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カトマンズについては、チベットと同じだけ滞在するにも関わらず
チベット&ブータンの存在感が大きすぎて、若干前調べ不足。
その割にガイドも何もいないので、移動から食事から宿泊から自由行動まで
すべてを自分で決めなければならないという矛盾。
結果、「なぜカトマンズまで来て」と自問しながら動物園に行き、
サイの醜さを目の当たりにしたり、ゾウに揺られたりしながらすごすことになる。
ほかにも、神様として祀られている生き神の少女・クマリを見たり(「しかるべきお布施」が
必要なのだがちょうど団体観光客と居合わせて、窓から顔を出す生き神様を見ることができた)、
ハトだらけで気分が悪くなるお寺を見たりして、それなりにウキウキと歩く。
(左:インドで乗り損ねたゾウにようやく乗れた。 右:これが全部ハトである…)
パタンという、カトマンズ近郊の美しい町へも寄った。
旧王宮ダルバール広場は世界遺産になっており、区画に立ち入るのに入場料が要る。
公道に面した屋外なのに入場料を取るというのがいかにも気に食わないが、郷に入っては…だ。
それでも、普通は入れない改修中の工事現場に入れてもらったり、
歩き疲れたというよりは移動疲れで入ったカフェの2階からの絶景を堪能しては
一挙に違う文化圏に来たのだということを認識させられる。
緩んでいたのは気ばかりではない、この日は高級ネパール料理屋に往復タクシーで行き
美味しいコース料理とお酒を楽しむというお財布事情を考えない暴挙に出たために
残り1泊2日、いや1泊と1日半を残して千円ちょっとしか現金がなくなった。
スコールの襲った雨季のカトマンズを、パンツのすそを持ち上げながら
買い出したビール瓶を手に「あ~お金がないよ~」とぼやきながら泥水のなかを歩く。
しかし、お金がないからといってじっとしていることなど絶対にできない。
翌朝になると、「モンキー・テンプルへ行く」と頑として決断。
モンキー・テンプルは正式名称ではない上、敬虔でないわたしはその寺院の名称を忘れたのだが、とにかく、カトマンズの中心地から5キロほど離れたところにある有名な寺院である。
人を襲って物盗りをすることに味をしめた猿が大量に居るため、このような別名を持っている。
ネパールの寺院に共通した「目」がついた塔は、なんだかアニメキャラのようにしか思えない。
もう今日はろくなものが食べられないかも知れぬ、と、ホテルのレストランの食事を流し込み
「5キロとか、余裕じゃん」と、歩き出したのだった。
果たして、5キロ先には確かにソレがあった。
その、寺院が山頂にある、超・急な階段の一番下の段が。
…マジかよ…。
(左:麓。ここはまだ階段は緩やか。 右:小猿のらんらんとした目がイラつく。)
が、5キロも歩いてここで引き返してまた5キロ歩くなんてそれはそれでいろいろ無理である。
そもそも、なんだかあの「山の上」がモンキー・テンプルなのではないかと
歩いている途中から懸念はあったのだ。宗教に修行はつきものらしい。無信教なのに…。
結果、山を登り、何百段あったのかわからない階段をのぼり、
背中に子どもをのっけた猿にロックオンされて慌てて目をそらして逃げ、
あやしいバングラディシュ人にせがまれて一緒に記念撮影をし、ようやく山頂へ。
結構曇ってはいたが、疲れを癒すだけの市街地の全景。
(左:カトマンズ市街地。 右:山頂寺院のマニ車。回しながら旅の安全を祈る。)
再び下山すると、麓にはバイクタクシーが控えている。
くそぅ足元見やがって、と思いながら涼しい顔をして通り過ぎ、また歩いて戻る。
昼食は「エベレスト・モモ・センター」という怪しげな日本語の看板がかかった店。
モモとは、ネパールやチベットなどの名物料理で水餃子のようなもの。
ぺらっぺらのアルミの皿、パセリか何かが浮かんだ濃厚なスープにモモが10個で、30~40円。
モモは昼食には十分な量で、しかも美味しい。当たり前に小汚い店のジャーのお水は遠慮する。
この国になら、今ある貯金だけで20年くらい暮らせる、という計算がふと頭に浮かんで、消す。
この日の午後は大雨のなか、山間のナガルコットという村へ向かう。
悪天候で、期待したような景色はそこにはなかったものの、山あいの村独特の澄んだ空気と
静かでありながらぱりっとした空間がうつくしく、オフシーズンも手伝ってひと気のない
木のコテージには、自然に生きる動植物がたてる音しかしない静寂さが横たわる。
わたしは基本的には都会が好きだけれども、そういえば風の音というのを久しぶりに聴いた。
十分肌寒かったが、乾季や厳冬にここから見るヒマラヤは、きっと畏しいほど美しいのだろう。
一瞬だけ止んだ雨に、高地ゆえ掴めそうなほど低い雲霧が夕焼けに染まっていく光景と
その後の暗闇は、なんだかチベットよりも「外国に来たぞ」という気がしたのだった。
ちなみに、お金がないので夕食はレストランの価格表とにらめっこをし、
翌日カトマンズ空港へ着く頃にはほんとうになけなしの小銭しかなくなっていた。
逆に言えば、両替した現金を極限までうまく使いきったともいえる。
わたしは海外へ行くとその国の小銭をいろいろ集めてよろこぶ趣味があるのだが
そんな趣味を忘れるほど、ほんとうにお金がなかったことをよく覚えている。
勇敢なバックパッカーには、なれそうもない。
中国が、民主化運動で投獄している劉氏のノーベル賞授賞式に
出席しないようにと、西側諸国に圧力をかけているらしい。
タイタニック号が沈没しかけたとき、乗客を船外に逃がさねばならぬ船長は
ドイツ人には「法律で決まっているので逃げてください」と言い
日本人には「みんなが逃げているので逃げてください」と言い
アメリカ人には「生き残ったらヒーローになれるぞ!」と言い
フランス人には「絶対に逃げないように」と言って説得する、というたとえ話を知らないのだろうか。
ついこの間、中国に戦闘機だかなんだかを売りつけて大もうけしたフランスは
さっそくはりきって授賞式への“参加”を表明したという。
…言わんこっちゃない。
…さすがわが心の故郷。
意外だけど、フランス人は、政治の話が大好き。3人集まれば政治の話が始まるくらい。
加えて人権大好きなので、このテの話は格好のネタなのでしょう。
話をもどして、旅程は、チベット・ラサを出てカトマンズへ。
チベットを中国の一部と定義するならば、の話だが
国際空港から出ている国際線の飛行機はネパールのカトマンズ行きだけである。
既に、羽田~北京、北京~成都、成都~ラサ、ラサ~カトマンズ、と4本目のフライト。
なんと成都初ラサ行きは朝の時間帯は30分刻みにフライトが出ていたのとは大違いで
がらんどうの国際線ターミナルでお茶の1本も買えずにすごす。
もっとも、パスポートを取り上げられていろんな部屋をたらい回しにされたり、
ようやく搭乗ゲートに腰を落ち着けてからも計3回もなんやかんやと呼び戻されたので
退屈をしている暇はなかったのだが。
カトマンズといえば、タイのバンコクやインドのコルカタと並ぶバックパッカーの聖地。
いつか通りたいと思っていたので、経由地でありながら結構わくわくしていた。
空港を出ると汚い空気に、もわっとした湿気。
しつっこい客引きにキレ気味に「No」と(まっすぐ相手の目を見てゆっくりはっきり、がポイント)
言うと、「守ってくれるヒト(現地ガイドとか)がいない旅」の感覚がふつふつと取り戻ってくる。
ここでは、ぼやぼやしてたらいけないな…と自省しつつぼろぼろのタクシーに乗り込む。
ものすごい渋滞、クラクション、粉塵。
ホテルにチェックインすると、敵の有無を確かめる前にすぐに蚊取り線香を焚く。
今夜までの課題はとりあえず、飲み水と夜のビールの確保だ。
無数に看板がごった返すメインストリートを歩く。
カトマンズの旅の前半は、信じられないくらい移動にすべてタクシーを使っていた。
タクシー代なんて微々たるものなのである…が、これが後々響いてくることになる。
とにかく初日はお金もあれば体力もある、といった感じで
チベット料理屋で、ラサで食べそこねたチョウメンというきしめんのようなチベット料理を食べる。
まだチベットの余韻が残っている、というか、余韻を探して郊外の町へ出向いた。
かつてのチベット難民キャンプがあった場所へ車を飛ばす。
中国当局によるチベット民の虐殺と民族浄化の難を流れてきた人々のもので
いまとなってはがらんどう、である。
うろうろしていると、地元の人が「チベタン・キャンプ?」と言い手振りで案内してくれた。
キャンプの跡地の向かいには、チベット難民の支援施設があり、
ここではいまだにチベットの人々が土産物を売ったり、織物をつくったりしている。
女性たちが、自分の何倍もある織機のまえで、糸をかけてカタンカタンと動かし、精緻な模様の織物が、ほんとうにまるいひとつの毛糸の糸から作られていく光景は一見に値する。
写真を撮ってもよいか、と訊くと、照れながらもどうぞどうぞ、と言ってくれる。
ここで高級絨毯を買うほどの甲斐性がないため、募金箱に少々の寄付をする。
上の階や隣の棟は土産物屋になっているのだが、どうも商売っ気がないというか。
お金持ちそうな欧州人が絨毯の交渉をしていたが、チベット文化圏をよく知る敬虔な欧州人は
「あなたたちはダライラマの息子なのね」と涙ぐみながら寄付をするのだそうだ。
絨毯展示場の中央には、質素な額に飾られたダライラマ14世の肖像画があった。
チベットへ行く際、ダライラマのグッズやチベット国旗は買っても空港で取り上げられるかも、と
アドバイスされていたのだが、そんな不安は必要ないほど、その手の商品は一切なかった。
かつての宮殿ポタラ宮も、夏季別荘のノルブリンカもラサで見てきたのに、
わたしはこのカトマンズの元チベット難民キャンプで初めてダライラマの肖像と出会ったのだった。
土産物屋には、「世界最年少の政治犯」というキャッチコピー付で少年の写真が
飾られる、というよりは手製の無造作なポスターのように壁に貼り付けられていた。
ダライラマほどではないが、超大手指導者のパンチェン・ラマという人物もまた
ダライラマと同じように予言をもとに生まれ変わりが選ばれるのだが、中国側政治思惑により
チベット側が選んだパンチェン・ラマは中国当局によってすみやかに拉致され
中国当局が独自に選んだ人間がパンチェン・ラマの座にすわることになった。
チベットの選んだ、麦わら帽子でもかぶっていそうないたいけな少年であるところのパンチェン・ラマは、一方的に「世界最年少の政治犯」という肩書きを背負ったまま、今も行方不明となっている。
(左:チベット国旗。 右:世界最年少の政治犯といわれた男の子。)
これまた、この旅で初めてお目にかかったチベット国旗を広げながら、
なるほどなぁ、とぶつぶつひとり言を言う。
つまりチベットとは国ではなく思想なのだ。
ここカトマンズでもそれは生きていて、イェルサレムを争うばかみたいな宗教戦争を考えると
チベットという“概念”は、別に地理的にチベット自治区の位置にある必要はないのかもしれない。
ユダヤ教徒がアメリカで財をなした例もあるし、
インドのダラムサラにチベット亡命政府を置き、ノーベル平和賞を受け健康なダライラマが
世界じゅうをその足で巡っているというのは端的な事実。
しかし無論これも、“聖地”という概念が、生まれたときから無宗教なわたしには
理解することはできない次元の世界だということも、解っているけれど。
カトマンズで、チベットよりもチベットな場所に出会い、どんよりしたものがすこし軽く
なったのも、事実である。
~金欠真っ青な次回につづく