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地球の舳先から vol.126
ベリーズ編 vol.6(最終回)
キーカーカーを去る日がやってきた。
旅に出ると、最終日には去ることの寂しさとともに帰るべき日本への懐かしさも感じる。
ただしこのときのわたしの帰る場所は日本ではなかった。キューバである。
慣習的なので感覚が麻痺するのだが、社会主義国のビザというものはよく考えると怖い。
日本人でありながらキューバ政府の許可がなければ、キューバからの出国も帰国も不可。
「一旦」キューバを出るのか、「永遠に」出るのか(=帰国)の2種の許可証のいずれかを申請し
パスポートにべったりと1ページ分丸々使って貼られ、割印を押されてようやく出国許可となる。
(ちなみに申請から許可証発行までは3週間もかかった。)
そうやって得た出国許可をもって、メキシコ、グアテマラ、ベリーズ、そしてこのキーカーカーまでわたしは「夏休みの夏休み」に来ていたのだ。
このとき申請した出国許可は「一旦」のほうだったから、とにもかくにも“一旦”キューバに帰らなくてはならないのである。高飛びなぞ許しません、というわけだ。
なんか、ヘン。
キーカーカーにいたのはたった数日間だったが、時間の流れが余りにゆっくりで感覚が狂う。
小さな島では最低限に過ごしているだけで1日同じ人と何度も顔をあわせるので
3日もいればすでに島のほとんどが顔見知りで、「あ、あの人」となるのだった。
とくにアジア人種はほとんどいなかったので、わたしもまた「あのアジア人」として
島のひとたちや他の旅行者に易く認識されていたのだと思われる。
しかしここの人たちは必要以上に距離を詰めてくることをしないのでそれがまた過ごしやすい。
通りかかってもせいぜい控えめな笑みを投げるくらいで、話しかけてきたりも、
ましてやキューバ人のように出会い頭に「ケッコンシテクダサイ」なんていう人もいなければ、
当然物乞いも物売りもどの国にもいる詐欺師もいない。
良くも悪くも、小さな島に暮らすということは、悪いことができないということでもあるのだろう。
ほんとうに衝動的に飛んだ旅だった。
折しもキューバを出るころ、キューバにはふたたびの経済危機が訪れようとしていた。
通過がドルからユーロに変わる直前で、アメリカとの対立も恒常的な社会主義国では、2チャンネルしかない国営放送など信じるわけにもいかず(だってこの国では当時の公称で、殺人事件など犯罪による死亡件数がゼロだったのだ)、人々は先行する噂に翻弄される。
ドルで買い物ができなくなる。ストが○ヶ月続く。メキシコからの飛行機の往来がなくなる。外国人がキューバから出国できなくなる…半信半疑でなにが正しいのかわからないうちに、アカウンタビリティもなく日々水面下で書換えと変更を重ねてゆく法律、条令。
繰り返されるデモやストももはや茶番。失業も就業も概念として存在しないかの国では、デモ行進の日には数十メートルおきに設置される超巨大スピーカーから爆音のサルサが流れ、人々は朝っぱらから純度のヤバい配給のラムを飲んで踊り狂う。
もはやデモなのかカーニバルなのかわからない割に、参加しないのであればそれは政治的意思表明とみなされるため人々は不在を装って窓やドアを締め切る。
密告も秘密警察もある、アンバランスな国。
あの陽気さが、所謂“ラテン気質”ではなく諦念感のあらわれだと知ったのは、住んでみてから。
キューバでの生活でわたしも、心の奥底に鬱々とした気持ちが澱のようにだんだん溜まっていた。
かの国で生きる人々が日々感じ、それが一生続くと観念的な諦めでもっている閉塞感。
それに耐えられるほどわたしは無神経でもなければ、逆に割り切れるほど心が強くも無かった。
その溜まった澱のようなものが、このキーカーカーで解けてゆくのをはっきり感じていた。
住みやすいとかご飯がまずいとか人々が親切だとかなんだとか、外国に行けば普通に持つ「感想」が、何も浮かんでこなかったのがこの島だった。
すべてのことがこの島の「普通」で、外人にも疑問無くそれを受け入れさせ、一見客をもキーカーカー人にしてしまう、この島。
ないものはとてもいっぱいあるはずなのに、なんの不便も不足も感じさせないのだった。
妙な引き合いだと自分でも思ったのだが、そのとき思い出したのは椎名林檎女史のうたである。
“東京は愛せど何も無い”
外国人で、外国に生まれ育っているわたしにすらそう感じさせるだけのなにかがここにはあった。
一生ここへ住め、といわれればわたしは「やった」とも「やだな」とも思わないだろう。
「そうか」ときっと、納得するだけだろうと思う。
そのくらい、なにか運命らしきもの、自分の力ではどうにもならないけれど、そのどうにもならないっぷりは決してマイナスの方向に進むわけではないいい意味での「見えざる手」の存在を感じたのだ。
わたしは宗教が嫌いなのだが、旅に出ているとそうも言ってられないことが多い。
幽霊とおんなじようなもんで、超常現象とかに出会ってしまうことが、やっぱりあるのである。
「“ないとはいえない”としかいえない」というような、認めざるを得ないことが、とてもよく起きる。
旅に出るようになってから、ある程度わたしの宗教嫌悪の感覚も変わってきたと思うし、
だからちょっと怖くて、まだごりごりのイスラム圏などには足を踏み入れられずにもいる。
このキーカーカーでも、「“ないとはいえない”としかいえない」感覚を、毎日新たにさせられた。
同時に、もしも地上に楽園というものがあるのなら、それはこういう場所のことなのだろうとも。
「ねえ、温暖化が進んだら、キーカーカーはすぐになくなっちゃうね」
わたしが言うと、ダイビングツアーショップを経営する女主人はにっこり笑って「大丈夫」と言った。
「ここは、神に守られた島だから。」
それは確かに、カトリック信仰だけが言わせた台詞ではなかった。
ガイドブックにもたいして載らない小さな島は、それでもどこからか情報を得た観光客を、今日も大勢運んでいることだろう。
島を観光地化するためではなく、やってくる人々を“キーカーカー化”するために。
おわり
地球の舳先から vol.125
ベリーズ編 vol.5(全6回)
海へ出た。ベリーズの小さな島キーカーカーはダイバーの聖地である。
といってもわたしはライセンスなどは持っていないし、
ダイバー垂涎のスポットなどといわれてもわからないのであるが。
むしろ、ナチュラルが好きなので、ウェットスーツを着て海に潜るのも気が重い。
ということで、シュノーケルと足ヒレだけを借りて沖から出るボートに乗った。
しかし日焼け(というより火傷)を防止するため長袖Tシャツは着用。
ボートは5人程度を乗せるちいさなもの。
海からあがるたび食べるカットフルーツをふんだんに積み、波に乗るまま大揺れで進む。
1日目は、世界で二番目の規模を誇るバリアリーフ。
2日目は、サメとエイの棲家と、海中が鍾乳洞のようになっている「ブルーホール」。
3日目は、透明度ナンバーワンという小島、珊瑚エリア、熱帯魚の大群の棲む海洋保護区。
やはり器具が邪魔に感じられ、水着ひとつで海に潜るようになる。
ぐんぐん進む足ひれなど、不要だった。波に流されていたい。
それはキーカーカーに着いてすぐに靴を脱ぎ捨てたのと同じ感覚だった。
たった2メートル程度の浅瀬でも、トロピカルな魚が、透明すぎる水から透けて見える。
ボートが近づくと逃げるどころか集まってきて、船から投下されるスイカを狙うのである。
熱帯魚がスイカを食べるなんて、初めて知った。
船のお供はアホウドリたちで、舳先に集まってはこいつらもまた果物を欲しがる。
(しかしトーキョーのカラスのように襲ったりはしない。)
海底の砂利の色が透き通って見えるほどの海に、天気で色がころころ変わる空。
たまの土砂降りも、濡れながら待った。どうせ海から上がったばかりなのだ。
感動的だったのは、1メートルを超える海亀と一緒に泳いだことだ。
いや正確に言えば、水中で浮上しようと岩だと思ってエイヤと蹴ったのがカメだった。
蹴った瞬間、岩だと思っていたものが、ほよーん、と動いたので何事かと思ったらカメだった。
わたしは0歳と6ヶ月から水泳をやっていて人よりはたいへん泳げるのだが(1キロ位なら軽運動)、びっくりして「カメだ」と“水中で”叫んで海水をのんだ。
海亀を目撃したことのある何人かから、「神のようだった」と聞いていたのだがまさにそれ。
海亀はどこかへ進むというよりも海中に漂っていて、わたしはさっきカメを蹴ったためなにか罰でも当たるんじゃないかと心配になるような、神秘的な空気を醸し出していたのをよく覚えている。
蹴った足についたコケが、カメの動きのゆるやかさを示していた。
口をあけてまばたきをしないサメも、顔の目の前まで近づいていっても動かない。
なにか自然というよりは、彼らにとってもダイバー達がいる環境が「普通」になっていて、
しかしそれは観光地化という言葉ほどにはネガティブなことではないような気がした。
実際、ここはこんなに観光客がいながら観光地にはなっていないのだ。
ポイントごとにいる魚の種は違い、ポイントを移動してはそこの住人たちに混ぜてもらう。
それはまさに、自然の海というよりも、天然の水族館のようだった。
調教されたわけでもないのに、一緒に泳いでくれる魚たちに、
海と陸が地続きであること、おなじ場所に生きているという共生感を感じざるを得ない。
暫くする頃には、ボートから飛び込むときに意味不明な奇声をあげていたアメリカ人たちは
寄ってきた魚達に遠慮するように静かに海に入るようになり、
子どもはべたべたと海中のあらゆるものに触ろうとしなくなった。
「ははぁ……」とわたしはその変化の光景を見て、唸るしかなかった。
環境問題とか動物愛護とか、そんな「ことば」は要らない。
自然は、おそろしいほどに圧倒的な説得力を持っていた。
わたしはそれまで、「自然」という概念がわからなかった。
東京に生まれ、東京に暮らしているからかもしれないけれど。
なにか目に見えないぼんやりとしたものを「たいせつにしなさい」などと言われても、
「はあ、わかりました」というぼんやりした返事しかできないし、
「温暖化が、温暖化が」なんていわれるとなんの宗教だと思ってしまう。
それは、実はいまでもあまり変わっていない。
しかしあのキーカーカーで過ごしたほんの何日かだけは、そんなわたしでさえあやうく
「It’s a small world」とか叫びそうになったのだ。
のしかかる自然の力にはもはや神がかったものがあったし、
わたしはそれこそ歩くのにも粛々としずかにしたいような、妙な殊勝さをもったのである。
だから、帰ってきてもう何年も経ついまでもわたしは、
キーカーカーというこの島のことをはばからずに「神の島」と呼んでいる。
地球の舳先から vol.122
ベリーズ編 vol.4(全6回)
思い出すのもおぞましい光景、という経験が、あるだろうか。
キーカーカーは地上の楽園だと書いたが、じつは恐怖体験もあった。
それがこの、キーカーカーの宿泊事情である。
すっかりゆるんで島を散歩し、貝殻やら流木やらで小物を作っている露天を見て、やたら多い個人画廊でペインティングアートのはしご。
ペリカンだかピリカンだかという地ビールとトルティーヤで夕食をとったわたしは、宿に帰った。
宿といっても、湘南あたりでサーファーとかが長期滞在していそうな簡易的なコンドミみたい。
電気をつけぬまま窓を開けて換気をしてから、ベッドに入った。
…と。
なにやらもぞもぞ動く気配でうすい眠りからさめたわたしは、手の甲を這う虫に気づいた。
うじ虫ほど小さくはないが、みみずをとても短くしたような、足のない虫。
…ギャアァァ!
わたしは虫がきらいである。いや、好きな人なんてそうそういないと思うけど、ホントに嫌いである。
飛び起きてあわてて電気をつけ、洗面台のほうに駆け込んで念入りに腕を洗う。
もうこの時点で、泣きそう。「むしはわるくない」となぜかひとりごとで自分をなぐさめる。
そしてふたたび部屋の中心部をふりかえった瞬間。わたしは失神しかけた。
…ンギャアアアアァァァァァァァ………。
なんとも。さっきまで寝ていたベッドの掛け布団かわりのシーツ一面にびっしりと、その足のないやつらがくっついているのである。
さ、さ、さ、さっきまでわたしが寝ていたベッドに、である。
ひぃぃぃぃ。
あわわわわ。
こんどはわたしはシャワールームに突進。
やつらは布団のなかまでは入り込んできていなかったのでカラダはほとんど無害だったのだが。
全身流し終えたわたしは服を着るのもそこそこに部屋を飛び出し、隣の管理棟へ。
階段からおっこちそうになりながら涙目で「ひぃー、助けてーーー、Helpー、Helpー」と叫ぶ。
そんな鬼の形相におそれをなした宿のマダムが血相をかえて「ど、どうしたんだ」と言う。
わたしが部屋へ案内するとマダムはため息を付いて「…窓を開けとくから…」とぼやいた。
1階に部屋を取り替えてもらい、窓を閉め切って自分が死なない程度に密室で殺虫剤をばらまき
その日は夜を明かしたが、げっそりと翌朝、3泊の予定を返上して宿をあとにした。
どうやら悪いのはわたし、というか注意事項の英語を理解しきれないわたしだったのだが…
わたしは、前の晩の3倍の値段を払って、プライベートビーチと言わんばかりに海のそばに建つ1棟建てのコテージを借りた。ログハウスのような可愛くて、でも大きさは1部屋ぶんしかない小さい建物。
テレビもあって、久々のテレビに長々見てしまう。
その頃わたしはキューバに住んでいたので、国営の2チャンネルしかなく、ニュースのもう片方では延々と北野武映画が流れていた。(カストロ議長が大ファンだったらしい。おかげで何度、道を歩いていて日本人だというだけでキューバ人に「アニキ」「ヤクザ」と指をさされたことか……。)
久々に見る、グラビア。バラエティ。なんかアメリカンホームドラマっぽい番組。
海のそばなので、砂浜に寄生する刺す虫がたまにいるのだが、快適。
ああ、部屋を替わってヨカッタ…と、思っていた。またしても、夜が来るまでは。
ひーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。
今度は海からの襲撃である。たしかに、海が近すぎるとは思っていた。日中は雨も降った。
波が。ざぱーん、ざぱーん、と、コテージの外壁にあたりまくるのである。
「津波ダーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!」
よみがえるナントカ沖地震の悲惨さ。日本は地震の国。おそろしい二次災害的な津波。
わたしは、とりあえずなにかあっても泳げるように深夜に水着に着替え、
防水リュックに貴重品をつめてコテージの外へ出てちょっとした坂をのぼり、メインストリートへ。
相変わらず、わたしのコテージやその隣のコテージが浸水しそうである。おお、おそろしや。
「…もう遅いから、泳いじゃダメ。」
声をかけてきたのは地元の人らしき女性。
「いや、波がすごいから、避難したのです」と弁解。たしかに深夜に水着にTシャツはあやしい。
「あれ、いつもだから。危険ない。」
…そうなの?! いや、あれ、絶対おかしいでしょ。 絶対流されるでしょ。
でもあやしまれるのもアレなので、コテージに帰るわたし。
でも…建物…揺れてるんですけど…。こ、怖いんですけど…。
翌日、わたしは高台に宿をうつした。これぞジプシーである。
つづく
地球の舳先から vol.121
ベリーズ編 vol.3(全6回)
ようやくやってきたベリーズシティ。
グァテマラからの陸路、公称5時間は8時間半にて(まあ優秀)。
ちなみにいかにも首都のような名前だが、首都はベルモバン。
オーストラリアの首都がシドニーに思える、と同じ感じだろうか…。
港町かと思いきや、市街におろされる。
ドコっ?!バスを降りたらそこから船で40分、というはずなのだが…。
ぶつぶつ言いながらも、また当時の居住地・キューバにはないワッフルのお店を見つけ、食べる。
もうなんていうか、食べまくる。戦時中からタイムスリップしたセツコのように。
窓側に席を取ると、…ビルの隙間から、海が見えた。
こんな近代的な街中のすぐそこから船が出ているなんて、不思議。
ワッフルで胃を満たしたわたしは船着場へ。そう、ホント「船着場」といった風情のちいさな港。
夜行バスのチケット売り場&待合室のようなところで切符を買い、船を待つ。
…と、子鬼がやってきた。
身長はワタシよりすこし大きいが、体型が三角形。下にいくほど太っている(あ、人間ね)。
やたらデカいグラサンをして、アフロの髪をすもうとりさながらのチョンマゲに結い、
葉巻のようなモノをくわえ、ラスタカラーのシャツにはばっちりボブ・マーレーのイラストが。
「…絶対、クスリやってる…」と目をそらしたわたしに、なんとなにごとか子鬼が話しかけてきた。
英語恐怖症の上にベリーズは中南米の英語圏特有の訛りの強いローカルイングリッシュ。
しかも相手は子鬼である。わたしの緊張感は極限に振り切る。
「キーカーカーへ行くのか?」
…そーだけど、なんであんたにわたしの旅程を教える必要がっ?!
「船が出る。のれ」
…アンタ誰っ?!?!?!あたしをどうする気っ?!
でもなんかここ、チョットいっちゃってる国っぽいし、この子鬼こんなビジュアルして実はバイト君?
と思いながら目をそらしたまま子鬼についていくと、子鬼は信じられないくらいの小船(なんか金持ちの人とかが買ってるような、何人乗れるの?ってくらいのプライベートクルーズみたいなのに立ち乗りでみんなスシ詰めになっている)にわたしを押し込み、なんと操縦席に立ったのである。
わたしを最後の客として、猛烈なモーター音で離れていく岸を見送りながら、周囲の乗客に
「コ、コノ船ハ、キーカーカー ヘ、行キマスカ?」
「カレは、船ヲ、運転スル人デスカ?」としきりに片言すぎる英語で確認をする。
どうやら子鬼はわたしがキーカーカーまでの切符を買ったのを見ていて、船が出る前に呼びに来てくれたらしい。
タクシーの運ちゃんも、ビザ発給係のマッチョも、バスに乗り込んできた外貨商も、みんな近年まれに見る怪しさだったけど…
うーん。案外いい国だぞ、ベリーズ。
外見で判断しちゃいけないぞ、ベリーズ。
子鬼の操縦する小船はマングローブの林を抜けていく。
エメラルドグリーンでも、蒼い青でもない、強いていうなら蛍光水色のような見たことのない色の海。
30~40分もすると、小さな島の、小さな桟橋に着いた。
全長3キロ程度の細長い小島は、砂浜のまま。コンクリートに舗装された道路はいっさいない。
石油で走る四輪車もいない。ゴルフ場で見かけるキャリーカートみたいな車だけ。
砂浜の砂地に、木を打ち込み、それを柱として家を建てている。
砂浜に杭を打っただけのテーブルで、ケバブだのビールなどを飲む人々。
鉄鎖のなかのバスケットコートでは、さきほどの子鬼が仲間とバスケに興じている。むかし、小学生も低学年のころ、自宅ちかくの草生い茂る空き地を眺めて「ここを秘密の探検基地の森にするんだ」と思ったような、手作り感のある、ほんとうに永続的に暮らしている人がいるのだろうか、と思うような、なんというか現実感のない、そんな島。
甲板をあがると、島に一歩踏み入れる床板に、こんな引っかき傷でつくったメッセージがあった。
「Welcome To Caye Caulker.
Here,No Shirts, No Shoes, No Problem」
わたしはいっぺんでこの島の雰囲気にあてられた。
海にいちばん近い2階建て(この島では高層だ)のコテージに部屋を取り、水着とパレオだけに着替えてからはだしのまま買い出しへ。
貝と砂だけをふみつぶして歩きながら、この島にごみをポイ捨てしたら絶対に誰か怪我すると思う。
売店で買ったビーチサンダルをはき、5リットルの水(この島では、水道の蛇口をひねると海水が出るのだ)を片方の肩にかかえて、落ちる夕日を眺めていた。
また子鬼とすれ違う。お互い、すでに顔見知りだ。なんと小さい島なのだろう。
世界にはまだこんな場所が、そしてこんな生活をしている人々がいる。
とてつもなく、不思議だった。
つづく
地球の舳先から vol.120
ベリーズ編 vol.2(全6回)
さて、こうして資本主義と砂糖と油のかたまりを堪能したわたしは、
あらかじめ調べておいた在グアテマラ・ベリーズ大使館にビザを申請しに行くこととなった。
手にしたのは地●の歩き方。タクシーに乗って住所を差し出すと
「大使館か?大使館は引っ越した」といかにもあやしげな運転手が言う。
ああ、何度同じ手に引っかかっただろうか。
「その店は今日定休日だから違う店に連れて行ってやる」
「そこは閉鎖して住所が変わった」といってタクシー代をぼったくる連中。
わたしは覚えたてのスペイン語で「いいからここへ行ってくれ」と、毅然と言い返す。
……。
世の中は悪い人(=観光摺れした国)ばかりではないことを知る。
大使館の扉に張られた引越し先住所を大きすぎるため息とともにメモり、日本の方向に向かって
「ち●ゅうのあ●きかたの、ばっきゃろー」と叫ぶ。運転手さん、ごめんなさい。
ふたたびタクシーで新・大使館へ。営業時間は終了、下がるシャッターに「うごごごごご」と突っ込み
「スイマセン。どうしてもビザを」と嘆願。
ち●ゅうのあ●きかたを出して、「引っ越してたから、だもんで」と言い訳。
警備員みたいなマッチョな担当者はうなずいて、ビザ(ベリーズの場合はパスポートに1ページ分の大きさのスタンプを押すタイプ)に日付を入れてくれた。
なんと融通の利く!!!!!!と、キューバの共産主義社会主義(必要以上ニ働キマセン)に慣れきったわたしは感動しきりである。
「グラシアス(ありがとう)」を連発し、日本人が経営する民宿にて夜を明かす。
1階は駐車場と大量のイヌ、しかも番犬っぽいデカいコワそうなイヌが。
「泥棒が多いから、夜ここ来ないようにね、食べられちゃうから」と笑うマダム。
いやワタシ的には泥棒よりもこいつらのほうが怖いんですけど……
ドッグフードになることもなく1泊で民宿を失礼し、ベリーズとの国境のあるフローレスという町へ。
まるでさびれた湘南のような、ビーチ沿いにぽこぽこコンドミのような宿泊施設が立ち並ぶ。
大量の蚊と、ヘヘンという刺すいやな虫。…蚊とヘヘンと戦う、初の陸路での国境越え。
途中で大きなバスに乗り換え、さらに途中で乗ってきたこれまた怪しいおじさんが、
「外貨両替をしてやるぞ」と札束を手に言う。レートも手数料の提示もなにもあるわけもない。
しかし当然わたしはベリーズのお金など持っていないので、ほかの観光客と同じように
おじさんをじろじろ不信の目でみつめながら、エリザベス女王の肖像の入った紙幣を手に入れる。
偽札じゃなかろうか…と一抹の不安が過ぎる。
そして、国境へ。日本人には未知なるもののひとつが、この「陸の国境」である。
北朝鮮と韓国の国境である「38度線」へ行った時もびっくりしたのだが、
国境といえど鉄柵がそびえているわけでもなんでもない。
38度線は駐車場のクルマ止めみたいな高さ十数センチのコンクリだったし、
ここの国境も、プレハブみたいな掘っ立て小屋がぽつねんと建っているのだった。
目に見えない線。あっち側とこっち側に、本来なんの差もないというのに。
どうして地球じゅうは、こういうシステムになっているのだろうか。
バスは客をおろすとふたたび爆音で「あちら側」に走り去り、所定の駐車場らしき所に停まった。
乗り遅れては、と列にならぶわたしに、しきりにモノを売りつけようとする人たち。
ちょうど荷物もカバンからはみ出していたので、特にかばん売りがわたしに群がる。
グアテマラの色とりどりの糸で織られたドラムバッグを1つ購入した。
もう値切らないことにしていた。余裕があるわけではないが、モノの値段は作った人に決める権利
があり(なんでもそうである)、売る人間は「買う人間」を見ている。
グアテマラ人に売る値段の10倍をふっかけたとしたら、彼らにとって日本人とはそういうものなのだ。
あとは飲み物を買い、うまくグアテマラの硬貨をつかいきる。
掘っ立て小屋や周辺の露天にはそれでも、誘拐された子どものチラシなどが所狭しと貼ってあり、
ここが線であることをわたしは再認識し、すこし気を締める。
なんたって、わたしの旅の一番の関門がこの入国管理なのだから。
いつもの鉄則。嘘を言わない。笑顔を振りまかない。こぎれいにする。
「どちらから?」の質問に、
「グアテマラ、キューバ、メキシコ、アメリカ、日本。キューバで踊りの勉強をしてる」。
「ベリーズへは何をしに?」の質問に、
「キューバで知り合った日本人が、キーカーカーが素晴らしいって言うから。」
…突破。ほっとして掘っ立て小屋を出ると、さっきまで乗っていたバスがエンジンをかけ始めた。
うだる暑さ。となりの欧州人がくれた、半分とけたチョコレートバーで空腹をつなぎ、
バスは国境の町から最大都市、ベリーズシティへと向かった。
ビーチリゾートの楽園であるというふれこみのキーカーカーまでは、まだ心理的に遠い。
つづく
地球の舳先から vol.119
ベリーズ編 vol.1(全6回)
このJunkStageで連載を始めて、2年が経った。
2年間で約120回と、ほぼ編集部の推奨する「週1更新」を守ったことになる。
しかしこの2年間でわたしが訪れた国はわずかに東ティモール、韓国、パリ、ロンドン、以上。
この4カ国でなぜ週1更新が守れたのか不思議でならない。
これから9月のイエメン(あくまで予定)まで何を書こうか考えてパスポートをめくっていたところ、
まだ紹介していない国が結構あることに気がついた。
ベリーズ、グアテマラ、キューバ、オーストラリア、メキシコ、そして思い出したくもない中国。
なんと思い出したくもない中国のスタンプが8個もあった。
まずはうららかな春の気配もしてきたことだし、わたしが「地上の楽園」と称して畏怖してならない、
不思議で神々しい「ベリーズ」という国の「キーカーカー」という島について書いてみようと思う。
ベリーズについては、雑誌『旅と冒険』でも原稿を書かせていただいたので(8/2の去年のJunkStageの舞台でも販売させていただいた)、できるだけかぶらないような内容にしていきたいと思う。
まず、わたしの連載では恒例となりつつある地図紹介。
国名だけでは場所がピンとこない国が多くて恐縮です。
ココ。ちなみに基本情報はというと、Wikipedia先生から引用すると。
――ベリーズは、中央アメリカ北東部、ユカタン半島の付け根の部分に位置する英連邦王国の一国たる立憲君主制国家である。北にメキシコと、西にグアテマラと国境を接し、南東にはホンジュラス湾を挟んでホンジュラスがあり、東はカリブ海に面する。首都はベルモパン。
民はメスティーソが48.7%、17世紀から18世紀にアフリカから奴隷として連れて来られたアフリカ系黒人がルーツのクレオール人が24.9%、マヤ族が10.6%、カリブの島々から来た黒人とカリブ族の混血のガリフナが6.1%、その他では華人や白人などが9.7%。
美しい海と珊瑚礁に恵まれ、「カリブ海の宝石」と呼ばれている。
という、まあとてもざっくりいうと「メキシコの右下くらいにある元イギリス領の移民が多い国」というところだろうか。
わたしがベリーズを訪れたのはもうはるか昔(といっても5年前)、2004年のことである。
その頃わたしはキューバに住んでいて、でもキューバにいろいろあって嫌気がさして旅に出た。
目指したのは、友人のいたグアテマラ、そして同じ下宿に住んでいた日本人留学生ユキマサさんのおすすめである、ベリーズから小船ですこし行ったところにある「キーカーカー」という小さな島。
グアテマラまではキューバから1本で簡単に行け、さらにグアテマラからベリーズ最大の都市「ベリーズシティ」までは陸路で行ける。
「絶対に行ったほうがいい」、とユキマサさんは強く主張し、わたしはキーカーカーを目指したのだった。
まずグアテマラ入りしたわたしは、キューバには決してないマクドナルド、ダンキンドーナツなど資本主義の後光さえさしている(かのように当時のわたしには見えた)店をはしごし、
タバコを吸うわけでもないのにこれまた資本主義の後光のさすマルボロを買い、
アルファロメオやポルシェのOOH広告に「おぉぉーっ!!!」と原始人のように感動。
あとにもさきにも、わたしが「アメリカばんざい」と叫んだのはこのときだけである。
ええ、いろいろ疲れていたんですよ、共産主義国のいろんなことに。
その足で在グアテマラ・ベリーズ大使館へ向かい、観光ビザを取得しに行くことにした。
しかしそこはまたわたしの選ぶ国のこと、そう簡単にビザは取れなかった。
次回はこのあたりのお話を書いていこうと思う。