオルを指に巻いたり、ジャンプして、「ぜー、はー、」するまで頑張ったが無理そうである。
しかしほかにすることもないので、この無謀な取り組みをつづけるわたし。
そのときである。
ふと、背中に人の気配。見上げていた目線の先に、腕が伸びた。
わたしよりも20センチは身長が高いだろうかと思うその手に力が入る。
…カチャ。
信じられない思いで、90度角度の変わった鍵穴を見て、
そのあと腕の主のイラン人を振り返る。消灯された、ほの暗い夜行列車の廊下。
…神というか、王子にしか見えない。
「あ、あ、ありがとござます、センキュー、メルシーボク、メルシーマーム」と
ひたすらぺこぺこするわたしに王子は何も言わず、少し頭を傾けてウィンクをして去っていった。
「イラン!イラン人!人助ける!いい人!!!!!!」とわたしは(深夜なので心の中で)絶叫し、ほぼ約1時間ぶりに開いたドアの向こうで爆睡中のM氏の姿をしかと認めた。
…これが、わたしのイラン旅の最大のハイライトである。
翌朝テヘランに着くと、日本語ぺらぺらのM氏のドライバーさんが待っていた。
M氏の先輩駐在員の方のおすすめで、革命防衛隊グッズを買えるところへ行き、
バザールに連れて行ってもらい、最終日のおみやげ買い物をする。
サフラン、チョコレート、キャビア…
うろうろしていると、道で2人組の警官に呼び止められた。
その頃はすでに、当局や警察、軍隊の制服へのビビり心もほとんど吹っ飛んでいる。
「なんて言ってるの?」
「……。なんか…、外人めずらしいから、喋りたいって」
というM氏の通訳も、想定内である。
それでも、物価が安すぎてたった1万円ぶんのイラン・リアルを使い切れなかったわたしは
空港でショッピングカートいっぱいの買い物をしたが、まるで手持ちのお金は減らない。
再両替すればいいのだが、このくらいのお金は使っていきたいという思いもあり
結局、現金を使いきるまでに、香辛料・お菓子・ナッツ・切手・スカーフ・陶磁器などを
ショッピングカートいっぱい買い込むことを4~5回繰り返し、
現金がようやくなくなる頃には、ハワイからマカダミアナッツを50箱買って帰る
ばかな日本人(失礼)よろしく、ビニール袋を8つ抱えて帰国の途に着くことになったのだった。
最終回へつづく
地球の舳先から vol.246
イラン編 vol.6
エスファハン最後の駆け足観光でなんとかモスクを見られたので、悔いなく一路ヤズドへ。
テヘラン~エスファハンが公称6時間のところ4.5時間で着いたので
3時間が公称のエスファハン~ヤズドは2時間強だろうと予想していたが、なぜか4時間半かかった。途中で、Naeinという街に寄ってトイレ休憩がてらモスクを見たり、メロンを食べたりしたからだろう。
ヤズドは「1日8時間働き、8時間遊び、8時間寝ろ」と教えたゾロアスター教の聖地。
一大観光地は、「鳥葬の塔(ダフメ)」と呼ばれるかつて教典に従って鳥に死体を食わせる「鳥葬」を行っていた場所だ。
敷地にはかつてのお墓や、葬儀までの諸々の施設が残っているということで
「遺跡」に行くつもりで向かったものの、警備員の一人すらおらず入場料もない。
狭い入り口から入ると左右に山筒型をした大きな塔というか城のような建物が目に入る。
コースなんてものはないので、なんとなく人の足跡がならした道を山登りよろしく登る。
着くとがらんどうな中に大きな穴。ここが死体を入れるスペースなのだろう。
まわりから見えないようにという配慮からか、石の壁は高く作られている。
一通り見学し穴から出ると、5人組のイラン人男性がスイカを抱えて登ってくるのが見えた。
「ゾロアスター教徒かな」
「まあ、そうでしょうな、こんなとこまでわざわざ来るんだから」
と、M氏と会話する。ゾロアスター教徒にとっては聖地なのだ。
またしても人の家に土足で上がり込んでいるような気まずさが勝ってしまう。
イラン人はじろじろと我々を見ながら、ついにM氏に話しかけ、2人は何事か盛り上がっていた。
M氏が「私たちは仏教徒だ」と堂々というのを聞いて思わずわたしは振り返る。
(いや、宗教色の強い国では、「無宗教」というと逆に同じ人間と見なされないくらい
信じられないことだったりもするので仏教徒と言っておくのは得策なのも確かだ)
イラン人は「オー、ブディスト、ブディスト」的なことを言いながらM氏と固い握手を交わしている。
…なんなんだ。
「あなた方は?」「ムスリム。」という彼らの「当たり前ジャン」的な返答にわたしはズッコケる。
「スイカを食べろ」とその場で切ったスイカを2切れもらう。
一体テヘランから、何をしに来たんだ。鳥葬の塔(登るのはそれなりに体力も要る)に
グループで、スイカとナイフを持って登り、スイカを食べて帰っていった。
帰り際にもう一度、2切れのスイカをもらい、われわれは休憩がてら座り込んで食べた。
(ゾロアスター教寺院。別名「拝火教」の通り、中には、1500年間燃やし続け一度も絶えたことのない聖なる火がある。)
それから、コンパクトに観光地と市街中心部がまとまったヤズドの街を回る。
ゾロアスター教寺院や庭園、12エマーム霊廟、アレクサンダー大王の牢獄など、およそ「地球の歩き方」に載っている観光スポットをほぼ全制覇したあと、「ズールハーネ」なるものを見に行った。
ズールハーネは、なんというか闘技場とスポーツジムの中間のようなところ。
太鼓と歌でコーランを演奏する人のリズムで、こん棒や弓を振りまわしては
力自慢たちが集ってトレーニングをしているのだが、場所によっては見学もできる。
もちろん宗教的な要素がはじまりではあり、神のため、来るべき日に備えるという思想に基づき、英雄のスポーツと考えられているという。
これがまた興味深く、70代ともみえるおじいちゃんまでいたりする。
(左:ヤズド名物、風採り塔。涼しい空気を室内に送り込む。 右:アレクサンダー大王の牢獄)
(左:バザールも入っている広場。 右:ズールハーネで運動するおじさん達。)
この写真の広場の1階はバザールになっていて、スプライトを買ったらなぜかまけてくれた。
御礼を言うと、太ったウェイターは超ドヤ顔でウィンクをして去って行った。
ひと味変わったイラン体験をしたあと、久々のまともな食事にありつく。
このあたりには多い、ハンマーム(公衆浴場)を改装したレストラン。
だいたいこの日は、イラン人のポールも含めて皆熱射病にやられており、
ひとり早期回復したわたしは魚や肉団子や茄子の煮物といった料理を食べ続けた。
その後、夜にふたたびマスジェデ・ジャーメを見に行く。
ヤズドのシンボルで、イランで最も高いメナーレ(塔)があり、イスラム建築の最高傑作にも数えられている。
サーサーン朝時代には国教だったゾロアスター教神殿の跡地に建てられたものらしい。
ブルーに浮かび上がった高い塔はまさに幻想的。
こうして、深夜2時に出発する夜行列車を待ちながら、ヤズドの夜は更けていった。
つづく
地球の舳先から vol.245
イラン編 vol.5
シシカバブの昼食をとり、我々が次に目指したのはマスジェデ・ジャーメ。
金曜日なので入れるかどうかはわからないが、とりあえず行ってみる。
…のだが、はたまたガイドのポールの信念により、庭園へ連れて行かれる。
ユネスコにも登録されているらしいが、入口から覗く噴水は水が完全に枯渇。
それなのに、隣の詳細不明の博物館らしき建物は、屋外の庭に
ティラノサウルスやトリケラトプス的な巨大な像が立ち並び、ティラノサウルスが
水浴びをなさっている屋外プールには透明な水が満たされている…。
「なんなんだ!ここは! なんなんだ!イランってとこは!」
(左:シシカバブ。豚以外は食べてOK。 右:恐竜博物館…?詳細不明…)
あの、もうそこの庭園も隣の恐竜博物館もいいので、マスジェデ・ジャーメへ行って下さい。
とポールに頼むと、「こっちの方がよっぽど美しいのに…」とブツブツ言いながらも行ってくれた。
奇跡的に入ることが出来、水を打ったような静かな空間に圧倒される。
お祈りスペースでは熱心に祈るムスリム…と、その隣で爆睡するオッサン…
太陽の輝く陽気、屋外に広がる絨毯…確かに昼寝にはもってこいだろうが…
爆睡するオッサンをまるで気に留めず隣で祈り続ける人も人である。
再びイマーム広場へ戻ると、ちょうど中学だか高校だかの下校時刻とぶつかった。
ここでわたしは信じられない経験をすることになるのである。
黒装束のチャードル姿の女学生たち。彼女たちはわれわれを認めると、
………。
手に手にデジカメやiPhoneを取りだしてこっちに向かって爆走してきた。
まさに阿鼻叫喚。キャーキャーキャーキャーと何十人に取り囲まれ、
もみくちゃになりながら一緒に写真を撮られ、またキャーキャーと手を振って去っていく。
まるでどこぞのスーパースターになった気分だ。
何が起きたのかわからず、ぽかんと口を開けて彼女たちを見送った後
「なんなんですか!これは!!」とM氏に言うと、
「う~~ん…ハイパーリア充?」という答えが返ってきた。
一旦、ホテルで休憩したわたしたちは、夕方の散歩に川沿いに出かける。
エスファハンの街を流れるザーヤンデ川にはいくつもの石造の橋が架けられている。
33のアーチがある最も有名な「スィー・オ・セ橋」は、サファビー朝の全盛時代、
アッバース1世が400年も前に作ったものである。
ここを渡っていると、うしろからものすごい勢いで民兵だか革命防衛隊だかの制服を着た
兵士が5人ほど追いかけてくる。
「なんだなんだ」と一瞬焦るが、まだ少年にも思える若い兵士たちはわたしたちのところで
急停止し、半長靴のかかとを打ち鳴らして敬礼すると、まだダッシュで去って行った…
もうひとつの豪奢な橋、2階建てのハージュ橋を見学して対岸へ。
ハージュ橋の2階テラスは、王様の宴会場だったそうだ。
ケンタッキーフライドチキンのパクリのような店で買ったチキンを食べ、散歩も終了。
ぐるっとまわってきたスィー・オ・セ橋にふたたび戻ると、美しくライトアップされている。
ホテルへ帰ると、窓から美しい庭園を眺めたのも束の間、まさに泥のように眠った。
ホテルに泊まるのもこの旅では1泊きり。貪るように、睡眠を取る。体力第一。
(左:スィー・オ・セ橋の夜景。 右:ホテルの部屋から見た庭園。)
翌朝。すこし早めに起きて、散歩する。
宿泊したHotel Abbasiもこの一角にある、シャヒード・ラジャーイー公園。
明らかに子供向けとしか見えない遊戯物で、おじさん達が日の光を浴びて
無料のジムよろしくぶらさがり運動なぞをしていて、わたしは笑いをこらえるのに必死。
サファヴィー朝後期の1969年に建てられたハシュト・ベヘシュト宮殿は噴水と薔薇に囲まれ、
木陰に座り込んだ警備の革命防衛隊員らしき人が空をあおいで大あくび。
…今日も、平和だ。
前日は金曜日(休息日)で見学ができなかったエマーム広場のモスクへ。
深く引きずりこまれそうに美しいブルー・タイル。相変わらず観光客が少ないのは
写真を撮るには好都合だが、どうしても複雑な心境になる。
ちょうど、ガイドであるポールの奥さん(奥さんもガイド)が同時期に案内をしており
手短にあいさつを交わし、わたしたちはエスファハンをあとにした。
つづく
地球の舳先から vol.244
イラン編 vol.4
朝5時30分。
時差ぼけこそないものの、まだほの暗い朝方に起きる。
これから約6時間をかけて、エスファハンという世界遺産の地へ向かう。
かつて、サファヴィー朝のアッバース1世が首都と定め、「エスファハンは世界の半分」とまでうたわれた場所。
美しいブルータイルのモスクは印象的で、イスラム建築の本にも必ず載る特徴的な風景だ。
高速に乗ると、嵐といっても過言ではない大雨がさらに激しくなる。
現地3泊の弾丸ツアーでは、エスファハンに居られるのは1日足らず。
この日が勝負であるが、とても観光というか外を歩けるような天候ではない。
それでも車は、平均120-140キロほどで飛ばしてゆく。
ただし、制限速度60キロのトンネルではいきなり速度を落とし、てきめんに法令順守。
何事かと聞くと、このトンネルには、違反者を撮影するカメラが搭載されているのだという。
厳密なルールは表の顔で守りながら、規制のゆるいところでは一挙に息抜きをする――そんな「一線」とのせめぎ合いは、テヘラン女性のヘジャーブ(スカーフ)姿にも通ずるものがある。
これがイランらしさであり、抗議や暴動で体制が崩壊することを避けてきた、絶妙のバランス感覚なのかもしれない。
なんとたったの4時間半でエスファハンに到着する頃には、雨はすっかり上がっていた。
まったくツイている。
出発日に自転車で転倒して肋骨を折り、悪いほうの運を使い果たしてきたおかげだろう。
荷物を預けたこの日の宿泊ホテル、“Abbasi”は、街で最高級のホテル。
かつて、隣接する神学校の財源確保のために、隊商宿として栄えた場所だそうだ。
フロントの女性はおそろしく美人で、預けたパスポートの「JAPAN」の文字を見ていっそう笑顔が弾ける。
瀟洒な中庭にはバラがセンス良く植えつけられ、噴水の水線が昼の光を受けて輝く。
中東でも有数の観光地であるはずのエスファハンにはしかし、外国人が非常に少ないようだ。
道行く人々の国籍はわたしには分からないが、観光地特有のからりとした浮かれた空気が無いのだ。
現地で手配してくれていたガイド兼ドライバーと合流。
「遅れてスマン、でも午後からだって聞いてたんだ。だから、午後着くって。今日の午後…」
としつこく「afternoon」を繰り返す彼に、スレているわたしは11時を指している時計を見ながら
「これ、1時間ぶん別途料金取るぞってパターンか?」などと身構える(そんなことはなかった)。
行きたい場所はすでに伝えてあるので、特に何も考えずにぼけーっとしていたところ、
彼には彼の正義があるらしく、なぜかアルメニア人教会に真っ先に連れて行かれた。
なぜかイランで、しかも、国内一といってもいい観光地のエスファハンで、
ギリシア正教会に連れて行かれるというこの違和感。
しかし詳細に説明をしてくれ、彼が「英語の喋れるドライバー」ではなく「運転ができるガイド」であることを知る。ちなみにポール・マッカートニーにそこはかとなく似ているということで、我々は彼のことを「ポール」と呼ぶことにした。
彼とは、今回の旅の行程の約半分、テヘラン以外のほぼ全てをご一緒することになる。
(アルメニア人教会=ギリシア正教会。mixed cultureなのでモスクに似た形のドームが特徴。)
(超美人の店員さんと、この付近アルメニア人居住区にあった瀟洒なエルメスのショップ。)
次に向かったのはイマーム広場。エスファハン観光のハイライトだ。
中庭は、かつての宮殿、バザール、王の居住区、モスクに四方を囲まれる形になっている。
これは、政治、経済、王室、宗教が一堂に会しているさまを表したものなのだという。
確かにこのような4つの要素が1箇所に、しかも序列をつけることなくフラットに存在している光景は稀だろう。
金曜日はイスラム教徒の休息日のため、敬虔な信者はモスクに集ってお祈りをする。
そのため、モスクなどの中の観光はあきらめていたのだが、その代わり、
チャードルを着た敬虔なイスラム教徒の人々の大群が見られた。
特にテヘランは近代化の一途を辿っているので、このような光景はなかなか見られない。
かつての宮殿では選挙も行われており、まさに今昔入り乱れる多様なイランをいっぺんに見た。
「あと15分したらモスクに入れるようになる。それまで私のペルシア絨毯屋に来い。」
そう売り込みをかけられたのはこのときだ。
スレている…というか、世界各地でおおごとはないものの色々と小さな痛い目に遭っているわたしでなくともこの台詞はあやしい。あやし過ぎる。
しかし、こういうのに乗ってみるのも、面白い事が起きることも知っている。
「行ってもいいけど、買わないよ!」と毅然と最初に宣言し、敵地に赴いたわけだが、
過度な売り込みも無く、絨毯の説明をしてくれてお茶まで出してくれた。
(ただし、15分後にモスクが開くことはなかった。)
なんというか、困っていないというか、手段を選ばない生きる必死さがないというか。
もちろんたった数日の滞在ではなにもわからないし、表の顔はだれにでもどこにでもあるものだが、なんだか私はこの国とこの国の人々を、「豊か」というか、もっと言うのであれば
「…実は、金 持ってる…?」と思い始めたのである。
つづく
※今回の記事で紹介する施設は全て、軍事的・宗教的な色合いが非常に濃い施設です。
また、世界の多くの国では、鉄道駅も準軍事施設と考えられています。
思わぬトラブルに発展する可能性がありますので、楽しく安全な旅行の為
立ち入りや写真撮影に関しては逐一、許可を得るようにして下さい。(筆者)
地球の舳先から vol.243
イラン編 vol.3
さて、我々は無事にテヘラン市街地へと到着。
重い鉄の扉をくぐり、超高級住宅のM氏の豪邸に1泊、居候する。
しかし上には上があるのが世の常で、ここテヘランには
「部屋」の前まで車で行ける「マンション」があるという…
初日は軽くテヘランを流して観光…というのが通常コースなのだが、
現地駐在の友人M氏にリクエストして、テヘラン・ミリタリー・ツアーを組んでもらった。
まずは、89年に亡くなったイスラム革命の指導者アヤトラ・ホメイニ師を埋葬した聖廟へ。
ホメイニ師が眠るお墓はモスクの中でガラス張りになっており、隙間から人々がお金を入れる。
このお金で、こちらのモスクの改修を行っているということだった。
異教徒なので中に入ることは最初から考えていなかったのだが、
バシジ(民兵)に付き添われ、厳重な金属探知機のゲートをくぐって
中へ入ることが実現したばかりか、写真を撮ってもよいといわれ、さすがに驚く。
暗めの室内を進むと、お祈りに来ていた人達が場所をあけてくれた。
…と、かなり親切にしていただいたのだが、異教徒の聖地に立ち入るという行為が
わたしはいつもなんだか居心地が悪くて、短時間で出てきた。
外へ出てモスクの大きさに再び目を瞠る。
その後は、89年から現在に至るまでイランの最高指導者であるハメネイ師の家へ。
家といっても本人が住んでいるわけで、警備は厳重という言葉では言い表せないほど。
テヘランを知り尽くしたドライバー(日本語ペラペラ)も、ここはさすがに通り過ぎるだけ。
あのなかで、中東が動いているのだな、と思うと、なんだか末恐ろしい。
道を1本それると、今は建物だけが残る米国大使館。
ここが、79年、カーター大統領時代にアメリカ大使館人質事件が起こり
その解決に444日をも要した場所である。
この人質事件を描いたドキュメンタリー『ホメイニ師の賓客』を思い出しながら
自由の女神を骸骨に見立てた極彩色の看板を見上げる。
別の角には、「アメリカに死を」のスローガン 。
このような極端なスローガンは、今はもう、最高指導者の意向で使われていないのだが、
いまだに欧米メディアは、イラン問題の報道の際に、20年以上前に書かれたこの落書きを
持ち出しては「反米・暴力的・過激」のイメージを喚起するのだという。
1ブロック先の英国大使館も、昨年12月に閉鎖され、職員は国外に退避している。
高架の道路を走っていると、
壁一面を使って「DOWN with the USA」と描いたビルが現れた。
写真を撮りそこねたので、ネットで見つけたある方の旅行記で。
http://homepage2.nifty.com/hashim/iran/tehran/tehran003.html
その他にも、イランの大きな建物には巨大な壁画が多く描かれている。
こういうところはキューバと似ているな、とふと思った。
人々は、といえば、敬虔で厳格なイスラム教徒…を想像していたら、大違い。
スカーフも、かぶっていない人はいないが(宗教警察がパトロールしているらしい)、
頭の後ろのおだんごに引っかけただけという人も多く、
むしろ制限の中でのオシャレアイテムとしていかに活用するか、といった様相。
我々も、大きめのスカーフを用意してのぞんだのだが、
同行したちえさんはとある店で、「そんなに目深にかぶったらアフガン人みたいよ」
と言われ、スカーフを直されたという…。
その後、郊外にある軍事博物館へ。
最近は閉まっている事が多いらしく、この日も屋外しか見学できず。
しかし屋外にも、シャー(イスラム革命以前のイランの王様)が乗っていたというロールスロイスや、イラン・イラク戦争でイラクから奪取したヘリコプター敵機など、非常に興味深いものが陳列されていてわたしはコーフンする。
同じ屋外に置いてあるものでも、写真を撮っていいものといけないものがあるらしく、
近づくと止められるところもあった。
(左:白い建物が軍事博物館。中庭にも展示物多数。 右:イラク敵機)
「あの、ワタシは、そこの撮っちゃダメな飛行機じゃなくて、革命防衛隊と写真が撮りたいんですけども」…とM氏に言うと、さっそく警備にあたっている若者に声をかけてくれた。
革命防衛隊は、ものすごい照れながら了承してくれた。みんなで記念撮影。
M氏は、日本人だというと肩まで組んでもらっていた。(尊敬の証らしい。)
軍事博物館は、サーダーバードという割とポピュラーな観光地の敷地内にある。
サーダーバードはパーラビ家の夏の別荘地で、いわゆる「離宮」だったところである。
広大な敷地は白樺と緑で覆われ、時間も場所も忘れそうになる空間。
ここでしばし充電をし、たいして距離は無いのに殺人的大渋滞のおかげで
ちょっとの移動でもとても時間のかかるテヘラン市中心部へと戻る。
夜は、M氏のお誕生日会を兼ねて、駐在の日本人の皆さんとご一緒し
わたしたちまで、「ようこそテヘランへ」のケーキを頂いてしまった。
(左:イランケーキ。メッセージが読めない…汗。 右:M氏の豪邸から、テヘラン市の景色)
つづく
地球の舳先から vol.242
イラン編 vol.2
そもそもみんなそわそわしている、GW突入前日の会社を早く出た。
成田エクスプレスに乗って、空港へ。
ちえさんと合流し、禁酒国家に向けて空き時間で懸命にお酒を飲む。
機中、さすがにビデオプログラムが豊富なエミレーツで『ALWAYS 三丁目の夕日’64』
を見たら、シャレにならないくらい号泣して大変なことになった。
ドバイに着く頃は早朝で、あと何時間起きていなければならないのかと思いながら、
とかく体を朝の光に馴らす。
ドバイというのは、嫌いではないけれどわたしのなかで世界一くだらない場所で
ギラギラの超巨大噴水やランボルギーニの宝クジならぬ車クジなどを見ながら、
「なんだこの装飾は!この無駄な水は!あのニセモノの巨木は、ワカメか!」
と毒づいていたら、隣のちえさんに「ゆう、本当にドバイ嫌いなんだね…」と冷静に言われた。
「いや、石油王となら友達になりたい。」
しかし、そんなちえさんも「ドバイはくだらない」というところには同意してくれた。
そこからたった2時間で、テヘランへ着く。
バンコクにしてもソウルにしても、わたしはハブ空港というもののもつ空気が居心地悪い。
あらゆる別世界にまるで無機質に機体を飛ばす、そんな節操の無さが嫌なのかもしれない。
その恩恵にあずかって旅をしているくせに、勝手な話ではある。
世界はところどころ地続きで、空はひとつで、
飛行機に乗ると、当たり前だけれども国境というものがよくわからなくなる。
テヘラン便の、思ったよりも大きな機体に乗り込むと、すこしだけ緊張した。
膝の上には、着陸時にはばっちり装着を終えていなければならない大型のスカーフ。
約1週間前にテヘランへ入った友人からは、日本人だけ入国時に別室に通され、
指紋をとられたという情報もあった。
心配なのは自分のパスポートの汚れっぷりではあるが、わたしのパスポートに押されたスタンプの国々を「悪の枢軸」とみなすのは、アメリカの価値観である。
つまりイランにとってはきっと「枢軸同盟」なハズだ、と、我ながら意味不明な理論武装をした。
テヘランのイマーム・ホメイニ空港へ到着し、瞬殺で入国審査を終えたちえさんが
心配そうにわたしの動向を見守っている。
ちゃんとトイレに寄ってスカーフもかぶりなおしたし、くつしたも履き替えたし、
風紀的にはなんの問題もないはずである。
いざとなったら「わたしの友達はテヘランで外交官をしている」のカードを切ろうと思っていたが
1ページ目からしみじみとわたしのパスポートに並んだスタンプを確かめる若い入国審査官は、口が開いている。
…好奇心かよ。
かくして永遠にも感じられる数分の後にわたしのパスポートは無事 手元に帰ってきて、
エスカレーターの下では、外交特権でゲート内まで迎えに来てくれたM氏が待っていた。
もう大丈夫だな、と思った途端に、緊張の糸も緩み、湿度の高い空気に気付く。
そうだ、わたしは中東の国に来たんだ。
「イラン」というとどこか冷たく張り詰めた氷のようなイメージを持っていたのだが、
ふと現実味をもって「生身の外国に来たぞ」という実感をあの湿度で感じたのをよく覚えている。
「空港に向かっているとき、お二人の乗った飛行機が着陸するのを見ましたよ!」
そう流暢な日本語を話すドライバーのアミールさんの車で、
我々は無事に、テヘラン市街地へと高級車で運搬されたのだった。
つづく
地球の舳先から vol.241
イラン編 vol.1
イランへ行くことを決めたのは、まだ冬も真っ盛りな頃。
大学時代の友人がなぜかテヘランで働いていて、そんな縁でも
なければ一生いくこともないかもしれない国なので、即刻アテンドをお願いした。
結局、休みまで取ってアテンドしてくれたのだから、有難い限りである…
イランへの道は、友人に「そんなとこ行けるの?!」と言われたように
険しいようで、そこまででもない。
白金の一等地にはイラン大使館があり、それは日本とイランの国交が正常な証拠で、
しかもその大使館は、ちょっと引くぐらい立派な綺麗な建物だった。
ビザの申請で初めてチャリで乗り付けた際の、
「経済制裁どうこうって言ってるけど、実は金持ちなんじゃないのかこの国は…」
というのがわたしのイランに対する第一印象。
かくしてこの印象が間違っていなかったことを、わたしは後々、肌で知ることになる。
日本からイランへ行く場合、もっとも簡単な「eビザ」というシステムが現在使えず、
旅行代理店経由でビザを取るか、もしくは現地にいる友人や知人から、
現地イランの外務省宛に、紹介状というか申請を出してもらわなければならない。
前者の手段が残されている限り、イランへの道は万人に開かれているわけだが、
手数料が滅法高い。(おそらくは、賄賂込みではないだろうか。←あくまでこれは憶測。)
わたしたち(わたしにしては珍しい、同行者のいる旅。相棒は、大学時代の友人ちえさんだ)
は、うまいこと現地で働くM氏が手を回してくれたので、ビザは1週間きっかりで出た。
写真入りで、パスポートにべったり貼り付けられたビザを受け取り、
またひとつ旅先を選ばねばならなくなったことを実感。
…つまりこの時点ではまだ、わたし自身すらイランを「ちょっとヤバい国」と認識していた。
右寄りでバランス感覚溢れるちえさんの相方にすら、「本当に大丈夫なの?」と言われた。
我々の民度の問題か、というと、そう単純な問題でもなく
つまり日本に居ては、“そういう方向”に偏向された情報しか入ってこない、ということである。
航空券こそ先にとってあったものの、ビザが取れるまでは渡航できるかどうか
半信半疑だったわたしは、それから火がついたようにイランの情報収集につとめた。
図書館で借りた本の履歴はイラン関係ばかりが30冊も並び、あやしい限りである。
勉強になったのは宮本律さんの本。
イランを擁護するばかりでなく「自業自得」と言いながら、近代イランの政治、歴史、文化と
多岐にわたる紹介を、すごく平易な言葉でしてくれる。
逆に、イラン関係の書物においては「親米・反イラン」のものを探すのに苦労した。
世界中から嫌われているのがアメリカやイスラエルという国の特徴だが、日本においても
アメリカやイスラエルを擁護・支持する書物を探すのにはずいぶん時間をかけた。
が、この中に、わたしが文句なくダントツでベストをつけたい本を見つけた。
「ホメイニ師の賓客」
ホメイニとは、かつてのイランの最高指導者であり、イスラム体制を作ったイラン革命の中心人物。
つまり今のイランはホメイニ師とは切っても切れない。
この本は、イスラム教革命の前後に起こった、イランによるアメリカ大使館占拠・人質事件を、
開放されたアメリカ側関係者への緻密なインタビューにより書籍化した秀逸なドキュメンタリー。
「人質事件」というと、軽い響きすらするが、この監禁は解放までに444日もかかり、
カーター大統領時代のアメリカの政治を大きく動かした事件である。
ここで描かれるイラン人は稚拙で単純で、暴力的ながらも腰抜け(ネコパンチ的な何か)で、
アメリカ人の人質側からイランを見た視点は非常に新鮮なものだった。
こうしてわたしは、もう250年も他国に侵略戦争を仕掛けたことのないイランの歴史と、
周辺の濃すぎる人物、宗教の奥深さにハマってゆき、
完全に「耳年増」状態でイラン入りのその日を迎えることになったのだった。
つづく