Home > ■旧ユーゴ
地球の舳先から vol.99
世界の宿泊事情 vol.1
~セルビア・モンテネグロ編
今週からの新シリーズは、「世界の宿泊事情」。参考になるかはわからないが…
セルビア・モンテネグロ、キューバ、モンゴル、クロアチア、東ティモール、
北朝鮮、ベリーズ、インド、と印象的だった国たちの全8回でお届けしようと思う。
第1回の今日は、セルビア・モンテネグロ。
名前が示す通り、今はなき国。
といっても分裂と内紛の続くバルカン半島なので、「分かれた」に過ぎないのだが。
大学生のわたしは、友人とオンナ2人、バルカン半島への旅に出た。
思えばわたしの僻地旅に唯一付き合ってくれた(=唯一の一人旅以外)気丈な彼女「ゆっきー」である。
この国は本当に凄まじかったのだが、そのエピソードは過去の連載に譲るとして。
この旅行後にサッカー元日本代表である鈴木隆之がセルビアのチームに移籍し、
大学の教室で鈴木のファンらしい学生が「キャー セルビア行きた~い タカユキ~」と嬌声を上げるのを聞いて
ゆっきーは「おまえっ絶対行けよっあの国っ!」と心の中で罵倒した。らしい。
というくらい、うーん、いろいろ凄まじい国だった。
わたしたちは当然のごとくノープラン。
「行けば宿ぐらい見つかるさぁ」という能天気でも(お隣クロアチアのときはそうだった)、
「お金がないから代理店に高額手数料を払って日本から予約をしておくなんてことはできない」
というわけでもない。
ただ、「情報がなかった」のである。致命的。心配をしていなかったわけではないが、
「あれだけ内紛とかのときにジャーナリストが押しかけたんだからホテルはあるだろう」
といういいんだか悪いんだかわからない前提のもと、わたしたちは首都ベオグラード入り。
陸路でクロアチアから国境を越えて電車に乗り、ベオグラードに着いたのは夜の明けていない早朝。
「暗いね…?」
「…ウン」
「寒いね…?」
「…ウン」
イカン。いやな予感がもうもうとする。この空気は、イカンのだ。
暗さや寒さだけじゃなく、治安の悪い地域や少し崩れたところのある町というのは、空気でわかる。
ベオグラードはその典型的な後者、「なにかが崩れている」ところだった。
ようやく空いたキヨスクでチョコレートバーのようなものを買い、駅の公衆トイレに寄り、
わたしたちは灯りのともった全面ガラス張りのコーヒーショップでお茶を1杯。
ゆっきーとわたしはすでに、以心伝心。
そこからみえている、駅歩1分もかからないであろう「HOTEL」の看板を指差し、
「あすこにしよう」と、まず移動距離の短さを最優先したのだった。
コーヒー屋を出て、早歩き。スタコラスタコラ。到着。
なんと3つ星ホテルだった。高い。でももう移動したくない。今、外をウロウロはやばすぎる。
じゃなくて(これはいまだに放置されていたNATOの空爆跡である)、冒頭の写真である。
コンクリートに布を敷いたような、軍隊式ベッド。堅い。狭い。申し訳程度の窓。
これが3つ星である。セルビア・モンテネグロの3つ星である。
そうはいっても、ミシュランのような権威団体が存在するわけでもない星の数は各国で基準は様々。
ちなみにいうとフランス・パリの3つ星の条件は
「客室の7割以上がバスタブかシャワー付きで全室に電話を設置」
なわけなので、このホテルもそこだけ考えればパリでも3つ星にランク・インされるものなのだが。
寝るだけなので、そんなに文句もない。駆け込み寺のようにしてやってきたわけだし。
とりあえずほっとひと安心したわたしたちは、再びホテルのロビー階へ。
とにかく寒かったので、よくわからないスープを頼んだ。
これが、どびっくりである。
魚のダシがとけこんだ、濃厚なスープ。見た目はミネストローネのようなトマト色だが、具の姿はみえない。
それなのにまったくドロっとしていなくて、するすると喉の奥に吸い込まれていく。
そして、五臓六腑が活性化されるとでも表現したらいいのだろうか、体の芯からあたたまる。
「なんだ?これは…」
「美味しいー!美味しいー!!」
と大騒ぎしながら、ひと皿のスープを飲み干す。
セルビア・モンテネグロ、いや、いまとなってはセルビアへ行ったら、
ぜひ前菜のスープを。とっても安いお値段で(確か300円程度だったと記憶している)
すごいスープが楽しめる。
旧ユーゴ日記 vol.5(全5回)
かくして街へ出た私たち。
平和ボケした国に生まれ育っても、この国に来たからには見ておかなければならないものがある。
まず向かったのは「NATO空爆の爪あとが今も残る」という、写真の一角。
NATOの空爆からもう何年も経つのに、ここは当時のまま。
コーンと壁と、薄汚れたシートで囲まれただけで、手が加えられていない。
それは、「負の遺産を残しておく」というよりは本当に放ったらかしているという感じ。
粉々になった窓ガラスは、窓枠に残骸が残ったままで、
内部に吹き飛んだガラスの破片や、砕け散った机や椅子もそのまま残され、
私たちの立つ場所からも部屋の内部が詳細に見える。
それがあまりにリアルで、思わず言葉を失う。
心霊写真、なんて信じるほうではないけれど、
誤爆を受けた当時の中国大使館を撮った写真は、
天候も光量も十分だったのに、日本へ帰ってきたらカメラは真っ暗な闇しか映していなかった。
街をよく走っている黄色いバスの後ろには、
日本の国旗と「Thanks JAPAN ODA」の文字。
日本からODAを受けていることを国民に隠して反日教育をする国もあまたあるというのに、
こんなバスが頻繁に通る国での日本の認知度と高感度は、当たり前に高い。
ODA、ODAと名前を聞くだけで何をしているかほとんど知らなかったので、
こういった光景を見るとびっくりするような、
「ニホンジン」としてはちょっと気恥ずかしいような。
セルビア正教のゴテゴテの教会で出会ったおばあちゃんは、
私たち女2人に何事か話しかけてくる。
まったく言葉は通じないのに、にこにこと喋りかけてくるのだ。
そして、裕福ではないであろう身なりのおばあちゃんは、
セルビア正教の正月にあたる日を控えたために買ったのであろう
カーネーションを2本、手に持った花束の中から抜いて私たちにくれた。
上の写真も、空爆の痕だ。
昔は宗教施設として使われていたらしいが、今は役所のようなところだという。
私の手がブレているのではなく、この通りの角度で、傾いたまま立っている。
空爆の際に受けたらしい弾痕は一部、中までめり込んでいるのだがそのまま使われている。
単に立て直す費用がないのか、
歴史を刻むメッセージを発信するためなのか、
それともすでに人々が疲弊しきっているのかはわからない。
ただ、この街には明らかに「紛争あがり」の匂いばかりが漂っていた。
会う人会う人、ここの人々は、よく笑う。
それは楽しくて笑うというよりは、どこかしら哀愁の漂う微笑だ。
サッカーが好きな人にだけわかる例えだと思うが、
ペトロヴィッチにしろストイコヴィッチにしろマリッチにしろオシムにしろ、
あの一種独特な哀しさの漂う表情は、国で共通のものがある。
悲しい、ではなく、哀しい気分になった。
そこに生まれたのは、同情ではない。
あまりに哀しかったし、
諸外国を旅したときのような「他人事」感が、
「紛争」なんて日本にはいちばんあり得そうもない、現実離れした国では
なぜか沸いて来ずに、胸が詰まった。
あの感覚は、なんだったのだろう。
今でも私は、あの国の人々の目の放つ光が、忘れられずにいる。
旧ユーゴ日記 vol.4(全5回)
多民族国家のバルカン半島。
紛争にまみれた旧ユーゴ時代には、
「7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国」
と揶揄されたものだ。
“ベオグラード”
今はなき、「セルビア・モンテネグロ」という国家の、かつての首都。
この名前を目にするたび、私は未だに、一種胸に迫るものを感じる。
異質で別世界な国など、これまでいくつも見てきたはずなのに。
きっと自分の目で見たあの十年経っても辛辣に残る爆撃跡と、
優しげな人々の目の中に浮かぶ憂いを忘れられないからだろう。
あのときの私に、「旧ユーゴへ行きたい」と言った思いつきに、
本当にあの景色を見る覚悟と勇気があったのかどうか、わからない。
1月7日。奇しくもセルビア正教の正月に当たる日だった。
私たちは、陸路でクロアチアからセルビア・モンテネグロへ渡った。
手段はおんぼろバス。
しかし年始極寒の夜の東欧を、暖房をきかせて走るバスに、
乗り物の中では寝られない私もうとうと、すやすや。警戒心ゼロ。
そんなとき、唐突に闇夜とエンジン音を切り裂いたのは、
何語かわからない女性の声だった。
不思議なもので、中途半端に知っている「英語」や「スペイン語」が
聞き取れなかったり通じなかったりするとすごくストレスになるのに、
アルファベットでもない言語がまったくわからなくても割り切れる。
どうやら国境地点らしい。
もみくちゃに集めた全員分のパスポートに無造作に印を押される。
ベオグラードに着いたのは、まだ夜明け前だった。
コンクリートで固められた無人の駅で、透明なガラスに四方を囲まれた
カフェというよりは軍隊の食堂のようなところで、夜明けを待ちながらハーブティーを飲む。
明らかに嫌な匂いがしていた。
危ない街というのは、降り立った第一印象の第六感が伝えてくるものだ。
「駅の近くがいいんじゃない」
何気なく、私と友人は駅から大通りを一歩挟んだコーナーにある
それなりのランクのそれなりのホテルに、その日の宿を決めた。
(上写真。それなりのランクの割に、硬いベッドは軍隊の寮のよう)
街はすっかり正月ムードで、店という店が閉まってはいるのだが。
早くも、KIOSKや露店など、ちょっとでも開いている店を見つけるたびに
とりあえずの食糧確保に余念がない。
つづく
旧ユーゴ旅行記 vol.3(全5回)
ザグレブからバスへ乗って、私たちは「ドブロブニク」という街へ。
アドリア海に面した要塞都市で、オンシーズンには日本人観光客も絶えない。
宮崎駿が愛した街としても有名で、『魔女の宅急便』のモデルにもなった地。
高い城壁で囲まれた、アドリアの青い海に面した街は
全体的にオレンジで統一された小さな町だ。
かつて城のあった部分が今は坂の多いコロニカルな街となっている。
その城壁には登ることもでき、城壁の上をぐるりと一周することもできる。
一周しても、わずか数キロメートルだ。
城門を入ってすぐの観光案内所で、本日の宿を決める。
やはりこの時期の観光客は珍しいらしい。
紹介してもらったのは、朝から赤いガウンを着た一人暮らしのマダムの家。
これぞヨーロッパという縦長の窓を開けると、
ここまでスーツケースをガラガラ持って息絶えそうになりながら上ってきた
坂の辛さを忘れる程の景色が広がっている。
オレンジ色の屋根に、白い家。
時々抜ける景色には、群青色のアドリア海が広がり、
ベランダとベランダをネコが飛び交っている。
れんが敷きの上を、自転車で駆けていく子供たち。
街の入り口は小さな城門で、車は通り抜けができない。
街の中には、乗用車は一台も走っていないのだ。
「すごーーーーーーーーーい」
重い荷物を置いてふたたび街に飛び出した私たちは、思わず走る。
クロアチアが発祥であるという、ネクタイ。
迷路のような城壁の上を歩きながら、てっぺんから見る景色。
遠くの山に見える、ぽつんと立った十字架。
教会は生きた美術館だし、もちろん入場は無料だ。
そのあと、ふと刺繍作品の店に立ち寄った。
定休日だったのだが、日本大好きなオーナーが空けてくれたのだ。
オーナー一家のお父さんは、日本語がぺらぺら。
しかも、変な日本語ばかり知っている。家族の写真を指差しながら、
「あー、This is my boss,because I am ”マスオサン”
This is her mother,This is her sister, compretely “かかあ天下”!」
と、紹介してくれる。なんだそれ。
夜は適当にあたりをつけてレストランへ入った。
この魚介料理が驚くほど美味である。
ここは地上の楽園か。そうなのか。
静かに暖色でライトアップされた、白い大理石の道をゆきつつ思う。
街が小さくて、ひとつの道は10メートルか20メートルもすれば行き止まる。
顔なじみのおじさんたちがバーでビールを楽しんでいるこの街には、
その小ささゆえのファミリー感からか、犯罪という言葉すらないように思えた。
後、私たちは真剣に作戦会議をする。
本当はこの後、ボスニア・ヘルツェゴヴィナへ行こうとしていたのだが、
満場一致(といっても2人だが)でしばらくここへ滞在し、
同じクロアチアのスプリットという町へ行くことに変更。
こうして、しばしの楽園生活は続く。
2007年にパリへ行くまで、「どこが一番良かったか」と聞かれて
「クロアチアのドブロブニク」と答えていたほど、気に入った町だった。
そしてこの頃の私たちは、数日後訪れるセルビア・モンテネグロの
日々など、想像すらついていなかったのだ。
つづく
旧ユーゴ旅行記 vol.2(全5回)
じー。
じー。
じー。
これが、クロアチアの第一印象だ。
異常なまでに感じる視線。
しかし、アムステルダムやメキシコシティや北京で感じたような
獲物を狙う視線でも、差別の視線でもない。
単に、バカンスシーズンを外れたこの時期の旅行者が珍しくて仕方ないのだ。
歩いているだけで、通行人の10人中9人が振り返る。
ちょっとワールドワイドになった気分だ。が、
私が世界規模かどうかなど、どうでもよい。クロアチアの話をしよう。
クロアチアで私が感動しきったのは、人々の親切心だった。
キリスト教の影響あってかは、わからない。が、
駅の階段の前まで来ると、一番近くにいた人がスーツケースを持ってくれる。
横断歩道の段差でも、荷物を持ち上げてくれる。
英語が通じずに切符が買えずにいると、後ろの人が通訳してくれる。
バスの乗り場を聞けば、その場所まで連れて行ってくれる。
このような行為に、出くわすことそれ自体は、結構普通のことだ。
クロアチアが「違っていた」のは、これらの行為を
「困っている人(=つまり私)」の「そのとき一番近くにいた人」がやる、
ということが常識に近く浸透しているということだった。
あまりに当たり前になされ過ぎて、ちょっとびっくりする。
彼らにとってはそれは親切ではなく、常識なのだ。
旧ユーゴ戦争のイメージからはかけ離れた街だけれど、
目を凝らせば戦争の傷跡が見えてくる。
片足のない人が、スーツを着て会社から帰ってくる。
事故や怪我では負わないだろう、人間的でない傷跡。
それでも今、街は静かだ。
女2人のくせに計画性のない私たちは、
めぐる観光地は分刻みに決めていても、その日宿泊するホテルが決まっていない。
スーツケースを引きながら、ザグレブの町を歩く。
通りには必ず名前がつけてあって、地図さえあれば迷うこともない。
息子が独立して、空いた部屋で民宿を始めたおばあさんのところへ
ひと晩お世話になることにした。
英語は通じないがコミュニケーションが取れるから不思議だ。
すこしの遠出は、路上のKIOSKで回数券を買って、路面電車に乗る。
折りしもクリスマスモードの街を歩きながら、
夜道でだいぶ減った人々の視線にも慣れつつ
夕食をとったのは、日本のJリーグでもプレーしていたことのある
国際的サッカー選手、バロン選手の親御さんのやっているレストランだ。
「寒いねぇ…」
「お湯、出るかな…」
「明日のバス、何分遅れると思う?」
「明日も宿、あるといいね…」
「非常食、買っとく?」
「それよりあしたの朝ごはんは?」
「…まあ、いっか」
少々は旅慣れたバックパッカー出身の私たちの会話は、こんな感じで色気がない。
つづく
旧ユーゴ圏旅行記 vol.1(全5回)
冬も冷え込む年始。
3が日が明けるか明けないかの頃、
私は世界一怪しいロシアの某A航空でクロアチアの首都・ザグレブに降り立っていた。
ここへ着くまでには、当たり前だけれどもひと悶着もふた悶着もあった。
戦場という名のモスクワ空港で疲弊し、トランジット客専用の5つ星ホテル(5つ星なのは値段だけだった)に軟禁。
ロシアでは、トランジット客は、ロシアの土地は踏むけれども「未入国者」という扱いになる。
そのため、空港の目と鼻の先にあるトランジットホテルの、
しかもトランジット客専用の鉄壁で完全に塞がれたフロアに格納され、外出はイコール不法入国となる。
5つ星ホテルの吹き抜けアトリウムとテラスの食卓をちらっと見たのも、過ぎ去るエレベーターの中から。
外は豪雪、空港敷地の門を開ける警備員は、テレビでよく見るロシア式の帽子をかぶっている。
ひとり旅の多い(というか誰も一緒に行ってくれないようなところに行きたがる)
私にとっては珍しく、女2人の旅行。
お互いサッカーが大好きで、旧ユーゴ圏の紛争とサッカーを描いた『悪者見参』という
本を読んでいたく感動し、今回の東欧放浪計画が決まったのだ。
底値のA航空のチケットを買ったのも出発1ヶ月前。
「とりあえずクロアチアとセルビアモンテネグロと、ボスニアヘルツェゴビナに行くかー」
情報が少なすぎて大してあてにならないガイドブックで得たネタは、
「ボスニアには『スナイパー(狙撃者)通り』という通りがある」ということくらいである。
ロシアの地で、することもなく時差ぼけの睡眠を貪り
朝起きると、サランラップもかけずにドアの外に朝食が置いてある。
まるで拘留所である(入ったことないから、知らないが)。
甘ったるいドーナツ、ケーキ、スポンジ、カステラ。
機械の味のするフルーツヨーグルト。
他に食べるものはないから、とりあえず流し込む。
相方はロシア語専攻で、「キエフカツレツというすごく美味しい名物料理がある」
と出発前に言っていたことを、思い出さないよう努力する。
また厚い窓のクルマに乗せられて空港へ。
ほどなくして無事、最初の地、クロアチア・ザグレブ空港へ着いた。
入国審査で、久々に引っかかる。
(ちなみに相方は無傷だ。女2人の日本人でどちらかだけ怪しまれるなんてちょっとおかしい)
「持っている現金をすべて見せろ」
「あと2つ、顔写真のついている身分証明書はないか」
…まあ、結果オーライといこう。
未知の国、クロアチア。
次回はザグレブリポートです。