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2008/11/10

地球の舳先から vol.98
世界の家族のこと vol.6
インド編

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インドに行くときは、ホームステイで。なぜか、そう決めていた。
が、年とともに戦闘能力を失っていたわたしは(体力を要する旅は10代のうちにすべきである)、
日本でステイ先をさがしてから出国。

出国後の、デリーでの恐怖体験や、聖地ガンジス川沿いのバラナシでの戦いの記録は
またいつかにまわすとして、最後に訪れた西の地、コルカタでのこと。
コルカタは、英語名をカルカッタ。こちらの地名のほうが慣れ親しまれているかもしれない。
新興国、IT大国などと言われるインドだが、それは一部の都市。
コルカタでは、車線を無視して走る獰猛な車と、その人口、噴煙に驚かされた。

人口密度は東京の2倍。
人口の半分がスラム民、ハンセン患者などで占められ、街のいたるところで
観光客が落とした、水溜りに浮かぶポテトチップスを無我夢中で追う
もう死んでいるであろう赤子を背中にしょったまだ7~8歳の女の子の姿が見られる…
それが、わたしのコルカタの印象だった。
足が杖のようになった老人が、四つんばいの動物のような格好で飛びながら近づいてくる。
思わず後ずさりしてしまう、そんな光景があった街だった。

わたしが滞在させてもらったのは、とある中産階級の家だった。
毎日、バイトで都市部に勤める医師がわたしの部屋に通って英語を教えてくれた。
その先生から、いろんなことを教わった。一緒にドライブもしてもらった。
一番印象的というか、この街を顕著に表していると自分でも思ったのが、
わたしが「国会議事堂かなにかですか?」と聞いた大きな建物に、彼が答えた
「金持ちの“家”です」という台詞だったろう。

インドにはヒンドゥー教という古くから親しまれた宗教があるが
中流以上の貴族は自らの子どもをミッション系(=キリスト教)の学校に通わせ、
毎日お手伝いさんの車で送り迎えをさせている。
そのすぐ隣の道路では、前述の子どもが言葉もろくに喋れないまま観光客から
わずかな小銭や食べものを恵んでくれと訴えるのだった。

貧富の差がある国など、いくらでもある。
しかし、そういう国は住む場所、暮らすコミュニティからして貧富によって分かれていた。
これほどまでに、壁1枚を隔てただけで恐ろしいほどの差がある国は、見たことがなかった。

わたしのステイした中産階級の家庭は、とても平和だった、ように見えた。
ひとり息子は学校には行かず、毎日家庭教師が勉強を教えに来る。
お父さんは昼すぎに仕事から帰ってくるとすぐにシャワーを浴び、それからは
ふんどしがわりのバスタオル1枚。
お母さんは3食を手作りしてくれる。

…が。
否定も肯定もわたしはしないが、ひとり息子はヒトラー信奉者(苦笑)
未だに、毎年お正月になると「今年1年があなたにとって高貴で幸せな年でありますように」
というひとことつきの、しかしヒトラーの敬礼の姿を全面にあしらった
年賀状ならぬWebグリーティングカードを送ってくれる。
かならずそこには「I respect him」と添えられているのだった。

10歳のくせして(くせして、というのは勿論負け惜しみである)英語ぺらぺらの彼と語り
わたしはそれでも毎日、マザーテレサの施設に通っていた。
ボランティア登録をすると全員にもらえるマザーのペンダントを何度彼は馬鹿にしたことか。
しかし、霊的といってもいいほどの体験を多数マザーテレサの施設でしたわたしは
すっかりキリスト教というものに、感化はされないまでも怯えに近い感情を抱いていた。

ちなみに、食事は毎日カレーだった。いや、カレーだったというのは語弊がある。
日本人がいろんな料理に醤油を入れるような感覚で、インドの方々はカレーなのだ。
だから毎日、肉料理、魚料理、タマゴ料理…でも全部カレー味。というだけの話。
見方を変えれば、毎日毎食、献立は違うものを用意してくれていた、ともいえる。

加えて「ナン」はインド特有の伝統料理かと思っていたのだが、
実は高級品で、一般の家庭には食卓にのぼったりなどしないとのこと。
ナンは生地をねかせて発酵させてから作るので、パンのようにふわっふわ。
一方、これの代わりに毎日の食卓に上がるチャパティはクレープの生地のようにぺらぺら。
銀のアルミ容器に、カレー、いや、カレー味の料理が3品ほど。
それをチャパティで辛さを紛らわしながら食べるのである。

毎日サリー姿のお母さんといっしょに、チャパティをこね、
コンクリートのリビングにあぐらをかいて座る。
いろんなことがわからなくなるインド滞在であった。
いや、世界に出るたびに、世界をひとつ知るたびに、
わからないことがひとつずつ増えていく、そういう実感があった。

2008/11/03

地球の舳先から vol.97
世界の家族のこと vol.5
~キューバ編 後編

「運がいいですね、今部屋が空いてるんですよ。」
そう声をかけていただいたのは、もうキューバ滞在も数年を経て
キューバのハバナ大学大学院に進学している日本人のYさんだった。
ハバナ大学には日本人コミュニティが年間を通じて発達している。
他の欧米諸国に比べて渡航する人間の数は少ないが、そのぶんコアな人が多く
日本人としての同胞意識が強くなるため、かなり強固で厚いコミュニティができるのだ。
Yさんはそんな日本人コミュニティのドンのひとりと名高い人。
といってもゴッド・ファーザーにはほど遠い、平身低頭なとても親切な方。

相次ぐ不便のなか、引越し先を探していたわたしと
「引越ししたいんですー」
「今どこ住んでるんですか? ああ、オスカルのところか」
という短い会話を交わしただけの翌日、きっちり紹介してくれたのはYさんの隣の部屋。
前編でも書いたが、キューバでは外国人はアパートを借りれず下宿生活となるのだが
外貨獲得による貧富の差拡大を少しでも防ぐため外国人相手の商売である下宿は
1世帯あたり2部屋しか貸してはいけないというとても厳格なルールがある。

つまり引っ越し先は、オーナー一家とこのドンYさん、わたし、という家族構成になった。
以後、Yさんにはヒネテーロ(国際結婚と亡命を夢見るヒモ志望たち)との戦い方から
市場での買い物の仕方、反米デモの日程と参加の仕方まで一から百まで世話になることになる。
奇遇にも、Yさんとわたしは同じ大学出身であったばかりか、
習っていたスペイン語の教授まで一緒。日本在住ン十年の日本語ぺらぺらのその教授の、
男性名詞と女性名詞を間違えれば「オカマ デスカ?」と嫌味を言われ、
母という単語を複数形に間違えれば「フクザツナ カテイジョウキョウ デスカ?」と
にたにた笑われる魔物のような授業について思い出話に花が咲く。

それまで滞在していたゲイカップルの作る食事とは天と地ほどの差がある
「これぞキューバ」のまずい食事と、チェ・ゲバラとカストロ議長を心から尊敬する
いまどきの若者には珍しい長男、そしてオーナーである傍若無人で怖いもの知らずながら
心のやさしいおばちゃんとの共同生活。
ドアを開けるときは2階に向かって何か投げるか大声で叫ぶと、
上階からヒモにくくりつけたカギが降ってくる。そんな光景が、キューバの日常だった。

前回も書いたが、キューバでは家族関係は希薄なものの「家」が大きな影響をもつ。
家族以外の人間の出入りが多いぶん、そこに出入りする人間のカラーも決ってくる。
この家に出入りしていた人たちも、多種多様ながらひとつ軸のある人たちだった。
キューバの負の部分も含めた歴史を研究していたがために投獄まで経験し、
それでもこの国を嫌いになれずに滞在を続ける日本人Hさんもそのひとりだった。

お気楽で、ラテンで、自由で……そういうキューバの華やいだイメージが壊れ、
ひたすら「生活すること」と「生きること」に向き合わされたのもこの家だった。

でも、なんであんなにいつも面白おかしくて、笑ってワクワクしてたんだろう、と思う事がある。
当時はそれが不思議でしょうがなかったのだが、今ならわかるのだ。
あの家には、いつも「恋」があった。

平均3回再婚するといわれ、恋愛に関してだけは生涯現役といわれるキューバ。
オーナーである肝っ玉母ちゃんのダンナは自称2人だが、わたしが外国に短期の旅に出るとき
「これを出してくれ」と渡してきた手紙のあて先はグアテマラの男性の名前だった。
(キューバからは手紙の内容に検閲があるため自由な通信活動が保障されていない)
Yさんの、揺れるキューバ人女性(※複数人)との駆け引きそのものな毎日と、
大量に配給で配られるコンドームの保存が発覚し「エイズ撲滅運動中です」と真顔で言っていたこと、
前述の投獄経験のあるHさんの、キューバ人女性との長年にわたる長距離恋愛と別れ。
3回にわたった別れ話を、わたしたちは逐一聞いてはとりあえず飲んだ夜、夜、夜。
逆に、日本に恋人を残しながらキューバで束の間の浮気に没頭する日本人女性
(いや、マメで情熱的でロマンチックなのよね彼らは)、
かと思えば金だけ引っ張られて「騙された~!!」と怒る(が楽しそうな)彼女たち。

キューバには、なんにもなかった。
村上龍が書いたような理想郷も、
村上龍が一流レストランのプールサイドで飲んだ高級カクテルもなかった。

でもわたしたちはひとつの家のなかで、その日の配給の食物の良し悪しを語り、
2チャンネルしかないのにその片方の国営放送でずっと流れている北野武映画を見て、
どこかの家にマンゴーが成れば飛びつき、ときにたんぱく質を求めて市場をうろうろし、
不安定すぎる政治と経済にハラハラしたり怒ったりし、
ドルが暴落するとか水が買えなくなるとかの噂にいちいち翻弄されては走り回った。

そしてその中心には「家」があって、家のなかには必ず「恋」がいくつもあった。
日本人からみたら、確かにおかしい話なのだ。
だって日本と日本人にとっては、「家」は「恋」の終焉がもたらす形なのだから。
やけに浮気に寛容になった、19の夏。
それはたしかに、単なる貞操観念の問題だけではなかったのだ、と思う。

2008/10/19

地球の舳先から vol.96
世界の家族のこと vol.4
~キューバ編 前編

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「キューバ人は、平均3回再婚する」
これ、都市伝説のようで意外と的を射た表現。
とにかく80歳だろうが90歳だろうが恋愛だけは生涯現役じゃい、というのがキューバ的思想。

キューバ人の家庭に遊びに行くと、とにかく家族の入り乱れっぷりに最初は驚愕する。
「彼はわたしの前の夫、この子はその前のダンナとの子ども、で、これが彼の前の奥さんとの
子どもで…」なんていう複雑怪奇な紹介をされることもしばしば。というかしょっ中。
いいのか悪いのか、社会制度が整っているこの国では医療も教育も無償。
よって、母親が離婚をして生活苦に陥る、ということがないのが、その一因。
離婚再婚あたりまえ、なので父親が違うからといって好奇や偏見にさらされることもないのだ。

そんなちょっと変わったキューバで、わたしは2つの家庭にお世話になった。
この国では、外国人がアパートやマンションを借りたりすることはできない(2004年当時)。
ホテルに泊まるか、一般家庭の民宿にステイするかのほぼ2択になるのだが、
民宿といっても自宅の余っている部屋、それも2部屋までしか貸してはいけないという厳格な規制がある。
これは、外国人から入る外貨によって貧富の差が大きくなることの防止。
まあ、そうは言っても民宿をやっている家庭は結構な小金持ちなのだが。
つまりこのシステムを利用すると、だいたいご飯をオーナー一家と一緒に食べる、ホームステイのようなことになる。

最初の1ヶ月滞在したのは、旧市街のほどよく真ん中にある家。
オーナーのオスカル(※男)は彼の恋人(※男)と同棲している不思議な家庭。
オスカル、もう若くない。もうおじいちゃんに近いようなおじさんなのに、情熱的。
ごはんも掃除も洗濯も、このオスカルがやってくれる。
朝起きるとトランクス一丁で物干しに洗濯物を干している、妙な光景。
昼になればいちばん奥の間で、キューバではぜいたく品のクーラーをまわして
恋人(これもトランクス一丁)と仲良くグーグー添い寝…。
目のやり場に困るというよりは、なんだか七人の小人を見ているようだった。

ちなみにオスカルは物凄く料理上手だった。
配給の、たまにこの世のものとは思えないくらい堅いときがあるパンも、
オスカルの手にかかれば、ここがキューバであることを忘れさせてくれるのだった。

そしてキューバの「家」は、来客が多い。呼び寄せる「人」の人種も家によって違う。
この家は、わたしが次に住むナショナリストの家とは違って政治に対しては緩慢だった。
わたしは滞在時に大規模な反米デモと経済危機を経験しているのだが、
街中がデモ行進に出掛けているときも、この家の住人は窓を閉め切って家の中にいた。
ただいつもと違っていたのは、テレビの音を消してひっそりとしていたこと。
キューバには未だに、5人組のような相互監視システムも密告もある。

この家には、Hさんというキューバ音楽界で活躍する日本人が出入りしていた。
やたらと話好きな人で、エロを語りはじめると5時間でも6時間でも居座る人だった。
当然音楽には詳しくて、キューバへ来る人のほとんどが音楽やダンスが目的という中で
キューバ音楽のキの字も知らないわたしにいろいろ教えてくれて、
あの名作映画『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』の仕掛け人プロデューサーに会いに
一緒にスタジオに連れて行ってもらったこともある。

1ヵ月後、わたしはオスカルの家を出る。
理由は…6月ともなればクーラーのない生活は拷問に等しかったから。
日本人コミュニティの発達しているハバナ大学には、もう何年もキューバに住んでいる日本人がいていろいろと相談に乗ってくれる。
「家を探している」と言えば次の日には「ここどうかな~」と話を持ってきてくれた。
そしてわたしは、残りの滞在を、チェ・ゲバラ命のナショナリスト(←いまどきの若者にしては大変珍しい)と、おきゃん系母親の住む家に引っ越すことになった。

2008/10/12

地球の舳先から vol.95
世界の家族のこと vol.3

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(フェイエノールトのホームスタジアム)

こうして初の海外ひとり旅のオランダで、わたしはフェイエノールトのサッカーを観戦した帰り道
声をかけてきたフェイエノールト・フーリガンのヘンクの家に1泊した。
前篇はこちらから

翌日、遅い起床のわたしを奥さんのイヴァンは町案内に連れて行ってくれ、
ヘンクと一緒にフェイエノールトのビデオを見ている間に、オランダ名物を沢山買ってきてくれた。
伝統の木靴や、装飾の施された美しいキャンドル。手厚い待遇を受けながら、
こんな事態を想定していなかったわたしは、何の手土産も持っていないことに気づき愕然とする。

防寒用に持ってきていた浦和レッズのマフラーを差し出した。
サッカーの応援において重要視される「チームカラー」はフェイエノールトと同じ赤だ。
たいして好きでもなかった小野伸二を、わたしは「シンジをよろしく」と言っていた。
PRIDE OF URAWAと刻されたそのマフラーを手に一家は微笑み、わたしもこの急な出会いを喜んだ。

そのとき寡黙なヘンクの息子が立ち上がり、自室に一瞬帰るとフェイエノールトのマフラーを持って戻ってきた。
そこには、オランダリーグには詳しくないわたしの知らない選手のサインが入っていた。
しかし背番号の「10」が一緒に書かれていたので、エース選手であろうことは想像に難くない。
彼は意を決したように「これを持って帰って」とわたしに差し出したのだ。
わたしは仮にもサッカーファンだし、10番という背番号のもつ重みも知っている。
それはきっと、10歳そこそこの男の子にとっては、相当なお宝だろう。
実際、父親であるヘンクも、驚き黙って息子を見守っていた。

ありがとう、なんて受け取るほどわたしも無神経ではない。
だいたい、この10番の選手は、わたしは名前を知らなくても彼にとってはヒーローなのだ。
価値をわかっている者が持っているべきものだった。
固辞するわたしに、息子は言った。
「僕はずっとオランダにいるんだ。
この10番のエースも、きっともうオランダからは出られない。…もう年だし。
だから、ユウにこれを日本に持って行ってほしいんだ。
僕は、練習場に行けば、またサインはもらえるから。」

わたしは、その10番の選手がどのような経緯をもってフェイエノールトにいて、
そしてどんな境遇にいたのかはわからない。
しかし、ヘンクは遠い目で物思いにふけり、息子の表情もどこか悲しげなものだった。
その選手はきっと、将来有望かなんかででも怪我でもして、すこし人生が狂ってしまったのだろう。
サッカー選手にはよくある怪我等による番狂わせは、サポーターにとっては自分の子供が足をなくすくらい衝撃的なことだ。
だが、ヘンクは全てを諒解したかのような息子のサッカーリテラシーに驚いていた。
いや、自分が知らないところで着々と育っていた息子のサッカーリテラシーを、日本人を前にして初めて目にして驚いていたのかもしれない。
そしてわたしもまた、思慮深いサッカーファンである幼い彼に感嘆せずにはいられなかった。

わたしの日本への帰りの飛行機が出るアムステルダムには、アヤックスというフェイエノールト最大のライバルチームがあった。
オランダリーグは実質上、このアヤックス、フェイエノールト、あともうひとつPSGという3チームだけで優勝争いを毎年繰り返しているようなリーグだった。
わたしは彼の好意以上の体現であるマフラーを受け取り
「ああ、これでもうアムステルダムの街を歩けないよ」と茶化しながら首に巻いた。
息子も、ヘンクも、イヴァンも、みんなが笑った。
「アヤックスなんて、ゴミだ」ヘンクが当然のように言い捨て、一家は“いつもの空気”に戻った。

わたしも、笑った。そして思った。
サッカーは、国境を超える。この言葉の意味を体感していた。

そのときの10番のエースがどうなったのか、わたしにはわからずじまいだ。
でも、なんだかんだ言って男性の強いオランダという国において、一家の長であるヘンクが
家のなかにもたらしたフーリガン魂と、それによって小さなころから鍛えられた彼の息子の
小さな機微を、わたしは畏怖すらもって思い出すのである。

サッカーは、人を、世界を、変えてきたのだ、と。
小さな人ひとりという存在に、勝ち負けというスポーツの世界だけではない、
同じチームをずっと見ていればこそのドラマを与えてきたのだということを。

同時にわたしは、あの頃の自分の無鉄砲さを、呪いながら感謝もするのだった。

2008/10/06

地球の舳先から vol.94
世界の家族のこと vol.2

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フリーセックス、フリーマリファナ。
これがわたしの、17歳の初の海外ひとり旅であるオランダの印象だった。
この国は売買春も麻薬(マリファナ)も違法ではない。
ホテルに部屋を取って何気なくテレビのチャンネルをまわしていれば、
有料放送なんかではないのに完全無修正の番組が放映されている。
首都アムステルダムの、昔の日本でいうところの“赤線地帯”では夜になれば女性たちが
あられもない姿を晒し“合法的に”、セクシャルアピールで客をとっていた。

エールディビジといわれる、この国のサッカーリーグでは浦和レッズを出て行った小野伸二が活躍しており、わたしも彼が所属するフェイエノールトの試合を見に行った日のことだ。
こちらのサポーターは驚くべきことに、自らを「フーリガン」と呼んでいた。
日本でも2002年ワールドカップで知られたフーリガンのイメージは、非合法で暴力的な存在。
しかしこの国のサポーターたちは誇り高く「おれたちはフーリガン」と自称していた。
日本におけるフーリガンの定義とはきっと違うのだろう。

セリエA(イタリア)やプレミアリーグ(イングランド)と違い、
エールディビジは世界から外国人サッカーファンが駆け付けるようなリーグではなかった。
そこにおいて、まだ彼らからみれば子どものような日本人のわたしは、目立ったらしい。
フェイエノールトが快勝した帰りの道すがら、わたしはひとりのフェイエノールト・フーリガンに声をかけられる。
どこから来たんだ。オランダには何日いるんだ。シンジ・オノのファンか? 等々。
わたしは正直に、フェイエノールトはおまけのようなもので、本当の目的は昔小野伸二が属していた
浦和レッズというチームの心臓だったペトロヴィッチという選手がオランダに移籍したので
彼を見にきた、という経緯を語った。
後にペトロヴィッチはフェイエノールトのコーチとなり、小野伸二と同じクラブチームで
上を目指すことになるのだが、当時はそんな兆しさえない時期。

見知らぬユーゴスラビア人選手の名前と、RKCという同じエールディビジを戦うチームの名を聞き
興味をもったのか、ヘンクという名の彼はこう言ってきた。
「今日はどこに泊まるの?」
「まだ夕方だしロッテルダムには宿がいっぱいあるから、これから観光案内所に行って決める」
「よかったら、うちに泊まらないか。女房も息子もいるから、心配ない」

海外旅行において自信過剰は禁物である。とくに、「自分は人を見る目がある」という自信は。
しかし、相好をくずしてフェイエノールトの優勝パレードの模様を語る彼を
わたしは信じないなんてことはできず、ついでに言えば自称フーリガンの家庭にも興味を覚えた。
彼について、Goes(フォース)という田舎町に約1時間、電車を乗り継いで行く。

Goesの街に降り立った時、わたしは心からオランダという国を愛した。
そこには、首都のアムステルダムにも、都会のロッテルダムにもない光景があった。
オランダ人は家自慢が好きとのことで、通りに面した部屋はみな一面が大きなガラス張りで
あえて通りから見えるリビングのカーテンを開けて部屋のコーディネートを道行く人に見せている。
おとぎばなしに出てきそうな小さなお城のような可愛い家々のリビングが、
町を歩くごとにひとつひとつ目に入る。庭はもちろん丁寧にガーデニングされていた。
「すごい」「かわいい」といちいち感動するわたしに、ヘンクも満足そう。

かくしてヘンクの家に着くと、彼は美人の奥さんにわたしを連れてきた説明をはじめた。
シンジ・オノの国の人間であること、オノと同じチームだったユーゴスラビア人選手のファンで
彼を見るためにオランダに来ていること等々。
奥さんのイヴァンは一瞬たりとも怪訝な表情を浮かべることなく、初対面のわたしを抱擁で迎える。
親の英才教育のためか、フェイエノールトのシャツを着せられた幼い息子(10歳)はすでに
英語はぺらぺらで、わたしなどとても太刀打ちできない。
たまにまだ幼児の妹が泣くとフェイエノールトの応援歌をうたって寝かしつけていて、
これは洗脳以外のなにものでもない、と思う。

ヘンクの家は、それでも裕福でもなんでもなく、客間などもなかった。
屋根裏部屋の空き部屋に、電気で動く暖房を設置してくれて、わたしはそこに泊まった。
イヴァンの手料理と、ヘンクのフェイエノールト自慢話にひと晩じゅう付き合いながら。
逆に、こんなただの庶民家庭なのにわたしを迎えてくれたヘンク一家に心を打たれた。
オランダの家庭料理は大味だがとても温かく、家族でひとつの鍋を囲むためにあるような料理だった。
彼の家には優勝パレードのときの写真やなにやらが誇らしげに飾ってあり、
あくまでフーリガンを自称する彼には似つかわしくない家庭的な空気と、
でもフェイエノールトが生活の根幹であるということを物語っていた。

~別れの日へつづく

2008/09/30

地球の舳先から vol.93
世界の家族のこと vol.1

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旅に出るたびに、いろいろな国の「いえのなか」を見させてもらってきたのは、
国があって人がいれば家族が存在するのは当たり前のことなんだけれども
旅行者としては稀有な経験だったのではないか、と最近思っている。
今日はそんな、家族の話。

わたしが一番はじめに訪れた海外は、アメリカ・オハイオ州だった。
齢16才。英文タイプライターと塾の英語講師をしていた母は、わたしを通訳にしたかったらしい。
いまから考えると、同情せずにはいられない高望みだ。

高校1年のときに、それがあるからその高校を選んだといっても過言ではない、姉妹校との提携による3週間のホームステイ。
ホームステイというとギャーギャーピーピー子供が泣き叫び暴れ回る光景を想像していたのだが
わたしのステイ先は、1人の女性と2匹の秋田犬だけの家庭。
十数組の参加者とマッチングするのは高校の先生の仕事だったのだが、
ひとりっ子と犬を飼っているとか、そういう単純な理由でこの組み合わせになったのだろう。
幸い、わたしはその頃から結構ひとりが好きで、子どもも好きではなかったから(なにか不可解な言動を突然し始める不思議な動物にしか見えず、おなじ人間として見れないのだ)、
このステイ先は幸運ともいえた。

さて、到着してビックリ、アメリカといえども豪華すぎる邸宅だった。
2階建ての家は大きならせん階段で吹き抜けになっていて、いちばん東の部屋は全面ガラス張り。
庭には広大な池(噴水つき)がどどんとたゆみ、手漕ぎのボートが浮かんでいる。
らせん階段の段数を数えたら、50段以上あった。
この家にくらべたら、わたしの家なぞシルバニアファミリーみたいなもんである。

This is アメリカか、と思い過ごすこともできたが、さすがに女性ひとりで住むには不自然な広さだった。
ホストマザーは、マザーと呼ぶには若すぎて遠慮してしまうコニーさん。
美女とかいうわけではないが、ふっくらしていてアメリカ人特有の正義感と論理をもつ賢女性。
実は彼女、日本に5年間住んでいて、成蹊大学で英語の先生をしていたのだという。
こうして専属家庭教師を得たわたしの24時間アメリカ生活がはじまる。
なんでこんなよい経験をさせてもらいながらわたしはいまだに「ミズクダサイ」とか言ってるのか、
不思議な限りである。親にもコニーさんにも申し訳ないが、しょうがない。

コニーさんはとにかく、よくしてくれたし、そんなわけで日本人の心の機微のわかるひとだった。
アメリカに行ってまで毎日イヌの散歩をさせられたのは想定外であったが。

しばらくするとコニーさんもわたしも、お互いのいる生活というものに慣れてきた。
ある日、コニーさんは何かあったのか突然「ちょっとお隣さんまで」と出かけていった。
バルコニーの向こうからエンジンのかかる音がする。
そう、郊外のその町では「お隣さん」は軽く1キロ弱ほど先だったのだ。

なにか急ぎの用事だったのか、几帳面な彼女らしからぬキッチン出しっぱなし。
廊下を歩きながら、階段の下にあたるところの小さなドアがすこし開いていた。
家の中は初日にすべて案内されていたのだが、存在を知らない部屋だった。
物置かなにかかな、となんの気なしにドアを押すと、広い階段が地下へ続いていた。
地下なんてあったんだ、と思いつつ、そろりと手元の電気スイッチを押した。
のぞき見といわれれば、まあそうなんだけど。

小さな部屋だった。誰かが住んでいそう。
ベッドこそないが、ソファセットにクロゼット、チェストがいくつか並んでいて、
あちこちの写真立てには、たぶん若かりし頃のコニーさんと、日本人男性の2ショットの笑顔があった。
わたしは、なにかとてつもなく見てはいけないものを見てしまったようで、
慌てて電気を消して扉をもとのように戻し、部屋へ帰った。

その後、コーディネーターから、彼女は若くして日本人男性と結婚し日本に住んでいて、
そのうち2人であの豪邸に住むようになったのだが
程なくしてご主人が亡くなったということをはじめて聞いた。
立ち入ったことだったので、結局コニーさんとその話はしていない。
けれど地下に閉じ込められた追憶の部屋がきれいに掃除され整頓されていたことは
いまでもわたしの目に焼きついていて、
あっけらかんとして豪快さのあるオハイオという地の名前をきくときに
いまだにちょっとした罪悪感とともに去来してくるのである。