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2008/12/15

地球の舳先から vol.103
世界の宿泊事情 vol.4
~東ティモール編

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記憶に残る旅がある。
東ティモールはわたしにとって、今のところ北朝鮮の記録を塗りかえて心に深い。
旅の記録は全20回にわたった本編に譲ることにして、
わたしの泊まった「エスプラナーダ・ホテル」について書いてみたいと思う。

東ティモールの旅をコーディネートしてくださったのは、
僻地専門といっても過言ではない、聞いたこともないような国ばかりを取り扱っている
旅行代理店「たびせんパームツアーセンター」さんである。
この代理店にフライトとホテル、現地ガイドという旅の「道具」をアレンジしていただき、
一方旅のソフト面である「ヒト」のアレンジは現地でNPO活動を行う女性に御願いした。
彼女のおかげで、わたしは革命以前から独立運動を推進していた日本人ジャーナリストの方や
国教であるキリスト教のシスター、難民キャンプに住む女子大生などに話を聞くことができた。
大いに取材旅行の側面が大きかった旅であった。

旅行代理店が提示したのは、計3クラスのホテルだった。
市街最高級ホテルは「ホテル・ティモール」。
中級で海岸沿いにあり、市街中心部へは少し歩くが大使館街なので治安はいいという「エスプラナーダ・ホテル」。
そして、ツーリストが快適に生活できる中では最もリーズナブルな「ホテル・ツリスモ」。
わたしは無難に真ん中を選び、空港から現地ガイドの車に乗ってまっすぐホテルへ向かった。
海岸沿いをゆく、乱暴に舗装された道路。途中で何度も難民キャンプを通った。
見えてきたホテルは、2階がバリ島を思わせるオープンエアのウッドデッキを配したレストラン。
受付をくぐると、プールが広がっていた。

部屋はホテルというよりはコテージのような感じで、2階建ての、わたしの部屋は1階。
十分広いのはいいことなのだが、広すぎて蚊取り線香の効きが不安になる。
プールを囲む芝生から、小さな柵で囲われただけでバルコニーがあり、部屋へ続いている。
部屋に入るとまずはバスルーム、デスク上、ベッドの横の3箇所に蚊取り線香を配置し、
冷房をつけて私は外に出た。これで、マラリア蚊たちを殲滅するのだ。
部屋中が十分もくもくしたら、窓を開ける。ハエたちが一斉に外に逃げていく。
不思議なもので蚊取り線香で死ぬのはほんとに蚊だけなのだ。蚊の死体を拾って捨てる。

夕方になると、おなじみの水色の制服がぞろぞろと帰ってきた。
ここは、ニュージーランド国連軍御用達のホテルだったのである。
彼らはやっぱり女1人の東洋人の旅行を珍しがり、「どこへ行く」だの「一緒に行こうか」だの
世話を焼いてくれた。そして、夜は毎晩浴びるように飲んでいた。
わたしは熱射病になったりしてベストコンディションではなかったのだが、食事も楽しんだ。
どんな料理が出てくるかと思いきや、そこは外国人向けホテル。
クラブハウスサンドイッチやら、魚のクリームソース煮やら、パスタやらで、非常に美味しい。
待ち歩きから帰ってきたとき、好きな果物を選んで搾ってくれる100%ジュースは絶品だ。
この2階のレストランで、わたしは端的に東ティモールを体験したように思う。

このホテルの、外と中と。中は「外国」であり、外が「ティモール」の世界だった。
2階から見渡せば、外の海岸では現地の子ども達がパンツ一丁で海に飛び込み、ホテルの中のプールでは国連軍の家族たちがシュノーケルセットを装着してダイビングの練習中。
海岸沿いでは朝は果物を、夕方になれば魚を売るテントが出て、ホテルのテラスでは英語メニューが膨大な量のフードとアルコールリストのを表示する。
ここだけが、ぽっかりとこの国の中で取り残されているようで、不思議な感覚だった。

すっかり顔見知りになった国連軍の制服に、2階から手を振る。交代の時間だ。
10分後には制服を脱いだ彼らがテラスにやってきて、また浴びるように飲む。
そんなホテルだった。非常事態とよぶほどではないが、やっぱりこの国に、「常時」はまだない。

2008/02/28

地球の舳先から vol.54

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東ティモール旅行記 vol.20(全20回)

Timor Leste(ティモール・レステ)
英語で、東ティモールの正式呼称を、そう言う。
もちろん「East Timor」という言い方もあるのだが、現地のイングリッシュスピーカーはLesteを使う。
Lesteは本来ポルトガル語なのだが、わたしもこちらの方が、なぜかしっくりくる。
Leste、いや、Eastも同じなのだが、その言葉には「東」という意味のほか「日が昇る」の意味がある。
日が昇る場所――現地の言葉、テトゥン語では、こう言う。
“ティモール・ロロサエ”

何年にもわたって諸外国に侵略、虐殺の対象となりながら、
怨念すら抱くことなく「いま」、そして未来への希望を捨てない人々。
彼らの姿は、太陽という非人間的なものの昇るその国名も相まって、
健気というよりは神々しくすら映る。

戦争、内紛に血塗られた歴史。
その嘆きも悲しみも「過去のもの」にできるマインドは、強さ以外の何物でもないだろう。
そしてこの瞬間も、敵を変えて彼らの戦いは続いている。
腐敗もある。蛮行もある。それでも、前を向いていた。

まつりあげるわけでも、隠すわけでもなく、負の遺産はところどころに転がっていた。
大虐殺の行われた、サンタ・クルス墓地。
日本軍占領時の石碑と、まだ残る当時の塹壕。
焼かれ、柱だけになりながら手のつけられない家々。
それは、「昔」というほどに遠い過去のことではなく、ついこの間のことだ。
幾多もの難民キャンプと地続きの、並行した世界。

この国を旅しながら、思ったことがある。
それは、戦争というもののフラットさだった。
この世というものが誕生してから現在、そして続く永劫の未来まで、
ひとつだけ変わらないもの、なくならないものを挙げるならそれはきっと「戦争」なのだろう。
目的も方法も違えど、望むと望まないとに関わらず、きっとなくなりはしない。
そのなかにおいてやはり、程度の差こそあれ
「許されざる行為」なんてものは、すべての国が行い、行われているものだ。

そのひとつひとつを掘り起こすことに、なんの意味があるのだろう。
掘り起こし、反省しても、きっと戦はなくならない。
そう思いながら、自分でも、身も蓋もない考えだな、と思った。
しかしこの理不尽さは、人と人とが争い合わずにはいられないという「業」をもっているとしか思えない。

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今回の旅は、車での移動に終始した。
荒廃した家々や、難民キャンプを見ながら、現実感は湧かない。
これが、私の生きる現代であることも、地続きの世界であるということも。
別の世界を見ているようで、車から降りても、その世界は「ガラス越し」だった。

小さな子どもと、砂浜を歩いた。
街中を国連の車が走り、戦車が停まることが、生まれた時から「日常」な生活。
キャンプで、サッカーに興じる男の子。
キャンプで生まれた子どもにとっては、そこに家も家族もある。
子どもたちは、無邪気に笑い、毎日を遊ぶ。
なんだか、安心した。それは、自分でも不思議な感情だった。

わたしが東ティモールという国に興味をもちはじめた、きっかけの一言が思い返された。
「状況は凄惨だったけれど、穏やかな国だった」――
いまなら、この言葉の意味を、肌の実感として感じられる。
たとえ、ガラス越しの世界でも。

旅を終える頃、心が痛むことも、ちょっと涙が出そうになることもなくなっていた。
日本に帰ってから、とある女性タレントがモンゴルの孤児の特集に号泣しているテレビ番組を見た。
そんな「同情」なんて、勘違いはなはだしい、とも思う。
しっかりとした「目」をもちたい、と願った。
そのために足で稼ぐことが必要なら、体力、いや耐力のもつ限り外の国へ出よう、とも。
旅は続く。世界は広いのだ。想像しているよりも、ずっと。

2008/02/26

地球の舳先から vol.53

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東ティモール旅行記 vol.19(全20回)

10時5分前に、ガイドが迎えに来る。
かっちりした5分前行動も、これが最後。

空港に向かう。
結構適当で、スーツケースも開けられるものの、ちらっと見ておしまいだ。
が、搭乗券には「SAY NO TO DRUG」と書いてある。
そういうのも、あることはあるのかもしれなかった。
噂レベルではあるものの、インドネシア時代には東ティモールの人々に
インドネシア軍が、銃と麻薬を一緒に渡していたというエピソードもある。
「そうでもしなきゃ、同じティモール人を殺せないから」噂の主は、そう言う。

早く着きすぎた。ガイドが、ぬるくなったペットボトルの水を替えてくれる。
「どうでしたか、東ティモールは」晴れやかな笑顔で、彼は訊く。
わたしは、現地ガイドつきの旅をするとき、この瞬間が一番苦手だ。
ひねくれているのかもしれないが、なんと答えろというのか、と思ってしまう。

わたしは、旅をしているとき、その国が複雑であればあるほど、「目で見よう」と思っている。
もともと、日本で生まれ、日本で育ってきたわたしは、
どう頑張ってもニホンジン的価値観でしか物事を見ることができない。
ニホンジン的価値観なんて、地球レベルで見れば物凄く偏ったものである。
外国の1つの国をつかまえてあーだこーだと口を出したり批評する権利なんて、わたしにはない。
心や頭が動きはじめたときに、そのことを忘れずに自覚すること。
だから、思考停止状態なまでに、極力フラットに、今そこにある事実を目に焼きつける。
それが、外国にいる間じゅう常に意識して持つ自戒だった。

だからこうして、旅の感想などたずねられると、心底参ってしまう。
だってほんとうは、言いたいことも思うところも、溢れるほどにあるのだから。
黙っているわけにもいかないので、わたしは「目」に喋らせる。
「自然がとても綺麗でした。特にバウカウのビーチ。あと、子どもが元気。」
「それから」と、わたしはすこしだけ視線を動かした。手の届くところにある、柵の中の難民キャンプ。
「難しいことも、たくさんありました」
ガイドは頷いた。北朝鮮のガイドのように、「38度線をどう思いますか」「わたしたちの主席をどう思いますか」「日本は好きですか」「歴史問題はなんなんですか」と質問責めにされず、安心する。

来たときと同じく、万人の乗客を乗せて、飛行機は東ティモールを発った。
空港には、現地軍の迷彩のヘリコプターと、国連の水色のラインが入った飛行機が何台もあった。

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経由地のバリ島では、トランジットの時間が6時間ほどあった。
もう一度入国ビザを買って、4時間半ものエステ(5000円)へ行く。
タクシーの運転手にディリから来たと言うと「インドネシアね」と言われ、カチンと来るものの。
クリームバスにヘッドマッサージ、全身アロマエステにフェイシャルトリートメント。
ジャグジーでフレッシュジュースを飲み、あたたかなプールサイドで横になる。
すきあらば土産物を売りつけようとする人々を受け流しながら、すこしだけうとうとした。
不透明な意識のなかでただ、ここはなんてつまらない国なんだろう、と思った。

2008/02/22

地球の舳先から vol.52

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東ティモール旅行記 vol.18(全20回)

キリスト教の浸透したこの国で、わたしが最終日、最後に見たいと願ったものが教会だった。
マツバファンドの松葉さんに紹介してもらった、コモロ地区にある教会。
結局地図のようなものも入手していないので、Emidiaに場所を聞くと、連れて行ってくれるという。

朝7時に待ち合わせて、一緒に向かった。
はじめてタクシーに乗る。どこへ行っても、市内はだいたい1ドル。
日曜日はみんなが教会へ行くので、交通量が多くなるそうだ。
人々はわらわらと、同じ方角を目指す。

裕に300人は入れそうな大きな教会。
それでも入りきらず、外の庭にもとにかく人がいっぱいいる。
子どもが1人で来ていたりもして、みんなすごく熱心だ。
賛美歌くらいしかわからないが、約2時間半のミサ。

異物としての外国人に、自然と人々の目は向く。
それも、ミサが終わる頃には馴染んでいた。感心するほど順応性の高い国民だと思う。
ミサの終りの儀式では、隣人との握手があった。
隣の人や、振り返ったおばあさんと静かに握手を交わす。
厳粛で、敬虔なミサ。

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宗教の持つ力、というものが、わたしにはまだわからない。
「救い」としての拠り所、なんて単純な話ではないのだろう。
ただ、この国で「キリスト教」というものが、これほどまでに求心力を持ったものとして存在することは、同時に血塗られた歴史によるものでもある。

インドネシアによる虐殺の時代に、最後の砦になったのが教会だった。
火の海のなかを逃げ惑う人々は一様に教会を目指し、神父は先頭に立って人々をかくまった。
なかでも、ベロ司教は、インドネシアの愚行を世の中に訴え、インドネシア軍撤退後も
国家復興に貢献したとして、ノーベル平和賞を受賞している。
まさに、実質的に無政府な国家において、時に国の代表者として、時に地方の家族を守る父として、
対内的にも対外的にも尽力してきたのは、いつの時代も教会だったのだ。

いまも政権不安定な東ティモールにおいて、
教会の役割を知れば知るほど、そのやっていることは本来国家が国家としてやるべきことばかりだ。
難民の受け入れや、孤児院の運営。
国外のファンドやNGO、NPOと組んでの事業展開。
大学、教育機関が訪問した際の、アテンダント。

2002年の独立から、5年半。
いまだに国連軍が常駐しないと治安が保てない情勢のなかで、
一本通った変わらぬ筋が、キリスト教の存在なのだろう。

2008/02/19

地球の舳先から vol.51

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東ティモール旅行記 vol.17(全20回)

熱い。
ホテルへ帰った時、そう感じた。
テラスレストランへ上がって、100%のレモンジュースを頼む。
氷がじゃまになるくらい、一気に飲み干す。
夜、おいしそうなクラブハウスサンドイッチを頼むも、食欲が湧かない。
そして、とにかく熱い。

そういえば…と思いだしたのは、19の時のキューバ旅行。
一緒に行っていたソウルメイト・T氏が、経由地メキシコでかかった熱射病。
症状が似過ぎている。
あのときのことを一生懸命思い出し、対処方法を探ろうと記憶を辿る。
…自然治癒だった気がする。

炎天下の散歩がきいたのだろう。
体力はもう曲がり角を曲がり切っていたのか。過信は怖い。
思えば寝不足と不規則に規則正しい生活と、乱れ切った食生活。おまけに風邪ときた。
普段よりも抵抗力が落ちきっていることなど、わかっていたはずなのに。
今マラリア蚊なんかに刺されたら確実に感染するな、と思いつつ、蚊取り線香を1本増やす。

とにかく熱いので、水シャワーを浴びることにした。
蛇口をひねる。…水が出ない。  ん?
顔を洗おうと思って、洗面台の蛇口をひねる。…これも、出ない。  ん?
さてはこれは…と思った瞬間、ホテルの従業員が白く、粗く切った紙切れを持ってきた。

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…。
…。
…。

NO WATERだと?!
今までそんなことなかったのに、こんな日に限って?!
「しかしここは東ティモール。しょうがない。そうだ、レストランに水をもらいに行こう。」
と、ひとりごと。
わたしは旅先でピンチな状況に陥ると、思っていることを口に出してみるくせがある。
ちなみに、強い衝撃や悲しみ、制御できないくらいの憤りのときは、ひたすら書く。
何にせよ、アウトプットすることでキャパオーバー→パニックという流れを防いでいるらしい。

レストランへ行って具合が悪いから水をくれと言うと、2リッターペットボトルを4本くれた。
お金を払おうとすると、いいよ具合悪いんでしょ、と受け取ってくれない。
水が重いだろうということで、国連軍の人が部屋まで運んでくれる。
弱っているので、人のやさしさが身にしみる。

「どうしたの?」
「うん、熱射病」 と、短い会話。
ちなみにこうしてコラムなど書いているとわたしがものすごく英語コミュニケーションが
できているように見えがちだが、このときの実際の会話はといえば
「サンライト、ベリーハード、ダメージ、アイムホット」とかである。
なんていうかもう滅茶苦茶の域すら超えているが、通じることが先決であると開き直ろう。
しかしきっとNZの国連軍の方々にはすっかり「ニホンジンは英語ができない」と刷り込んだことと思う。

もらってきた水を洗面台にためて顔をつけたり、自分でも効果が疑わしいようなことを色々したあと、
とりあえずは寝よう、と、うなされながらもベッドに入った。
明日は最終日。くもりであることを祈った。

2008/02/16

地球の舳先から vol.50
東ティモール旅行記 vol.16(全20回) 

西部を一通り旅したわたしは、しばしガイドから離れてディリの市内を歩くことにした。
出かけようとすると、入口で勤務帰りの国連軍と会う。

「どこ行くの?」
「街、見てくる。ずっと車のなかだったから」
「一緒に行こうか?」
「大丈夫、遠く行かないから」
「そう、明るいうちに帰ってね」

なんだかもはや家族のようなこの会話。
いや、我が家では家庭内ですらこんな会話はないぞ、と思いつつホテルを出て、海岸線を歩く。
時刻は16時半。まだだいぶ日が高い。あと2~3時間は日が落ちそうになかった。
さて、市内の地図なんてものも存在しないし、どこへ行こうか、と思っていると
ガイドの車が大慌てで引き返してくるのが見えた。
わたしの生命線ともいえる旅の記録ノートを車内に置き忘れているのを見て、届けてくれたのだった。
丁度いいので、街の中心まで行って降ろしてもらうことにした。

途中でガイドは「コーヒー買う?」と思いついたように言い、わたしも忘れていたことに気がついた。
このサバイバルな旅では、おみやげのことなんて頭からすっ飛んでいたのだった。
うなずくわたしをガイドが連れて行ったのは、大きな鉄の門のある工場だった。
広大な敷地に砂が敷かれ、ぽつんぽつんと低くて古めかしい建物がいくつか。
コーヒーを買うんだから、おみやげもの屋さんのようなところへ行くと思っていたのがわたしの甘さか。

ガイドは陽気にドアを開けてあいさつをする。
真っ暗な部屋に、裸電球がひとつ。「1キロ4.5ドル」と書かれた、段ボールの裏紙のようなもの。
「ご、500グラムでいいです」と言ってさらに2つの袋に小分けにしてもらい、持って帰る。
寡黙な工場の男性は慣れた手つきで袋詰めにしてビニールに入れてくれた。会話はない。

ガイドと別れたわたしは、最高級ホテル、「ホテル・ティモール」へ向かった。
本当はここに泊まるはずだったのだが、予算の都合で断念したため、見てみたかったのだ。
正面入り口に着いて、「おぉ」とわたしは思わず声を上げた。
ガラス窓に、大きな銃弾の跡とヒビが2つ入っていたからである。エスプラナーダにしておいてよかった。
(昨日今日やられたものではないのだが。)

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その後、わたしは街を歩いた。
日本人がやはり珍しいらしく、そこかしこから視線を感じる。
子どもなどは、建物の影にかくれつつ、うしろをついてくる。だるまさんころんだ状態である。
この視線を曲解して、あまり心地よくない、と思っていたのも初日だけ。
笑って手を上げると、誰しもにっこりと手を振り返してくる。
シャッターを切らせて「1ドル寄越せ」ということもないし、モノを買わせようとすることもない。(店がないし)
「写真撮ってよ」のジェスチャーに、シャッターを構えると「おれもおれも」とわらわらと子どもが群がる。
再生写真をデジカメの画面で眺めて、きゃいきゃい盛り上がっている。

それでも、難民キャンプを通るときだけは、複雑なというか、どうとらえたらよいのかわからない感情に駆られた。
どう接することが失礼にあたらないことなのか、不遜ではあれど測りかねていたのだ。
道端で、キャンプからひとりの女の子が出てきた。
小学校と中学校の間くらいの年ごろだろうか、この国では年長の部類に入る。
向かう方角が一緒で、うしろを歩くわたしを、不安そうな怯えたような目で時々振り返っていた。
どうしよう、と思いつつ、ふと女の子が振り返ったタイミングで「Hi」と言ってみる。
瞬間、女の子は驚いたように、しかしすぐ懐っこい笑顔で「bueno」(「こんにちは」の砕けた版)と言った。
このときほど、この国の公用語であるポルトガル語に物凄く近いと言われるスペイン語をかじっておいてよかったと思ったことはない。

どこへいたって、同じ人間なんだよなあ、と思った。
同時に、同じ人間であることが、つらかった。
どうしたって埋められない、いや、埋めようとすることで諍いが起きてきたこの“差”が。

2008/02/12

地球の舳先から vol.49

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東ティモール旅行記 vol.15(全20回) 番外編

今日、少し遅れたニュースで、
東ティモールの大統領であるラモス・ホルタ氏が銃撃されたと知った。
上の写真は、観光帰りに通った、氏の邸宅の写真。
東ティモールの伝統的な民族家屋だ。
かの国での絶えない争いには感覚が麻痺しつつあるが、
東ティモールという国を、「そういう国だから」と片付けてしまうことはできない。

コラムの連載からはすこしだけ脱線するが、ラモス・ホルタ氏の話をしようと思う。

氏の父親はポルトガル人、母親はティモール人。
ポルトガル植民地時代は、「植民地」という名前はついているものの
ティモールの人々が「平和で豊かな時代だった」と回想するいっときであり、
駐留兵が現地の女性と結婚することも珍しくなかったという。

これは、平和ではなかった日本軍占領時代も同じことで、
ティモールには、日本人とのハーフの子供(もう大人だが)も少なくない。
実際、東ティモールと日本語には共通の単語などもあり、
日本のあの「雨がっぱ」は、ティモールの現地の言葉でも「カッパ」という。

さて、日本では一般的にはほとんど知られていないかもしれないが、
このラモス・ホルタ氏は1996年、ノーベル平和賞を受賞している。
元は、インドネシアの武力侵攻に対抗する「東ティモール独立革命戦線(フレテリン)」の
設立に関わり、独立運動の中心にいた人物。
紛争解決に尽力したとして、もうひとりの、こちらも東ティモールの独立を語る上で
外せないベロ司教とともにノーベル賞を受賞した。
(散々、やりたい放題のインドネシアを先進国で唯一支持していた日本も、
 このノーベル賞受賞で態度を変えたと言われているが…)

2002年の独立後は、国民の英雄シャナナ・グスマン氏のもとで外務大臣に就任。
2006年は、シャナナに続き第2代目大統領となった人物だ。
このときホルタ氏は、フレテリン党首を破って大統領に就任している。
もともとは氏もフレテリンだったわけだが、インドネシア撤退後フレテリンはかなりな宗旨替えを行っており、独立戦争当時のような人気や信頼はまったくなくなったのだとという。

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…と、ここまで調べたあたりで、あの異様にはためいていたフレテリンの旗を思い出す。
そもそもなぜ、フレテリンの旗が、あちこちの難民キャンプにはためいていたのか。
わたしはその光景を見て、フレテリンが現政権だと思いこんだほどの堂々さだった。
さらに拙い英語力で調べてみると、さらに氏とフレテリンの確執が明らかになる。

日本でも多くニュースになった2007年6月の選挙における東ティモール暴動は、
シャナナがフレテリンではなく「東ティモール再建国民会議(CNRT)」という党を再結成、
フレテリンに異を唱える形になったことが原因だった。
結果、今でも国民の英雄であるシャナナ率いるCNRTは与党を獲得し、
これを機にフレテリンは大幅に議席を減らして野党になってしまったというわけだ。
CNRTとフレテリンがいつまでたっても合意に至らないため、
仕方なくラモス・ホルタ氏は東ティモールで初となる連立政権を取ることを決断。
しかし今度は、そんなことはそもそも憲法違反だろうということで、フレテリンはラモス・ホルタ氏をまた非難している。

以降は憶測の域を出ないので、今回の暴動に対してわたしの考えはここで書かない。
過渡期の国の政治問題、とくに闘争後のゲリラ戦士たちが生きる道という問題は
キューバにいたころも感じたが非常に微妙だと言わざるを得ない。
ゲリラとして国のために戦うことを選択した国民たちが、
戦争が“終わったこと”によって行き場を失う、という構図は、あまりにやりきれない矛盾だ。

2008/02/08

地球の舳先から vol.48

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東ティモール旅行記 vol.14(全20回)

アイレウで昼食をとったあと、再び車に乗り込んで、ディリへと戻る。
絵に描いたような、不思議な世界だった。

山中の道なき道にテントを広げて、果物を売る一家。
何百とある、箱庭そのもののような小さな村。
アジアよりもオーストラリアに近い人々の顔立ちと、薄い焦げ茶の肌。

子どもたちは、なぜここまでと思うほどに輝いた目をしている。
突然のスコールでできた茶色の水たまりに寝っ転がり、海も山も旧跡すら、そこにあるもの全てを遊び尽くす。
彼らの目が大きく見えたのは、気のせいでも人種の違いでもないだろう。
ふいに「眼力」という言葉を思い出した。確かに、何かが漲っていたのだ。
教育も不十分で、外の世界も見えず、毎日が迫りくる直接的な危機や不安の連続だというのに。
こんな国、こんな時代に。
子どもたちの目には、いったい何が映っているのだろうか。

通る村通る村で、珍しい車の音に子どもたちが走り出てくる。
その多くは、止まる車を見て家や母親の影に隠れ、もじもじしている。
そしてこちらが片手を上げると一転、割れんばかりの笑顔で全身で飛び上がり、手を振り返す。

ポルトガルも、インドネシアも、オーストラリアも、そして日本も。
このジャングルみたいな、21世紀を超えてなお原始的な生活を送る国を、どうしたかったのか。
大国に対抗するために銃を持ち、諜報のために言葉を覚えることを「文明化」と言うならば。

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ダレという村にも立ち寄った。
99年、インドネシア武力侵攻の中でも最大の犠牲を出した危機の際に、最後の砦となった協会。
大きな敷地にバスケットボールコートと協会、修道院がある。
ガイドが教会の入り口に向かって大声で人を呼んだ。
この国の人々は、国民みんなが友達のような付き合いかたをする。
わたしはガイドを見ていて、何度も、きっと旧知の知り合いなのだろうと思って会話を聞いていたが
実際には初対面であることのほうが圧倒的に多く、そのフレンドリーさにも驚いた。

しばらくして神父さんが出てきて、特に通訳を挟むわけでもなく
なんとなくの単語と、なんとなくのジェスチャーで会話をした。
彼は神父なので当たり前なのだが、神々しいオーラを放っていた。
すべてを俯瞰から見渡して、些末なことを気にしないでおけるような余裕、とでも言おうか。

わたしはこれまで何度か、いわゆる「後進国」と呼ばれる国や、「最貧国」のひとつと言われる国に行ってきたことがある。
そのどこでも、わたしは別人種だった。別人種だと自分で思ったし、その国の人々も私をそう扱った。
決して「上から目線」にはなりたくないと思っていても、よく、
人々は卑屈を演じて「ニホンジン」を持ち上げ、最大のベネフィットを得るよう画策した。
ぼったくりの目を気にして行動し、何かあれば日本ではしないような猛然な抗議もしたし、
怪我をした人や、年金のない国では高齢者にはチップをねだられた。
彼らは、金のためならどこまでも卑屈になれるように、わたしの目には見えていた。

しかし、「最貧国」のひとつであるこの東ティモールという国は、まったく勝手が違っていた。
彼らには、金持ちの観光客や外国人を騙して金品をがめようなんて気さえ起きないようだった。
それはプライドや自分を律する心というのではなく、「そんなことをする意味がわからない」ように
まったく、価値観というものが別のところにある人種のように見えた。
そしてそれは結果として、物凄く凛とした、筋の通った姿としてわたしには映る。

街角の電柱に「FROM THE PEOPLE OF JAPAN」と国旗が書かれているのを見て
すこし誇らしい気さえするわたしのほうが、よっぽど卑屈だった。

16時半にホテルに帰着したわたしは、
海沿いのテントで、クシに刺した魚をよーく焼いてもらい、また街歩きに出かける。

つづく

2008/02/05

地球の舳先から vol.47

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東ティモール旅行記 vol.13(全20回)

小さな市場のまち、アイレウ。
ポルトガル植民地時代に建てられた図書館と教会、シャナナ・グスマンが演説したという、野に打ちっぱなした舞台。
それからガイドは、「このまちには、私達の”お守り”が2つあります」と言った。

ひとつは、「コーヒーの神様」と呼ばれている、コーヒーの豊作と国の繁栄を願う大きな木だ。

もうひとつは、「1942」と大きく書かれたモニュメントだった。
徹底的に歴史の授業を寝て過ごしたわたしでも、1945年が日本の終戦であることくらい知っている。
終戦の3年半ほど前に日本がこの地を侵攻したことから考えれば、日本軍上陸の年だろう。
ガイドも、やや気まずそうである。
しかし、申し訳ないことではあるのだが、わたしには戦争中の日本は本当にリアルでなくてひとごとで、もちろんそれは良くないことなのかもしれないが当時のことを理解して心を痛められるような想像力は、むしろ胡散さえ漂う気がしてしまう。
が、今の日本人(の若者)のほとんどがかの戦に責任もプラスの思いもマイナスの思いも抱かず、
歴史や政治といったものに無関心すぎることなんて、私のつたない英語力で伝わるはずもなかった。

「第二次大戦のことで、今でも多くのアジア人が日本を憎んでいます」
わたしは、どんな顔をして言うべきかわからなかったが、あえてhateという言葉を使った。
ガイドは神妙な顔をしてわたしの言葉に頷く。
「日本は戦争中、もっとも悪い国のひとつだったと思います。
 私は、日本の歴史――広島と長崎のことも知っています。」

「ティモールの人たちは、どうなんですか?本当のところ」
「うーん……我々はオーストラリア軍と一緒に日本と戦っていたのです、だから……」
「今も?」聞くと、ふとガイドは不思議そうな顔をして立ち止まった。
どうやら私の中途半端な英語の時制のせいで、うまく意図が伝わっていなかったらしい。
ガイドは急に晴れやかな顔になって、きっぱりと言った。
「今は全く、です。友達です。」

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返答に困ったのはわたしのほうだ。
先日ティモールのヌシから、「この国の人たちは反日とかそういうの、ないですね」と聞いていたが。
東ティモールは日本に対して「過去の清算」を一切要求しないという声明を早い段階で出している。
しかしそれはインドネシア政府がティモールの名を語って出したものであり、
日本とインドネシアの政治的つながりによって東ティモールはさらに大きい犠牲を被ってきた。
(たとえば、インドネシアが東ティモールに武力侵攻をしている際、
 インドネシアを非難する国連声明に反対したのは先進国で唯一日本だけだった。)

「そ、そうなんですか……。じゃあ、インドネシアは?」
「インドネシアも、同じです。今は友達です。」
わたしがぶち当たったのは、またしてもこの「ロジック」の問題だった。
「なんで?今は戦争が終わって日本が豊かになって、ティモールのことも支援してるから?」
そう食い下がるわたしを、ガイドは扱いに困ったように見ている。
「うーん……だって戦争をしていたのは、昔のことだから。」

確かにこの国のように、代わる代わる色々な国に侵略され続けていれば、
いちいち憎んでいたら始まらないのかもしれない。
そんな、自己の精神衛生の防衛からくるものなのか、95%と言われるカトリック教徒の「罪を憎んで人を憎まず」の精神からくるものなのかわからないが。
とにかくわたしは、そんな彼になにか神々しさすら感じながら、コーヒーの神様の木を見た。

居れば居るほど、この国はだんだんわからない。

つづく

2008/02/01

地球の舳先から vol.46

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東ティモール旅行記 vol.12(全20回)

今日もホテルの前には、UNと書かれた国連軍の車が数台止まっている。
彼らは勤務後そのままホテルにバンで乗り付けるので、軍隊のキャンプのようだ。

この日は、西へ行った。
首都のディリを離れれば離れるほど、純朴という言葉の似合う人々と出会う。
ディリを抜けてすぐのところにあったのは、またしても難民キャンプ。
いったいいくつあるのだろう。
ここでもやはり、現政権でもないフレテリンの旗がはためく、異様な光景だ。

車はグレノを目指す。
ティモールはコーヒー産業が注目されており、主要産業となる可能性を目されている。
東ティモールに詳しい人たちも、コーヒーが本当に美味しいと口をそろえる。
日本では輸入もしていないので、お土産にも最適とのこと。
グレノの周辺は、コーヒー業に携わる人が75%もいるという。
コーヒーの木も実も、生まれて初めて見るもの。
収穫シーズンは9月で、その頃になると真っ赤に色づくというコーヒーの実を見る。
どこかから苗を輸入して植えたりしていないので、「Origin」を強調するガイド。

途中にはドライバーのルイさんの実家があるということで、立ち寄ることになった。
「日本人はコーヒーが好きなんでしょ?」と言うガイド。
うん、まあわたしも1日5杯は飲みます、と言うと目を丸くしていた。

車を止め、うろうろするルイさん。まさか実家の場所を忘れたんじゃ・・・と思ったのだが、
なんとルイさんの実家は引っ越していた。
「なんと」なのはもちろん、ルイさんの実家が引っ越したことよりも、ルイさんがその事実を知らなかったことである。
どこへ行ったかもよくわからないのだという。
あらためて、やはりこの国の「家族」の概念の不思議さを思う。

ルイさんの実家でティモールコーヒーを飲もう、と盛り上がっていた車内は一瞬静かになり、
じゃあ代わりに地元のレストランでコーヒーをいただこうということになった。
村へ入る小さな川には橋が架けてあり、日本の国旗が刻まれていた。
これも日本の支援でつくられたものだという。

いただいたコーヒーは、確かに美味しかった。
コーヒー独特の、あの臭みがなく、非常にすっきりとしている。

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そして車は、アイレウへ。ここへは、とにかく道なき道だった。
深い水たまり、数十センチ以上あるひび割れ。もちろんコンクリート舗装ではない。
TOYOTA(PRADO)車とルイさんのスキルをもってしても、超徐行。
本気でひやりとすることは何度もあった。
何の車止めもなく、一寸先は深く急な崖のなか、山道の急カーブをゆく。
幾度も「ここで死ぬかも・・・」と思っては、この国には死因がたくさんある、とふと思った。
殺人、放火、マラリア、転落死・・・。

急に広い道になった、と思ったら、アイレウへ到着。
アイレウは、水曜日と土曜日にマーケットが開かれるちょっとした貿易地。
週に2回は交通機関として車が出て、人々が遠くからも集い大きな市場でものを売り買いする。

眼下には湖と、その湖の水を利用した水田が見えていた。
水牛を使った、伝統的な農耕法で働く人々は、原始的に見えて“外の力”に頼らない人々だが
ガイドが彼らをさして、こう言った。

「Just for alive」

「Life」といういくらかの含蓄のあるもののためではなく、「Alive」という言葉が、
ただ「生き延びる」ためだけにというニュアンスを伝えてくる。
同情に聞こえたのは、あまりに穿った見方だろうか。

久々に車を出て、アイレウのまちを歩くことにした。
ガラス越しでない、東ティモール。

つづく

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