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2010/11/09

地球の舳先から vol.195
チベット編 vol.6

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早朝。夜が明ける前にラサの郊外、ヤムドク湖へと出発した。
何というわけではない。ただ、ラサの市内を離れてみたかった。

標高は4500m近い高地にある、絶景の湖。
まだ真っ暗なうちに出発した車は、満点の星空のなかを走っていく。
途中ラサ市内を出る際、厳とした検問があった。通行許可証と、パスポート。
検問のたびに車はスピードをゼロに戻し、ガイドが車を降りていく。
人が1人入ったらいっぱいの詰め所には、ちいさな豆電球がひとつ。
なんとなく目を合わせるのが疚しくて、ごろんと車の後部座席に体を横たえる。

それでも、検問に5分くらいかかりながら、車はひたすら山道を登っていく。
ここで見た星空が、この旅でいちばんの絶景だった。
真っ暗に帳がおりた空。なにを照らすでもなく光を与える、まっすぐな星々の光。
眠かったし、旅の疲れも溜まっていたけれど、目を閉じてしまうにはあまりに勿体無い光景。

チベットという地で力を抜けたのは、すべての検問を終えてあとは山道を延々
のぼっていくだけの、この朝だけだったような気がする。
政治も、宗教も、関係なく、ただ大地を星の光、ひいては太陽や月の光だけが照らしていた。
「流れ星」なんて特別な命名をすることがはばかられるほどに、星が流れていた。
やがて遠くから、空の色が刻一刻と変わり始め、朝の訪れを伝えてくる…

しかし、胃の奥からせり上がって来る別の恐怖は、やっぱりここにもあった。
夜空が朝日にかわって、目の前の光景がクリアになり始めたときの唖然。
急カーブになぐさめ程度の軟弱なガードレールがある以外切り崩しの山道。
何周も下の道路まで見える上、ところどころがけ崩れなどもあって、ぞっとしない。
「転落死 絶対来るな 対向車」と一句つぶやきながら、目を閉じて寝ることにする。
世界を旅するようになってから、命の危険を感じるのはいつも、犯罪でも人でもなく、道路だ。

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(写真向かって左奥に見える雪山がヒマラヤ)

たどり着いたヤムドク湖はゆったりと鎮座し、風にもなびかない水面をたたえていた。
ホッカイロを振っても勝てない冷風に唇を噛みながらすこしずつ、呼吸をととのえる。
やがて訪れた本格的な朝、湖に反射した朝日があたりを包むころ、わたしは圧倒された。
湖を囲む細い草は、高地の陽を受けて金色に光り、雲の合間からは遠くヒマラヤ山脈がのぞく。
文字通り、空から地球をながめているようだった。

気付けば車の窓ガラスは雪の結晶をつくり、酸素のうすくなった空気は気分を朦朧とさせる。
富士山よりも全然高い場所で、さすがにキンキンと頭が痛み始めた。
ポタラ宮で貧血ぎみになった以外は、毎晩きちんと眠れ、健康的に過ごせたわたしが
はじめて受ける高山病の洗礼だった。車には、コンビニで買える酸素ボンベが積んである。

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「いたい。さむい。つらい。」とぶつぶつ言いながらクルマに避難。
やる気を失いがちなガイド(というか、幼いだけ。中学生といわれても驚かない)
はそれでも、前日の晩にいきなり「ヤムドク湖に行きたい。金はある」と言った希望を
かなえてくれたし(若干ニュアンス違うが、“中国人”の流儀で交渉をしたつもりだ)、
早朝からの添乗でも居眠りひとつせずきっちりやってくれた。
そして渡した多めのチップも(チベットは基本的にチップ不要)、
「いや、そういうのは、本当に」と3回固辞するくらい、実はそれなりな人物ではあったのだ。

最終日の空港で、「一緒に写真が撮りたいです」と無邪気なにこにこ顔で言い、
わたしのカメラ(どうせイチキュッパだよ)より明らかに高級そうなカメラで写真撮影をし、
「日本人、あまり来ないです…」と、非常に残念そうに言った彼。
カトマンズへ抜けるチベット・ラサのゴンカル航空で、申し訳程度にデスクがあるくらいの
がらんどうな国際線カウンターで「Thank you」の応酬合戦をして、手を振って別れたのだった。

これでいいのだ。旅なんて。
人(=個人的交流)と、国(=政治的云々)と、自分の思い(=折り合い)とが、
まるで交差しないから、こそ、そのことに学ぶのである。
そして、それこそがわたしを惹きつけてやまない、旅というものなのだ。

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ありがとう、チベット。
中国当局のことはいまも昔もゆるせないし絶対にゆるしもしないけれど、
それなりに、来た甲斐はありました。
すこしの感傷に浸りながら、でもすがすがしい気分もあって、
列のいちばん先頭で、握り締めたパスポートを入管で手渡す。
資本主義国家ならともかく、わたしのパスポートは汚れてはいるが
存分に社会主義・共産主義国家のスタンプで汚れているので、中国に行く分には不便は無い。

…と思っていたら。

ものの3秒で取り上げられたパスポートが、人から人へとたらい回しにされ、
またしても取調べをくらった事をここにきちんと明記しておく。
敵はアメリカだけだと思っていたので、心外すぎて涙目。
「おまえら共産圏だろーッ!!!!仲間だろーッ!!!!」という叫びは、心の内にとどめておいたが。

こうして、短いチベット旅行はとりあえず、幕を下ろした。

チベット編・了。
ネパールのチベット難民キャンプ訪問その他につづく。

2010/11/02

地球の舳先から vol.194
チベット編 vol.5

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チベットで雇っておいたガイドが、「スキあらば手を抜きたい」タイプで助かった。
自分の足で歩くことがほとんどできない北朝鮮の旅のようになるかと思っていたからだ。
早々ににこにことガイドをリリースし、ラサの街中を歩く。
ガイドブックに載っている旧市街の観光スポットは、ほぼ回ってしまっていた。
寺や城、世界遺産などにあまり時間を割かないことも一因である。

ぼろっちいカフェに入る。汚い。トタンの屋根は、カラスがその上を歩くたびにギシギシいう。
むわっとした熱気と騒音に、「お、当たり」と直感する。
地元の人々が集まるカフェを見つけられたらしい。
木のささくれが足にささりそうなぼろっちいベンチと、前の客に汚されたテーブル。
1杯10円ほどのバター茶は、2杯目以降はおばちゃんを呼んで席で現金と交換する。
しかし、相当積極的におかわりアピールをしないと、なかなか振り向いてもらえない。

父親に連れられてきたらしい複数組のファミリー。しかし母親の姿は見当たらない。
お茶を飲みに来ているというよりは、談笑をしに来ているのだが…
机にバラまかれた、チャイ代にしては異常に多い小額紙幣。
真剣なまなざしは手の中のトランプに向けられている。
賭けトランプか…。
母親の不在も頷ける。日本でいうところの競馬かパチンコあたりの感覚だろうか。

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こんなところに外国人がいるのが珍しいのか、はにかみながら写真撮影をせがまれる。
外国に行くとしょっちゅう遭遇するこのシチュエーションには、毎回驚かされる。
自分が写った写真をデジカメのモニターで確認するだけで、満足げなのだ。
毎回、次の旅の際はチェキを持っていったら超絶人気者になれると思うがまだ実現していない。
言葉は通じないが、じっと外国人を見つめる子ども、カメラに目を寄せて子どもの背中を押す親、カメラを取り上げて小首を傾げるわたし、俄然おすまし顔になる子ども、モニターを見せるわたし…
といういつもの一連の動作を繰り出すと、確実に会話している、とおもう。

というか、英語もスペイン語(←キューバに住んでいたのですこしわかる)も通じない国へ行くと
もはや、複雑な交渉や取材など以外に、言語なんてほんとうに必要なのだろうかと思ってしまう。
中途半端にわかる英語圏で「コトバ」で会話しようとしているときよりも、
ボディランゲージと情況のコンテクストでしか会話できない諸外国のほうが
よほど、ラクにコミュニケーションが取れている気がしてならない。

汚い机に地図を広げ、どこへ行こうかと思案していると、興味深いものが目に入った。
「シデ・タツァン(廃墟)」。説明ゼロ。地○の歩き方は、肝心な事に限って教えてくれない。
すぐ近くだったので、なにはなくとも行ってみることにした。
すこし歩き、迷彩服にライフルを提げた軍人の立つ角を曲がる。
迷いも紛うこともなく、たしかに「廃墟」がそこにあった。

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めちゃくちゃに破壊された、おそらく僧院らしいものが、そのまま残されている。
いや、正確には「そのまま」ではない。経典を書いたカラフルな旗が無数に飾られていた。
廃墟を囲むように、コの字型にならんだ古い家々。決して裕福とはいえないものを来た人々が
まるでなにかの共同住居のように、入り乱れて生活している庶民の暮らしがあった。
ちょっとしたスラムのよう、といえば、そう見えなくも無い。
旧ユーゴスラビアで、NATOに爆破された建物が片付けられもせずそのまま残っていた光景を思い出す。
それでも、旧ユーゴと違ったのは、まるでその僧院を守るように囲んだ住居とそこに住む人たちが
息づいていたこと。タイムスリップしたような、場の雰囲気の違いに圧倒される。 

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空に向けられたお手製の銀板には、ヤカンが吊るされていた。
決して暑くはないが、標高が高く太陽光の強いここでは、これでお湯が沸くのだろう。
もしかしたらここが、わたしが見たいちばんチベットらしい光景だったかもしれない。
静かで、敬虔になにかを守りながら、それでも部分的に受け入れ、とにかくも生きている――
その光景の真ん中にあるものが“廃墟”だったことはかなしいことなのだろうが
少なくともここには、迷彩服の兵士の姿も、赤地に黄文字の中国当局のスローガン看板も無かった。その放置ぶりは、不気味なほどに。

日本に帰ってから、このシデ・タツァンのことを調べてみた。
やはり、中国の文化大革命のときに破壊された僧院のようだ。
しかし文革といえばかの悪政・毛沢東時代、1960年代後半から70年代前半の出来事だから、
もう半世紀もあの廃墟は“廃墟として”存在していることになる。
壊しもせず、残しもせず。危うい停戦線が、ここにもあった。

つづく

2010/10/26

地球の舳先から vol.193
チベット編 vol.4

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2010年8月10日。
この日を射程圏内におさめて当初旅行の予定を組んでいたのはほかでもない、
チベット最大の祭りであり、広州と化したチベットが宗教色を普段より色濃く見せる機会だという
年に1度の「ショトゥン祭り」があるからだった。

しかし、出発数日前になるまで、動乱続くチベットの状況は変わり続けた。
再三のフライト変更、宿泊地変更、鉄道の発券禁止までが重なった結果、
1番楽しみにしていた、世界最高標高を通るチベット鉄道「青蔵鉄道」に乗ることも、
2番目に楽しみにしていたこのショトゥン祭りに日程を重ねることも出来なくなってしまった。

しかし良いのか悪いのか、このふたつの偶然はわたしにとっては至極正しい答えだった。

調べてみれば青蔵鉄道は、中国国民がチベットに流入する物理的足掛かりとなったものである。
国家をあげて進められたこの青蔵鉄道プロジェクトは、中国当局による、チベット人の人口比率を
圧倒的マイノリティにする民族浄化計画の一環であるという見方は決して穿ったものではない。

そしてショトゥン祭りについては…当日の現場は見ていないのでなんともいえない。
だから、推測である、と前置きをしてから書くが、見なくても想像がついた気がしている。
わたしがチベットを去ったのがまさにショトゥン祭りの当日。
祭りは夜明けとともに年に一度開帳されるタンカ絵図のお披露目となるため、
一番にぎわう前夜祭にはその地にいたわけだが、あの妙な空洞感は忘れられない。
あの晩、ラサの市内には妙な圧迫感と、“怨念”のようなものが覆っていた気がする。

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チベットのラサへ入ってまず感じたのは、僧侶がいないことへの違和感だった。
いや、いるにはいるのだろうが、あまり表に出てこないのである。
もちろん、中国当局の取締りがあるし、僧侶たちはボイコットの意味もこめて
宗教的な記念日にはあえて祭りをしない、という前情報もあった。
外国人(および中国人)観光客対策のため、中国の役人が僧侶の服を着て
祭りを祝う光景を自作自演したことも、北京五輪時の告発により日の目に晒されている。

だから、それはもちろん想定内の範囲だったはずなのだが。
ラサというのは、初めて訪れても、つまりラサが宗教的聖地だった頃との比較対象がなくとも、
“僧侶が居ないこと”が、なにか圧倒的に不穏な欠如として迫ってくる場所なのである。
商店街があり、観光名所としての寺がある。しかしそこに宗教の香りがしないことが、
不気味すぎる静寂を生み、この地がどんなに宗教的な場所であるかを訴えてくる。

わたしは神も宗教も信じていない。
ただ、世界を旅して歩いていると、その存在を認めざるを得ないことが、たまにある。
それはインドにおけるキリスト教だったり、イエメンにおけるイスラム教だったりして、
もちろん人々や、街の雰囲気のようなものが作り出しているという面もあるのだが
とにかく、霊感とかじゃなく「あ、あるんだわ、宗教ってやつは」と妙に納得することがある。

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チベットに着いてまず連れて行かれた、ガイド同伴でないと立ち入り禁止のサラ寺もそうだった。
この寺は中国政府によって修復不可能なまでに破壊され、数え切れない犠牲者を出した地。
半世紀前なら賑わっていたであろうショトゥン祭りを翌日にひかえても、
赤とオレンジの袈裟の僧侶は暗すぎる豆電球を点し、無言で日常の業務を続けていた。
師匠や家族、家である寺を焼かれた記憶は、歴史として刻まれるには近すぎる過去。
生きるための方法と、信仰を守るための内面のあいだで「とりあえず生をつないでいる」
のであろう彼らと、現世は仮の姿に過ぎず、輪廻転生してまた形を変えてよみがえる、
今だけの一瞬のカタチなのだという仏教の教えが素人目にもほどなく繋がる。
それは仏教に対する、なんだか悲しい理解の仕方だった。

そして。

もうチベットなど、世界中のどこにも存在していないのかもしれない。
それでも、いや、だからこそ、問題はなにひとつ片付いてはいない――
わたしのそんな初見の印象は、別の意味ですぐに吹っ飛んでしまった。
チベットは、ここに“存在していた”。
ポタラ宮も寺院も中国人のための観光スポットになり、僧侶の姿も見えない。
でも、目には見えないチベットという地は、ここに確かに“在った”のだ。

しかしそれは、一抹の希望と呼べるような類のものではない。
決して埋まらない圧倒的な諦めと、相互の利害がぎりぎり均衡した地点で
時間を止めておかざるを得ないような、どうしようもない焦燥感。

ここは中国でも広州でもない。わたしは確かに、チベットに来ていた。
地図上の国境ラインの話ではなく、中国が、併合できなかったチベットに。

つづく

2010/10/19

地球の舳先から vol.192
チベット編 vol.3

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閑話休題。

ブラピこと、ブラッド・ピット主演の映画「Seven Years in Tibet」のDVDを見た。
チベットに行ったときから、帰国したら見ようと思って取り寄せておいたものである。

“身勝手から家族を失った冒険家が戦禍のなかチベットに行き着き
 チベットでの生活を経て大事なものを取り戻す”的なストーリー説明から、
桃源郷チベット大好き西洋人のつくったブラピのための作品のような
もうすこしヤワな映画を想像していたのだが
かなり歴史的かつ社会的メッセージが強い映画で驚いた。

ブラピ演じるオーストリア出身の世界的冒険家ハインリヒ・ハラーがヒマラヤ挑戦の途中で
英国とドイツの戦争により捕虜として収容所送りとなり、脱出してチベットへと向かう。
そこでチベットの人々の欲のない生き方や、まだ幼いダライ・ラマ14世との親交に触れつつ
チベット政府内での裏切りや中国の侵攻をリアルに描いた作品。

まだ幼いころのダライ・ラマ14世が、ブラピと戯れるシーンがたくさんあるのだが
ダライ・ラマ14世の自伝(ユーモアがあって大変おもしろい。全然カタくなかった)を
読んでいたわたしとしては、茶目っ気があって好奇心旺盛なダライ・ラマの人となりが
自伝の内容ととてもリンクして、すんなり入ってきた。

ダライ・ラマに映画館を作って欲しいと頼まれて建設監督の座に就くシーンで
建設中に土から出てきたミミズに、殺生を禁ずる仏教の教えのためおろおろする人々に
「これは前世であなたの母親だったかも」と言われて返す言葉に困るブラピ。
随所にチベット仏教とチベット人の生きる信条が散りばめられていて、とても精緻。

なごやかなチベットの描写が比較的長く続いて、
今はなきチベットの姿として一番の見所なのだが、中国の侵攻シーンでは
“自分の国も、弱いものを攻撃する狭量な中国と同じ事をしていた”
と戦争を普通のこととして捉えていた自分に対する回想や、
砂の曼荼羅を踏みつけて宮殿にあがり、「こいつより下の席には座らん」と言う
中国の役人に「わたしが下りよう」とにこやかに言うダライ・ラマの幼い姿など
ちくり、ちくりと中国共産党批判がつづく。破壊シーンも凄まじい。

    中国の侵攻で100万人のチベットの民が死に
    6000の僧院が破壊された
    1959年 ダライ・ラマはインドに亡命
    今も中国との和平に努力している
    1989年にはノーベル平和賞を受賞
    ハインリヒ・ハラーとの友情は今も続いている

このエンドロールで、実話をもとにしていたと初めて知ったわたし。。
気になって調べてみると、この映画に猛反発した中国により(当然だわな)
撮影はカナダとアルゼンチン、モンゴルで行われたのだという。
さらにすごいのは、主演助演級のキャスト4人以外は、
全員チベット人の素人を使って撮影したということ。
何百人もの僧侶を南米に連れて行ったというのだから、すごい。
合成なのだろうがポタラ宮の風景と馴染んでチベットの空気感を蘇らせている。
(変わってしまった今のチベットより外国で撮る方が当時らしい絵ができるのかもしれない)

ラストシーン近く、ブラピがチベットを離れる際、
「大切な人が旅立つときにはお茶を入れるもんだ」と言うかつての戦友が
バター茶は苦手だからもういいよ、と言うブラピに「しきたりだ」と机に茶器をのこし、
「そして、旅人が戻るまでそのまま置いておく」という美しいシーンも見もの。

チベットの歴史をよく知らなくても、ヒューマンドラマとしても、とても沁みる作品です。

2010/10/12

地球の舳先から vol.191
チベット編 vol.2

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(チベット仏教の聖地、ラサ市内にある「ジョカン」 – 大昭寺。 )

なんど聞いても、慣れない音というか、空気にけして馴染まない音、というものがある。
背中や腰に下げた銃器が、兵士が歩いたときなどにたてる金属音。

チベットのメインストリートはすっかり広州の商店街のようだったが、
数十メートルおきに、数人の兵士が武器をさげてテントを張っていた。

ラサ市内のみどころは、コンパクトにまとまっている。
(限られた場所が“観光地”として提供されている、というほうが正しいかもしれない)
かつてはダライ・ラマの宮殿であり、チベット仏教の聖地であったポタラ宮。
(混乱を避けて現ダライ・ラマはインドに亡命。
 現在はインドのダラムサラという地にチベット亡命政府が置かれている。)
歴代ダライ・ラマの夏の別荘であった、広大なノルブリンカ宮殿。
ラサの中心・ジョカン寺(大昭寺)と、それを囲む巡礼ルート「バルコル」。
夕方にもなればバルコルには教徒たちが集まり、夜が更けきるまで長い時間
マニ車を片手に時計回りに何周も歩いて、祈りを捧げる。
その人々に混じって一定間隔で、銃器を提げた兵士たちが監視と牽制のためにあとに続く。

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(左・メインストリートの一定間隔で立てられたテント/右・巡礼の人々に混じる兵士)

大型のライフルを背中ではなく胸側に構え、
巡礼の人々に混じる迷彩服は、やはり穏やかならない。
息が詰まってしかたないのは、なにも標高3600mだけのせいではあるまい。

しかし中国“国内”の観光促進キャンペーンもあいまって、
中国人観光客が大挙し、チベット側も中国人向けの観光スポットを多く用意していた。
それはもちろん、チベットは「中国」であることの継続的なプロモーションを含んでいるわけで
痛々しいほどに、この地はすでに、中国の、中国による、中国のための地だった。

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(左・ジョカンの前で五体倒地をして祈る人々/右・ジョカン前の広場)

中国人に混じって観光のメイン、ポタラ宮へと向かう。
見学者に上限を設けているため、前日に入場予約をし、見学できる時間が指定される。
炎天下の中を急な階段をのぼっていくので、高度順応が不十分な体ではかなり消耗。
世界一標高の高いところにあるトイレなるものを見つつ、列に並びポタラ宮の中へ。
一瞬のひんやりした空気に癒されるも束の間、入口で顔を上げて自らの目を疑った。

 促進民族団結
 弘揚民族文化
        江沢民 1996年7月

これは、写真撮影が禁じられているポタラ宮の入口に大きく掲げられた看板の文字だ。
江沢民といえば、チベット人に対するジェノサイド(集団殺害罪)を行った当時の国家主席。
それを、大声奇声をあげながらワイワイと観光する中国人観光客。
なんとも、おそろしい光景である。
しかし情報統制の引かれる中国の人々は、現在進行形で自分たちの国家がチベットに対し
何をしているか、してきたかなんて、全く知らないのであろうから、仕方ないのかもしれない。
であるからこそ、やっぱり、ぞっとしない。

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(夜のポタラ宮。写真の構図からは外したが、ここには赤横断幕、併設されたチベット写真展は自治区の偉いさんをドーンと紹介し、友好ムードをばらまきつつコレは中国のモノと主張)

夜に連れて行かれた「チベット・オペラ」はチベットオペラであるはずもなく、
中国人好みらしいハイテンションな歌と踊りが繰り広げられる興行だった。
ダンサーにはチベット人などおらず、歌もMCも四川語である。
中国人のお客さんは、おそらくその意味も知らず、会場で配られた「カタ」と呼ばれる
チベット仏教で旅の安全などを祈る白いシルクの布をお気に入りの出演者の首にかけ
「オーム・マニ・ペーメ・フーム」という、仏教でいうところの「南無阿弥陀仏」が
ヒップホップ調の歌詞になってシャウトされるという信じられない光景がそこにはあった。
無宗教なのは大いに結構なことだが、異文化をここまで冒涜することが許されるのだろうか。
わたしも無宗教なのだが、いや、それゆえおそらく宗教というものには人一倍の神経を使う。
公演が終わるころにはげんなり、を通り越してげっそり、である。

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(自称、チベット・オペラ……ノーコメント。)

ホテルへ帰り、カバーを替えてひっそり持ち込んでいた、チベット史の本を読む。
寝る前に読むと夢見の悪いエピソードばかりだ。
こんなに近い中国の暴挙を、ただ見ていることしかできないのだろうか。
もちろん小さな波としてのムーブメントはたくさんの国に広がりつつはある。
しかし、そういったものがかの国に届くには、相手は巨大で、そして組織的に過ぎる。
世紀をいくつも超えて、遠いいつの日かの未来に、
歴史が証明してくれることを待つしかないのだろうか。

奇しくも先日から、日中問題が騒がしい。わたしもいろいろ考慮のうえ上海行きを延期。
尖閣諸島問題、フジタ社員拘束事件(アルカイダかと突っ込みを入れたい事件であったが)
に続き、中国での劉暁波氏のノーベル賞受賞ニュースの急遽打ち切り、
それに続く劉氏の妻の自宅軟禁などが次々と報道されている。
対岸の出来事が、事実認識として知られるだけでなく、関心を向けられることが一歩だと思う。
そして、その矛先が安易なナショナリズムへと向かわないよう、日本という国の民度を信じたい。

つづく

2010/10/05

地球の舳先から vol.190
チベット編 vol.1

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このチベット編は、残念ながら政治的なシリーズになる。

チベットへ行きたい、と、ずっと思ってきた。
わたしは、中国が嫌いである。いや、憎んでいるといってもいいかもしれない。
しかしそれは、中国全土になにかが起こって中国人が絶滅してしまえ、というものではない。
当然、銀座に住んでいると、彼らのマナーの作法にはあきれるばかりだし、
それも「文化の違い」と受け容れられるほどに寛容ではいられないくらい、
澱のように不快感は溜まっていくものだが、しかしわたしの「反中」は正確に言えば
「反中」ではなく「反中共」つまり中国当局にたいするものであり、至極政治的な問題である。
人として、中国人にどうこう、というものではない。

「フリーチベット」と声を上げはじめるのは、20年遅かった。
チベットは、すでに中国に併合されている。
しかし、わたしたちは忘れてはいけないのだと思う。
この“現代”において、中国がしたことを。
はるか昔のことだろう、と思うような、虐殺、拷問の最果てのようなことがこの数十年のうちに起きていて、そしてそれはいまも世界のどこかしらかで起きているということを。
国は間違いを犯す。かつての日本軍もそうだし、ヒトラーも、おそらく仕方がなかったとはいえ
日本に原子爆弾を落とした当時のアメリカ軍も。例をあげれば枚挙に暇がない。
日本人のわたしたちは、「日本帝国軍」の歴史と名のもとに、
戦争や侵略とかいったことは遠い昔の過去の愚行のように感じているのだと思う。
しかし、こと世界に目を向ければ、それは現在進行形の現実だった。チベットも、しかり。

チベットはもう、チベットではないし、中国を旅行するようなものですよ。
ある人はわたしにそう言って、やんわりとチベット行きをとめてくれた。
しかし、わたしにもほんの少しだけれども自負があった。
たとえ中国にごてごてに虚で塗り固められていても、なにかしらは見抜ける、と。
キューバの人々の温和な目の向こうにみえた社会主義の圧政と弊害も、
東ティモールの軍部の塀の中できこえた爆音がつたえる「平和」の表面的な意味も、
かの地が「いまとなってはただの観光地です」というモノではないことを教えてくれていた。
わたしはどうしても、ここを通らなければならなかった。

チベットでは自由旅行はゆるされていない。
現地の代理店を手配し、それでもラサ市内以外はガイドが同伴しないと行けないところが多い。
もちろんその「ガイド」は、入念に中国政府の教育を受けた者である。
ガイドブックには「運がよければガイドなしでも行ける」という記述があるが、それは
最悪の場合死人が出ることになるので、どちらにせよ、自由旅行はすべきではない。

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(事前に申請したチベット自治区の入境許可証。市内は割合自由だが
 ちいさなラサ市内を出るにはこの許可証が必要になる。)

中国お得意の赤い横断幕がつづく大通り、小さな村にこれでもかと強姦的に立てられた中国国旗、市内に入るときの下品な色合いの花輪…かの国の“いつものお作法”に呆れつつも、あいた口がふさがらなくなるのはラサ市内へ入って数分のことだった。
ガイドは、「まずこれをかならず言いなさい」と教育されているようになんの脈絡もなく
「人口は、チベット人が90%、中国人が10%」とよどみない日本語でのたまったのである。

…失笑。それ以外にどんな反応が出来ようか。しかし、彼に怒ってみたって仕方ない。
中国はチベットを「少数民族」に仕立て上げる為、併合以降 凄い好条件で中国人の
移住を推進し、一方で宗教的理由でチベット人を拷問虐殺してチベット人の人口を減らしてきた。
これが、新疆(ウイグル自治区)や内モンゴルでも中国が取った民族浄化政策の一環である。
チベット自治区において中国人の人口がチベット人を上回ったのはもうずっと昔の話なのだ。
こんな背景は、「世界史」においてはわたしでも知っている常識レベルの問題であり、
人口の90%がチベット人、とのたまうガイドに、この旅のほとんどのことを見た気がした。

突っ込もうかと思ったが、キューバに居住していたわたしは共産主義(社会主義)政府の
おそろしさも知っている。世界中のなによりも怖いのではないかとも思っている。
一生日本へなど帰れなくなるかもしれないことすら、なんら大げさな杞憂ではない。
たいした理由もなく「政治的理由」で投獄された日本人もわたしは知っている。

中国政府にムリヤリ「言わされて」いるのなら、まだいい。
しかしまだ無邪気なほど若く、かつ英語日本語との3ヶ国語を操るおそらくエリートな彼は
本気でそう思っているのだ。情報の隔絶されたこの場所で。
神経がぴりぴりと寒気立っていく。想定内、だったはずの状況下で、それでもわたしは思った。
これが現代の、現実なのだろうかと。

悲しい旅になる。久々に、そんな予感がしていた。

つづく

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