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2009/02/20

地球の舳先から vol.115
日本編 vol.10(最終回)

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きょう、三沢でクルマに乗ります、といったら、わたしに車線変更の仕方を教えてくれた人から
「撤退する勇気もときには必要です」とメールが返ってきた。むう。

朝起きると、雪が舞っている。雪が降っていたらやめよう、と前夜までは思っていたのだが、
雪国で運転できたら自信がつくだろうなあ、という妙な期待感がぬぐえない。
結局ニッポンレンタカーへ行ってしまった。即案内され、しかるべき位置にサイドブレーキがなく(ハンドルの横についていた。車種によって違うのね)焦るわたしなど目に入らないのか、イケメン店員ウエンツは大通りへ誘導の手を広げている。
ええいもうどうにでもなれー、とすごく大回りで道に出たわたしのそれからについては、多く語るまい。
「こっちは制限速度で走ってるんずら!悪いことしてないっちゃ!」と車の中で妙な文句を(しかもたぶん山梨語と福岡語)言い続けながら、八戸ナンバーに抜かれまくり、後ろに車がいなければ20キロ台で走る。
「ぶつかって事故になるより、のろのろ迷惑運転のほうがいくらかマシだね」というのがわたしの言い分だ。
山道、雪道、氷道。「記念館までなら道は乾いてますね」とウソを言ったウエンツを呪う。
止まるわけにもいかず、ナビに八つ当たりしながら山を越えて13キロほど走る。
間違うわけもないまっすぐな一本道、信号も交差点すらほとんどないのが幸いだった。

目的地の寺山修司記念館に着くと、広大な駐車場をいいことに前入れ(あたりまえ)で斜め駐車。
妙な汗を拭い、「着いた……」と感慨にふける。午前10時。
でも、荷物を重い思いをして運ぶ心配も、寒さの心配もしなくていいし、なんだかやっぱり魔法の乗り物のようで、自由に操れるようになれば快適な乗り物だろうなあ、と思う。

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それから丸々5時間、寺山修司ワールドを堪能。
故郷を捨てよと言い続け、三沢を憎んでいるかに見えた寺山の原点はやはり三沢。
記念館のVTRにもあったが、ほんの数年の三沢での生活がのちの寺山の作品の源泉となり、
短い時間ながら三沢を離れるときにはすでに寺山修司は寺山修司に「成って」いたのだろう。
寺山修司というのは非常にもてた男なわけで、その死後いろんな女性が「わたしこそ寺山の特別な存在」を訴えまくったおかげで彼の著作権は非常に複雑な問題化し、それゆえまとまりのない形でしか残されていない。
それをぎゅっと凝縮したのがこの記念館だった。

まさに太く短く、ぱっと咲いて散った彼の生き様はしかしすでに歴史となり伝説になりつつある。
「カワバタヤスナリ」「ダザイオサム」のように、作品の表情よりも名前が先行しつつあるし、
それは文学作品が「当時の価値観」をものがたり、「当時」から時間が離れていくのを止められない限り仕方のないことである。
しかしわたしは、寺山修司という人間のその切迫した生き方はやはり美しい、と思った。

本当は、彼のような価値観は命をすり減らすだけだとずっと思ってきた。
しかしこうして目の当たりにすると、それも案外悪くないのかもしれない、と思い始めたのだ。
みずからを偽って平和に、順徳に、安定を求めて生きることが、はたしてどれほど素晴らしいことなのだろうか。
「自分らしい」生き方を貫くことは非常に難しく、保守に入るほうがよっぽど簡単なこと。
「社会的」や「世間体」といってみたところで、その「世の中」に、いかほどの輝きや未来があるのだろうか?

置いてくるつもりだった価値観を逆によけいに募らせて、わたしはその場をあとにした。
これでよかったのだろう、と思った。
たしかめるためにここへ来たのだろう、とも。

end

2009/02/12

地球の舳先から vol.114
日本編 vol.9(全10回)

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実は今回の旅は、お金がなかった。
わたしにとって旅はライフワークであるので、毎月生活費とも貯金とも別に旅行資金というのを積み立てている。
が、今年はわたしは秋に本気でイエメンに行きたい気がしている。
マサさんの連載「幸福のアラビアだより」が気になりすぎるのだ。
航空運賃はまだ発表されていないが、今年は9月に奇跡のような大型連休があるので料金は吊り上がるはず。
つまり、今回の「国内」旅行に、金を使っている場合じゃないのだ。
しかしくさっても「旅」。エビやウニに指をくわえてコンビニのパンなど食べるわけにはいかない。

そしてもうひとつの誤算は、わたしがこれまた勝手に「トーホクは物価が安いはずだ」と決め付けていたことだ。
たしかにサカナは安かった。肉も安かった。
しかし旅館も星野リゾート様とはいえ2泊で4万円近くしたし、驚いたのはタクシー。
八食センターから八戸駅まで、10分足らずのタクシーが1500円もしたのである。
(道が広くて空いているので、かかる体感時間よりも実際は結構な距離を走っているらしい)

わたしが2つ目の今回の旅目的に挙げたのは「寺山修司記念館」の訪問だった。
しかしどう少なめに見積もっても、記念館までは直線距離でも10キロはある。

さすがに歩くわけにもなあ、と吹雪事件を思い出しながら逡巡しているとき、三沢駅前のある店が目に留まった。
「ニッポンレンタカー」。立ち止まってしまったわたしがいた。
わたしは去年の11月の終わりに免許を取ったばかりである。
5回も卒業検定に落ち、仮免許の有効期限が…というときに、
色々、$&×+α∴⇒┏ц≧∞┃ч¬な手段をつかって免許を取ったとき、
「こんなこわいもの絶対にもう一生乗らない」と心に誓った……のだが。

店員はウエンツのようなハーフ系美少年。
「東京にいてすっごく可愛いんだけど自分のこと可愛いと思ってないなんて人いないでしょ」という誰かの言葉がよみがえる。
この人、たしかに東京にいたらニッポンレンタカーの店員なんてやっているわけがない。三沢おそるべし。

「免許とったばっかなんですけど」
「初心者マークは貸し出しありますよ」
「……雪ですべりますか?」
「スタッドレスですからね」
……スタッドレスって何? なんかタイヤのCMで聞いたことある気がするけど。
横浜ゴム?織田裕司?ああ、思い出せない。

「チェ、チェーンとか、つけたことないんですけど、やってもらえるんですか」
「……あ、だから、スタッドレスなので。」
……だから。スタッドレスって何?!
いかん。ここであまり店員の恐怖を煽っては、クルマを貸してくれなくなるかもしれない。
「あっそうか、そうですよねーハハハ」
などと適当に話をあわせ、なんとなく予約することになってしまった。

不安すぎる。でも、あのやくざな運転をするタクシーがいっぱいいる246や明治通りを走れたのだ。
100万人いたら99万9993人くらいが常に急いでイラついている東京の街を煽られまくりながらも走れたのだ。
と自分を勇気付けるが、教習車以外で走ったことも、つまり教官や補助ブレーキなしで走ったこともない。
もはやアクセルが右だったか左だったかも覚えていない。ていうかシビックにしか乗れない。
左手でガチャガチャするやつは、DかRにしか入れたことがない。
ハンドブレーキは何のためにあるのかいまだに知らない。
でも、道広いし、車少ないし、人優しそうだし、案外大丈夫かも!

「クルマの大きさは、どうしますか」
「ちっちゃいの、ほんとちっちゃいのにしてください。」
「じゃ、禁煙車、ナビ付き、1000cc、予約しときますから。」
と、ウエンツは予約票をわたしに渡す。トーホク、やっぱ半端ない。
1000ccってクルマだよね?ナナハンってあの暴走族のよく乗ってるやつ、あれ750ccってことでしょ?
ってことはバイクとそんなに変わらないな!よし、大丈夫!

「ガソリンは満タンにして返してください」
ガ、ガソリンスタンド行ったことない。セルフじゃ絶対ムリだ。
でも、何事も経験だ!みんな最初は初めてだ!
「レ、レギュラー?ですよね?」
「……はい。」
なんだその間は。不安に思われたか?だってハイオクはトラックでしょ?軽油は業務用でしょ?ちがったっけ??そんなん、ガッコウデオソワッテナイヨ。
大丈夫、「レギュラー満タン」って言えばいいだけだよね。ああ、言ってみたい!

当然、朝から飲むわけにいかないので、この日はよく地酒を飲んでふらっと寝ることにした。

2009/02/06

地球の舳先から vol.113
日本編 vol.8(全10回)

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「ここに泊まれば青森の魅力がすべて堪能できる」が売り文句の、古牧温泉青森屋。
なんでも、毎日旅館のなかで「ねぷた祭り」をやっているらしい。…?!
というわけでその、祭りと地元の食事を堪能できる「みちのく祭りや」を申し込む。
旅館のフルコース夕食で5000円なので、やっぱりちょっとお得感あり。
トーキョーのシティホテルじゃ、ルームサービスでパスタとカレーを取ったらおしまいだ。

ホテルの小ホールほどの広場にはやぐらのように客席が組まれ、さっそく刺身が
前菜のように振舞われる。そのあとやってくるのは五段積みあがったせいろ。
おしながきはこちら。

■先付け
 珍味(アピオス 白和え/白ゴマ豆腐 蟹の旨汁/子持ち昆布 山葵菜和え)
 お造り(鮪 カンパチ 帆立 イカ 海老)
■五段セイロ
 一の段(里の幸)小川原牛/大根・水菜
 二の段(炊き込みご飯)青森県特別栽培認定米「つがるロマン」使用
 三の段(煮物)季節野菜の味噌掛け
 四の段(海の幸)青森県産魚介/おいらせ町特産長芋
 五の段 鶏肉団子/蛸のつみれ/県産ほかほかメークイン
■汁物
 名物「せんべい汁」県産・田子産きのこを使用しています
■デザート
 ながいもアイス/りんご

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食もたけなわ、の頃に祭りが始まります。ねぷたを踊る、伝統音楽を演奏する、といっても余興程度のものだろう、と正直思っていたのですが、物凄く本格的。
ホテルのスタッフが踊っているのか、踊りをする人がホテルのスタッフをしているのかわからない。
ミニチュアのねぷたの前で、次々披露される踊り、歌、楽器。
その迫力と完成度に、気圧されっぱなし。踊りたい。むくむく。

食事もとことん地産地消にこだわっていて、
アピオス(マメ類)など、ローカルで、今まで食べたことのない食材もあり。
会場を出たところにあるホテルの売店で現地食材、いろいろ売っています。
別館では市場もあり、食材や伝統工芸系のものも売っています。

はい、また食べ過ぎ。おそるべし旅館。

2009/01/31

地球の舳先から vol.112
日本編 vol.7(全10回)

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さて、なんとなくや勢いで三沢まで来たわけだが、つまりこれといって目的もない。
少し足をのばせば十和田湖やら、奥入瀬渓流などもあるのだが、観光疲れはしたくなかった。
こんなときは、わたしの場合、歩くに限る。
というわけで旅館を出発して、米軍三沢基地、三沢空港、市街、と地図ももたず歩いて回った。
歩いていた時間から逆算して、だいたい12~13キロだろうか。
しかし、わたしはトーホクというところをなめきっていたのである。

天気が良かった。道も乾いていた。
わざわざ着込んできたエベレスト登頂隊が採用したという保温ハイテク下着も、
楽天市場で800円で購入したムートンブーツも不要に思えた。
だいたいユーゴスラビアへ行ったときもカナダにオーロラを見に行ったときもそうだったが
寒い、凍る、死ぬ、マイナス○度、などといっても実はたいしたことない場合が多いのである。
が、知らない地でもあるのできっちり防寒してわたしは雪の三沢の街歩きに出た。

……が……。
何もない。店もない。コンビニがあると感動する(わたしの歩いた軌跡では2軒しか出会わなかった)。
しかし東京生まれ東京育ちだと、雪の中をあるくだけで結構楽しいものである。
ここの人たちはみんな車を使い、ほとんど徒歩でどこかに行くということはないようで、
歩道は雪かきされた雪の積み上げ場所と化している。
しょうがなく雪をよけて車道を歩くので、なんだか迷惑な通行人と化すが正月で車通りもあまりない。

三沢駅を出て三沢空港まで行ったくらいで、それまで防寒をしすぎて気づいていなかったのだが
ブーツが雪に負けていることに気づく。靴、靴下、タイツ、と浸水して初めて気づいた。
雪と水ってなんだかイメージが一致しないのだが、雪の中を歩けば当然靴はびしょびしょ。
「さ、さみぃ…ちめたいよぅ」ということになる。防水スプレーしてきたのに!
しかし歩いて体もほくほくしているので、とりあえずそのまま歩き続けるが
トヨタとかスズキとかのディーラーか、もうあとは民家しかない。

なーんだ、そろそろ引き返すかなあ、と思いぐるっと回りはじめてすぐ、いきなり吹雪になった。
雪が猛烈に横に吹雪いているのである。みぞれのようなものが顔にばちばち当たる。イタイよ。
こりゃヤバイ、と思ったが、ようやく発見した三沢駅行きのバス停の時刻表は日に7本。
こんなところで1時間も待っていたらどうなるかわからない。
しかし流しのタクシーなんて、いるわけもない。
観光地でもないので、道端に地図もない。ここどこ?!

赤くなった手がだんだん白くなってきて、危機感を募らせるも、周りには民家かトヨタしかない。
コンビニもレストランもない。凍死する!いや、しないと思うけど寒すぎる。
八戸人フィルコさんが「鼻毛も凍る」と言っていたことが今になって蘇る。
どうしよう、いよいよやばくなったら民家に助けを求めて、タクシーを呼んでもらおう。
でもそれはあまりに格好悪いから、もうちょっと駅に向かって歩いてみよう。
と思ってとりあえず大通りを目指し、交差点を曲がったとき。看板が見えたのである。

「岡三沢温泉」

なんだかきらきらして見えた。わたしはぐしゅぐしゅのブーツを引きずって入り、280円の入浴券を買う。
地元の人の集まる銭湯のようなもののようだ。
冬の海に飛び込んだら心臓が止まるように、これだけ冷えていて温泉に飛び込んだら死ぬかもと思い
わたしはサウナに直行した。5分計があるので計る。
10分も我慢していると、体の表面からは汗が出るのだが、驚くべきことに吐く息がまだ冷たいのだ。
これが、「体の中が冷えている」ということなのか?!
さらに5分もすると、息はあったかくなったが、奥歯が冷えたままだった。
体の部位でも、冷えやすいところや温まりにくいところって色々あるんだなあ、と感動しつつ
命拾いしたわたしは、トロン湯、寝湯、電気風呂などいろいろ試して温泉を出た。
(電気風呂はびりびりして、とても怖かった。)

もう絶対にタクシーを呼ぼうと思っていたのだが、出てみれば外は再びの快晴。
おまけにあったまったわたしはまたも調子こいて、歩き始めた。
そして今度は無事に駅に、そして宿に着いたのだった。

北東北、あなどるべからず。
そして、きっと東京人は「身体」のポテンシャルがものすごく低いと思う。
都道府県別に代表をだして、サバイバル対決とかしたら真っ先に負ける気がするけど、どうですか。

2009/01/27

地球の舳先から vol.111
日本編 vol.6(全10回)

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写真は、旅館・古牧温泉青森屋にある食堂の入り口にある台所。
演出を凝りまくる古牧温泉、「ばんげまんま」(八戸語で夕ご飯)の準備すら、こうやって見せてくれる。
バイキングだからと期待していなかった夕食は、地産地消をコンセプトに名物ばかりが並ぶ。
惣菜も煮物も漬物まで、いちいちこだわっていて、いちいち美味しい。
さすが寒いところだけあり、汁物がとてもおいしい。お正月なので雑煮もある。
それに「今日の刺身」やら、その場で焼いてくれるステーキやらがあるのだからもうどうしようもない。
おそらく100種類以上あったのではないだろうか。すこしずつ、ほとんど全部食べた。
大好きになったのは「せんべい汁」という、名物の南部煎餅を入れた具沢山の鍋のような澄んだお汁。

夜の最後は、またしても古牧温泉の浮湯にて。
バイキングで「もう吐いてもいいや」と開き直って食べたため、あまりにふくれた胃をどうにかしようと、そのままサウナへ。
…で、うとうと(←真似厳禁。死にます)。
この日はなぜか子供が多かった。

すると、割と年配のお母さんと、男の子と女の子がサウナへ入ってきて、しきりに母に話しかけている。
いわく、「あそこにね、黒い岩みたいなのがね、どぅーって、どぅー!」と訴えている。
ああ、きっと浴槽のまわりを泳いでいた鯉の事だろう、と思って子どもたちを見ると、指差している先は空。

見ると、ふたたび吹雪き始めた雪が、露天風呂を照らすライトのまわりだけ見えていた。
照明がないところは、真っ暗すぎて雪の姿が見えず、明るいところはほんとうに、一面吹雪いていた。
照明の光ののびる範囲にだけ雪が照らされるその光景はまた、神がかったものがあり、息を呑む光景。
空中でぽかんと、その範囲だけ雪が吹雪いているように見える。
わたしもまた、釘付けになって雪を見ていた。

子どもの目からしてみたら、雪の面積よりそこから見え隠れする空の黒のほうが少ない面積なわけで、
それで雪より空のほうを意識して「黒いものが動いている」という表現になったのだろう。
と思うと、子どもの視点と想像力には、はっとせざるを得ない。
無垢なんて言葉でごまかすべきではなく、彼らの目には「見たまんま」が映っているのだ。

なるほどなあ、とひたすら感心していると、吹雪をみつめるわたしの視線に気づいた母親が
ふいに眉間に皺を寄せてその子に「わかったから、静かにして」と言った。
わたしは一瞬、虚を付かれたというか、何のことだかわからない気がした後、これにも感心してしまった。
すこし東北なまりが入っていたので、お母さんにとってはわたしほど雪など珍しいものではないのだろう。
それを差し引いても、お母さんの目に先に入ったのは、子どもの指したあの神々しい雪景色よりも、他人であるわたしの反応だったのだ。
わたしにとってはその子どもの驚きの声は決して迷惑などではなく、
むしろわたしはしかるべき場所以外では子どもがキャーキャーいったり無駄に走りまくってそれで無駄にコケたりするのは正常で健康なことだと考えているのだが、
たしかに見渡してみると子連れの母親たちは皆、公共の場で自分の子どもがひたすら黙って動かないことを望んでいるようだ。
じゃあ連れて来んなや、と思ってしまうのだが…母親というものはどうも、面白くなさそうな職業である。

子どものほうもなぜかやたら聞き分けがよく「ウン、寝てる人がいるから?」「そうよ」などと話している。
いや、サウナで人が寝ていたら起こしてあげたほうがその人の身のためだと思うのだが。
実際、地酒4合でサウナの中でうとうとしていたわたしは子どもの声で目が覚めたのだから…
そんな子ども(推定10歳くらい)と年配ぎみの母親(推定40歳半ばくらい)を見くらべながら、
ふと自然と浮かんだのが、自分でも不思議な疑問だった。

いまのわたしは、この子どもと、お母さんと、どっちの方に近いのだろうか――

不意に浮かんだようで、すごく本質的な疑問だな、と自分で思った。
空をさして「黒いものがいるぜ」とは、やっぱり言えない。
だが、その逆は? と問えば、わたしにはまだそこまで大人にもなりきれていない気がする。
これもモラトリアムかしら、とか思いながら、重い胃を引きずって部屋に引き上げる。

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(湖をはさんで中央左寄りにみえるのが、わたしが泊まっていた棟)

2009/01/23

地球の舳先から vol.110
日本編 vol.5(全10回)

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「ちょっとした外国だから」。八戸人のフィルコさんは、そういった。

三沢には、いや、北東北には、あきれるくらいたくさん温泉がある。
わたしは温泉とかスパとかサウナとかが大好きで、家を買ったら絶対ミストサウナを設置するときめている。そんな決意はどうでもいいのだが、とにかく色々な温泉に行きたいなぁ、と思っていた。
古牧温泉旅館から出て、まず行ったのはここと源泉を同じくする「元湯」。

古牧温泉青森屋からはバスが出ていて、歩いても500m程度。
「泊まってます」というとフリーパスである。
浮湯のような豪華で”狙った”感じはなく、銭湯みたい。中も、かなり手狭。
内湯がひとつ、でもお湯は浮湯よりぬるぬるしていて本格的っぽい感じもする。

地元の人がよく使うようで、おばあちゃんや子ども連れがいっぱいいる。
ぼーっとしていると、話しかけられる。のだが……

「@&%$#”*〇 ̄ヾк☆>Я¢?」
風呂上り、となりに座ったばあちゃんに話しかけられて、わたしは思わずぽかんとした。
……まるで何を言っているかわからない。外国語?

わたしはびびって、目を泳がせ、「あ」とか「う」とか言って、言葉が出てこない。
曖昧に笑って首を傾げ、目を伏せてしまう。
自分でもちょっと意外だった。

インドでベンガル語で話しかけられて「げんき、げんき」と言い(日本語)
アメリカで「みずください、みず」と言い(日本語)
クロアチアで「おなかが空いて死ぬるよ。レストランどこ?」と言い(日本語)
モンゴルで「今日の日の入りは何時ですか」と言い(日本語)
成り立っているのかまるで不明なコミュニケーションをとってきて早10年。
「ことばがわからなくて黙り込む」なんてシチュエーションには、自分には皆無だと思ってきたのだ。

ところが、である。
当の日本で、わたしはすっかり言葉を無くしていた。
湯にふたたび浸かりながら、わたしはよくよく考えた。

あの赤いパスポート。不審な国たちで汚れながらも、
「アメリカに入れなくたって地球は1周できるね!」と意地を張って一緒に旅し続けてきた。
思えば各国での入国の手続きこそが、わたしを大胆に、というか開き直らせてきたのだろう。
違う国へ行く、ということとともに、旅に出るたびに、色々と難しい国へ行くことが多かったこともあり
「わたしは日本人である。そしてそれはしょうがないことなのである。」
という一種の覚悟とアイデンティティを、赤いパスポートを出し戻ししてもらうたびに
確認してきたのだ、ということに思い当たる。

だから、何が起きてもほとんど受け入れてきた。
爆破で飛んだ建物の跡地を見ても、脚のないひとたちを見ても、
時間通りに来ない列車も、注文したものをもってこないレストランも、
ぼったくりも、言語の壁も、ジェスチャーとか表情とか、そういうもので超えてきた。

入国管理のあの瞬間は、わたしが「旅モード=フラットな精神状態」にスイッチオンするための
フェスティバル、一種の儀式であったのだ。
なんの手続きもいらない、ただ列車に乗ってビール(サッポロ)を飲んでいれば着いてしまう、
地続きの場所に飛び込むには、「覚悟」の儀式が抜け落ちていたのである。
この点において、わたしは国内旅行というものをなめていたのかもしれない。
3時間も新幹線に乗れば、そこは間違いなく異国なのである。

以前、いまでも尊敬している某氏が「東京はね、マーケットなんですよ」と言っていた。
東京には、いろんな人がいろんなものを持ち寄ってマーケットになっている。
マーケットは市場だから、価値換算がすべての基準になる。
「だって東京にいて、すっごく可愛いんだけど自分の事可愛いと思ってない子なんていないじゃない」
とその人は笑っていた。そして、マーケットっていうのは本来、人が住むべき所ではないのだ、とも。

東京に生まれ育ったわたしが、本当の意味でその言葉を理解しているとは思えない。
けれど、東京が、いわば「証券取引所」のような存在であるということはなんとなく理解が及ぶ。
東京にいては、日本という国は見えないのだとも。

しかし、海外に出るような「旅のスイッチ」は、やっぱりパスポートという「記号」なしには入らなかった。
不思議なものである。スタンスの立ち位置が宙に浮いたまま、おばあちゃんと目を合わせないようにしてわたしは雪道を歩いて帰った。

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2009/01/19

地球の舳先から vol.109
日本編 vol.4(全10回)

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海鮮と肉に後ろ髪をひかれつつ、わたしは八食センターから最後の年賀状を何枚か書いた。
今年は公私をあわせて3種類のデザインで年賀状を書いたのだが、全部で1000枚を越えたため、12月10日から頑張ったのだがこの日まで全部書ききらなかったのだ。
届くのが遅れても、消印が青森ならなんだか許される気がしませんか。えっ、しない?
わたしはもともと旅先から人に手紙を書くのが好きである。
年賀状なんて特に普段会わない人にも出していいわけで、もともと書くことが好きなこともあって
いろいろ思い出しながらついついいっぱい書きたくなってしまい時間がかかのである(言い訳)。
というわけで鷲見さん辻先生への年賀状も、イカを食べながら書いた。ごめんなさい。

が、宿の迎えのバスに間に合いそうになく最後スーツケースをゴロゴロせずに抱えて走ったのは、
八戸駅の回転寿司屋に入ってしまったからである。
何せ、楽しみにしていた八食センターの寿司屋は例の断水事件で閉店。
「うにとあわびの入ったお吸い物」だという「いちご煮」が頭から離れなかったのである。
八戸駅に寿司屋を見つけると、「でも駅の寿司屋じゃなあ」と思いつつ札幌でたかがデパートの
レストラン街の海鮮丼がビックリするくらい美味しかったのを思い出し、入ってしまう。

いちご煮がくるまでなにか食べないと間が持たない、と思うがわたしは実は回転寿司屋が苦手。
この歳になってわさびが苦手で、食べられるけれどもわさびがついていると魚がなんであっても
もうわさびの味しか感じないのである。
かといって回転寿司では寿司は回っているのに新しく握ってもらわなきゃいけないし、
板前さんに「エビサビ抜きぃ」とか叫ばれるのもこの歳になって恥ずかしいし、
第一なんか忙しそうだから頼みづらいし「回ってんの食えやこの面倒くさい客め」とか思われている
ような気がしてならなくて(←被害妄想。案外小心者)、気が重いのである。

しょうがなく、わたしが取ったのははじめからわさびのついていない「納豆」と「生うに」。
この「うに」がとろんとろん溶けちゃう美味しさで、わたしはもうひと皿うにを取り、
なんかの貝殻にたっぷりぎゅう詰めされた「焼きうに」なるものも取り、
いちご煮を食べてまたうにを食べた。
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そしたら、バスの時間が1分過ぎていた。
で、「エフッ」となりながらスーツケースを抱えてバスに飛び乗る羽目になったのである。
こうして、今回の旅の一番の目的である「古牧温泉青森屋」へと向かった。

小牧グランドホテルが経営破綻後、気鋭のリゾートプロデュース会社「星野リゾート」が再建。
東京ドーム15個分という22万坪の敷地内にはJRの鉄道も走り、公園や沼もあって
旅館というよりはちょっとした街である。
内装は古い旅館そのままを思わせるが、10畳の和室+洋間+床の間は、1人で過ごすには広すぎるくらい。

圧巻だったのはこの温泉旅館の名物である「浮湯」。

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(写真:宿の公式HPより)

湖に浮かんだ露天風呂、というわけなのであるが、内湯を一歩出ると大きな湖の一番奥に滝が流れている。
その湖にまるい浴槽が浮かんでいて、まるで滝から流れているのが源泉で、湖そのものに浸かっている気分。
浴槽は細かく深さが分けられていて、寒さを癒すために肩まで浸かることも、
たまに浴槽の外の鯉も泳ぐ湖の水で涼をとりながら半身浴で長湯することも、
寝転がって満天の星空を見上げながら温泉することもできる。
ここで、暮れなずむ夕陽と輝きをだんだんと増していく三日月を静かに見る。

雪と岩に閉ざされ、ほんのりライトアップされた滝と湖、そしてあまりの温度差に
作り出される温泉の湯気に包まれ、綺麗というよりは荘厳な印象さえ与える。
こちらを手がけている星野リゾートさんの看板宿、軽井沢にある「星のや」へ行ったときも思ったが
星野リゾートの手がけるところはどこも、日常との切り離し方が非常に巧みである。
誤解を覚悟で言うのならば、なにかあの世の世界のような、
むかし日本むかしばなしかなにかで出てきた極楽浄土のような非日常の空気とオーラは、
わたしたちの生きている世界と地続きとは到底思えないような空間なのである。

急遽休みが取れたということで1泊だけ呼んだ母も、温泉嫌い(熱いのが苦手だから)にも関わらず
「感動した~」と言っていた。
そう、まず感動するのである。温泉のくせに、気持ちいいとかそういう問題じゃなくて。
こうして、古牧温泉の夜は静かに更けていった。

(冒頭写真:古牧温泉青森屋 敷地内にある池)

2009/01/12

地球の舳先から vol.107
日本編 vol.3(全10回)

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八戸に着いたわたしが一路目指したのは、100円バスに乗って10分のところにある「八食センター」。
名物である海鮮市場であり、東京からもここへ行くツアーが企画催行されるほどの人気スポット。
加えてここに出店している岩村商店さんはフィルコさんの高校の後輩で、網元さん!
魚だけではなく肉もあり、買ったものをその場で焼き食いできる七輪貸し出しスペースがあり、
レストランもある。ここまで着たからには食を堪能せねば。

朝10時、意気揚々と八食センターに一歩踏み入れたわたし。
……が。一番手前にあったレストランは暗く、手書きの看板が。
「本日断水のため閉店いたしました」
何ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ?!
八戸市は、元旦早々から市内の水道管が破裂して、3日間にわたって断水となっていた。

日本なのに…国内旅行なのに…。
旅の神様というものがもしいるのだとすれば、わたしのことが嫌いなのでしょうか?
しかし八戸はあくまで経由地。目指す目的地の三沢市は大丈夫なはずである。

とにかく、八戸といえばイカだろう。と旬も考えず思ったわたし。
(実際には、フィルコさんがイチ押ししていたホタテがやっぱり一番美味しかった)
イカを七輪で焼き食いしようと思っていたのでさばいてくれ、と頼むと
「水がないから包丁つかえない」と言われる。 ガーン。
わたしは岩村商店へ行って同じことを頼んだが、同じことを言われる。
わたしはショックな表情で無言で、でもなぜかイカの乗った皿をもう一回おばちゃんにひょいっと差し出してみた。
この自分でも意味不明なおねだり(?)におばちゃんは引いたのか面倒になったのか、
「よく焼いてね」と言って包丁をふきふきし、イカをさばいてくれた。やった!
大丈夫!わたしはインドの水を飲んでも腐ったものを食べてもお腹は壊しません!

そのほか、ホタテ、赤貝、ハタハタ、エビ、カキを買って銀色の皿に乗せて貰う。
その後、肉コーナーへ行き、十和田和牛、倉石牛、短角牛のスライスを購入。
量が少ないこともあり、これだけ買ってなんと肉魚合わせ2000円ちょっと。びっくりである。
これらを七輪でじゅーじゅーし、ビール片手に食べる。どれもおいしい。
皿、箸、しょうゆ、塩コショウなどは貸してくれると調査済みだったので、
わたしは東京でバターを購入して行き、ホタテをバター醤油味にした。
カキは生で。赤貝は刺身しか食べたことがなかったので初体験。

いやー、美味しい美味しい。よく食べて、食べ過ぎた。
市場で買ったまんまの食材を…素敵でした。
まだまだ正月モードの実家にうにやらいくらやらをクール宅急便で送り、
トーホク1食目、無事終了。

もちろんここは市場。お菓子も野菜もお酒も、なんでも揃っている。
ということも調査済み。そんなわけでこの日のわたしのスーツケースは軽かったのだ。
センターを出る直前、いちばん奥の「酒のサービスエイト」で地酒と地ワインを購入。
地酒はおじさんが樽ごと持ってきていて、シンプルにシールだけ貼られた茶色の瓶にその場で詰めてくれる。
地酒と地ワインで、2000円ずつ。さっきの食事と同じか…そして、重い。
わたしはタクシー乗り場で車を捕まえ、10分と少々で八戸駅に再び戻った。

2009/01/07

地球の舳先から vol.106
日本編 vol.2

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目眩がするほどの、朝の光。
太陽はどうして、てっぺんにあるときよりも昇りたてのほうが強く感じるのだろう。
5時に起き(夏にパリに行った時以来である)、東京駅へ着く頃ようやく空が白みはじめた。
新幹線に乗ると、快晴のかなたに…いや、いくつも県をまたいでいるとは思えないほどくっきり富士山が見えた。

東北と言えば、浦和レッズのJ2時代の遠征以来である。
山形でぼろ負けし、仙台で辛勝し、札幌に完敗し…そんな思い出しかない。
チームも選手も極限状態に追いやられ、目が血走っていたのはサポーターも同様。
だから、こんなに穏やかな気持ちで東北を訪れる日がくるとは、あまり思っていなかった。

朝の7時ではあるが、一番搾り(のでっかい方)を窓際に置く。
新幹線のなかで飲む缶ビールは、なんであんなに美味しいのだろうか。
新幹線の微妙な振動も手伝ってか、いつもじゃ絶対酔わない量でへろへろし、程好い暖房でねむくなる。
新幹線はがら空き。年始になってからの下り便は、こんなものなのだろう。

こうして新幹線に乗ってしまってもまだ、わたしの気持ちは上がりきっていなかった。
もともと何か目的や意志があって決めた旅ではない。
それでも、方々に「では たびだちます」と宣言して東京を発つと、不思議になにかから解放されたような、
自分だけを見つめていればそれでいいというなかなかない状態にだんだん身も心もなってきて
タングステンのような暖色の朝の光のなかで、穏やかな気持ちになってきた。

年末というものが、わたしは嫌いである。
年末のあの、仕事納め数日前から大晦日までの何日間かを、わたしは揶揄をもって「消化試合」と呼んでいる。
その期間は、仕事もほとんど何も動きはしないし、とりあえず年を穏便に越すために数字の調整をしたりとか
仕事の話をはじめても「まあ、年明けてからだね」ということになるし、
とにかく「ペンディングになっていることや気がかりなことに見かけ上だけ「ケリをつける」
作業の繰り返し。
プラスマイナスゼロで年を終えることが、最大唯一の目的になってくるのだ。
だから、ああつまらない、くだらない、ということになり、ひとりスネるのである。

わたしは、日常には常に「色」をもっていてほしい、と思っている。
だから、日常が「色」をなくし始めると、家を変えたり仕事を変えたり男を変えたり(これは言葉の綾)する。
そんなささいな変化じゃ色をもてないときは、「ああ、飛びたいなあ」ということになり、旅に出る。

つい最近、わたしはとても大切なものを失くした。
失くした痛手と捨て切れない諦めにうじうじしたりピーピー泣いているうちはまだよかったが、
だんだんその心のなかに鉛を飼っているような状態が嫌でも罪でもなく「まあ、しょうがいないよね」的な「フツウ」になってきたとき、わたしはようやくやばいぞこれはと思った。
そして、エベレスト登頂隊が着込んだというハイテクモモヒキ上下を着こみ、その上に厚手のタイツを2枚履き、毛糸の靴下をさらに履き、巷で流行のだっさいモコモコブーツをこの日にしか履かないつもりで楽天市場で800円で手に入れ、「モンゴルより少し暖かい」らしい八戸へと向かっていた。
無論、新幹線の中では暑すぎてじたばたした。

海外旅行が専門のわたしが言うのもおかしな話だが、旅は飛行機より鉄道が好きだ。
民家も、生えている木も、空気の澄度も違う。
そのなかを、ありえないスピードで駆け抜けながら、
それでも窓の外には現実があり、そして窓の外には現実しかない、そんな「みえる世界」が好きだった。

2008/12/29

地球の舳先から vol.105
日本編 vol.1

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次の舳先を探していた。転機にはいつでも旅が必要だった。正月が暇だった。
それが、1月の頭に旅することを決めた3つの理由。

地球儀は高価だ。ハリボテのようなちゃちなものを除けば、小さくてもゆうに5000円はする。
生活に必要なわけではないから、欲しいなあと思いながらもなんとなく買うきっかけがなかった。
去年、撮影小道具の処分品として会社から貰ったのは、セピア色の重厚感のある地球儀。
広告物の撮影に使用したのだから、それなり以上の質のものだった。
うぅ、この会社に居てヨカッタ、などと一瞬思ったが辞めてしまったので、今となっては持ち逃げだが。

地球儀をまわして止まった国へ行くような旅がしたいなとふと思った。
物理的に行けない国もあるし、回して止まったところが海の上かもしれないから、なんか非現実的な思いつきなのだが。
なんということもなしに回した地球儀で自分の指した地を見て「およっ?」となった。
……日本だった。それも、青森県の北のほう。ここなら行けるじゃん、とも思った。
青森なんて恐山くらいしかまるで思い浮かばないけれど、なにか引き寄せられる思いがあった。

わたしは早速、JunkStageのライターでありバスケ馬鹿のフィルコさんにメールをしてみた。
8月の舞台にお越し頂いた皆さんはご存知だろうが、フィルコさんは八戸出身、今も八戸弁。
わたし:「ねえ、正月に八戸行ったら、寒くて死ぬかなあ?」
フィルコさん:「ど、どうした?! 病んでるのか?!」
…出身者にまで、「八戸へ行く=病んでる」と思われる八戸。一体どんなところだというのだ。

観光ガイドブックを読んでみるも、十和田湖ぐらいしか見どころもなさそう(←失礼)。
しかし、素敵な旅館があるようだった。青森の魅力をぎゅっと凝縮した温泉旅館。
広大な土地に宿泊棟、温泉、毎日開催されるミニねぶた祭り、郷土料理。
敷地内にはJRの線路も走っていて、夜には夜行列車が見えるそう。
湖に浮かぶ伝統的な住居を模した宿の写真は、軽井沢の素敵旅館「星のや」に似ていた。
…と思ったら、破綻したホテルを買い取って、星のやの星野リゾートさんが改修したのだそうだ。
これは是非行きたい。先月行った「星のや」の幻想的な風景がよみがえる。
こうしてようやく「八戸行き」のひとつの目的を見つけ、少しやる気が出る。

まだ凄く行きたい気にもならなかったが、10分後に新幹線の切符をインターネットで予約した。
思い立ったら、すぐ行く。すぐ行かなくても、後に引けないように手配してしまう。
それが、仕事やら何やらがあっても旅を続ける強引な方法でもある。
好きな浦和レッズの遠征以外で日本の国内旅行をするなんて、沖縄に次いで2回目のことだった。

この旅館、「古牧温泉青森屋」があるのは、八戸から電車で少し北上した「三沢」という地。
今度は「三沢」を調べ始めたわたしは、検索結果に出てきたスポットを見て、さらに「およよっ?」となる。
“寺山修司記念館”。

寺山修司という作家の存在を、ここの読者の方々がどれだけご存知かは、わからない。
彼は、刹那的であり、破壊的であり、奔放であり、身も蓋も無くもあり…
著名な著書に「家出のすすめ」や「書を捨てよ、街へ出よう」などを持ち、前衛的な劇団「天井桟敷」の主宰のほか、写真や作詞なども行っていた。

わたしが始めて寺山作品に出会ったのは、遅くも20歳を越えてからだった。
そのときわたしは、共感を超える自分との価値観の共通性に大変驚いた。
感化されたのではなく、わたしが元々持っていた価値観やら生き方やら理想論やらが、彼の著書にはそのままといっていいくらい描かれていた。
ただ違うのは、わたしが内面に留め続けていたことを、彼は大声で主張していた点だろうか。
奇しくもわたしの生まれ年が彼の死んだ年。まるで生まれ変わりのようだ、と自分で思ったが
だからこその近親憎悪で、わたしは彼の美学をとことん否定した。

寺山の言うことはもっともである(少なくともわたしにとっては)、しかしそれを貫くことはだいたいが
社会的に生きることと相反するものだったり、身がもたないジェットコースター的生き方なのだ。
「命を削る」なんて言葉は、言葉面ほどキレイなもんじゃない。
しかし自分のなかでの美学とは本質的なものだから、そうそう変わるものでもなく
気づけば刺激的でドラマチックで、自分をすり減らす道のほうを好んで選んでしまう自分がいる。
わたしはそんな自分の「本質」を、捨てたいとまではいかなくても、どこかに置いてこれたらどんなに楽だろうか、と事あるごとに思ってきた。

そしてこの日回した地球儀の示した「次の行き先」は、かの寺山修司が否定し続け、嫌いだと言い続け、イコール求めて執着し続けたとも言い換えられる彼の「故郷」である三沢だった。

死んだ人間に因果を感じられるほど、フワフワはしていない。
でも直感的に、なにかがあるのかもしれない、と思った。なにか変えられるかもしれない、とも。
置いてきたいものがある、というちょっとだけ切羽詰った最近の私事も影響したのかもしれない。
指のなかからこぼれ落ちていくのを黙って見ているくらいなら、意思を持って置いてきたいと願った。
こうしてわたしの旅のテーマは、いつの間にか「訣別」になってしまったのである。