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2017/03/16

地球の舳先から vol.368
東北2017春 編

はじめて、3/11という日を、あの日に被災した地ですごした。
行く勇気が無かったというのもあるし、
自分の中で3/11という日を「イベントごと」化することに
はげしい抵抗があった、ということもある。
ただ、去年、はじめて気仙沼の仮設住宅にお邪魔し
行ってよかったと、心から思った。
だからそろそろ、行くことにした。

翌日帰る東京での用事のための大荷物を抱えて、今回も駅前の観光案内所で
電動自動車「パワーだんとつ かじき号」を借り、街中をふらふらしていると
友人に会い、安波山という高台へ連れて行ってくれた。

キラキラした春の光に、東北で人が住んでいる島としては最大の「大島」
へと架かる、これまた東北で最大の橋の架橋工事が大詰めで、
巨大なサルベージ船が鎮座している。
見た記憶のない山肌は、盛土かさ上げ工事のため切り出したものかもしれない。
郊外のニュータウンのように、所狭しと立ち並ぶ集合住宅。
見たことのない光景ばかりだった。

午後は市主催の追悼式と、昨年うかがった公営住宅での追悼集会に参加した。
見た目をどんなにつくりかえても、心が癒えることはきっとないのだろう。
「6年が経った」のではなく、辛苦のなかの1日1日が、2,193回おとずれたのだ。
そしてそれは今日もまた1日1日、ふえていく一方で
「時が解決する」ことなんて無いのだと、思わざるを得なかった。
会場を出ると、吹雪が横向きに吹き付けていた。
こんな寒い中で水をかぶった人がいると思うと、堪えきれなかった。

夜、海町を歩きながら、2011年秋にはじめて気仙沼へ来たときのことを思い出した。
年に何度か来ている場所だけれど、改めてその頃を思い出すと、夜の明るさに驚く。
その光は、ここの地であれから生きてきた人たちが作ってきたものだった。
震災間もなくから唯一煌々と赤い光を灯し、県外人すらほっとさせていた復興屋台村
「気仙沼横丁」は、今週で閉村する。
移転先は決まっていないお店がほとんどで、事業継続するかどうかも未定だという。

新しくできるもの、なくなるもの。
そうやって目に見えているものは氷山のほんの一角で、

その狭間に「どうなるかわからないもの」が膨大に漂っている。

その現実を見てきたのがこの1日だったかもしれない。

(だからわたしは、国立劇場からの中継を気仙沼市民体育館で聞いていた首相のスピーチに、最初は首をかしげ、最後はあいた口がふさがらなくなったのだろう。)

自分のなかでも、少し書き残しておかなければならないな、と反省した。
行っただけで、薄れる記憶とともに記録をしていない土地も多い。
去年だけでも、東松島、山田町、田野畑、田老、宮古。(そして気仙沼に5回)
そして今年は、いま一度、これまで行ってきたところを再訪しようと誓った。
名取、閖上、塩釜、東松島、石巻、女川、南三陸、陸前高田、久慈…
もう一度、三陸海岸を回ってみよう。すこしずつ。

↓ 粋なものいただいたので、いつもお財布に入れてます。

2016/10/07

地球の舳先から vol.367
東北2016年秋 編 vol.1

八重山編を一旦延期にし、先に秋の東北旅について記録しておきます。

岩手県の山田町というところを知ったのは、もう5年近く前。
『東北食べる通信』でこの地が特集されたことで、
なんとなくながら深い興味を持ち、自他ともに「海賊」と称される
「第八海運丸」乗組員の皆さんの上京に合わせて開催された飲み会に参加した。

彼らは、「自分たちの手で獲る」ことにこだわっており、
船を出しては「お宝」と呼ぶ魚や生き物を獲ってくる。
シュウリ貝(ムール貝の和種。もともとムール貝のほうが、
外国の海を渡ってきた船舶にくっついて住み着いたそう)は
大きいものでは人の顔くらいになり、養殖にしてはワイルドだと
思っていたところ、危険な岩場に登って人力で獲ってくるのだそうだ…

詳しくは、下記のページへどうぞ。

そんなわけで山田町に興味を抱きつづけながら、
しかもこれだけ三陸地方のほとんどの沿岸を回りながら、
ついに山田町だけに行ったことがないという状態になったのは
交通の便の悪さだけではなく、「取っておいた」という面も強い。

その後、職を変えたことで山田町とはまた別の縁ができるのだが
関係者から多く山田のことを聞く機会も増えたのと反比例して
一向に公務は回ってきそうにないために、ようやく今回
「よしもう山田に行くぞ」としびれを切らした、のだった…。

新幹線で、盛岡。急行バスに乗り換えて2時間ほどで宮古。
岩手県に上陸した台風10号の影響で、現地では甚大な被害が出ていた。
交通網が内陸中心になっているため、大動脈である国道が寸断されたことで、
観光、経済、医療などすべての面において「長い11日間」を過ごした後だった。
倒れ重なる大木、石岸に乗り上げたバイク、折れた橋と
片側通行での復旧後もバスの窓から見える光景は凄惨だった。

山田町に到着し、一通り町を見学した後、海賊さんたちのアジトへ。
仮設の小屋がいくつか立つ仕事場の、屋根も吹き飛び自分たちで直したという。
台風から半月ほど経ったその日も、流されたものを回収しながら、
漁だけでなく、各地で開催されるイベントに出かけては出店をする。

 
(修復されたアジト)

 
(左:ホタテの稚貝を入れる網  右:タコをとる網)

そして、夜(漁師の朝は早いので、早い人は15時頃)になれば
集会所である少し大きな長屋で、子どもからじいちゃんまでが集う。
支援でやってきたというぴかぴかのテレビで大相撲のゆくえを見守り、
茹でたツブ貝に、開けたビール缶を器用にコップに加工して酒を注ぐ。

わたしはまたしてもここで、「不思議な家族の形」を見た。
気仙沼の仮設住宅でも思ったが、ここでは複数の年代も構成も違う家庭が生活をしていて、
それは「助け合っている」というよりも、もっと普通に
「みんないるからたいていの事は出来る」ということになっている。

核家族と、分断された隣の家との線引きが明確過ぎるところで育ってきて、
今も引っ越せば「防犯のために表札は出さない方がいい、オートロックだから、廊下から
ピンポンされたら無視するように」と“指導”される生活とそれは真逆のところにあって、
そして、どちらが当たり前かと言われれば、東京の生活はやっぱり変だし、不自然だった。

海賊の乗組員さんからも、海や漁に関する話を沢山聞くことができた。
漁のスタイルについても、ポリシーがとても明確で、貫き通していることに驚く。
なぜわざわざ危険なことを、、と聞けば
「それが漁師ってもんだと思っている」とは、若頭の台詞。
他にも多くの名言が飛び出したが、公共の電波に乗せていいかどうか自信が持てないので
これで一旦締めておきたいと思う。

 

第八海運丸では、漁師直送のCSAもやっているので、ぜひご覧ください。
Facebookページ
第八海運丸のCSA

山田の海賊のみなさん、素晴らしい時間を、ありがとうございました。

2016/05/16

地球の舳先から vol.365
東北2016春 編 vol.1

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「東京から、乗換1回」
そう言った人がいた。

夜のうちに、移動をする。
駅での時間調整によく使っていた、ヤクルトをくれる食堂は、もうない。
瓶ビールは大瓶しか置いていない、さんまラーメンのおいしかった食堂。
朝に納豆定食で酔いを覚ましたあの食堂…
代わりに、駅前にはピカピカの災害公営住宅が建っていた。

震災で、1万5000棟以上が被災したという気仙沼。
5年が経った今も90箇所以上の仮設住宅が、公園や学校の校庭など
あらゆるところに点在する。
5年も生活していたら、もはや「仮設」という言葉も
あてはまらない気がするが、
震災による地盤沈下と将来の津波に備えてかさ上げの盛土が続いており
整備は2020年まで続くという。
(むしろ、2020年に本当に終わるのかのほうが疑わしい)

“東京オリンピック”その単語を聞くたびに、わたしが何かしら
空虚なものを感じるのは、このためである。
そしてこの「20年五輪」は、被災した地域にも新たな問題を生んでいる。
建設需要の急上昇における需給バランスの崩れだけではなく、
完全復興を世界にアピールしたい政府、追随する行政の、事を急いだやり方が
各地で問題化し始めているのもまた、今ここにある事実のようだった。

とんでもなく大規模な集合住宅が、次々に完成していた。
仮設住宅からの定住を視野に入れているが、事はそう単純でもないという。
「仮設から出たくないという人たちがいる」
そう聞いたとき、わたしは率直に驚いた。
しかしわたしもまた、ぴかぴかの公営住宅が復興のシンボルであると、
イメージに踊らされている一人でもあった。

個別の具体的な問題については、一面的な問題ではないし
第一わたしは外の人間なのでここで一方的に誰かを批判することはない。
ただ、わたしは今回、はじめて気仙沼の仮設住宅を訪れた。
そうそう簡単に足を踏み入れるべきではないと思っていたし、
家やそのほかにいろいろなものを失った方の悲しみや感情については
経験していない人間には、永遠に想像もつかないことだった。

しかし、そこにあるコミュニティは非常にあたたかなものだった。
3世代、いやそれ以上がともに暮らしている。
子育ても、地域でしている。
東京の、仕事をしながら子育てをして、無理な完璧を自分に求め
壊れていく孤独な母親、がもはや当たり前の光景になりつつある
ような姿は、ここにはない。
高齢者の方もとても多いが、そこに(通いのプロは場所によってはいるが)
「顧客と介護職員」のような関係性はない。
今後高齢化に比例したスピードで福祉が整備されるとも思えない今、
地域、いやコミュニティで助け合いともに生活している仮設住宅には
もちろんそこに大きな援助の手が入っているとはいえ、
学びや気づきが大変に多いはずだった。

一方で、単身世帯の多い仮設住宅では、締め切られたカーテンの外からも
部屋の中に不規則に荷物がうず高く積み重ねられているところもあり
中の人の生活状況や状態が心配になることもあった。
2020年までに仮設住宅を撤廃したい政府の意向で移住を急がれたり、
復興バブルで土地の価格が急騰し買い戻せないといった問題も発生している。

単純な問題ではないし、だから今回のこの投稿に結論もオチもない。
しかし、「3.11」は昔のことではないのだ。
こうして、今も。
たぶん、東京にオリンピックがやってくる頃になっても。

2015/09/14

地球の舳先から vol.364
東北2015夏 編 vol.2

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モノではなく「人」で、地方と全国を繋ぐ。

わたしが何度もこのコラムでも紹介している「食べる通信」の試みの根幹はそこだが、
東松島の食べる通信はその色合いがぐっと濃くなる。
リアルな人と人とをつなぐことのできる、現実的な規模感でもあるのかもしれない。
人が増えれば、コミュニティの濃度はだんだん薄くなる、そういうものなのだろう。
人が増えれば、インターネット上での「やりとり」も、やがて「メディア」化する。
その手前の、息遣いを感じるからこその、東松島の生産者と全国の読者の人間同士の関係がある。
わたしは比較的、いろいろなところに友達や知り合いがいる方だとは思うのだが、それでも、ここまでひとつの地域に「顔と名前が一致する人」が密集している場所もない。

編集長の太田さんは、千葉県出身で東北にはゆかりのなかった人。
今では、地元の人に「アイツは漁師か」といわれることがあるほどに愛されている。
そして、読者が東松島を訪ねれば、自らハンドルを握って案内してしまう。
ヘイコラしたりも、威圧したりもしない、垣根のない人。
ずっと東松島のほうにいた人ならともかく、都心の悪いほうの効率資本主義にヤラれていない。だからわたしは、太田さんが東京でエリートサラリーマンをやっていたと聞いて、とても驚いた。
口は悪いが、いい人なのである。口は悪いが。

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(編集長の太田さん。牡蠣漁師、阿部晃也さん撮影。)

太田さんが東松島に関わり始めたのは、震災のあと。
あのころ、程度の差はあれきっと誰もが心のどこかで持っていた「何かをしたい」という思いに突き動かされ、知人の知人を辿ってボランティア先を探した結果、浮上したのがこの地だった。
地元の再生を願うお祭りを手伝い、束の間、清々しい高揚感に包まれていた太田さんは
翌日、ひとり東京に帰る際に通った県南部の手つかずの海岸の光景を見て愕然とする。
復旧活動がひとまわり終わった後の、人の賑やかさがあり道路もある程度整った街との、あまりの落差。
「自分の薄っぺらい使命感が恐ろしくなった。」
報道では見られない現実を―と意気込んで携えてきたカメラでシャッターを切ることはなく、色々見て回るはずだった予定を変更し、すぐ高速に乗ってまっすぐ帰った。
自己嫌悪にも似た気持ちに整理がついたのは、「とにかく1年住もう」と決めたとき。
その後移住し、東松島食べる通信の創刊だけでなく、様々な場で奔走を続けている。
「1年」がとうに過ぎ去った今、太田さんは、「自分がやってきたことは”復興支援”だけではないし、人のためではなく自分のためにした決断だった」と振り返る。

実際、東松島には多くの資源がある。
わたしも今回ほぼ1日滞在しただけだが、太田さんに連れて行ってもらった先は
牡蠣漁師さん(東松島は種牡蠣の一大産地である)、海苔漁師さん(皇室献上の浜とよばれる)、希少米かぐや姫を作る米農家さんの畑、何十種類という野菜を作る農家さんの畑といった農漁業のほか、地元の海苔とのコラボ商品も出す肉屋さんやお菓子屋さん、海産物加工物で新たな価値を加える人、それに、その魅力を消費者の側の立場で解説する役割ももつアンテナショップの方々など
まさに海・山からわたしたちの食卓までの一線のながれにある様々な立場の人だった。
そして太田さんは、漁師の所へ行けば肉を与えられ、農家さんの豪邸ではお茶を啜ってとうもろこしを貰う。

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(庭のバーベキューで、東松島座談会。会話は尽きない。)

職人と、それを世の中とつなぐ人。
職人には、硬派で多くを語らない人も多いので、太田さんのような接着発信剤も必要なのだろう。ただし太田さんは、大きく見せようとか、どうだ凄いだろうというような大げさな演出はしない。
ただ、淡々と。ハートは熱いが、決して暑苦しくドラマティックに語る人ではない。
東松島という地に、そこにいる人に、絶対の自信があるからにほかならなかった。

「偶然」と呼べば、そうもいえるものなのかもしれない。
しかし、有機的に重なる「タイミング」を「縁」に変えるには、相当な人力が要る。
「東松島にとって“+1”の人間として、何が出来るか」を問い実行すること―
と、太田さんは自分の立場を語った。

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(特集した農家さん宅で打ち合わせをする太田さんと生産者さん。)

わたしは、太田さんのように、直接的にその地に居ついて何かをする人間ではない。
けれど、たとえば観光客として考えれば、こうして観光客の「+1」として
東松島というところに関わっている、ともいえるだろうし、
現地へ行かずとも東松島の海苔を気に入ってお取り寄せしている人もまた、
別の意味での東松島の「+1」だといえるだろう。

それは、新鮮な発見だった。
何かができるわけでもないのに、とかくどこかで「何かをしなければ」となぜか無駄に焦る肩の荷をおろしてみると、意外と、あれから広がった世界が、あるはずだった。

好きな土地ができるのは、たぶんそれだけで、とっても幸せな事。
加えてそこに「会いたい人」がいるんだとすると、
(せつない遠距離恋愛はのぞいて)やっぱりとっても素晴らしい事だった。

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(ちなみにわたしの会いたい人は… いっぱいいるけど…
 やっぱりこの、アンテナショップまちんどのアイドルたちかな…)

2015/09/01

地球の舳先から vol.363
東北2015夏 編 vol.1

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最近のわたしは気仙沼一辺倒だと思われているけれど、他の所へも行っている。
ただ、何度も行く場所は、観光名所以外の何かがある場所というのは共通のようだ。
そして、二度めと三度目の壁というものもある。
マーケティング業界でも風俗業界でも同じというが(つまり万象なのだろう)、
「リピーター」と「ファン」の間には、途方も知れない高い壁が聳えているのだ。

わたしが二度通った場所は、数えきれるくらいにはある。
ただし、「三度」以上通った土地は、海外ではパリ、国内では気仙沼だけ。
…だった。
このたび、「東松島市」というところが、それに加わった。
東松島との出会いについては、書くことが多すぎるので、次回に譲る。

今回の東松島訪問では、「大曲浜(おおまがりはま)」という地の海苔漁師と会った。
「皇室御献上の浜」とよばれ、海苔漁で名を馳せた場所である。
ここでわたしは、まさに三者三様という言葉のふさわしい三人の漁師に会った。

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(紹介する漁師さんと、米農家の木村さん、東松島食べる通信編集長の太田さん)

津田大(つだひろし)さんは、柔和な笑顔に似つかわしくない武闘派だ。
東松島に実はある本格サーキットを貸し切った漁師カップでも優勝したというが(それを教えてくれた人に、優勝者はと聞くと「もちろんヒロシですよ」と返ってきたのが印象的)、海苔漁に関してもとことん「攻め」、そして「勝ちにこだわる」人。
「のり工房」は津田さん一族が暮らす豪邸だが、お坊ちゃんとは思えない気質。
余談だが、この豪邸でわたしは津田さんの息子に撃たれた。空気の入ったライフル銃で。血は争えない。

三浦正洋(みうらまさひろ)さんは、対照的に、震災後へこの地に帰ってきて
お父さんの家業を継ぐことを決めた、Uターン。
というとなにかしら「ベンチャー」的気質を想像するが、その逆という感じがする。
大曲浜の歴史と伝統を愛し、調和を是とする、世界平和を絵に描いたような人。
ふたりの好対照はわたしには一見意外なように見えて、
一度故郷を離れた三浦さんにこそ見える世界があることを深く納得させられた。

相澤太(あいざわふとし)さんは、ふたりに比べるとどこかしら兄貴分な存在。
仕事の上でも、次々と海苔に関する新しい価値観を発明しては市場に提案している。
海苔の佃煮を東松島土産にしたのも相澤さんだというし、最近は海苔うどんがヒット。
全国を飛び回りイベントを主催までするなど、いわば漁師の領域を「一次産業」だけではなしにしようとしている人で、相澤さんという人は、その存在じたいが革命だろう。
漁師仲間からも「男」と呼ばれ、アンテナショップの店員さんは「これはふーちゃんが作ってくれたの」とうれしそうに海苔の佃煮を紹介してくれる。(相澤水産HP

同じ浜で同じものを生業にしているわけで、競合関係なのではと思ったが、
ここでは海苔の網は1人100棚と決まっていて、養殖場所も輪番制(!)。
「同じ条件」でいかに工夫をするかで、生産者どうしが腕を上げていったのだそう。

三人がそろってつけていたのが、スカイブルーのリストバンドだった。
これは、大曲浜サポーターズクラブというシステムで、簡単に言うと
「1万円払うと、いつ来ても大曲浜を案内してもらえる」というもの。
船に乗せてもらったり、海苔漁の見学、時期によっては地引網など…
「モノじゃなくて、コトを売りたかった」と相澤さんは言うが
みんないつでも来ていいということになれば大変なことにならないのだろうか…
現在、サポーターズクラブの会員は200人を超えている。
しかし彼らを見ていると、まあ、「来るなら来いっ」くらいの勢いなのだろう…

訪れた人がよく同じことを口にするが、東松島には人の魅力がある。
それは、「だれとかさんに会いたい」という個人的な感情ではなく、
魅力的な人が集まっているところというのは、独特の空気を発するのだ。
言葉にすると「面白い人が沢山いて活気がある」とかの平凡な表現になってしまうが、
「人」が「地」の空気をつくっている。そういう場所がある。

そしてここには、その魅力を客観的に理解し再編集しこの地の「売り」にしていこうとする(もちろん、良い意味で)― とある「参謀」がいる。
次回はその人の話をしたいと思う。

つづく。

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アンテナショップで買った海苔商品の数々と、東松島の夜の〆 のりラーメン。

2015/03/25

地球の舳先から vol.357
東北(2015)編 vol.9

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番外編です。備忘録。
全体的に肉寄りです。魚は、海の方に譲るとして…。

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炉ばた(国分町)
繁華街のど真ん中にある、周りの喧騒をすっと忘れるしっとりとしたお店。
元祖炉端(炉端焼きとはまた別らしい)のお店で、
おかみさんがお燗を大きなしゃもじで差し出してくれます。
1200円のお膳3品はどれも地味に手の込んだとても美味しいもので
これだけでお腹いっぱいになっちゃうかも。

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CRAFTMAN(あおば通)
女性でいっぱいのオシャレなドラフトビール&イタリアンのお店。
店内に備え付けられた、30種以上の樽生!飲み比べセットもあり。
食事もいちいちオシャレで美味しい。
「日本一のフライドポテト」は見逃せません。

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と文字(一番町)
ひとり立ち食い焼肉のお店!! しかもちゃんと七輪。
この形態、東京にも定着させてほしいです。
お肉は希少部位を1枚から頼めて、なんだかお寿司屋さんみたい。
仙台牛を堪能。

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Le Chic(国分町)
地産地消を気軽にあれこれ楽しめるお店!
蒸し牡蠣(すごくレア)、絶品。目の前で焼いてくれます。
お料理もお酒もリーズナブルでちょいちょい色々頼めてうれしい。
旬ごとに行ってみたいお店。

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サッポロビール仙台ビール園(名取)
堂々と昼から飲める。
ジンギスカンだけど食べ放題じゃないものも多いのが良いです。
そして、やっぱ、ビールでしょ。

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とんとんラーメン(広瀬通)
大通りでやたら目立つラーメン屋さん。
「牡蠣ラーメン」の文字に引かれてつい…
いわゆる「ラーメン」。この素朴で昭和な感じがいいです。

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フルセイルコーヒー(サンモール一番町)
ちょっと中心部から離れてるけど、滞在中もっとも通い詰めた場所。
気仙沼名物アンカーコーヒーの仙台店。
おいしいコーヒーとアットホームであかるいお店。
ソーセージサンドやらクロワッサンやら、朝軽食に重宝。

2015/03/16

地球の舳先から vol.356
東北(2015)編 vol.8

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東京に帰る前、仙台から、逆方向の新幹線に乗って八戸まで行った。
ローカル線を乗り継いで、到着したのは久慈駅。
ここから三陸鉄道に乗るのが、実は今回の旅のハイライト。
『あまちゃん』やら、萌えキャラを活用した破天荒なプロモーションが注目されているが
明治の三陸大津波の経験を元に「津波のときでも運行する安定した公共交通機関を」
というポリシーでつくられた路線である。

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乗ったのは期間限定の「こたつ列車」。レトロ調の車両を使用した掘りごたつ仕様。
1か月前に予約したので、1号車1番A席という鉄道おたくみたいな席が確保されていた…
そして車内は男性グループの多いこと多いこと…乗り鉄に大人気の三鉄。
2014年4月に全線復旧したのだが、ここも、クウェートが支援をしていたらしい。
クウェートやカタールは、本当に手広く様々な被災地支援をしている。
列車を復旧させたり、海町に超巨大ハイテク冷凍庫を作ったりと、絶妙。

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写真を撮らねばならないので、急いでうに丼をかきこむ。
うに丼のほかにあわび弁当、ほたて弁当もあり、予約をしておくと切符と一緒に渡される。
切符の明細は手打ちでパンチされている。車内のパーサーはあまちゃんだ。かわいい。

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リアス式海岸を縦断していく路線には長いトンネルも多い。
田老~摂待間のトンネルはなんと6532mで、非電化区間では日本最長なのだそう。
その間は「もなみ」という、なまはげ的なもののパフォーマンスもあるなど工夫されている。
お面をとったらいいおじちゃん。よくしゃべる。解説が面白い。

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さてここからは、北リアス線沿線の紹介をしながら震災を振り返りたい。
意外にも、車内で震災に関する説明はなく景色を楽しむことが主目的とされているようで
帰って来てから調べたものだ。あれから4年。長い。

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○安家川橋梁
あっかがわ、と読む。高さ33m。列車は徐行し、久慈からの列車では最初の撮影ポイント。
秋になると車両からも肉眼で、鮭の大群が確認できるらしい。

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○大沢橋梁
野田玉川~堀内にある橋。堀内駅は『あまちゃん』の袖ヶ浜駅として使われた場所で
見ていないので知らないが「ユイちゃん」が「アイドルになりたい!」と叫んだ場所らしい。
アーチ形の橋は三陸鉄道の象徴的な光景。でも、乗っていると車体が見えないことに気付く。

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○普代漁港
海岸から300mのところに15.5mの巨大水門と防潮堤がある普代村。
昭和初期当時のお金で35億円超をかけて建設された。
あの津波の日、並んだ防波堤と消波ブロックで津波は7mもの高さが吸収され、職員が手動で閉めた水門以陸の集落は守られた。この立地で、村内死者はなんとゼロ。
防潮堤の手前の被害は凄まじかったというが、漁港も機能を取り戻している。

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○白井海岸
秘境駅ランキング2014(なんだそれ)で14位の駅。キャッチフレーズは「ウニの香り」。
その名の通りウニの名産地、そして北リアス線一の風光明媚な箇所だというが
県道が1本走る以外には何もなく駅の近くには民家もないところらしい。

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○田野畑駅
愛称「カンパネルラ駅」(言わずもがな、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』より)。
津波では、海抜は20m近くあるものの線路上に瓦礫が散乱、駅舎内も浸水した。
写真左奥は、三陸鉄道を模した水門で、震災前からここにあるのだが、今となっては一瞬、寸断された線路と残された車両かと思ってヒヤリとする。
水門の向こうには立派な防潮堤があったらしい。

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○島越駅
コバルトブルーの美しい海水浴場。島越集落があり、このあたりは一面が民家だった。
最も激しい被害を受けた地域で、津波により、高架上にあった駅も含め集落ごと消失。
高さ10mの高架橋は崩落し、駅舎・ホーム・線路・路盤などは全て壊滅した。
旧駅舎跡地はメモリアル公園として生まれ変わるそう。

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○小本地区
左側に見える不自然な柱のようなものが、高さ12mの小本川水門。
ここでは、水門を閉めたことで流れを変えた津波がかえって市街地に流れ込んだという。
防波堤は粉々になり、人々の住む市街地は甚大な被害を受けたが、奥にある小学校は
震災の数年前に新しく建設された、高台に上がる非常階段のおかげで避難児童は無事。

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○田老地区
江戸時代の慶長三陸地震津波で町が消失、明治三陸地震(M8.5/到達最大津波15m)では人口の80%以上が亡くなり、昭和三陸地震(M8.1/同10m)で9割の住戸が流失した「津波の町」、田老町(現在は宮古市の一部)。
「万里の長城」と呼ばれた世界一の「スーパー防潮堤」で町を覆い、災害標識・避難経路・教育面などあらゆる手立てをおこない、国内外から研究者も訪れる「防災の町」として知られた。
それでも、10mの防潮堤を乗り越えた最大16mの津波は、数えられる程度の鉄筋コンクリート建物の枠組みを残して、町を流した。
湾内の防波堤は早い段階で決壊し、乙部地区は瓦礫すら残らないほどの被害だったという。
いま、住民の8割が高台移転に賛成している。

つくづく、正解などどこにもなく
ただやれる限りを備えるしかないことに愕然とする。

それでも、昨日に戻ることはできない。
ここから先には、未来しかないのだから。

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宮古駅に着いてから、空き時間で歩いて行ける市場を訪問。
高級品のいくらの売られ方に唖然としたのだった…

2015/03/10

地球の舳先から vol.355
東北(2015)編 vol.7

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年越しを日本で迎えたのは、何年ぶりだっただろうか。
元旦の混雑を避けて向かったのは、東北随一といわれる鹽竈神社。
ここの鹽竈神社は、全国にある鹽竈神社の「総本社」らしい。フランチャイズなの?

仙台から電車に乗ってすぐの本塩釜駅。雪を踏みしめながら参道へ向かう。
破魔矢らしきものをぶん回して歩く地元の親子連れもいる。

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この階段をのぼっていくのが一興だけれど、車道コースである
迂回道のほうが精神的に楽なので、地元の人はそちらから来るよう。
朝早くだったが、階段の雪の凍結は綺麗に除去されていた。

東京や東南アジアばかりを回っているわたしには、
雪という時点でやたらとテンションが上がるのだが、
この雪見初詣は想像した以上に素晴らしかった。

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美しい庭園にはうっすらと雪が積もり、遠くに水平線が見える。

これまた何年前からこのままなのだろう、と思わせる売店で
甘酒と味噌おでんを購入。こちらのこんにゃくは白くて、三角じゃない。
あと、笹かま。味噌は白味噌で、甘い。全国おでん巡りをしたら楽しそう。
三色団子はお土産に包んでもらって、仙台へ持ち帰った。

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おみくじを引く。

行動は早いほどよく、積極的に出ていくのが得策。
この時期は豊かな人間関係を広めていく時。
そのためにもゆとりと思いやりのある心が欲しいもの。
物質欲にとらわれるとせっかくの開運が遅れる。直感を大事にしましょう。

すべてにスピードをもって当たること。一拍遅れるとせっかくの好機は逃げてしまう。
情に流されぬよう気をつけよ。ことばが不要なほどの豊かな愛情が育つ。良縁にして幸福。

思わず、苦笑する。
日本の伝統的な宗教がやることって、なんでこう牧歌的なんだろう。
(日本国的な定義上は、神社は宗教ではないんだけれども)
おみくじひとつ取ったって、当たる当たらないとか権威がどうこうじゃなくて
どう捉え何を心がけて生きていくのか、人生哲学と人間性を問われてるみたい。

ちなみに、わたしがこういうところで祈るのはだいたい、「世界平和」。
無宗教なわたしは自分のなにかを神に委ねようという気がそもそもないので、
「神頼みするしかほかに可能性がなさそうなこと」なんて
それくらいしか浮かばない。
でも今回は、東北で眠った方たちのことを思った。
いずれにしても、わたしにはどうすることもできなかったこと。

儚い望みでも、祈りつづけるんだろう。
永遠で当たり前にように思えるけど、なんの保証もない奇跡のような今日。
だから「スピード命、とっととやれ」なのか、神様。そうだよね…。

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帰りは別の道から帰ったので、参道の入り口で警備員さんに念のため道を聞いた。
駅までは徒歩5分程度。迷うはずもない。方向の確認をしたかっただけなのだが、
地面の雪に絵を描いて説明をしてくれる。

美しい東北の景色が、自分のなかでまたひとつ増えたことを
いまはただ幸福に思った、新年の明けだった。

2015/03/04

地球の舳先から vol.354
東北(2015)編 vol.6

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「行きたいけれど、行けないところ」というのがある。
「行きたいけれど、行っても仕方なさそうなところ」というのも、ある。

前者は、治安や情勢、政治的な問題でいま物理的に入れない、ないしは
そこへ入るための責任や覚悟や知識やスキルが、自分を上回っている場所。
わたしにとっては、今のコーカサスや南イラク、リビアやスーダンがそれに当たる。
(わたしは、どこへでも飛ぶ軽率なやつだと思われているが、違うのだ)

後者は、単独で足を運んだとしても、専門家や現地の人のガイドが無ければ
行ったとしても結局、その地を堪能満喫するに足らないと思われる場所だ。
この筆頭株が、わたしにとっての「岩手県西和賀町」だった。

まずは、『東北食べる通信』のこの特集をちらりと見てほしい。※クリックで拡大
(同誌とわたしのつながりについては、過去の記事をどうぞ)

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この、壮観としか言えない美しい写真の数々に、わたしは完全に心を奪われた。
「絶対にここへ行く」と発作的に思ったものの、その写真たちは、雪や山の歩き方を
完全に心得た人のみが立ち入りこの目で見られる景色であることを語っていた。
しかし一度焼き付いた写真の景色は、いつもわたしの頭のどこかに居ては
「次はどこへ行こうか」と考えるたびに、激しく主張してくる存在だった。
…そして、あまりに悶絶するので、もう行くことにした。

なんと、食べる通信で地元と読者をつないだ瀬川さんが案内してくれるといい
しかも!あの写真の数々を撮ったという瀬川さんのお父さんにも会えることに。
勇んで「ほっとゆだ」駅に到着したわたしは、外を見てまず面食らう。

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(クリックで拡大、してももはやこれらがどういう事なのかよくわからない)

ブルドーザーだかショベルカーだか、とにかく黄色い重機が道路を走っている。
車は、走るそばからの豪雪を集め、ナンバープレートすら雪で隠れている。
家の高さくらい雪が積もっている。というか、雪の中に家がある?地面はどこだ。
家の屋根の形が、皆おかしい。一直線だ。ハの字じゃなくて、/こんな形。
そして、駅の売店には、なぜかとてつもなく長い大根が売っている。
なんだか変な王国に来た!というのが、第一印象だった。

「いや~今日はなんだか、暖かくて」となぜか残念そうに言う瀬川さん。(氷点下です)
「雪の上を歩く」とは聞いていたが、次にわたしが目にしたのはスキー板。
スキーと言えば、小学校の時に両腕を折ってから雪に乗っていない。
○十年ぶりにスキー板とストックでへっぴり腰の散策が始まった。
ちなみにこれはクロスカントリースキーで、つま先部分のみを固定するので
歩きやすいらしい…? 確かに、長靴で雪の中を歩くよりはいいのかもしれない…
が、素人のわたしは明日の全身筋肉痛を覚悟した。

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履いているのはクロカンだが、整備されたクロカンのコースがそこにあるわけもなく…
道なき道を、瀬川さんが前日にロケハンしてくれていたという…!
雪に覆われた湖(わたしにとっては雪山)をどんどん入っていく地元民3人。
ズサーっとコケるわたし。を起こす皆さん…
雪は鮮度が高いからなのか積もりたてでフワフワしてコケても痛くないのだけれど
コケるとひとりじゃ起き上がれないのが困る。唯一うまいのはターンだ。どやっ。

そして、この雪に閉ざされた世界で逞しく生きている命を発見。
…ではなく、瀬川さんお父さんに教えてもらって気づく。さすが西和賀のプロ。
わたしは自分の足元でいっぱいっぱいである。

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帰った山小屋のお家がまたなんとも素敵だった。
人力で丸太で建てたのではと思うようなお菓子の家みたいな山小屋には
ひと冬分割られた薪が積み上がり、室内にはやかんをのせたストーブ。
お母さんが、魔法瓶の水筒からお茶を注いでくれる。
何から何まで、おとぎの国みたい。

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ちなみにお父さんの瀬川強さんはプロのカメラマン・プロのガイドで
Facebookにはものすごい写真がたくさん上がっているので必見。
しかし、本当にお気に入りの写真はFacebookにはアップしないとのこと。
現地でその秘蔵お宝写真を見せてもらったのは、言うまでもない。

発想の貧困なわたしは、雪国に住まう一家と言えば
無口で怖い頑固親父と、おしんのような物静かで忍耐強い妻…
のような家庭を想像していたのだが、まったくもって逆の
西和賀愛に溢れるのびのびとあたたかい瀬川さん一家のファンにもなり
再訪を誓ってこの地をあとにしたのだった。

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(帰りは駅前で名物の納豆汁であたたまる。)

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(後日、西和賀町にふるさと納税をした。選べるギフトより湯田牛乳ギフトセットを頼んだら、その量にたまげました。ふるさと納税の西和賀町のページはこちらから。)

2015/02/26

地球の舳先から vol.353
東北(2015)編 vol.5

※こちらの記事には、2014年12月末及び震災当時の
 東松島市の写真を掲載しております。

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しとしとと雨が降っていた。
東北の年末はそれなりに寒かったが、傘なしで歩けるギリギリの雨だった。
松島海岸から乗った、復旧工事中の仙石線代行バスをひとつ前の東名で降り
野蒜の駅までひと駅分だけ、歩いてみることにした。

川が近い。雨だったので平時がどうなっているのかわからないが
随分とせり出した水量は、このあたりも地盤沈下の影響があるのかもしれない。
右手に見える海岸線までのしばらくの距離にはもうほとんど何もなく
盛土の工事と、その土を運ぶためのジェットコースターのレールのような
見たことのない大きさの物体がそびえ立っていた。

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野蒜の駅はすっかり廃駅の様相で、折れ曲がった柱もそのままだ。
駅にあるファミリーマートの前が代行バスの乗り場にもなっており
米国のトモダチ作戦の模様が屋内の広場に展示されてある。
野蒜の駅からまっすぐ海岸線までは早歩きで5分ほど。
防潮堤なるものが何なのか、見てきたいと思っていた。

「防潮堤問題」
最初、私には何が問題なのかがわからなかった。
テトラポットが並ぶような海岸線は普通に見たこともあるし、
何より津波であれだけの命を失った現地の海町の人たちこそが
あれだけ強固に声をあげて反対することに、意外ささえ覚えていた。

それが、気仙沼に出入りするようになってからは、
「海と共に生きてきた街。それを遮断し、海イコール怖いもの、
とするのはどうかと思う」という海町だからこその深い意見に遭遇する。
そう、そこで生きている人は、自然の怖さなどすでによく知っている。
だからこそ、自然と人間を対立構造にし「戦う」なんて考え方そのものが
お門違いだ、と感じるのだろう。
女川のように、防潮堤を作らないことを選択した地もある。

私のような、海のない県で育った素人目にも、疑問点は沢山ある。
10mの防潮堤を作ったとして、それ以上の津波が来たらどうなるのか。
○年に1度、みたいな想定でその防潮堤の高さを決めているらしいが
正に○年に1度、というミクロな可能性の津波が来たのが今回の震災ではなかったのか。

しかし防潮堤があることによって、食い止められる被害も多分にあるのだろう。
仮定と想定は、常に「でも」「しかし」「ただし」の連続だ。
私はこの問題については、何も言えない。
いや、何かを言うには、勉強不足だし知識不足すぎる。

が。この目で見た「防潮堤」なるものは、恐ろしすぎて
「これは、なんだかやってはいけないことをしようとしている」
と思わざるを得なかった。

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野蒜海岸へ行ってからもう2か月ほどが経つが、今でも思い出す。
水平線の代わりの、黒いビニールシート。
その上に立ってもなお、海の方に土が盛られ埋め固められている。
そして、建物がほとんどなくなった海岸に響く
「ドーン、ドーン」という間断のない思い重低音が
波が防潮堤に当たって立てる音なのだと、随分してから気付いて驚愕した。

日本海沖の演歌に出てきそうな「ザッパーン」的な波とは違う、
地下に押し込められたマグマが立てるようなその音は大地すら揺るがしそうで、
おどろおどろしいとしか表現できない恐怖を感じた。
加えて、そのあまりの重い音に、抗い難い力の強さを感じ
「こんなものでこの海が抑え込めるわけがない」と思うのは易かった。

海は、人類の敵になったのだろうか。

わからないけれど、戦ったら多分負けると思う。
そう思うには余りある、五感の体験だった。

-野蒜駅にて展示されていた、震災直後の様子。(クリックで拡大)
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