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2010/08/02

地球の舳先から vol.177
ラオス編 vol.14(最終回)

「乾季のみ、ナム・カーン川にかかる橋をわたって行ける」
そのふれこみだけで、気にはなっていたカフェだった。
雨が増え始めた5月、メコン川よりも瀟洒な街づくりのナム・カーン側沿いを歩きながら
ぎりぎり水面上に浮かんだ橋を見つけたのは、最終日のこと。

 

「…あ、アレだ」と、のこり2時間になった自由滞在時間を確認して、川面へと階段をおりる。
手作り感満々の、木を組み合わせて作った橋は、吊橋よりスリル満点。
そこから川へ飛び込んでは橋を揺らしてくれる子どもたちが、落ちても大丈夫と勇気をくれる。
念のため携帯とパスポートと財布をジップロックへ入れ、へっぴり腰で反対側へ渡る。
さぁさぁと涼しい音がした。風にゆれる竹の葉が触れ合って出す音だった。
ジブリの世界を思わせる、若竹のトンネルに包まれた階段をのぼると、目的のカフェに着く。

 

静かで、神秘的。対岸の喧騒も猛暑も飲み込んでしまいそうな静かでオープンな空間で
最後のビア・ラオのグラスの水滴だけが、すこし暑がっていた。
呑まれてしまいそうな空気に憑かれて、ここで何時間でも過ごせる、と思った。

こんこん、とペンの先に溜まったインクを落として、トラベラーズノートの記録がすすむ。
考えるために、書くために、なによりも、覚えておくためにぴったりな場所。

 

「素朴だからいい」と旅人たちが口を揃えたこの国は、「スレてないアジア」だった。
「アリガト」と片言の日本語を発しては店員同士で「おまえ、やるじゃんよー」的に冷やかしあう姿、マッサージ店のまだ幼いといってもいいような子のはにかんだ笑顔、やり手ばばぁに顎で指示されてはしかたなく店の前で弱気な客引きに出ては「No,thanks」とにっこりさればばぁの顔色をうかがう青年。
そういう照れながらも賢明な様子は、稼ぐため・生きるためという断崖絶壁感がない。
断崖絶壁感でいうならば、日本の一流企業のサラリーマンのほうがよほどぎすぎすしている。
決して物質的に豊かでない国で、なぜ人々にある種の余裕を感じるのか、不思議だった。

初日に、ヴィエンチャンのガイドの説明を受けながら、なんだか引っかかっていたことがあった。
なんだろう、と旅の間じゅうわたし自身が考えていたのだけれども。
首都ヴィエンチャンのガイドは多数存在する少数民族を「minority」と英訳した。
英語に疎いわたしでも、なんか「ニュアンスが違うような…でも直訳するとそうだな」と思った。
しかしルアンパバンのガイドは「high-land people」と訳した(彼はモン族、少数民族出身だ)。
ちなみに東ティモールでよく聞いた日本のODAやNGOの活動をさす「support」「donation」は
この国では「project」と置き換えられていた。

最終日にして、思う。国家としてとか、それこそGDPとかとしてではなく、
ひとりの人間として生きていくうえで、この国の人々は、なんら、困ってはいないのだと。

「貧しくても豊かな国」からときたま感じるプライドや反骨精神は、そこにはない。
あっけらかんとした真っ直ぐさがわからなくて、それがわからないままルアンパバンへ来た。
雨季には沈む川向こうの秘境は犯されることなくひっそりとしたままで、
メコン川とメインストリートに挟まれたセカンドストリートには庶民の生活がまんま残っている。
こんな状態がサスティナブルなわけがない、と、わたしなどはつい思ってしまう。
グァテマラでもインドでもありそうなメインストリートは一歩間違えば犯罪の温床になるはずで
キューバや中南米のリゾートを思わせるナム・カーン川側は一歩間違えれば貧富の差の代名詞になる。
だが、いろんなものが混じったこの街の交差点は、融和されている。
そんなことがあるわけがないのに、なぜか「落ち」ずに平衡を保っていた。

観光客が闊歩するメインストリートにはでっかい小学校があり、子どもがツーリストなんてまるで気にしないふうで喚き散らしたと思ったら、先生が「子どもに英語できみの国のことを教えてくれ」とストリートで外国人をナンパしている。
僧侶が寺院で談笑しながら作業するなかで、広場見っけ!とばかりにサッカーする男の子たち。
ボートのこれまた気弱な客引きのすぐ横では、観光客が捨てたのであろうペットボトルを支柱にしてつくった手製の網にかかった小魚の量をうれしそうに確認しているおばあちゃんがいる。

この光景を、「平和」とか「癒し」とかで片付けることができなかったのは、
たぶんこの国は10年後に来てもこのままかもしれない、というある意味楽観的な妄想と、
この国がスレていないのはここが観光立国だとかそういうことではなくて単に国民性なのだ、
と思って、日本という国にもこれはあてはまるのだろう、と思って余計複雑な気分になったから。

守ったって、いいじゃない。

どこぞの大企業が社内公用語を英語にすると息巻いてみたり、今年はもう国外に出て行くのか行かないのかジャッジする瀬戸際だとか煽られてみたり、してるけど。
それはやっぱり「煽り」であって、その先には、果たして何があるんだろう。
英語を喋れて、海外に支社を持てたら、日本は再生するのか?

テクノロジーに固執しすぎた日本と、その割に基礎科学を蔑ろにする矛盾。
「テクノロジー」に「語学」というモノを含んでしまっている頓珍漢さ。
経済的惨状も崖っぷちも現実だし直視しなければならない問題だが、一抹の弱さを感じる。
そんな単純な「テクノロジー」つまりなにかを「できる」「できない」なんてことでは
カタがつけられないはずのものを自己否定し始めたわが国を思って、
いつもなら「かえってきたー♪」と灯る夜景に幸せになる帰りの飛行機の中
オレンジ色に染まった街がどんどん近づいてくるのが、怖いとはじめて思った。

この国は、どこへ行ってしまうんだろう。そしてわたしは、どこへ帰っていくんだろう。
「グローバル化」といううつくしすぎる言葉は、薄気味さけ悪い正体不明さに変わる。

そのくらい。わたしはアメリカにもフランスにイギリスにも感じなかった
コンプレックスというものを、ラオスという国に感じた。
かんたんに言えば、羨ましかったのだ。あっけらかんと我が道を行く、この国が。
それは、多くの問題を内包しているとしても、やはり、うつくしい立ち姿だった。

おわり。ご感想はぜひfacebookのJunkStageのページまで。
(来週から、全4回・台湾編。)

2010/07/26

地球の舳先から vol.176
ラオス編 vol.13

 

留守番(おもに魚のえさやり)を頼んだ知人が、わたしの旅の行程表を見ながら
「托鉢ねぇ…」と、“たくはつ”と正しく発音したので、惚れそうになったという話。
「托鉢」をご存知だろうか。僧侶が早朝に喜捨を求めて街を練り歩くラオス名物の光景。
これを見ずにルアンパバンをあとにはできない。
日本にいる間は飲んだくれて夜が明けそうな時間に眠るわたしが、ラオスでは10時には就寝。
そしてこの日も、寝ている時間を惜しむがごとく、6時には起き出して外へ。
久しぶりに触れる、早朝のちょっと寝ぼけたようなでも確実に一日の始まりを予感させる清々しい空気は、太陽とか、起きてきた動物とか、風に凪ぐ木とかそういうものが作っていたんだと感じる。
人間の、手の届かないところで。

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さっそくメインストリートへ行き、邪魔にならないところで僧侶の一行を待つ。
食事の時間が限られている僧侶には、栄養分の高い豆乳なんかも人気なのだそうだ。
オレンジ色の袈裟の僧侶よりも、手を合わせて一行を待つ幼い子どもたちの姿に打たれる。
僧侶の袈裟は、ワンショルダーなら20歳以下。両肩を隠しているとそれ以上なのだという。
成人が少ないようだ。
一行が通り過ぎる頃には、朝市が開始され、女性たちがあらゆるものを売っていた。

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わたしはそこから、クアンシーの滝へ、1時間弱、車を飛ばしていく。
途中で少数民族の村にも立ち寄る。

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ここから先は、文章で触れるよりも写真が語ってくれるだろう。
「…バスクリン?!」と突っ込んではいけない。わたしも最初はそう思ったのだが、
一番奥の滝からすごい勢いで長い距離を水が通っており、バスクリンでの着色は困難そうだった。
が、ほんとうのところはわからない。そう思うくらい、きれいな色だった、ということだ。

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乾季だから滝の水が少なく、雨季に行くともっと荘厳だと聞く。
更衣室の掘っ立て小屋も併設してあり、滝にうたれることも泳ぐことも可能。
わたしが行った5月はまだ肌寒かったので遠慮しておいた。

その後ふたたびルアンパバンの中心部まで車でつけてもらう。
もうこの日は、ラオスを旅立つ日だった。
ひとつやり残したことがあった。
地図を広げ、その心残りへの道程を確かめながら、またしても豪華すぎる食事。
平日だったため、向かいの小学校から昼時に飛び出してくる子どもたちの可愛い制服姿を2階のテラス席から見下ろしながら、水分補給。

今回もまた。この国を離れるときがやってきたのだ、と思う。
どこへ行っても、最終日というものは、どこへ行かねばと焦ったり、考え事をしたりする。
それは多分、わたしが「よっぽどのことがない限り同じ国に二度は来ない」せいもあるだろう。
これまでの例外は、キューバとパリのみ。どちらも、リピートした二度目以降は中長期滞在だったので、短期の個人旅行としてはやっぱり同じ国には行かない傾向がある。
行き逃したところを茫洋とした将来に賭けるよりは、その国へ旅したことへの総括をしたくなるのが最終日。
そして、最後の数時間をここで過ごしたい、と思うところが、いつも一番印象に残る場所になったりもする。

わたしは、メコン川の反対側、ナム・カーン川に向かって、帽子を深めにかぶって歩き出す。
ぎりぎり水没しそうな高さに、かろうじて残っている、川を渡す手作りの頼りない橋。
雨季へ突入する直前。あと1週間遅れていたら、渡れなかったかもしれない川の向こう側に
低い吊橋なみにぎしぎし揺れる橋を渡り始めた。
怖くなかったのは、その橋から川へ飛び込んで遊ぶ子どもたちがいたからである。

つづく(次回、最終回)

2010/07/19

地球の舳先から vol.175
ラオス編 vol.12

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夜が明ける。
乾季でゆっくり流れる川を一望する屋外に、ホテルの朝食スペースがセットされていく。
昨日と同じガイドが迎えに来る。いままでに接した外国人の中で、もっともキレイな英語。
彼は8人兄弟のモン族出身。ここでは「city」の反対語が「mountain」なのだと知る。
英語を学ぶために教師養成の大学へ行ったが、薄給の教師になる気は元々なかったとか。

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(まさに屋外、なレストランスペース。)

朝8時。いつもは起きてもいないような時間に、貸切のスローボートに乗り込んだ。
スローボートとスピードボートがあり、タイまではスローボートなら2日、スピードボートなら6時間で着くという。ただ、水嵩の少ない乾季はスピードボートは浅瀬でクラッシュする事もあり危ないらしい。

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2時間ほどで酒造の村へ立ち寄り、50度のお酒をなめて、一大景勝地のパクウー洞窟へ向かう。
大小入り乱れたブッダの像が所狭しと並べられているようすは、遺跡・寺院系に興味のないわたしでもポカンとして眺めてしまう。
ここへブッダ像を預け、1~2年してふたたび家に持って帰る人もいるそうだ。
その数、1000(オリジナル)、1000(寄付)というから壮大。
そして同数程度が、盗まれてもいるという。
石段を上がって別の洞窟に入ったが、ここは入り口すぐのスペースががらんどうだった。
なんでも、タイの窃盗団がかっさらっていったんだとか。なるほどね。

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ふたたび船に乗り込みながら、ゆったりと景色を眺める。
ごみになったペットボトルを活用して魚をとる網をたてている親子、洗濯をする女性。
すこし大きい集落では男性陣が泥だらけになって土木工事のようなことをしている。
ここは現代の、しかも同じアジアなのだろうか。
日本にいると「戦争」にも現実感はもちにくいが、こうした暮らしの方がさらになにか現実離れした光景に思えた。ガイドがラオスの説明をしてくれる。
山の標高が高いところにモンゴル系の「モン族」、中腹にカンボジア系の「カム族」、平地にラオス人が住むこの国は、70%が仏教徒、30%がスピリチュアル系。
寺院や遺跡をさしては「中国人が破壊した」と言い、結構な反中の気も感じた。
ルアンパバンの観光客の人数は1位がタイ(日帰りの需要も多いそう)、次いでフランス、オーストラリア、アメリカ、イギリス、日本と続く。冬の雨季は緑がキレイで、避寒地として欧州人が来るそう。
逆に、隣国ベトナムや、中国からの人々はだいたいがビジネス目的なのだという。

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街で出会う僧侶の格好をした人のなかにはまだ幼い少年も多く、代々、家が寺院とかの子どもかと思っていたのだが、今は、教育上、一定期間寺に入る学生も多いのだという。
そして寺で修行生活をしたあと、普通にカレッジに行ったりするそうなのだ。
しかしそういう人たちに限って、戒律を守らなかったり…要するに飲むわ打つわTVゲームはするわでけしからん、と言う人も多いとか。風紀を正せ!ってハナシらしい。

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船を下りるとまた大量の食事。次から次に出てくる料理に、これストップとか言わないと一生出てくるシステムなんじゃなかろうか、と思う。
ルアンパバンの中心部は小さくまとまっていて、道も目抜き通りのメインストリートを挟んで、メコン川沿いの通りと、もうひとつのナム・カーン川寄りの通りでこと足りる。
メインストリートにはレストランやマッサージ、お土産物屋が所狭しと並び、メコン側沿いは勿論リバービューのホテル街。ナム・カーン川側は一転してコロニアルで瀟洒な建物と細い路地が続く美しい町並み。

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夕刻には名物の小高い丘、「プー・シーの丘」まで300段ほど急な階段を昇る。健脚な一日。
ふたつの川に挟まれた、緑豊かな町並みが夕暮れになずみ、太陽はやがて最後の強い光を放ちながらメコン川へ消えていく。
ラオスのこの素朴さがわたしに与えてくる印象の根源――
自然に寄り添い、同調しているその有り様こそが美しいのだった。
ルーツが呼ぶのか奥の奥の血が騒ぐのか、そこに一抹の畏怖と羨望もないまぜになって。

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夕暮れを見届けたらまたしても食事である。
ラオス舞踊を見ながらまたしてもフルコース。そろそろ麺類とかでいいのだが…
途中で停電になって、1本のろうそくの炎でデザートのプリンを食べた。
筋肉痛防止に、この晩もマッサージ屋へ寄ってから宿へ帰る。なにもない宿へ。

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(演出ではない。停電したって、停電用自家発電ライトで踊るのだ。暗いけど…)

2010/07/12

地球の舳先から vol.174
ラオス編 vol.11

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主目的地、ラオスのルアンパバンに着いたわたしは、自分の異変にようやく気づいた。
38度のヴィエンチャンが暑かっただけではなく、どうやら軽い熱射病になったらしい。
体が内側から熱くてくらくらするこの感覚は、東ティモールでなったときと同じ感覚。
あのときは、同じホテルに滞在していた国連軍の皆さんが大量に水を届けてくれたっけ。

今回は本気で、フライトが遅れたことを言い訳にして食事を一回抜こうと決心する。
予定よりも早く着いたのでガイドはまだ来ていないだろうと思っていたら、すでに居た。
夕食のことを申し出ると「ユー、それはプロブレムだよ!」と大反対に遭う。
なんでも街で一番高くて美味しいレストランを予約してあるのだそうだ。
「20ドルだよ?!」とガイドは血相を変えて説得してくる。
20ドル…現地の物価に慣れきるには、ラオス入り2日目は浅過ぎた。
いや、いいんだけどそんくらい…とまだラオスの物価に馴染めないわたしは思いつつ、その価格帯はもしかしたら、飾らない大衆的フランス料理で有名な「Elephant」かもしれない、と思う。
ラオスはフランス統治下が長かったためにフランス文化が多く入ってきており(首都の凱旋門もそう)、このレストランはいわゆるカッコつけの「おフランス」ではなく大衆的なホントのフランス料理を出す、というので、パリ好きの私はすこし気になっていたのだった。
「大丈夫!You can! Try it!」とガイドに根拠なく励まされ着いた先は、やはりElephantだった。
うれしいやら呆然とするやらで微妙なわたしを湿気と熱気が容赦なく襲う。
それでも、本能的にお腹が鳴るのだから、ゲンキンなものだった。

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硬くなりすぎず、フランスパンをすこしだけ素揚げしたようなクルトンが浮かぶ魚のスープ。
バゲットはバターもオリーブオイルもいらないくらいしっかりした味がついている。
メインのチキンは丁寧に皮をはがしてカタマリで焼いたトマトソース添え。
中には糸引くモッツァレラチーズが仕込まれている。
マッシュポテトはバターの臭みがなく、ミニトマトはオイルで形を崩すぎりぎりまで煮てある。
「うーーーーーむ……………………」。…素直に、感動。
見た目のキレイさとか細工とか、ホントはそういうのがフランス料理なのではない。
(芸術品のような懐石料理より、地産地消の一汁三菜がホントの和食で美味しいのと一緒だ)
キチンとした素材を、キチンと食わせる。そして豪快かな量も食わせる。
だから、ホントに大衆的フランス食堂では、むしろお酒がほしくならないくらい、なんだよな。

と言いつつも熱射病の気配が止まらない。いやな汗のかき方。
ホテルへ帰ったら冷房をたいて水風呂に入って洗濯をしよう…と思っていたのだが、
帰りに寄ったマッサージ店(ラオスにはたくさんあってとても安い)で全身をほぐしてもらっていたら、気持ちよすぎて途中で陥落し、1時間たつ頃には体がふわりと軽くなって、妙な熱の気配が止んでいた。
おそるべし癒し国家ラオス。

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目抜き通りから離れた、メコン川沿いのホテルは、ただ静か。
コンセプト別に6棟もあり、入り口で靴を脱いで部屋まで階段をあがる。民家のよう。
天井に回るファン。テレビはおろか冷蔵庫も無い部屋の大きな窓からは、メコン川が見えていた。なにもなかった。
そして、現代でなにもない場所を探すことの困難を思う。
「東京は愛せど何もない」と歌った嬢がいたが、ここにはその反対のものがあった。
風にゆれる川沿いの木々の音のほかには、自分が動く音しかしない、静かな夜だった。

2010/07/05

地球の舳先から vol.173
ラオス編 vol.10

寺地獄に突入したわたしの観光コースはそのあと、凱旋門、国会議事堂のようなもの、
マーケットと続いて、また大量の昼食を食べさせられると、しばしの自由行動となった。
ちなみに昼食は、白身魚のはちみつ揚げ煮、野菜6種の炒め物、酢豚的な豚と野菜の和え物。
これに白米と、えびの入った赤いスープ、デザートにコーヒーがつく。
頑張っても半分しか食べられず、コーヒーの後にダメ押しで出たバナナが美味しくて困った。
オーガニックの名のついたレストランには日本人が多く、必死にハエを手で払っている。
厨房はもっと虫だらけなんだから気持ちの問題だとは思うのだが。


(魚介と野菜のスープが、とにかく美味しい。)

わたしは睡眠に関してはかなり神経質だが、食についてはほとんどこだわりがない。
美味しいものを食べるのは当然幸せだが、食が貧しければそれはそれ。あるものを食べて不満はない。
衛生面には気を使うことにしているが、それは「気持ち悪い」とかじゃなく病気を防ぐためである。
精神的に逆毛が立ったのはキューバでピザの具にハエが混じってあぶられていたときくらいだ。
ふたつに折ったピザ(そして、キューバはだいたいのものが不味い。「美味しくない」のではなく、真剣にマズイのだ)を頬張り、中からカラカラのハエの死体を発見したその瞬間を想像してほしい。(イカン、今日のこのコラムのエントリはいつものお昼どきを外そう。)

食後に、目を付けていたマッサージ店でフェイシャルマッサージを受ける。爽快。
元々旅に出ると代謝がよくなるので、その後外へ出たら発汗量がすさまじいことになった。
おしゃれなクラフトショップでおみやげを買い、前夜は暗くて何も見えなかった通りを歩く。
ゆったり時間が流れていて、数え切れないくらいある寺院ではオレンジ色の布を着た
僧侶たちが庭でゆっくりなにごとか作業をしている。休日だからか、車も少ない。

午後はふたたびガイドと合流し、4つほど世界遺産を含む巨大な寺院を訪問した。
あまりに寺に興味が無いので、そのうちのひとつに白と黒の2匹の猿がいて、その子どもが人間に非常になついていて網ごしに手を握ったら離してくれなくなったことと、
屋根のてっぺんの飾りだと思っていた巨大なペリカンみたいな鳥が実は生きていて、ガイドが果物を投げたらキャッチしたので相当びびったことしか覚えていない。メモもない。
いや、車を降りるときも肌身はなさずトラベラーズノートを持ち歩いているのでメモはあるのだが、
「そのあと、ワットなんとかへ行く」とか書いてあって、まるで役に立たない。
ちなみにワットというのは寺という意味である。そりゃ「ワットなんとか」だろうよ…。

 
(左:証拠写真。字までやる気がなさそうだ。 右:普通はこれくらい書いている。)

ちなみにラオスでは英語がばっちり通じた。
なんでも、英語ができないとオフィスワークは当然のこと、レストランでも働けないのだという。
そう、「日本人が英語をしゃべれない」というのは、実は大変幸福なことなのだ。
外国語を話し、外国人を相手にしなくても仕事がわんさかあるくらい、国内に需要がある。
それはある意味、国としての豊かさを表しているともいえるだろう。
国が豊かだからこそ、英語ができなくても生きていけるどころか稼げる。という、この皮肉。
逆に昔とくらべて「英語ができないとやばいよね」となっている昨今の風潮は、…つまりそういうことなのだ、きっと。

終盤にガイドに、六本木からの東京の夜景が写るポストカードをあげたら仰天していた。
外国人にあげるなら、東京の夜景の写真が一番受ける。逆に一番受けないのは富士山だ。
富士山は日本人だからシズるのであって、わたしたちがすごい後進国の5階建くらいの建物がギラギラ光っている写真を見せられても「…」としか思わないように、大自然を知っている人たちに富士山の写真を見せても「…山、ですね?」くらいにしか思われない。


(ガイドとさびしがりやの子猿。)

気温38度の灼熱寺地獄を終え、空港に向かう。さっそくフライトが2時間遅れるという通達がある。
「バンコクでトラブルがあり、そこの乗客をルアンパバンに先に飛ばす」らしい。
本当かどうかは知らないが、いま「バンコク」の話を出されると反論できない雰囲気がある。
「先に搭乗券だけ出してくれ」と食い下がると、すんなり出てきた。今度は手書きではない。
一緒に待たせては気の毒なのでガイドはその場でバラし、ひとりで時間つぶしに国際線ターミナルへ。街中で買えば60円のビアラオが150円だが、止むを得ない。

遅延定刻6時のフライトに合わせ、5時半に国内線ターミナルへ戻ると、係員につかまり急かされた。30分も前に到着したのに、どうやらここでも最後の乗客になってしまったようだ。
遅延に定刻などはなく、チェックインした乗客を全員乗せたら出るらしい。
逆を言うと空港へ行かずになんらかの事情で遅延を知って、出発の頃空港に行ったら飛行機はすでにいないかもしれないというシステムなわけか。
わたしのせいではないと思いたいが、地上での操縦がかなり粗い。
片方の車輪を固定して猛烈なUターンをするので、窓に頭をぶつけた。エアコンから煙が出ている。

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それでなくとも飛行機嫌い(なぜ飛ぶのか意味不明である)のわたしは、ビビリ始めた。
飛行機が怖いので、基本窓側には乗らない。雲の上にいくまでは、外など見たくもない。
「通路側、通路側!」と指定してチェックインしたのにも関わらず、先に乗っていた隣のガイジンはジェントルマンで「窓側をどうぞ」と通路側の座席ですでにシートベルトをしている。
フライトの安全のため離陸最中は窓をシャットアウトすることも許されないので、
ひたすら目を閉じて最後の車輪が陸を外れるあの「ガタン」という音に血色を悪くする。
よほど急いでいるのか、わずか30分足らずで着いたフライトは最後の高度の下げ方も半端なく、胃がジェットコースターに乗ったときのように「ひゅう」っとなる。そして揺れまくる。
ちなみにこのときのメモには、「なんかよくわかんないけどアレ、もう乗りたくない。」とある。

最後まで粗い運転だったが、とにかく最大の目的地、ラオスの古都ルアンパバンに到着した。

2010/06/28

地球の舳先から vol.172
ラオス編 vol.9

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1日目。ひと缶のビールで、しばらくぶりの質のよい熟睡にありついたわたしは、
ガイドとの待ち合わせの30分前に起きた。
強い朝の光が差し込むホテルのレストランで、寝ぼけてコンチネンタルを頼んでしまう。
オムレツは好きだけれど、ラオスに来てまで洋風朝食を食べなくたっていいのに。
食事が多すぎる。休肝日ならぬ、休腸日が必要だ。

きっかり5分前にやってきたガイド(いつもお世話になる僻地旅行代理店パームツアーセンターの
立花さんは、どんな僻地でも自ら足を運ぶだけあって手配するガイドは毎回非常にすばらしい)に
昨日はどっか行った?と聞かれ、川沿いを歩いて屋台でスルメを食べたと説明する。
スルメの英語がわからなくて、イカと網焼きのボディランゲージするわたし。必死である。
昨日のことを思い出しながら、「日本人に会ってねえ、それで…」とその先をなんて続けていいか
わからなくなり、「…一緒にビアラオ飲んだよ。」と言うにとどめておいた。

ガイドいわく、今日はヴィエンチャンの世界遺産を回りまくって見まくるのだという。
(わたしが海外旅行で三大興味ないモノは、遺跡・世界遺産、寺・協会、美術館)
うへぇぇ、と辟易しそうになったが、今回の旅は、ひとまかせにしたほうがおもしろいことが起きそうな予感がするので、ついていくことにする。が。
「…それはわかったけど今すぐ軍事博物館に連れて行ってくれ」と嘆願し(←ミリタリーマニア)、
真っ先に連れて行ってもらった軍事博物館は前日がメーデーで振替休日のため閉館していた。
「がーーーーーん!!!!!」と大げさにショックを受け、炎天下の入り口で悲嘆にくれていると、門番が門を開けて、屋外展示物だけ見せてくれた。
「屋内は鍵がないから、ほんとにしょうがないんだよ」と、一生懸命慰められる。
ここを出たら寺地獄だ…!と思いながら、屋外展示物の戦車やプロペラ機と一緒に記念撮影。
いや、決してネタではなく、ここの軍事博物館はラオスの歴史を学べるからいいと聞いてたのに。

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(これがうわさの軍事博物館だ!)

まずはヴィエンチャンで一番有名なタート・ルアンへ連れて行かれる。
毎年5月には毎週やるらしいロケット祭りをやっていた。ロケット(花火)を積んだ派手々々な
デコレートのトラックが並び、人々は寺院の中を楽器をかき鳴らし歌いながら練り歩く。
収穫の季節に向けた雨乞いのようなものだそうで、神に祈りが届くようロケットを打ち上げるとか。
ロケットのごとく飛ばすべし、という意味らしく男根を模した飾りなどもあり、
「うひひひ」的に反応を楽しむ老婆と、「あくまで信仰心だ」と目を合わせずにわたしに説明を
してくるガイドの三者やりとりに苦笑。
やり手の老婆が去った後、しきりに「祭りだからみんな浮かれているのだ」と謝られた。

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(タート・ルアンとデコトラとロケット。)

寺院のなかに入っていくと、オレンジ色の献花が無数にあり、いろどられている。
そのなかで白いプルメリアの花を見つけると、ガイドはにこにこと嬉しそうに笑って
「この花は、持ってっていいよ」と言う。なんでも彼の奥さんが家の庭でこの花を育てていて、
一年かけてきれいに咲いた花を、お祭りの時にはここに寄付しているんだそう。
おかげでこのガイドのことを知らない現地人はおらず、入場料も免除されたのだった(笑)
ゲートでの、財布を出す彼と現地係員の「金はいらん」の現地語での押し問答を思い出し、
その場で説明をしなかった彼の謙虚さにも、ラオスの国民性を思う。
悪いな、とおもい、かわりに土産物屋でなにか買おうとした際も、「ここは地元住民が作ったものが多いから、けして質は良くない。無理に買わなくても、あとでマーケットにつれてくから」などという、観光立国にしては信じられないようなせりふが飛び出した。
だいたいのアジアの観光地といえば、現地と結託してぼったくり、ぼったくるまではいかないとしても土産物屋に案内して客が買った際には何%かのマージンが入るようなビジネスが主流だというのに…。
たとえ日本の代理店であっても、である。ついこの間JAL系列の旅行会社がようやく「お客様を無理にショッピングにお連れしません」という声明を出したほど、そういった行為は当たり前になりつつある。

バックパッカーの聖地といわれ、十分に観光摺れしているはずのラオスでのこの体験は、わたしにはじゅうぶん革命的な出来事であった。

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つづく。

2010/06/14

地球の舳先から vol.171
ラオス編 vol.8

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これまで旅をしてきたなかで、色々な人に会い、色々なことが起きてきた。
でも、ここまで、宝物のように大事におもう出来事はなかったようにも思う。
そしてそれが、何の計画もなく偶然性だけに任せたラオスの旅で起きたのは、
なんとなく、うれしいことだった。

主目的地ルアンパバンに抜ける行程のなか、「首都だし寄ってみるか」と1泊だけ滞在した
ヴィエンチャンの名物は色々あるが、世界遺産に興味の無いわたしにとって一番は「夜市」。
(世界遺産に興味がないならラオスなんて行くんじゃない、というお叱りは、あとで聞く。)
メコン川沿いに立ち並ぶ屋台が熱気に包まれている、とガイドブックには書いてある。

が、台湾やアジア諸国のそれとはまるで様相が違う。とにかく庶民的なのだ。
手作りのテントで、今日揚げたらしい魚を並べている列が、たくさん並んでいる。
過度な客引きも無い。そして川沿いぎりぎりのさらしの砂の上には、移動型屋外レストランよろしく、プラスチックのテーブルや、じゅうたんにクッションが置かれたような即席的なスペースが川沿いを長く続いている。
日本でいうところの花見のように、人々は適当に座り、屋台で頼んだ食べ物を楽しむ。
のだが、とにかく暗い。たいした照明などあるはずもなく、さながら闇鍋のよう。
コーフンしてカメラを握るわたしの前を遮りかけた男性が立ち止まり、苦笑して「日本人?」と聞く。

久々の日本語。いわゆる「外こもり」の雰囲気に、長期滞在者だろうと踏む。
「カメラ構えてんのだいたい日本人なんだけど、ここ撮る人、あんまいないんだけどなあ」
ラオスのオーラをまとう彼と、睡眠不足を押してビアラオを一杯ご一緒することにした。
(結局、大瓶で3本になるんだけど。)

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東京という場所と距離を置きたがったわけは話さなかった彼は、
ヒマラヤの山間に数ヶ月篭った後、素通りする予定だったこの地に数週間いるのだという。
彼のような自由は時間的にも経済的にもないけれど、気持ちはなんとなくわかる気がした。
旅は、わたしにとって逃避や非日常ではなく、「居るべき(帰るべき)場所」を認識し、
日本に居る人たちや環境を何となくではなく自分にとって本当に大事なものだと感じるためのもの。いわば、「帰るために旅に出ている」というほうが近い。

この川を挟んで向こう側がチェンマイだ、ということもはじめて知った。
泳いですぐに渡れそうな気さえする、対岸の光。国境って何なんだろう。いや、政治なんだけど。
「チェンマイはこんなに見えてるのにバンコクは銃撃戦で、ここはこんなにのどかなのにラオスの国内にはまだ内戦があって。旅をしてると色々、わからなくなる」と言うわたしに、彼は真顔で言った。
「とりあえず、あっち側に綺麗な女の子が居るっていったら、俺は迷わず泳いで渡るね」
…国境なんて、ホントはその程度のものでいいのかもしれない。

なんでも、わたしたちがビアラオ片手に座るさらしの砂は実は天然のものではなく、中国がダムに水を引き上げて減った水嵩部分に韓国の資本家が砂を投下し埋め立てたものなのだという。
そうして人為的にラオスの国土はすこしずつ増え、タイとの距離はすこしずつ近づいているのだが国境が「川」だけに誰も文句を言いようがないのだ、と。考えたものだ。
そして、そこにキレイな模様の布を敷いて寝転び式のクッションを置き、屋台から屋外レストランに発展させてしまった、ラオス人のたくましさも。

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(写真の向かって右側はすぐメコン川。)

メコン川は満月にかぎりなく近い月明かりばかりに照らされて、ゆっくりした波をうっていた。
ここにいたらなんとなく離れられなくなって、と、彼は言う。
「仕事でも恋愛…いや、プライベートでも、“波”ってあるじゃん。
 波がきたとき、それに気づけるのか、気づいたとしても、乗れるのか乗れないのか。
 イイ波が来てないのにいくらもがいてたってダメだし、
 この波イイんだけど大きすぎるからどうしよう、とか思ってる間に、行っちゃったり」
とろとろしてるから冷めちゃった鶏肉と、「言い値で買うな!」と一喝された10円のイカの干物。
ビールに氷を入れて飲むラオスの習慣のおかげで薄まったビールグラスに手を付けて、
やっぱりわたしはいま、旅に出るべき状態だったんだな、とはじめて自覚する。

仕事は楽しい。プライベートだって充実している。それはもう、この上ないくらいに。
ただ、どこかでちいさな選択を間違ってきたことは、過去に数え切れないくらいある。
そしてそれは忘れ去ってはしまえずに、贓物のどこかに引っかかっていたりする。
あとになって、結果からみて「あのときこうしておけば」「あんなことしなければ」
なんてことは、無数にある。気にしてたってしょうがないだろう。
でも、もう、5年も10年も前のことを未だにふと思い出すようなことがあったりして、
すこしずつ、普段では気にもかけない記憶の片隅に、澱のようにうすく溜まっていく。

でもきっと、自分で招いたとかアイツが悪いとかいって、なんとなく自分のなかで無理やりケリをつけてきたような「自分にふりかかったこと」は、誰かに責任があるようなクリティカルな話じゃなくて、きっとすべて気まぐれで読めない波のようなものだったのだ。
小さな波と大きな波はたえず自分を襲っていて、来ては返し、出会っては別れ、乗っては降りる。
世界は自分よりもっともっと、外側にある。自分のなかだけが世界なんだと、思いがちだけど。

そんなことを考えながら、音の無い川のながれを見ていたら、いままでに起きた些細すぎるちいさなことが、寄せては返していった。
すこしずつ、消化、いや、浄化されながら。

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(写真にうつる対岸の光はすべて、川を挟んだタイ・チェンマイ。)

真夜中をしばらく過ぎた頃、地図を取り出して帰りの方向を確認するわたしに彼は
「ここは治安がいいけど、万が一にもなんにも起きてほしくないから、大通りから帰って」と言った。
わかる。旅先で被害者になることは、自分だけじゃなくその国にとっても悲しい結果になる。
「一番安全だって言われてる通りで、殺された人だっているけどね」と付け加えながら。

「優ちゃんさ。どこの国からでもいいけど、天の川、見に行くといいよ。
 地球の形がわかるから。すげぇちっちゃいの、自分が」
手を振って別れ際、最後に彼はそう言った。
京都出身だという彼の、新宿の中心で磨いたのであろう、きれいな東京語だった。

明日は早起きしなくてもいいや、と思った。
強引な日程や予定にあくせくしたくない。ラオスがわたしを呼ぶように、旅をしよう。

恋して、旅して。

つづく。

2010/06/07

地球の舳先から vol.170
ラオス編 vol.7

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飛行機の中でいきなり「ユウさんですか」と名を呼ばれ飛び上がったワタシ。
ストーカーでもなんでもなく(残念)、例のチョイ悪でもなんでもなく(しつこい)、
ちょうど同時期にラオスへ行くということで、mixiのラオスコミュニティで情報交換をした
フォトグラファーのAさんだった。(にしてもよくわかったなあ…)
mixiの各国のコミュニティには、旅猛者や現地在住邦人の方が居て耳寄り情報を教えてくれるので、旅に出る前、わたしはかならずチェックしてみることにしている。
今回も、「なんかヴィエンチャン近郊に戦争系の小さい博物館があるらしいんですが」という、わたしのあやふや情報に対し、「聾学校の中にある小さい展示館じゃないかな」と、道案内と写真まで付けて教えてくださった方もいたのだ。なんてマイナー情報!

ラオス航空機内で出た、生野菜と乳製品という危険物のはさまったクロワッサンサンドイッチ…。
一瞬、成田-ハノイ便でもらったJALのフルーツパウンドケーキを持っていることを思い出す。
危険物のなかに挟まった、よくわからない肌色のソース。
ドリンクケージに載った、原色のジュース。ぎょっとして頼んだコーラのぬるいこと。
「ええぃうるさいわ、このニホンジンの血がぁっ!」と自分に突っ込みを入れ、
クロワッサンを豪快に3口で食す。
…来るなら来いっ!A型肝炎っ!

わずか1時間のフライト。無事、ベトナム・ハノイから、ラオス・ヴィエンチャンへ入る。
空港を出ると、もわっとする暑さと湿気。東南アジアの空気だ。
事前予習をしなかったからこそ、日本人ではなくラオス人のガイドを頼んでいた。
無理なく現地人とじっくり語り、触れるから。
市街までの10分位の車中、ラオスの歴史に関するオリエンを受ける(英語)。
淡々と語られる悲惨すぎる過去は、いつも反応に困る。日本についての言及は2点。
「1945年に長い征服から日本がラオスを独立させた。でもその後原爆で日本は敗北して、
ふたたびフランス統治下になる。」
「今、ラオスで多くのプロジェクトを日本が支援してくれている。」
この「プロジェクト(project)」という単語になにか聞き慣れない違和感を感じたのだが、
その印象のなぞが解けるのは、ヴィエンチャンを発つ直前まで先のことになる。

空港は近く、すぐにホテルに着く。

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なんとかわいらしい小綺麗なところなんだろうか。
スタッフも皆親切だがいやらしさがなく、まさに「田舎の素朴さ」といった感じ。
部屋に入ると…パッと見ただけで蚊を4匹、わたしの動体視力がとらえた。
…来るなら来いっ!マラリアっ!
と虚勢を張りながら虫除けスプレーを全身に浴び、蚊取り線香を大急ぎで取り出す。
(このコラムをいつも読んでくださっている読者の皆さんなら、わたしがどんなに自己防衛
と心構えをしているかわかっていただけるはずだ。無謀な旅などしていない。)

夕食は有名なレストランでラオス料理とご対面。伝統料理セットとビールを頼む。
ラオスのビール、「ビアラオ」は、アジアで一番おいしいとも言われているビールだ。
そうして出てきたラオス料理8点盛りセットは…

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…多いよ。

しかしこれが予想以上に美味しい。一番メジャーな料理は、ひき肉を炒めた「ラープ」。
わたしはパクチーは好きなほうではないが、この香草はこういう料理の仕方をするために
あったのか、と感動するほどの味。それに、あっさり塩味の春雨と肉団子のスープ、揚げ春巻き、ラオスのレストランではかならず竹の編みカゴに入って出てくる主食のうるち米。
ちなみにここでわたしは飛行機で会ったAさんと再びの偶然の再会をし、ご一緒した。

これだけご飯が美味しければ、この国での旅はもう大丈夫だ。
そんなことを思っていると、ウェイターが近づいてきた。
「C’est bon?」聞き間違いか、と一瞬耳を疑うが、まごうことないフランス語である。
おいしいか、と。わたしは動揺したとき思わず出てくる第一外国語がまだスペイン語なので
「Si」と答えてから、「Oui」とフランス語ではいと言いなおす。
にっこり笑って、「Combien the?」(お茶を一緒に?)と単語続きのブロークンながら続ける彼に
「はぁ、お願いします」とフランス語で答える。もはや絶対に聞き間違いではない。
日本人相手に片言のフランス語を勉強してみたかったとは考えづらいので
過去もアジアと中東ではフランス人に間違われた輝かしい経歴のほうを採用しておこう。

さて、夕食を終えたわたしはひとりになった。予定も無い。
元々ヴィエンチャンは、主目的地ルアンパバンへの足掛かりに儀礼的に寄っただけだった。
翌日の昼にはもう、この地は発ってしまう。
夜風にあたって散歩でもしようと、何の思い入れも目的も無かったはずのわたしはこの日、
「旅」とはなにか、を自分にとって本当にたいせつなものとして考え直す出来事と出会う。

つづく。

2010/05/31

地球の舳先から vol.169
ラオス編 vol.6

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飛行機の遅れで、もう乗り継ぎができるかわからない時間に、
ベトナム・ハノイの空港に着いたわたし。
ここから、目的地ラオス・ビエンチャンまでたった1時間のフライトなのに。

うーろうーろ、うーろうーろ。誰かに聞こうにも、ヒトがいない。
一応最大限の努力をしようと「とらんじっと!びえんちゃん!」と叫んでいたら
色々な人に指をさされ、ようやくトランジットカウンターが見つかった。
何人か並んでいるが空気は牧歌的であり、そこまで切羽詰った乗り継ぎ客はいなさそうだ。
が、ボーディングパスを印刷する機械が壊れたらしく、グランドスタッフは
機械を4人で囲み、「あーあ」みたいなことを言っている。
「これだから後進国はよぉ」と、モデル風のおねえちゃんを連れた男性が日本語で毒づいている。
わたしは、相手が日本人であることも一瞬忘れ、彼をまじまじと見てしまった。

…ベ、ベトナムが後進国だと…?

わたしは一瞬耳を疑った。ベトナムが後進国だったら、世界の9割がたが後進国ではないか。
しかし、昨今の東南アジアブームとベトナム=スパとおいしい食事!というテレビの洗脳に惑わされ、「ベトナム=観光立国=しっかりしている!」という勝手なイメージがあったのも確かだ。
今回の旅のタイトルが「ラオス6日間」から「ハノイ6日間」になる、色合いががくんと濃くなる。
…ちょっと待て。
ここでわたしは、最も牧歌的だったのはここまでの自分の言動だったことに気付く。
成田で「ビエンチャンまでの搭乗券を出してもらえないか」ともっと食い下がるべきだった。
少なくとも、わたしが乗り継ぎ客だということを、搭乗した時点で伝えるべきだった。
出発が1時間遅れた時点で、ハノイのグランドスタッフに連絡を取ってもらうべきだった。
最悪でも、着陸してすぐ、一報を入れてもらうべきだったのだ。
空港インフラの強力でない国(後進国とは言わない。意味が違うから。)に旅するときに
当たり前にとる防御術を、省いていたのはわたしのほうだったのだ。

…こ、これもすべてはあのチョイ悪のせいだ…!油断させやがって…!

と見当違いな逆恨みをしながら、わたしのサバイバル危機感にようやく危険信号が灯る。
並んだカウンターの中に向かって「ハイッ!」と効果音つきで手を挙げると、
「ワタシはラオスのビエンチャンに行くので、あと10分で飛行機が出マスっ!」と訴える。
係官たちは一瞬静止し、「Vientien?!」と血相を変えた彼らのバケツリレーは見事であった。
故障した機械は見捨て、白紙のボーディングパスに手書きでなにごとか書き連ねる姉ちゃん。
その間に、トランシーバーでなにごとかを連絡する青年。
ハンコを押しまくっている、偉い人っぽいおじさん。
準備が整うとカウンターからは別の青年が飛び出してきて、
目の前の階段を指さして「Upstairs(上の階)!!」と大真面目な顔で叫ぶ。

おお、とその迫力に気圧されながらもわたしはスカートのすそを持ち上げて、階段を駆けあがる。
あがったところにはまた違うスタッフが待ち構えており、わたしの荷物をぶんどるとX線検査に見事な横入りをして、金髪のおねーちゃん軍団を「オゥ」とか言わせている。
どこまでもニホンジンなわたしは、横入りした列の人々に「アイムソーリー、アイムソーリー、
フライト ディレイ」と繰り返しながら、人の輪を通過してゆく。
荷物係の青年はX線より向こうには行けない決まりらしく、ガラスの壁の向こう側から「Number3!!」
とゲートナンバーを教えてくれた。幸いにも、いちばん近いところ。
また中から人が出てきてゲートを開け、超長い外階段を「ここから降りろ」と言われ…
わたしは最後の乗客として、ぎりぎりで飛行機に乗り込んだのだった。

なんとなくの予感で、スーツケースで来なかったのは大正解だった。
すべて機内持ち込み手荷物にしていたので、相当な時間の短縮。
これで荷物のピックアップがあったら確実に間に合っていなかっただろう。
とにかく、乗った。
最後の乗客になったのは、まだいたいけな10代だった頃はじめてキューバへ行った時、
同行の相方が犯罪者扱いされてメキシコへの便に乗り遅れかかったあのとき以来だ。
そういえばあの時、ヨーロッパ人ばかりの乗客は、息を切らせたわたしたちが機内に到着すると
一斉に拍手と歓声が沸いていたっけ。。

最後のバケツリレーを思い返しては感心しながらも、腰をおろして「あぁ~」とおやじみたいな
ため息をつき、座席に沈んでしばし体力復活をはかる。
たった1時間のフライトなので期待していなかったのだが、ランチボックスが出た。
中を開けると、クロワッサンに生野菜とチーズが挟んである。
「…た、試されている…!」
水/生野菜/乳製品、口にしてはいけない(とJ○Bなどのツアーに乗ると言われる)
三大キケン物のうちふたつが挟まっているではないか。
まずは軽いジョグだな、と思い、腸の強さにはそこそこの自信があるわたしは迷わず平らげた。

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想定外に汗をかいたので、とりあえず着替えようと思い、きょろきょろしていると。
後ろの席からふと、声がかかったのだ。
「あの…ユウさんですよね?」

わたしはまたドびっくりして飛び上がった。
なんだってこう、目的地に着く前から、今回の旅は想定外のことばかり起きるのか?!
さてその声の主とは。

つづく。

2010/05/26

地球の舳先から vol.168
ラオス編 vol.5

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なにせ、世はゴールデンウィーク。そういえばこの季節の旅は久しぶり。
尋常でない成田空港の混みっぷりを想像して、空港敷地内のホテルに前泊した。
朝はフライトの3時間前にだいぶ前のめりで到着。ところが、だ。

「…大丈夫じゃないのか日本は?!」

思わずの第一声。ガラ空きなのである。カウンターなんて3分の1しか稼働していない。
今年は2日休めば8連休にできただけに4/29に出発した人も多かったのだろうが、
それにしてもこの空きっぷりは尋常でない。
まったく並ばずチェックインを終え、保安検査、入国管理までが、ものの5~10分という至上最速。
そんなに景気は悪いのだろうか。それともアレか、火山のせいか。
などとぶつぶつ言いながら、完全に想定外の3時間の暇つぶしのため、
連休初日の午前中から知人に電話をかけまくるという迷惑な人と化す。
「電池なくなってつぶやけなくなるよ」とアドバイスしてくれたIちゃん、ありがとう。

約6時間で成田からベトナムのハノイへ。乗り継いでラオスの首都ヴィエンチャンへ入る。
早速、離陸までに1時間も遅れたJAL。機長は焦っていて、機内放送がおかしい。
「た、ただいま、この飛行機は………成田空港の………じ、渋滞により、」
あ、飛行機に渋滞とか、あるんだ…。機内のあちこちでくすくす笑いが起きる。
チェックイン時、非常口隣の席(非常時のスペース確保のため、前に席がないのでゆったり足を伸ばして座れる、エコノミークラス最高の席なのである)が空いていたのでそこにしてもらっていた。
しかもビジネスクラスの真後ろ(つまりエコノミーでは最前列)という滅多にない幸運なので
わたしはファーストクラスに乗るかのごとくはしゃいでいた。

席を探すと体格の良い、チョイ悪オヤジ風な男性がすでに座ってくつろいでいる。
優先搭乗か、と直感で思う。エコノミーでも、常連やVIP客は先に機内に入れてもらえるのだ。
大方、ビジネスクラスがオーバーブッキングでもして、焦った航空会社が
エコノミーの中ではイチバン良いこの席を確保したとかそういう状況なのだろう。
フライトの6時間を隣ですごすのだからと軽く会釈して席につき、わたしも荷物を整理。
待っている間、一番おばちゃ…いや、ベテランのCAさんがチョイ悪オヤジのところへやってきて、
「○○様、いつもありがとうございます。本日は大変失礼をいたしました」
と、予想通り、わたしの隣の人にうやうやしく腰を折っている。

…それはいいのだが。

わたしはそのチョイ悪オヤジの愛人だとCAさんたちに暗黙の了解(勘違い)をされたらしい。
ベトナムの入国カードも、当たり前のようにチョイ悪オヤジに2枚渡しているし
ビジネスクラス用のお酒をもらったり、機内食もビジネス用と、
完全にチョイ悪オヤジのおこぼれをあずかることになるのだった。
チョイ悪オヤジは気まずそうにするどころか、「ラッキーやな」などと言っている。
この関西人め!と思いつつ、高いウィスキーのミニボトルを握り締めてわたしはご満悦。
ああ、なんて安い女…。

「富士山が見えますわよ」とベテランCAに言われ、生まれて初めて富士山を真上から見た。
真っ白なものかと思っていたら、噴火口が黒く大きく開いている。
「スッゲー!」と感動するわたしを微笑ましく見たあと、ベテランCAははんなりした仕草で
チョイ悪オヤジに微笑みかけたりしている。だから、違うって…。
「わたしこの人の愛人じゃありませんよ?!」などと言い出せるわけもなく…。

今回は、昼前に出て夕方にベトナムの北部・ハノイに着くという時差ボケゼロコース。
しかし飛行機は、一向に成田空港渋滞の遅れを取り戻す気配がない。
ハノイでの乗り継ぎ時間はわずかに1時間だ。
本来の着陸予定時刻を過ぎた頃CAにそれを告げるとかなり動揺していたが、
それは遅れによる動揺ではなく、愛人扱いした自分の勘違いに気づいたからだと思う。
接客業もタイヘンだ。

さて、乗り継ぎが危うい。別系統なので乗り継ぎ先までのチェックインができていないのだ。
(成田で乗り継ぎ先のフライトまで搭乗券をもらっていれば、待ってくれたりするのが普通)
そうは言ってももう到着地に近すぎて通信ができないとのこと。
「わたくしが、降りてからアテンドいたしますので」と言ったCAは
わたしがチョイ悪の愛人でないことがわかるやいなやどこかへ消えるし、
チョイ悪には「そんなけったいなトコへ行くからや」と言われるし、
なんだか海外旅行では当たり前に目の当たりにする格差社会に腹が立ってきた。

着陸後、シートベルトサインの点灯が消えたのは乗り継ぎ便離陸のわずか20分前。
普通の航空会社なら、離陸30分前には搭乗手続きを締め切っていてもおかしくない時間。
わたしの頭の中で一瞬、今回の旅のタイトルが「ラオス6日間」から「ハノイ6日間」になる。
ヤダそんなの!絶対!ベトナムなんていつでも来れるし!!

さて、わたしは無事にラオスに入れるのか。
それともチョイ悪との出会いが実は運命の出会いだったのか?
乗り継ぎの死闘はまた次回。

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