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この夏のアジア周遊は、わたし史上、3番目に長い旅となった。
とはいえ、いちばん長かったのは居住したキューバであり、
その次は1ヶ月アパルトマンに住んだパリであるから、
単純に旅行としてはいちばん長かった計算になる。
中国はやむを得ない経由地だったとして、それを除いても
3カ国をも一気に回るというのは、1回に1カ国、を原則としているわたしには珍しい。
共通していたのは、その国々が、チベット文化を色濃く引き継ぐ仏教国だったという点。
たしかに、カトマンズの最終日に財布の中身の小銭をなんども数えなおしていた以外は
宗教のことを考えなかった日はなかったように思う。
そしてわたしにとってこの旅と宗教が切っても切れなかったのは
ことごとく“カラダ”に覚えさせられた修行体験だったといっても間違いではない。
チベットでは
「観光していい制限時間を越えたら罰金です」と脅されながら
標高3500m超の炎天下、ポタラ宮の階段をのぼり…
カトマンズでは
「こんなハズじゃなかった。モンキー・テンプルはもっとファンキーでポップな場所
だと思っていた。」と呪詛を繰り返しつつ、階段をのぼり…
ブータンでは…
…そう。
そんなことで弱音を吐いている自分が可愛く思えるくらいの苦行が、そこには待っていた。
ブータン初日。夕方が近くなると、急にガイドがそわそわし始めた。
「明日はハイキングへ行くので、疲れるので、今日ほかのところも観光に回ってしまいませんか」
「ハイキング」と「疲れる」の単語がイマイチ繋がらないわたしは、
ブータン人の「ハイキング」という言葉を完全に読み違えるのである。
翌日。安全運転のなか、ガイドが、ふた山こえた先の米粒ほどの白い物体を指して
「あれが、これから登るこの地でいちばん神聖な“タクツァン僧院”です」
と言ったとき、わたしの頭はすごいスピードで回転し始めた。
高山病の仮病にするか。実は捻挫を訴えるか。それとも唐辛子料理が当たった…
(あ、あれですか、目指す目的地は…ってどうやって登るんねん。)
「ハイキングって言ったやん!!!!!」と怒ろうかと思ったが
敬虔でイケメンなガイドは手馴れた動作で、着ている民族衣装の布を引き出して丸め
背中につくったポケットに1リットル入りの水をセットして準備万端といったところ。
「ここは大変神聖な場所ですから、良いカルマが積めるでしょう」
という邪念のない笑顔に、心のなかでシミュレーションした仮病が遠ざかる。
カトマンズでの教訓を生かし、最初に道すじをシミュレーションする。
「ここから登って…あの山の山頂まで行ってから…少し山道を下りて…あっちの山に渡って…
それから、そこまで登ったのの半分くらい登ったら…着くのか?…マジで??」
途中には休憩ポイントがあり、ここで昼食を食べつつ、ほぼ正面からタクツァン僧院を
激写できるためカメラに収めつつ「わたしはここでいいので待ってます」と何度も言いかける。
(左:中腹の休憩所から撮ったタクツァン僧院。 右:休憩所で昼寝のねこさま。)
なぜこんなことになったのか。
仏教徒でもないのにこんな旅程を組んだから、仏陀が試練を課しているのか。
麓からして泥沼に片足を突っ込み(涙目で泉の水で洗ったクツが濡れて重たい)、
へろへろになりながら足を120度くらい曲げないとのぼれない道なき道をゆき、
頂上に着く頃はほとんど意識も気持ちもどこかへ吹っ飛んでいた。
これが「無心」ひいては「達観」というやつなのだろうか? いや、違うだろう。
達成感よりも、「同じだけ歩かないと下山できない」という気分が先にたつ。
が、くだりは思ったよりもハードではなく(全体の距離感が読めているからかもしれない)
上りの外国人に「ヘイ、目的地は隣の山だぜ」とか声をかけながらすれ違う。
ちなみに、杖を持ってトレッキング仕様の日本人のご一行にもすれ違った。
そんな万全装備なのに、山道で「わー!会社から電話だー」とかケータイに怯えていたのが
印象的だったのだが、もりもりと唐辛子を食いまくる4人組だったことをよく覚えている。
下山の途中、ウマに乗った一行ともすれ違った。
「ああ、あれにすればよかったよぅ」と恨み言をつぶやくと、イケメンガイドが
「馬に乗ってのぼれば、カルマは馬と折半で半分になる」と言う。
しかしここで、ちょっと面白いことを言っていた。
「今日、あなたは2倍のカルマを持って帰る。なぜなら、自分が一緒に登ったから。
あなたは僕のカルマも持ち帰り、僕はあなたのカルマも貰う」、と。
これはなんだか不思議な感覚であり、わたしはまたひとつ仏教を見直すのである。
決してトレンディーでもオシャレでもない仏教だが、宗教としては他人を攻撃したり
暴力や争いを嫌う、いい信教だと思う。もちろん、単なる比較論であはあるが。
…が、肉体的には人生でいちばんの苦行だったかもしれないことは、明記しておく。
ブータンを離れる際、
「タクツァン僧院へ行ったから、あなたにはよいカルマがついている。
旅はきっと安全にちがいない。グル・リンポチェ(仏教的偉人)be with you.」
と真顔で言われ「センキュー」以外の返答に困ったのが、わたしの仏教との邂逅だ。
たとえばアメリカ人はいくらキリスト教徒といっても(もちろん人によるが)
実生活と宗教というものが分離したものとしてとらえられていることを強く感じる。
それはある意味、当たり前のことだろう。
しかしこの地では、根っからの根底に仏教というものが染み渡っているように思ったのだ。
そして無信教のわたしでも、なんだか帰りの飛行機が落ちない気がしたのだ。
「グル・リンポチェ be with me」…では、ないけれども、ね。
おしまい。
チベットとブータンでお世話になったすべての人に感謝をこめて。
旅の行程ものこすところ数日となり、2泊ほどするブータン・パロへ移動。
ここでは、ホテルではなく民家でファームステイをすることになっていた。
ブータンでは1日200ドルの政府公定料金を払うと、宿泊、観光、移動、食事に
まつわるすべてのお世話のほか、こうしたちょっとしたアレンジも料金内でしてくれる。
ガイド、ドライバーも同じ民家に泊まる。文字通り寝食をともにする運命共同体なわけで、
つくづく、うちはガイドがイケメンでよかっ……(略。
着いた農家の家は豪邸といってもさしつかえないほどの大きな家。2階の客間も4部屋もある。
ファームステイといってもあくまで客人扱いなので、田植えや洗濯をさせられるわけではない。
家のお姉さんが広大な敷地内を案内してくれた。
猫に犬が5匹(これが夜になると戦闘を開始する。ときに水際で縄張りを守り、
時に役割分担して敵地へ遠征する攻守自在な軍編成だ。5匹だけど。)
鳥小屋と牛小屋もあり、つながれていないので、朝ねぼけて
「ん?犬1匹多い?っていうかデカい?」と思うと、牛が混じっていたりする。
あとは広大な水田。このあたりの灌漑技術は日本の支援によるもので、
国王から栄誉ある「ダショー」の称号を与えられたほどブータンの農業の改良発展に
貢献した日本人、西岡氏はその像がブータンにつくられるほど。
畑には、この国では香辛料ではなく野菜として取り扱われるトウガラシに、
カボチャ、トウモロコシ、ナス、トマト…とふんだんなラインナップが続く。
りんごの木もあり、これは国内で売るほか、バングラディシュへ輸出するのだそうだ。
夕暮れ、りんごの実の選り分けと輸出用箱詰め作業をしているテントにも立ち寄った。
また、家にはドツォと呼ばれる石風呂がある。
ちょっとした小屋の中には6つほど、木でできた浴槽が並び、
浴槽のなかは入浴スペースと石を入れるスペースが区切られている。
何時間も焼いた石を入れると、じゅーじゅーとおそろしい音を立てお湯になっていくものだ。
小屋の外から水を足せるようにもなっていて、ばかをしなければ火傷などはしない。
が、わたしはばかをして、石が入っているほうに足を突っ込み「あっっっつぃぃぃ!!!」となった。
(やけどはしていない。熱かっただけ。)
ただしこのお風呂はさすがに手間がかかりすぎるので、普段はシャワーだそうだ。
家の中心には広い仏間。色とりどりに飾られたそれは、どんな若い新婚家庭にもあるんだとか。
もって行ったお土産は、その説明もそこそこにまず仏壇に供えられた。
教科書は英語、学校の授業も英語でおこなわれるというブータン、
会話に不自由はしないが、年配の方々は地元語であるゾンカしか話さない人も居る。
この家のお母さんもそうだったが、ジェスチャーでどうにでもなる。
夜はさっそくの手料理。かまで炊いたご飯に、おかずが4品。
かならず出てくるのはトウガラシのチーズ煮込み、というか限りなくトウガラシそのもの
である「エマダツィ」。トウガラシだけをそのまま、なんて…と思うが意外と食べられた。
あとは日によって、ジャガイモのチーズ煮込みとか、牛肉、アスパラ炒め物、ナス煮物、スープ、春雨料理など。
全体的に非常に美味しい。味付けが濃いので、ごはんもすすむ。
デザートにはもちろん畑でとれたりんごやトウモロコシ、それから地酒焼酎「アラ」である。
高地でアルコールが結構早くまわるので、少量で酔っ払い。
公の場(学校、職場など)へ出るときはかならず着る必要のある、民族衣装も着せてもらった。
たんすの中にはあらゆる色、柄の衣装がしまってあり、現代風にアレンジされたものから
代々引き継いでいるというものまで沢山。
コーディネートも大変そうだが、さすが「着道楽」と言われるブータンらしい。
制限があればあるほど、創意工夫というものが生まれるらしかった。
丁度、この時期は農作物が豊かだったのだが、冬に備え屋根でナスを干したりもしている。
が、概して農家は豊かなようで、何人か居る子どもたちも海外へ留学に出ているといい、
案内してくれたお姉さんも学生時代に色々な国を旅行した写真を見せてくれた。
ブータンは新旧の融合した不思議な国である。
(すくなくとも、いち旅行者の目には)順応しあって融合しているように見えた。
ほんの10年前にテレビもネットも解禁された、ついさっきまで鎖国をしていた国でありながら
家族のみなさんと撮った写真を送るね、といったところ教えられたのは
住所ではなくFacebookのアカウントだったり……(汗
この家のお姉さんにしてもイケイケで世界中を飛び回って悠々自適学生生活から、
いまはこうして実家に戻って農作業と家事をこなしている。あたりまえのように、不満そうでもなく。
家族はいつもみんなにこにことしていて、彼女もよく笑いよく喋る肝っ玉系なのだが
そのわりに博識で英語がぺらぺらだったりするから、なんかいろんなことが
よくわからなくなる国だった。
それは、古い街と出会ったときに感じる「こんな国がまだあったんだ」とか、
自然と共存した村々にきたときに感じる「つましく清貧なまでの美しさ」とも違っていて、
ただひたすら、生まれてこのかた見たこともないものをみる気持ちだったのだった。
地球の舳先から vol.179
ブータン編 vol.2
ブータンの朝は、目覚ましいらず。
朝早く、増えすぎて困っているという半野犬(ノラ)の縄張り争いらしき鳴き声で起きる。
仏教は殺傷をよしとしないので、日本のように保健所で殺処分というわけにもいかないのだ。
(ハエがコーヒーに飛び込んできたとき、ブータン人に「大丈夫?」といわれたら、そのハエは大丈夫か、という意味らしい)
せっかく早く起きたので、街をひと足早く一周することにした。
パッケージ旅行とはいえど、都市内での自由行動はきく。メインストリートを北へ向かうと、「信号機のない首都」として有名なブータン名物の交差点がある。
そこではおまわりさんが白い手袋をして華麗に手信号で車をさばいているのだった。
写真を撮っていると、恥ずかしそうに目をそらす。
ブータンの人々は「フレンドリー&ホスピタリティ」とよく称される。
たしかに、非常に(必要以上と思われるくらい)礼儀正しく、折り目正しい。
それはマナーというよりも「礼節」に近いようなものだと思う。思わずこちらも恐縮してしまうくらい。
決してガイドがイケメンだったから緊張したとかそういう不純なものではない。
(メインストリート周辺。民族衣装と独特の建築による空気感。)
切手が有名なブータンは、農業とインドへの売電以外に主立った外国相手の産業がないため、観光はもとより外貨獲得の一手段として切手の製作に力を入れていたという。
金属製やシルクでできたもの、複雑な曼荼羅模様などもあると聞き、わたしは郵便局へ向かう。
ガイドブックを手にうろうろしていると、「切手か」と聞かれ、奥の部屋の鍵を開けてくれた。
そこは、ちょっとした展示室になっている。
宗教画や国王即位の記念切手などはわかるのだが、NASAの衛星(ブータン製ではない、外国のものだ)やら、98年W杯のベスト8チームの記念切手などもあり、そのココロは不明である。
その後、少し街中を流してガイドと合流し、ゾンが綺麗に見える高台の尼寺を経由して、ガイド・ツェリン氏(愛称はJelly)のすすめで伝統技芸院なる学校へ行った。
仏画や彫刻、仏像などの勉強をする専門学校で、入学は16歳まで、4~6年制の寄宿学校だ。
ちょうどお昼休みにあたったこともあり、中を見学させてくれた。
年次別難易度の課題が壁に張り出され、制作中の作品の細かさに目がしばしばする。
描いた作品を出してきて恥ずかしがりながらも誇らしく見せてくれた仏画専攻の男の子もいた。
まるで印刷物のようなうつくしさである。
(高台からみたゾン、非常に広い/伝統技芸院にて、仏画専攻の教室)
昼食は、ブータンキッチンという観光客向けレストランで、ティンプーにJICAシニアボランティアとして駐留中の元放送局の日本人の方とご一緒し、昼間からアラとよばれる焼酎を飲む。
高地なので、お酒がまわるのも早い。ご飯はひかえめな味付けになっていた。
その後、私たち一行はティンプーを出てパロという街へ向かう。
明日はハードスケジュールだから、というガイドの提案で、午後は予定を前倒して博物館へ。
7階まである複雑怪奇な建物は、半円式の建物が2つ重なったようなカタチで、4階あたりから入って上まで行き、さらに下がってくるという構造。
仏教関連が大半だが、外国の要人から送られた茶器やご自慢の切手コレクションなどもあり展示数は莫大。
(パロのゾンから望む写真上方が博物館/伝説の橋…ではなく伝統の橋)
博物館のすぐ下にはパロのゾンがあり、その下にはさらにもう数少ないという伝統建築の橋。
(ちなみにわたしは「伝統の橋」を空目して「伝説の橋」だと思い込んでおり、なにごとというわけでもない橋にひとりがっかりしたという。)
ゾンは最高権威の場所なので、ブータン人が中に入るには正装であるカムニ(民族衣装の上にはおるもので、形は全然違えど心理的感覚としてはネクタイに近い)を身に着けなければ警官にとめられて入れないのだそうだ。
その後ぶらぶらと車を走らせていると、アーチェリーの勝負をしている一行に出会った。
車を止めてもらい、ブータン名物のそれを見学する。
的までは100m以上ある独特の競技で、オリンピックでブータン代表選手が「的が近すぎて当たらなかった」と憤慨していたのも、有名な話。
ここで、Jellyとガイド仲間で、日本でも働いたことがあるというブータン人ガイドに会う。
「美人ガ来マシタネー」…。まるでどこぞの中南米のあやしげな客引きのようである。
Jelly=ブータン人代表、のようなイメージを持っていたわたしはドン引きである。
(アーチェリー試合中/お祭りに向け踊りの練習に余念がない寺内)
ウチのガイドのJelly氏はわたし好みの笑顔のステキなイケメン…違った、非常に敬虔な仏教徒で、寺院や僧院を訪れるたびに五体倒地(頭、肘、膝をつくチベット仏教式のお祈り)を行い、寄付をし、寺院の子どもの僧侶見習いとなにごとか楽しげに会話を交わす人格者を絵に描いたような人物であった。
知識も半端なく、数日でずいぶんと仏教とチベット仏教関連の登場人物について詳しくなってしまった。仏教関連にはさほど興味が無かったわたしがすべての観光行程をぎりぎりではあったが乗り切ったのも彼のおかげである。
いまなら曼荼羅の説明がわたしにもできる。かもしれない。
こうしてパロの街をひととおり流し、民泊する農家の家庭へと向かった。
地球の舳先から vol.178
ブータン編 vol.1
※構成上の諸事情により、一番最後に訪れた国ながら、先にブータンのことを書きます。
2010年8月12日。
成都・ラサ・カトマンズを経由してのブータン入り。
ブータンといえば、欧米諸国の「発展」を必ずしもよいものとはせず、
GNPに対抗してGNH(GROSS NATIONAL HAPPINESS)つまり「国民総幸福量」という概念を打ち出し、経済発展イコール幸福ではないという強烈なアンチテーゼを顕した。
日本との関係も深く、皇太子即位の際に各国の国賓達が駆けつける中、民族衣装を着たとても若くてハンサムな“国王”の姿が記憶に残っている人もいるかもしれない。
そんなブータンは独自の発展ペースを守るため、観光には制限が加えられている。
政府の定めた公定料金(1日200ドル)を払えば、原則としてホテル、車、ガイド、3食の食事、観光にかかわるすべての料金を勝手にアレンジしてくれるというものだ。
1日200ドルというのは高価に思えるが、諸税をさしひくと原価90ドル程度でアレンジをしているという説もあり、結果、至れり尽くせりな旅となる。
いかくしていまだ王政をとり、国民にも絶大な人気を誇る第5代国王の統治するブータン王国へ、足を踏み入れたのだった。
片側2列の小さな飛行機はカトマンズからほぼ定刻でブータンのパロへ。
空港の建物は伝統建築で、歴代国王の写真がでかでかと飾ってある。
公の場―学校や職場でも着なければならない民族衣装をまとったガイド・JELLYとドライバーに出迎えられる。
これからの3泊4日をともにお世話になるのだが、このときはまだ、ここまでベタ付でお世話になるとは思っていなかった。
車は第一目的地、首都ティンプーへと向かう。
山道を走る光景は、息を呑むばかりに青々として美しい。
絶えない緑と、伝統建築の家。
この国は国土の72%が森林で、うち60%までしか開拓してはならぬと決まっている。
土地はだれかの私有地でも、そこに生える木は国のモノで、たとえそのうちの1本でも、伐採するには申請と長い審査を経ての許可が必要なのだそうだ。
途中、車は前々代(第3代)国王のメモリアル・チョルテンに寄る。
メモリアルとはいっても、3代国王のたっての願いだった仏塔を建立したものであり、墓があるとか、追悼の意味があるとかいうものではない。
ブータンの国王は国民の信頼があつく、それというのも、過去にも国王自ら国会へ権利を委譲するなど既得権益より国民の利益を重んじる姿勢が受けているとのこと。
ちょっとしたリゾートホテルのようなうつくしいホテルにチェックインすると、ゾンへ向かう。
ゾンとは、各地にある、宗教と行政が一体化した施設。僧侶のための寺院という側面も、地方行政のオフィスという側面ももつ。
首都ティンプーのゾンはもちろん規模も大きく、国王の執務室もあり、それでも各機関が入りきらないのでゾンの隣と、川を挟んだ対岸にも行政機関が立ち並んでいる。
ブータンの宗教施設は、観光客に対しシャットダウンされていることが多いのだが、その周辺では生き生きとした僧侶の姿を見ることが出来る。
またブータンはマツタケの産地でもあり、この日の夕食には大量のマツタケを振舞われたのだった。