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2010/01/06

地球の舳先から vol.151
イエメン編 vol.12(最終回)

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サッカー日本代表対イエメン代表の試合を控え、一昨日から不穏なニュースが流れている。
イエメンの武装組織アルカイダの活動激化により、米英両大使館が閉鎖され、足並みを追い掛ける形で日本大使館も業務停止に入った。
そしてその中間日の今日、奇しくもわたしのイエメン旅行記も最終回を迎える。

もう3ヶ月も前のイエメンでの日々が、いまでも目を閉じると風のやわらかさまでが鮮明に蘇る。
先日、街宣車の騒音に「アザーンっ?!」と言って飛び起きたくらいに。
(熟睡すると、覚醒時に「ココドコ」病が、たまにでる)
現地で会ったイエメン大使館、JETRO、世界食糧計画や国連、マサさんをはじめとするユニセフ、JICA(青年海外協力隊)のイエメン駐在日本人ひとりひとりの顔が思い出される。
彼らはいま、この日-イエの状況を、どう思っていることだろう。

もちろん、問題は山積みだ。しかしわたしは、今日この日にも、あえて言いたいと思う。
わたしの見たイエメンは、とてつもなく豊かな国だった、と。
狂ったような高度成長期と資本・経済原理主義に呑み込まれたわたしたちが失ってしまったものが、イエメンにはあった。

GDPは低いし、将来を見据えたら人口が多すぎて崩壊する、などの統計もあるようだが、
人々は曲がりなりにも整備された家に住み、みんなおしゃれでいいものを着ていて、
子どもたちも遊んだり働いたり、充実感溢れる暮らしをしていた。
観光客摺れしている地域もあったが、基本的にはぼったくりや物乞いも比較的とても少なく、
スリなどの軽犯罪もなきに等しいくらいだった。

それは、どこか日本に似ていた。
軽犯罪も少ない(電車の中で爆睡できるくらい)し、一人あたりの平均所得は世界最高峰。
でも、GDPで見れば成長薄ということになるらしい。不思議な話だ。
GDPという基準を離れれば、日本という国は実際、とても豊かだというのに。
島耕作が社長になったりカンガルーが死んだりするのがヘッドラインニュースになるのは、マスコミがゴミだというよりは、日本が“そういう国”だから。
自殺者が多いのは困ったもんだが、裏を返せば「今日の暮らしに困っていない」わけでもある。

「世界基準」なんて、なんていい加減なものなのだろう。
いつからGDPというもので国のクオリティをはかるようになったのだろう、などと考えると、かの国と、かの国が世界征服をするために打ち出した資本原理主義がどうしたって浮かぶのだが。

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かく言うわたしも、イエメンに着いたばかりの頃は、不思議でしかたなかった。
お金はない。飲食も十分にはない。環境、衛生に関しても世界最悪レベルの部類に入る。
それなのに、イエメンで会う現地の人々の笑顔にはいつも、余裕と幸福が浮かんでいた。
そして、外国人のわたしたちを、歓迎と感謝いっぱいに、これでもかとばかりもてなしてくれた。
後進国と呼ばれる国へ行くと、負の視線を向けられることがしばしばある。
それは、羨望まじりの嫉妬だったり、差別だったり(そしてそれは多くの場合「アジア人のくせに」ってやつである)、ぼったくってやろうという商売根性だったりするのだが、
イエメンでは逆にあたたかい腕を広げられ、わたしはその中でたくさん遊ばせてもらった。
そんな気がした。まさに自分の小ささと、心地よいアウェー感を満喫した気がしてならない。

崖の上の絶景に息を呑み、ありえない建築物にあきれながらも感心し、カート中毒のイエメン人に苦笑し、お祈りへ向かう列に顔の布を巻きなおした。
山岳地帯で、ごつごつの岩を指してガイドが「あの中に3つくらい部屋がある」と言った。
英語力不足ゆえの聞き間違いか、と思っていたらほんとうに岩の間から人が出てきて驚いた。
彼らはわたしたちと同じ地球上に住んでいるのに、
わたしたちのように自然を支配するのではなく、順応していた。
生活に合わせて自然を変えるのではなく、環境に合わせて生活をつくる。
そんな、ひとむかし(そう、「ひとむかし」なのだ)前までわたしたちが当たり前にやっていた、
原始的だけれども本質的な生活を、彼らはいまだに続けている。
ある意味で、それはほんとうに、2000年前から変わらない生活を。

しかしわたしはそのとき思ったのだ。
自然を支配し、思うが侭に発明や開発といった言葉で生活を変えていくわたしたちのほうが、
きっと彼らからしてみればよっぽど“宇宙人同然”なのではないか、と。
彼らを形容するのであればそれはきっと、「原始的」というよりは“最後の人類”なのだろう。

人間は、どこでだって、どんな状況になったって、とにかく生きていくことはできるのだ。
そして、喘ぎ苦しみながらではなく、幸福に生きようとする力があらかじめ備わっているのだと。

それが、わたしがイエメンで見た“強さ”だった。

<イエメン編、了>

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ユニセフイエメンのマサさんをはじめ、イエメンでお世話になった全ての方に感謝します。
Special thanks to Masa,and all of the Japanese&Yemeni Ive met while we stayed.

2009/12/28

地球の舳先から vol.150
イエメン編 vol.11

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とうとう最後の夜がやってきた。高地にも慣れたので、最上階の部屋に代える。スイート仕様でかわいらしい部屋。最終日はサナアの街を名残惜しみながら歩くことに。
まず一行は、マサさんの運転する子ベンツでサナアの少しだけ郊外へ。
かつてユダヤの大富豪が所有していたという、これまた崖の上にある村である。
今では人は住んでいない、ということなのだが、ヤギを連れた人たちが見えた。

ここへ行くときは要注意。ファティーマというおてんば娘がものすごいイタズラをしてくる。
最初は英語などで話しかけてきて可愛いものだったのだが、ガイド料をよこせとか言い始め、そこまでは普通(イエメンではあまりないけれど)なものの、断ってクルマに乗り込むとフロントガラスにダイブしてくる。
弟を応援で呼んで、2人でやりたい放題。汚い言葉で恐縮だが、久々に「くそがき」という単語を思い出した(苦笑)。
ファティーマとその弟を振り切って下山したわたしたちは、一路大統領モスクへ向かう。

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これが「大統領モスク」の外観だ。
中東にはよくありそうな光景だが、アラビアンナイトの雰囲気漂うサナアには場違いな巨大なモスクである。
相当な建設費がかかったらしいのだが、そのお金の出所は様々に噂されているという。
近隣のイスラム諸国との政治問題に絡んだこのモスク、住民からも評判が悪い。
まずは靴を脱ぎ、モスクの外にある下駄箱にしまう。すごい量の下駄箱なのだが、4万人が一度にお祈りができるキャパシティだという…

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モスクの入口まで、炎天下の中、熱せられた屋外の大理石の石畳を歩かねばならない。熱い。とにかく熱い。この記念撮影でわたしの顔が歪んでいるのはまさにそのせいである。
入口で手荷物検査をして、中へ。わたしは、文字通り言葉をうしなった。
写真の中の人間の大きさを見ていただければ、このスケールがわかると思う。
きらびやかなシャンデリア。大きなステンドグラスに、降り注ぐ陽光。
昔見た曼荼羅図の天国の絵のようである。
だだっ広い広間で人々はコーランを読んだり昼寝をしている人もいる。
「なんだこりゃ…」これが率直な感想だった。
マサさんもこの大統領モスクには初めて入ったそうで、「柔道場…?」と呟いていた。

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モスクを出ると、社長(現地の旅行代理店の社長がずっと付き添ってくれていたのだ)がカート禁断症状を起こしている。
カートを買いに行くことを「故郷へ行く」というようなジョークがイエメンにはあるらしいのだが、空ろな目でしきりに「マサ・ヴィレッヂに行きたい…」とうわごとを言っている。
これはヤバイ。というか、カートヤバイ。何が「常習性はない」だ。大嘘ではないか。
しょうがないので社長を放出し、カートを買いに行かせることにした。

ちなみにイスラム教徒でないわたしたちは、昼のお祈りの時間を避けて見学に行った。
昼のお祈りの時間は、近くの食堂で念願のラクダを食べた。臭みがあってあまりおいしくなかったが、人生経験ということで。
添乗員で2カ国以外全世界を旅している立花さんは、アフリカかどこかの奥地でカバを食べたらしい。カバに乗ったらしい。危険らしい。
「It’s so dangerous」と言ってしかめっ面で首を横に振る警備員に5ドルを渡すと、とたんににこにこして「Not so dangerous~♪」と乗せてくれたのだそうだ。
恐るべし、袖の下文化。イエメンの話ではない。

さて、カートをドーピングして元気になった社長と再び合流し、マーケットへ。
が、わたしは、僻地旅の経験から、あまりお土産には期待をしていない。
その地では魅力的に見えても、日本に持って帰ると「なんでこんなもの買ったんだろう」ということがとかく多いのだ。ある意味ディズニーランドマジックとも似ている。
今回は世界遺産のシバーム・ハドラマウト砂漠で拾った砂を星の砂よろしくお土産にすることにしていた。下手にあやしい食べ物やよくわからない小物よりも、こういう究極的に役に立たないもののほうが好きなんですが、迷惑ですか。
砂を入れる小瓶を10個買って、わたしの土産物は終了。ラクなもんである。
リツさんはしきりに絨毯を選んでいる。もちろん、日本で買うより異常に安い。

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右側が絨毯屋のおやじ。タイムスリップしたようであろう。
マーケットはこの日も断食明けのイード休みの名残で多くの店が閉まっていたのだが、ダダをこねて(わたしではなくリツさんが)開けてもらったのである。
そうこうしているうちに日も暮れ、わたしはわたしでいいものを発見した。

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暗くてわかりにくいが、「窓屋」である。窓枠を作っている工房だ。
この窓屋が、イエメンの芸術的ともいえる伝統的な窓枠の形を模した写真立てを、観光客向けに副業で作っているのである。
わたしはここで精巧にホンモノと同じ要領で作られ、ちょうつがいを開け閉めしてひらく窓の形のフォトフレームを買った。

夕食はマサさんのお友達の日本人(国連に勤めている方で、地雷除去プロジェクトをやっているそう)とともにとったあと、マサさんの提案で夜景を観に行くことに。
サナアに夜景が…?とすこし不思議だったのだが、完全に真っ暗な山をのぼって見下ろすサナアの夜はとてもきれいだった。もちろん、光量が少なめだから、星もキレイ。
崖の手前に車を止めて、車中で音楽をかけてデートをしているイエメン人もいる。
こうして最後の夜もフルスロットルで更けていったのだった。

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2009/12/11

地球の舳先から vol.148
イエメン編 vol.10

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(国内線のフェリックス航空の機内から。終始この調子で低空飛行だった)

とりあえず何事もなかったシバームだが、胃の底の重いものは拭いきれない。
2分遅刻して行った朝食の場で、日本人研究者のキクチさんが話をしてくれる。
イエメンの一番の問題は教育と医療だという。
コネが無ければろくな医者にもかかれないし、女性の識字率は50%以下。
そういえばマサさんも、「お知らせを出しても字が読めないから」と言っていたっけ。
でも、少ないながら大学に進学する女性は本当に凄まじい努力と決意のため、成績優秀者はほとんどが女性だったりもするという。
女性は女性しか診れないので、女医さんの需要は結構あるそうなのだ。
(白衣の下はやっぱりアバヤの黒装束らしい…動きにくそう。)

しかしほとんどのイエメンの人は1次産業以外の働き方を知らないのだという。
外資系企業もイエメンに進出しているものの、イエメン人を雇おうとしないそうだ。
トヨタも含め、外国人を雇ったほうが住居などの面倒も見なければいけないため5倍の人件費がかかるといわれているのだそうだが、それでもイエメン人以外を雇ったほうが割に合ってしまうのだという。
大企業も、社長や重役には外国人を招致するのだそうだ…。

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(国内線の搭乗券。手書き。そして全席自由席。かえるぞサナアに)

いろんな人に心配されながら、そしていろんな人に守られて、行って帰ってきたシバーム。
サナアの空港へ着くといちばんに、マサさんに電話をした。
「無事かえりました」
「ああよかった、おかえりなさい」

今晩、ユウさんリツさんの来イエメン歓迎パーティーを用意しています、とのこと。
国連や世界食糧計画や青年海外協力隊など、イエメン在住の日本人オールスターが集結するらしい。
普通じゃ考えられない、濃くて貴重な旅をさせてもらっている、とまた実感する。
午後はサナアを散歩して、夕焼けのアザーンを聞きながら、オールドサナアからすこし離れたところにあるマサ家へ。
このマサさんという人だが、かなり類稀な人である。
少なくともわたしはいままでの短いながらの人生の中で、これほどまでに情熱を持ち、真摯で誠実で、かつ他人への思いやりに溢れたやさしい人に会ったことがない。
とくに政府機関とか、NGOの人たちというのは、なんだか妙な「自分はなんでも知っている」もしくは世の中を「下に」みている人が多かったり、あるいは理解されないゆえに卑屈になっていく人にも会ってきたのだが、マサさんの思考はとてもバランスに富んでいる。
国境とか社会とかだけではない「世界」の広さや、白人とか黒人とかだけではない「人種」の多様さとか、そういうものを一切合財うけとめている懐の深さがあるのだ。
マサさんに日本で会った際に一緒だったJunkStageスタッフ松本さん、酒井さん、そして今回同行したリツさん、立花さんも一様な印象を持ったようで、たびたびマサさんを形容することばとして「聖人君子」ということばが出たのも、あながち言いすぎではない。

…んが。そんなマサさんも私たちとおなじ人間だったのだ、と思ったのがこの日である。
マサさんおよびユニセフおよび日本国の名誉のためにすべて伏せるが、「マサ家のXXXXXはこちらです」という張り紙とか、ドバイからXXXXXしたXXXXXがあったりとか、海岸都市アデンの海でカニを追ってXXXXXXXXとか…一連のマサさんの武勇伝を知ってしまった…。笑

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そんな和やかなパーティーを彩ってくれたのは、マサさんの家に週何回か通いで来てくれているというメイドさんのこれまたおいしいお料理!食べ過ぎはまたも進行していく…
数日前に拾ってきたという猫はすでに人になついていて、その場に居た人たち片っ端から膝の上で寝ていた。まだ生後数ヶ月なのではないだろうか、非常に可愛くて萌え死にそうになる。
JICA(青年海外協力隊)の隊員の女性が作ってきてくれたケーキもとても美味しく、お茶受けに、マサさんがヤカンで緑茶をいれてくれる。

会は進むうち、その場のメンバーの属性もあり、イエメンの政治情勢の話に。
特に、何が起きているかわからない、部族間紛争の起きている北部事情について。
国境なき医師団までもが足止めを食らい、一部には虐殺が行われているという説もある。
マサさんが尊敬して止まないという、同じユニセフで働く日本人のTさんは、何カ国をも巡ってきており外国人との子どもを日本に残してきている方。
そのTさんが自らの経験を語りつつ、つぶやいたことがある。

「やっぱり、死体は見たくないよ…」

当たり前すぎるその言葉は、あまりに現実味を帯びていて、そしてあまりに、深かった。

報道の妙、もある。同じくTさんが話してくれたことだが、日本の学生運動全盛期、カメラは制止する側について報道を行ってきた。そこにうつる学生たちの姿は、無秩序で、暴力的で、「とんでもない」という世論をつくるに至った。
がしかし、一旦学生側から撮った映像にはとんでもない機動隊の“事実”が写っていたのだという。
どこから、何を見るのか。それで“真実”さえ、姿を変えてしまう。
なにをもって真理とするかなんて、所詮個人の「思い」もしくは「見方」に過ぎない。

わたしたちの目には、何が映っているだろうか?
それが真かどうかなんて永久にわかることはないのだろうし、そもそも「真」というものが存在しないものなのかも、しれないけれど。

~世界一周バイヤーに応募!ぜひ投票してください!

2009/12/03

※現地時間11/15に、JICA事業従事の日本人男性技師が、イエメンの首都サナア北東の町で武装グループに拉致されるという事件が起きました。犯行グループは、裁判なしに4年間収監されている仲間の解放を要求している模様です。ここに記したイエメン日記は2009年9月のものであり、イエメンは日々情勢が変化する国です。過去5年間で外国人観光客を標的とした事件は数十件起きています。ご渡航を検討中の方は、外務省の情報や現地の旅行代理店と密に連絡を取り真の情報を収集すること、現地に精通しアラビア語を完全に理解する同行者、現地滞在中でも常にリアルタイムで正確な情報を入手できるルート、最低限これらが整わない限りご渡航はおすすめいたしません。

地球の舳先から vol.147
イエメン編 vol.9

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シバーム・ハドラマウト。
砂漠の摩天楼都市の異名をもつ、世界遺産・シバームの旧市街を望む砂漠地帯へ向かう。

翌朝はアザーンのお祈りの放送よりも早い4時半に起き、朝7時のフライトでサイユーンへ。
午前中はサイユーンの街で、名物ハドラマウトはちみつを買ったり、市場でメロンを買って
レストランで切ってもらったり、タリムというイスラム権威の街を眺めたり。
サナアより10~15度気温が高い砂漠地帯。すこし動くだけで体力を根こそぎ持っていかれる。
一番暑い時間帯はホテルでお昼寝タイムにし、夕方からいざ、シバームへ向かった。

もちろん、なんの犯罪にも巻き込まれなかったし、怖い思いなども一切しなかった。
だからこうして旅行記などをのんびり書けているわけなのだが、それでも
わたしの「やな予感」は、ある意味では当たった、といわざるを得ない。

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(夕方になってから動き出す。暮れなずむ白い壁のまち。)

シバームの街は、こちらまで陰鬱な気分になるくらい、とにかく暗かった。
活気がないし、人も暗い。元気なのは家畜だけ。
ほかでは旅行者を見ると駆けてきた子供たちは表情をなくし、
大人達はギラギラした目でお土産屋に誘導することも、逆に親切に旅行者を見守ることもなく、
街のなかで放し飼いにされた山羊や羊、トリなどだけが小走りにそこいらじゅうを駈けていた。

ほかの土地よりも敬虔で保守的なイスラム教徒だから、とは言われたが、あの陰鬱さはそんなレベルの話ではない。
なんなんだこれは、と思っていたらふと、
分裂直後のベオグラード(旧・セルビアモンテネグロ)と酷似していることに気がついた。
終わらない日常、とりあえず今日を生きる以外の選択肢のない諦観、人の生死に麻痺した目。
外国人のわたしが言うことではないが、どうしようもない悲しさが圧力となって迫ってくるあの雰囲気とシンクロして、当時の光景が眼前によみがえりぞっとした。
もちろんシバームは日常的に死と隣り合わせだったかつてのベオグラードとは全然状況が違うし、そこまで悲惨な状況には、少なくとも現時点ではなっていない。
しかし、「自分の力ではどうすることもできない状況」プラス「そもそも自分の力でどうこうすることへのモチベーションの欠落」イコール「思考停止あるいは放棄」、という構図には当時のベオグラードとなにかしら、共通するものがあったのかもしれない。

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しかし、これもイエメンなのだ、と。

たとえ誤解であったとしても、肌で感じたものは実感として消化しなければならない。
人が良くて美しくて、ちょっとやんちゃなサナアと、GDPでははかれない豊かさのなかで暮らす山岳の村々だけを見て、「イエメン」の旅を終わらせなくてよかった、と思った。
旅の最後、「何が一番良かったですか?」と添乗員の立花さんに聞かれたとき、
「好き嫌いや良い悪いでなく、行くべきだったのはシバーム」と答えたその言葉のままの意味である。

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その後、わたしたちはテロのあった問題の丘に昇った。丘から眺める景色には息を呑む。
青い制服のツーリストポリスが先頭に立ち、着いたそこは人っ子ひとりいなかった。「一大観光地だった頃は、30~40人いたんだけどね…」と言うが、その面影すらない。
砂漠を挟み、向こう側が世界遺産のシバーム旧市街。こちら側が新市街だ。
ほんの10メートルもない位のところには、黒くなった岩があり、そこがテロ現場だそうだ。
ここも当然、なんの囲いも説明書きもない。ガイドがいなければただの岩だと思っただろう。
こうして歴史は、過去として風化していくことができるのだろうか?

岩を避けて、夕焼けを待つためにしばし座り込む。
リツさんが、干し梅をくれた。立花さんが、せんべいをくれた。自然と言葉少なになる。
そのとき。通訳のキクチさん(アラビア語名・アブドゥル・ハミドさん)の携帯がピルル、と鳴った。
――テロ告知があったときは、速やかに連絡する。
前夜の、社長の言葉がよみがえる。ひやり、として、吐ききった息をうまく吸い込めず背後でキクチさんがなにやらアラビア語でやりとりをするのを聞いた。
電話はただの業務連絡だったのだが、あのときの、なにかを覚悟したときのおそろしいくらいの冷静さは、今でも心を冷やす。

世界遺産を背中にしょって、ハドラマウト砂漠の砂を拾った。
細かい砂の粒子。風や環境によって、簡単に吹き飛ばされて形状を変えてゆく。
マサさんの書いていた、「脆く儚い、“平和”という偶然にして一瞬の今」というコラムを思い出していた。

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2009/11/26

※現地時間11/15に、JICA事業従事の日本人男性技師が、イエメンの首都サナア北東の町で武装グループに拉致されるという事件が起きました。犯行グループは、裁判なしに4年間収監されている仲間の解放を要求している模様です。ここに記したイエメン日記は2009年9月のものであり、イエメンは日々情勢が変化する国です。過去5年間で外国人観光客を標的とした事件は数十件起きています。ご渡航を検討中の方は、外務省の情報や現地の旅行代理店と密に連絡を取り真の情報を収集すること、現地に精通しアラビア語を完全に理解する同行者、現地滞在中でも常にリアルタイムで正確な情報を入手できるルート、最低限これらが整わない限りご渡航はおすすめいたしません。

地球の舳先から vol.146
イエメン編 vol.8

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今回の旅では首都のサナア以外に、2カ所近郊をまわる予定でいた。
ひとつが山岳地帯であり、これは「奇跡の橋」と呼ばれる石造りの橋のあるシャハラへ行きたかったところを、北部の紛争勃発(激化)によりマフウィートへ変更した。
もうひとつがこれから2回にわたりご紹介する、ハドラマウト州の世界遺産都市シバームである。

確かに誘拐事件も、外国人観光客を巻き込んだ自爆テロ事件もここで起きていた。
が、出国前の現地旅行会社の事前判断では、今ならまだ大丈夫だろう、とのことだった。
しかし念には念を入れ、現地のガイドと運転手のほかに、サナアからぴったり同行する現地に精通した通訳と、武器を携行するツーリストポリスの手配をしていた。
サナアから約50分のフライトで、近郊のサイユーンまで飛ぶ。
北部にばかり注意を向けていたのだがこのシバームも、
在留邦人も渡航が禁止されている状態と知ったのは、イエメン入りしてからのことだった。

初日にサナアで入ったカフェで在イエメン日本大使館のご一行と出会い、
わたしたちの行程にシバームが入っていることを知ると、その場が水を打ったように静まり返った。
もちろん彼らには渡航を止める権利もないし、逆に守る手段を何かしら講じることもできない。
しかし、「立場的に注意を喚起する必要がある」以上のなにかを感じた。
おいおい、こりゃヤバイんじゃないか…? と、口にこそ出さないが思ったのも事実である。

その後もスーク(市場)を歩いていると、在イエメン日本人の主(ヌシ)のような人が
しきりに添乗員の立花さんと、わたしたちに聞こえないよう後ろで何かしら注意をしている。
聞こえてくるのはやはり「ツーリストポリス」「アームドポリス」といった穏やかならぬ単語である。
立花さんも、「あそこへ行くのは暫く、この一行が最後になるでしょうね」などと言っている。

ここでわたしは、実は、窮地に陥った。
なんだか、「やな予感」がしたのである。
こういう根拠のない予感ほど、厄介で、しかし的中するものである。
ひとり旅だったら、この根拠なき予感のせいだけで、シバーム行きを取り止めていただろう。
なぜならわたしにとって旅は、アドベンチャーではなく情操なのだから…。
とはいえシバーム行きは、まぎれもなくわたしがオーダーした行程のひとつであり、
行くのは全部で3人と団体行動な上、サナアからぴったり同行する通訳まですでに雇ってある。
そう簡単に、「やっぱ、やーめたっ」などというわけにもいかない。

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その日の晩は、翌日から通訳として同行する、アラビア名をもつ日本人イエメン研究者の方と
イエメン現地旅行社の社長と夕食をともにしたのだが、まるでブリーフィングそのもの。
過度な心配をしないようにと皆さん配慮してくれていたが、戦地に向かう兵士の心持ち。
韓国人が誘拐された事件は、事前に「48時間以内に外国人観光客を対象としたテロ攻撃をする」とのアルカイダからの声明が発表されていたこと。
その類の声明は、大使館等を通じて関係各所に飛び散るので、犠牲となった彼らも当然、
知っていながら行ったという無謀な状況であったであろうこと。
通訳のキクチさんも、当時イエメンにおり、この声明を大使館から受け取って、頼まれてもいないけれどサナアじゅうの日本人がいそうなホテルへ行って情報を流したこと。
なにかあればすぐに連絡をするし、現地では武器を携行したSPに日がな同行してもらえるよう手配してあること。
これだけ現地にコネクションがある状況なら、情報が入ってこなくて危機に直面するということは
まずありえないだろうということ…

聞けば聞くほど、「やな予感」を打ち消す要素のほうが圧倒的に多かったし、
同行のリツさんもその晩の話で安心をしたようだった。
やはり大使館の人間の反応を見て心配がってはいたが、わたしも「そりゃ、なにかあったときに『知ってました』じゃ済まないからねぇ」と言ったもののそれは別に見栄ではない。
ロジカルに考えれば、口から出たその言葉のほうがよほど判断力に長けている。
「やな予感がするです」だけで行程を変えるほど、わたしも右脳だけで生きてはいない。

が。その日の夕飯は、美味しかったことは覚えているが、味は覚えていない。
久しぶりに、水をやめて、炭酸を飲んだ。

や、もう。
とにかく、行くしかないのだ、と。

2009/11/20

※現地時間11/15に、JICA事業従事の日本人男性技師が、イエメンの首都サナア北東の町で武装グループに拉致されるという事件が起きました。犯行グループは、裁判なしに4年間収監されている仲間の解放を要求している模様です。ここに記したイエメン日記は2009年9月のものであり、イエメンは日々情勢が変化する国です。過去5年間で外国人観光客を標的とした事件は数十件起きています。ご渡航を検討中の方は、外務省の情報や現地の旅行代理店と密に連絡を取り真の情報を収集すること、現地に精通しアラビア語を完全に理解する同行者、現地滞在中でも常にリアルタイムで正確な情報を入手できるルート、最低限これらが整わない限りご渡航はおすすめいたしません。

地球の舳先から vol.145
イエメン編 vol.7

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(朝のマフウィート。快晴。)

肌寒い、朝をふたたび雲のなかで迎える。朝の空にこんなに色があったとは。
子どもたちを中心に、すでに元気に働いている。放牧、草むしり、家の修復。
日が昇ったらお祈りをして、すぐに働くのだそうだ。
子どもが働き手ゆえ、教育がゆき届かないなどの問題もマサさんのコラムから知っていたが、
どうしても「すげえなあ」と感心に変わってしまう。
前日昼食で立ち寄った街・ハッタウィーラではすでに今日のひと仕事を終えた子どもたちが、
広場でダーツなどをして無邪気に遊んでいる。
かと思えば小さい妹を抱きかかえてあやしている、正装の少年。
「見てみて、可愛いでしょ、写真撮ってよ」とせがまれカメラを向けると少年は得意満面で妹
をファインダーに向ける。その姿はれっきとした父親のようで、まるで子どもではなかった。
子どもが子どもらしくいられないこと、というのは、哀しいことなのかもしれないけれども。
生命力、耐力、精神力、そして「幸福に生きる力」も、おそらく彼は兼ね備えている。

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(まだ8,9歳であろうお兄ちゃんの表情はもはや父親のそれである。)

コーカバンという少数民族の村に立ち寄り、車はブクールという崖の地を通過…する予定だった。
ふと左折して、ごつごつの岩へ入ってゆく運転手。
いやいや、ランクルとはいえ、岩用ではないだろう、というわたしの心配をよそに、天井に頭をぶつける勢いでランクルは岩を越えまくってゆく。
TOYOYAという会社を心から尊敬した瞬間である。
そうしておろされ、3000mを軽く越えるところから断崖絶壁の崖の先へ。(富士山って低いのね)
わたしは高所恐怖症でもなんでもないつもりだったが、それはつまりほんとうの「高所」というものに出会っていなかったからなのだな、と思い知った。
あの崖の先に立って足が震えない人が居たら、お会いしてみたい。
それでもイエメン人は崖の先(というか10センチ滑ったらお陀仏だ)に座ってデートしたりとか、カートやったりとかしている。クレイジー。

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(この崖はほんとうにくらくらした…)

その後、もうひとつ小さな村、貯水湖をもつ「ハバーバ」へ寄り、観光地・「スーラ」の村へ到着。
ここではマフウィートとは違い、「おとな」の“自称ガイド”が大挙してきた。インドみたい。
ここも、イエメンの情勢が悪化するまでは一大観光地で、バックパッカーを中心に日本人も多く訪れ、長期滞在をしていた人もたくさんいたのだという。
「I AM 石川サン」「I AM 加藤サン」と彼らは一様に日本語名を名乗り、ガイドを申し出る。
添乗員の立花さんが大声で「We need only 1 guide」と訴え、わたしたち一行のガイドは自称「石川さん」に決定した。でも、フランス人が来たらジャン・ポールとか、ドイツ人が来たらアルベルトとか名乗っているに違いない。

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(瀟洒なスーラの町。)

この地は1300年から交易の中継点で、外敵や攻撃も非常に多かったのだという。
しかし、お家芸の建築技術によってオスマントルコという大軍からも征服を免れた。
またイスラエルが帰還する前はユダヤ教とイスラム教がこの村で共存してたという。
今の世界的なキリスト教とイスラム教の反発からは考えられないが、実際このスーラの町では
、キリスト教の教会と、イスラム教のモスクが隣同士で建っていて、ドびっくりした。
キリスト教のモチーフはおなじみの一筆書きの星、五芒星。
対するイスラム教は三角形をふたつ重ねた、六芒星。(ダビデの星とかいわれる、あれだ)
…あきらかに、兄弟である。そろそろ骨肉の争いを再考したらどうだろうか。近親憎悪?
が、この世に宗教というものがなかったら、世界はもっと平和だったか? それはわからない。
ちなみに、過去も含めユダヤとイスラムが共存した事のある地は世界に3つだけなのだそうだ。
このイエメンのスーラ、南米のスリナム、そしてもうひとつは…エルサレム。

その後、こちらも一大観光地、「シバーム」へ寄る(ハドラマウト州のシバームとは別)。
カートルームのような瀟洒な一室で昼食を取り、コーカバンへ。
「シバーム&コーカバン」はセットで観光化されている有名な町。
崖の上がコーカバン、崖下街がシバームだ。
シバームから見上げても、コーカバンはとても町には見えず、岩に隠れているようにみえる。
その昔、コーカバンには武士が住み、シバームには農民と商人が住み、お互いに役割分担をして助け合っていた姉妹都市なのだという。
コーカバンの街の崖はひとつの観光名所になっているが、ブクールを体験したわたしたちにとっては「ああ、こんなもんですか」で済んでしまう。慣れというのはおそろしい。

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(崖の上がコーカバン、眼下がシバーム)

こうして、イエメン国内二大観光「山岳」「砂漠」のうちひとつを終わらせたわたしたち。
が、翌日から1泊旅行を予定していた「砂漠」のサイユーンが、イエメン国内でもかなりの危険地帯に指定されていること、そしてこのときの立花さんがそのサイユーン入りを前に「添乗員人生で3本の指に入るくらい緊張していた」と知ったのは、ふたたびサナアに戻ってからとなるのだった。

2009/11/16

さて、イエメン篇へ戻ります。

※11/17筆者追記:JICA事業従事の日本人男性技師が、イエメンの首都サナア北東の町で武装グループに拉致されるという事件が起きました。犯行グループは、裁判なしに4年間収監されている仲間の解放を要求している模様です。ここに記したイエメン日記は2009年9月のものであり、イエメンは日々情勢が変化する国です。過去5年間で外国人観光客を標的とした事件は数十件起きています。ご渡航を検討中の方は、外務省の情報や現地の旅行代理店と密に連絡を取り真の情報を収集すること、現地に精通しアラビア語を完全に理解する同行者、現地滞在中でも常にリアルタイムで正確な情報を入手できるルート、最低限これらが整わない限りご渡航はおすすめいたしません。

地球の舳先から vol.144
イエメン編 vol.6

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(空が近い)

一行、向かうは「アル・マフウィート」。天空の村の異名を取る町(どんなんだ)。
どんなんだ、なんて言っていたものの、実際に目にするとまさに百聞は一見に…だった。

壊れた車で向かう道。フルスロットルにヘアピンカーブ。
途中に見えるのは城砦の街アル・ムハイヤル。600年前に城下町として栄えたとのこと。
子どももおとなも懐っこく、ヤギを追いながら手を振ったり、物陰に隠れて「スーラ」(写真の意で、写真を撮ってくれとねだられるよくある光景)とつぶやいたり。

そうこうしているうちに車が多くなり、小さな町ハッタ・ウィーラへ着く。マーケットが開いている。
生きたまま1匹ずつ狭い鳥かごに入れられたニワトリ(もちろん肉食用だ)、果物…
立花さんの手配するツアーの万国共通点はなぜか、「運転手が果物を買ってくれる」こと。
今回の運転手も、ブドウを買ってくれて、わたしたちは村の定食屋で休憩兼昼食。
イエメンに「持ち込み」という概念はない。
市場で買ったものをレストランに持っていって、切って出してもらうことはもちろん、魚類などは買っていけば調理もしてくれるのだそうだ。外国人のわたしたち向けに、きちんと洗ってもくれる。
すっかりお腹をすかせたわたしは(旅に出るといきなり健康優良児になる)、食前のつまみとばかりにむしゃむしゃと無言で皿一杯の鮮度のよいブドウを食べ、その糖度の高さと美味しさに「これでワインを作ればどんなにか…」と禁酒のイスラム教を(その面においてだけ)恨んだのだった。

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14時30分。目的のマフウィートへ着く。人気が少なく静まり返る町に空砲が鳴り響いている。
断食が終わったあとのお祭り騒ぎなのだというこの空砲は、夜じゅう止まることはなかった。
道が開け、大き目の村へ着くと、突如わたしたちの視界もひらけた。
ここを言葉で表現するのはとても難しい。
「天空の村」。晴れているときは快晴のなかに、曇っていると雲の中で文字通り雲が掴める。
さらに運転手は得意満面で、絶景であるという「この村の頂上まで行こう」と提案。

坂をのぼる途中に、旧市街へと立ち寄った。
珍しいのだろうか、ランクルが乗り付けるとこどもたちが大挙して押し掛けてきた。
しかし、珍しいわけではなく「久しぶり」らしい、と悟ったのはそれから10秒後のこと。
旧市街のドアをくぐると、大挙してきた少年たちは饒舌にこの村の歴史と、扉につけられた刻印の宗教的な意味をとうとうと語り始めたのだった。(誰も頼んではいない)
なるほど、これでガイド料としてバクシーシ(お小遣いの意)を求めるのだな、と思う反面、嫌な感じを受けないのも、彼らの瞳の輝いていること、輝いていること。
それは、おそらく少し前とくらべ観光客がやってこなくなった現状(彼らにとってはバクシーシの食い扶持が減ったわけだ)を表していたし、
何よりも小学生世代の彼らが、(バクシーシのためとはいえ)教育機関も整わない国でどこからか歴史や宗教をここまで勉強し、暗記し、得々と説明するその姿にわたしは心から感心した。
が、彼らのバクシーシにするには超高額紙幣しか持っていなかったので、1円もあげなかった。ごめん。

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こうしていざ、頂上へ。
断崖絶壁で、先進国や観光立国だったら絶対に立ち入り禁止になっているであろう頂上からは
連なる山脈と、山々の頂上に小さな村をつくったものがいくつもみえた。
地球上にこんな場所があったのだろうか。
天から地上を眺めているような錯覚に陥りながら、ことばを失った。
視界を遮るものがなかった。この地に生きた人々の逞しさが拡がっている、だけだった。

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空が広かった。雲の合間から陸を照らす陽光が、線になってみえる。
旅に出ると、誰しも感性が高くなる。
朝日、夕陽、雲間、風の音、草の青さ、そんなものは日本にも東京にもあり、
いつもの朝、いつもの道も、ほんとは毎回違う顔を見せている。
でも、そのほかに気を払わなければならないことが多すぎて、日常はどんどん鈍化してゆく。
だから、日常の「色」を物理的に変えてしまう花や紅葉にわたしたちは躍るのだろう。

翌朝、イエメンへ来てはじめて「アザーン」に起こされた。
夜明けとともに町中のモスクというモスクから爆音のお祈りが流される。
敬虔なイスラム教徒たちはまだ暗いこの時間、すでにモスク入りしてお祈りするのだ。
観光客向けに、「アザーン目覚まし」なるお土産が売っているらしいほど、ある意味名物。
頭が痛くなる爆音。なぜ昨日はこれをやられて起きなかったのか、理解に苦しむ。
「ああ、あと2時間寝れたのに…」とぶつぶつ言う無宗教のニホンジン。
何せわたしは、隣人の夜中の掃除機や選挙カーにさえ文句を言う国民である。
が。壁に貼ってある「メッカ、こっち方向よ」の張り紙を見て、ただ黙り、起き上がるのだった。

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(こちらは、よく晴れた翌朝のおなじ場所から。
 「山は天使と悪魔ふたつの顔をもつ」という言葉の意味がわかるようだ。
 左に切り立った岩には、村がみえる)

2009/10/31

※11/17筆者追記:JICA事業従事の日本人男性技師が、イエメンの首都サナア北東の町で武装グループに拉致されるという事件が起きました。犯行グループは、裁判なしに4年間収監されている仲間の解放を要求している模様です。ここに記したイエメン日記は2009年9月のものであり、イエメンは日々情勢が変化する国です。過去5年間で外国人観光客を標的とした事件は数十件起きています。ご渡航を検討中の方は、外務省の情報や現地の旅行代理店と密に連絡を取り真の情報を収集すること、現地に精通しアラビア語を完全に理解する同行者、現地滞在中でも常にリアルタイムで正確な情報を入手できるルート、最低限これらが整わない限りご渡航はおすすめいたしません。

地球の舳先から vol.142
イエメン編 vol.5

さてお届けしているイエメン旅行記。旅が濃すぎて、これまでの全4回で1日半分しかご紹介できていない遅筆っぷりを嘆いて、更新頻度を上げていこうと思う。

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(あんなところに村があるぞ ←もちろん遺物ではなくいまも人が住んでいる)

「天空の村」マフウィートまで引き続き車を飛ばしてゆくわたしたち。
山岳地帯の光景は息を呑むばかりだが、どうもイエメン人とは価値観が違うらしい。
わたしたちが「うおっ」となるのはやはり、切り立った岩や山の頂上のほんのすこしのスペースに村を作っている光景なのだが、それはイエメン人には結構普通のことのようだ。
イエメン人の運転手がスピードを落とし、「スーラ?(写真、の意。うんと言うと撮影のため車を止めてくれる)」と聞いてくるのはだいたい、段々畑のあたりである。
確かにこの段々畑も美しいのだが、日本でも割と見慣れた光景のため、自慢げに「スーラ?」と言う運転手にわたしたちは顔を見合わせ、ノーとも言いづらいので「…あ、車の中から撮るので、大丈夫です」と、煮え切らない、ニホンジンとしては模範的な答えを返すことになる。

ロックパレスから30分ほど車を走らせると、両側に小さな小屋のある検問所が現れた。
不穏な人物をサナアに入れない意味合いが強いらしく、観光にはあらかじめ警察に通行許可証を申請して通行手形になるものを手に入れておかなければならない。
雰囲気は結構ものものしく、「カメラをしまって」と運転手が小声で言う。
日本の観光客だ、と運転手は言い、1~2分で許可書の確認を終えて通過すると、もう写真を撮ってもいいよ、と言い、検問所の兵士を指差して、「たまに、stupidなのがいるから」と苦笑した。stupidね…とあえて頭のなかで日本語訳はせず、おとなしくしていようと思う。

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(段々畑…ね…)

乗車している間は、日本に居る間にあまり調べられなかったイエメン知識について、添乗員の立花さんがとくとくと語ってくれる。これは嬉しい。ひとり旅ではなしえないメリットだ。
歴史や背景を知って旅するのと、「なんじゃあら」と言いながらするのでは全然違う。

昔は、オマーンが「海のアラビア」、サウジアラビアが「砂のアラビア」、シリアが「岩のアラビア」、そしてイエメンが「幸福のアラビア」と称されていたこと。
諸文化の派生地であり、イエメンから紅海のスーダンへ、そしてサハラへ、大西洋へと伝播していったこと。
オスマントルコが敗れて以来、ヨーロッパ列強国に勝手に分割され国境が引かれたため、75年くらいのアラビア半島の地図はまだ不明確であったこと。
それから石油価格の高騰でヒエラルキーが崩れてゆき、湾岸戦争後に国境が確定。
イエメンは石油ヒエラルキーからははずれていくが、60~70年代にアラビア半島では初めて、観光産業に目をつけた国であること。
日本では、朝日サンツアーズ社が80年代に初のイエメンツアーを組んだこと…
(82年に個人旅行でイエメンへ行った立花さんはなんなんだ)
客をもてなさないのは恥だという価値観があり、外国人を誘拐しても紳士的にもてなすこと。
都市伝説というか噂だが、過去に中国人を誘拐したものの中国政府が身代金支払いの要求を無視したため、誘拐犯は人質に金がかかりすぎるため面倒がみきれなくなり自ら解放したという逸話…(かの国なら、さもありなんだが)

そうこうしていると、またしても現れたのが、日本の日の丸を描いた看板である。
この日の丸看板、ロックパレスを出たところにもあった。
なにやら日本の援助で作った施設だか道だかのようだ。このような看板の類、イエメンに限らず、東ティモールでも旧ユーゴ圏でも、ほんとうに多く見かけた。
当初は見かけるたびにちょっとした誇りのようなものを感じたものだが、いまは見るたびに苦々しい気持ちにとらわれる。だってよく考えれば、日本が援助をしているような国は、ほかの先進国だって同等かそれ以上の事をしているはずなのだ。
しかし、欧米諸国の旗を掲げて「この地は○○○の援助でできましたありがとう!」なんて主張をしている看板には、お目にかかったことがない。
(しかも観光客の多いところにばかりあるあたり、品のないアピール根性である)
詳しい事情や理由は知らないが、それはあくまで文字通りただの「看板」に過ぎないのに、なんだか日本の異常なまでの顕示欲と、恩着せがましさを感じてしまうのだが。

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(すごい友好主張だ)

こちらは、日本の援助で学校をつくる用の土地を整備したとのことだが、看板は相当古そうでペンキは剥げかかっている。学校…建ってないけど…。
「やるなら最後までやってほしいですね?!」と思わず突っ込むわたしに立花さん、
「うーん、こっちの人、建物とか、作りかけてやめちゃうんですよね。家建ててから、水が引けなかったからやっぱ住まない、とか…。ホテルでもあるんですよ。途中でやめちゃった例」
そういえばこれまでにも、家として完成はしているような外観でありながら、鉄筋や鉄柵が天井から飛び出ているような不自然な光景を多数目にした。
「あ、それは、とりあえずお金ができたら上の階を増築しようって、そのときのためですね」
と、驚くべき計画的なんだか無計画なんだか全然わからないイエメン人ゴコロ。
「あ、あの段々畑も、計画性ないですね。普通に考えれば、先行投資して一旦平地にしたほうが後々いいに決まってるんだけど、そこまで考えてないからとりあえず一段ずつ開拓して」
そ…そうなんだ…そう考えると、あの段々畑の緻密な綺麗さは、確かに凄いかもね…

「看板」は出していないが、ドイツ政府の援助でつくられたという、シバームからマフウィートまでの道を、スピードメーターのぶっ壊れたランクルは軽快に走ってゆくのだった。

つづく

2009/10/26

※11/17筆者追記:JICA事業従事の日本人男性技師が、イエメンの首都サナア北東の町で武装グループに拉致されるという事件が起きました。犯行グループは、裁判なしに4年間収監されている仲間の解放を要求している模様です。ここに記したイエメン日記は2009年9月のものであり、イエメンは日々情勢が変化する国です。過去5年間で外国人観光客を標的とした事件は数十件起きています。ご渡航を検討中の方は、外務省の情報や現地の旅行代理店と密に連絡を取り真の情報を収集すること、現地に精通しアラビア語を完全に理解する同行者、現地滞在中でも常にリアルタイムで正確な情報を入手できるルート、最低限これらが整わない限りご渡航はおすすめいたしません。

地球の舳先から vol.141
イエメン編 vol.4

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サナアの空は、飛行機がよく舞った。とはいえ旅客機と戦闘機では、音も違えば影も違う。
薄い影を落とし、静かに飛んでいく飛行機が前者であることになんとなくほっとしつつ
「あ」と、思わず空を指差す。
「…イエメニア航空」

行程中、4日目に砂漠地帯へ行く予定だったわたしたち。
直前になって予定していたフェリックス航空が日帰りフライトをとりやめた。
(国内線は、週に数本しか飛んでいない航路も多いのだ)
日帰りで行けるようフライトを飛ばしている「イエメニア航空」という航空会社もあるのだが、スケジュールが不安定なので、1泊してフェリックスで行くことをお勧めする、というのが添乗員の立花さんの意見だった。
そのときのわたしは何も知らず、「折角なのに日帰りも勿体無いので、じゃあ1泊の方で」とジャッジをしていたのだが、イエメンに入ってから、このイエメニア航空、危険だということを知った。ついこの間も、落ちたという。
在イエメン日本人たちが、イエメニア航空を見るたびに苦笑しているのでわけを聞くと
みんな、こう口を揃えるのだった。「アルカイダも、怖がって乗らない」

だいたい、「その国の名前」を冠している航空会社は、大抵ダメである。
インドへ行ったときも、渡航時間が短く直行の某航空会社を希望していたのだが、旅行代理店のお兄さんに「うーん、おそらく経由で他の航空会社のほうが、結果的に早く着くと思います」と煮え切らないことを言われ従ったのだが、たしかに実際、12時間前に発っているはずのその某航空会社の「Delay」表示を横目に日本へ帰ったことを覚えている。

さておき。2日目も6時には起きて、7時には出発した。
前日、時差狂いに加え、真夜中までマサさんに誘われ国連や国際機関の方々の集まるホームパーティーへ行っていたので、もはや何時間起きていたのかよくわからない。
おかげで、観光客が早朝に飛び起きるという「アザーン」(1日3回、町中のモスクから拡声器で爆音のお祈りが町中に流される)にも起きない爆睡っぷり。

中庭でパンとチーズ、ヨーグルトにバナナの定番の朝食をとり、いざ出発。
山岳地帯はシャハラという絶景の場所を予定していたのだが、ここにきての北部の紛争激化で「マフウィート」という、天空の町の異名を取る地に変更をしていた。
マフウィートまで120kmの間に、いくつか小さな村を回って寄り道することになっていた。
北部では誰にも実態のわからない大事が起こっているのに、平和すぎるサナアの朝。
不穏を醸すのは子どもたちのビービー弾と、上空の戦闘機の音。
どちらも、溶け込んで慣れてしまいそうな自分が怖かった。

TOYOTAのランドクルーザーに乗り込む。東ティモールのときと同じだ。
「トヨタ車かよ」とつぶやいたのだが、この1泊2日の山岳旅行で、ランクルは“こういう道”を走るために在るのだということと、イエメン人がトヨタの3文字で日本を尊敬する理由をいやというほど思い知ることになる。

まず向かったのは、観光地中の観光地「ロックパレス」。

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イマームという、町ごとに存在するイスラム教の権威の人物の家だというのだが、これが切り立った岩の上にドカーンと作ってある。
「ありえねーーーーーー」の合唱のわたしたち。
が、こんなことであり得ないと言っていてはキリがないことを後に知る。
(当然だが別に趣味で作っているわけではなく、外敵の攻撃を防ぐために、オスマントルコの侵略時代に高い岩の上に村や建造物をつくる技術が発達したのだそうだ。)

「さあ、中へ入りましょう!」チケットを手にしたガイドを見て、「げっ」という言葉を飲み込む。
何せわたしは、1)寺 2)城 3)美術館 旅において、この3つがとても苦手である。
なんかあの、その国の雰囲気に合致しない、「ガイジン様、どうぞ薀蓄垂れながら見てクダサイ」というテンションの「展示物」というものがなんだか萎えるのである。
じゃあ何をしに海外旅行へ行くんだ、とよく呆れられるのだが、人の生活のような「ナマモノ」と、時とともに変化する「ミズモノ」を見るから旅は楽しいんだと思っている。
建造物なんて、外側から見るだけで十分なのだ。…が、まあ、一応ね。
こうして3000mに肉薄する高地のなか、階段を昇りつづけて「ぜぇ、ぜぇ」となりながら(高地トレーニングかよ)、止まっては水を飲みながら(もはや高山病寸前)、フロアごとにロックパレスのなかを見学したのだが、やはりわたしの琴線に触れるものはほぼなかった。

おもしろかったのは、ロックパレスを出たところで男性陣が踊っていたジャンビアダンス。
祝事や結婚式などで、正装の刀を抜いて丸くなって踊るのである。現代ではこの儀式が刀の主な使い道で、決闘とかするために刀を提げているわけではしない。あしからず。

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ロックパレス周辺は豊かな緑で囲まれていたが、8割がたがカートだと聞く。
高地トレーニングを終えたわたしたちは再びランクルに乗り込み、またすこし北上した。

つづく

2009/10/20

※11/17筆者追記:JICA事業従事の日本人男性技師が、イエメンの首都サナア北東の町で武装グループに拉致されるという事件が起きました。犯行グループは、裁判なしに4年間収監されている仲間の解放を要求している模様です。ここに記したイエメン日記は2009年9月のものであり、イエメンは日々情勢が変化する国です。過去5年間で外国人観光客を標的とした事件は数十件起きています。ご渡航を検討中の方は、外務省の情報や現地の旅行代理店と密に連絡を取り真の情報を収集すること、現地に精通しアラビア語を完全に理解する同行者、現地滞在中でも常にリアルタイムで正確な情報を入手できるルート、最低限これらが整わない限りご渡航はおすすめいたしません。

地球の舳先から vol.141
イエメン編 vol.3

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さて、このイエメンという国で、わたしが見て「あれまあ」と思った、
おそらくイエメンを語るうえではずせないふたつのことについて、書いておく。

まずは、「カート」である。これは、興奮作用のある葉っぱで、イエメン人は皆やっている。
「お酒のかわりのコミュニケーションツールのようなもので常習性はない」と
ガイドブックには書いてあったが、かなり怪しい。
午後も2時か3時になると、カート屋がオープンし、人々は買い漁りにうろうろする。
高速道路の脇にも、カートを袋いっぱい詰めたカート屋がひしめき客引きをする。
4時間くらい噛みつづけているらしく、ほっぺたに詰めたカートでこぶとりじいさんのようになった
イエメン人がほとんどである。やっていない人を探すのが困難なほど。
中には目がいっちゃってたり、倒れていたりする人もいる。

どうやらカートを噛むと性格が変わるようで、温厚な運転手が突如挑戦的な運転をはじめたり、
無口なガイドが突如「メールアドレスを教えてくれ」と口説きに迫ってくるなど
(孤軍奮闘なことにこのときリツさんも立花さんも車中でお休み中)、
カートはイエメン人をすこし(かなり?)大胆にさせるようだった。

イエメンはあまり食物の保存技術が発達していない。
それゆえ朝おろした肉はその日のうちに消化するため鮮度が高く、
おかげで臭みなど縁遠い美味しい肉をわたしたちも多く食べることになったのだが、
(マトンなどはよい例。非常に柔らかくさっぱりしていて羊肉といわれても信じられなかった)
それはことカートになるとさらに威力を発揮する。
朝一で収穫したカートをその日のお昼の流通に乗せる流通ルートの発展は、イエメンの人々の
カートに対する、ある意味での情熱が生み出したものといってもよいだろう。

また、イエメンにはカートにまつわる様々なジョークが存在する。
まず教わったのが、「カートを噛むと故郷が見える」というもの。
現地旅行代理店の「社長」はいつも最高級のカートを仕入れていて、リツさんにすすめては
あらぬ方向を指差して「シブヤー、トウキョウタワー、アサクーサ…」などと洗脳していた。
カートを買いに行くことを「故郷へ行く」という隠喩もあるようで、
カートが欲しくなり始めた午後、半分中毒症状になった社長が、運転をしてくれていたマサさんに
しきりに「マサ・ビレッヂに行きたいよぅ…」とうわごとのようにつぶやくなど、
わたしたちも「カート中毒」を目の当たりにさせていただいたのだった(笑)。

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(社長がご満悦で手にしているのがカートだ)

そんな陽気な面だけではない。
イエメンでは、農作物を作るよりもカートを作ったほうが儲かるため、多くの農場が潰された。
水をあまり必要としないためイエメンの気候には向いているのだが、
一度カートを育ててしまうとその畑にはもうカートしか育たなくなるという。
実際、サナア近郊の緑といえばほとんどがカート畑だった。これでは未来がない。
カートを国として規制している国がほとんどなのだが、イエメンは大統領が穏健派で、
それによりこの難しい国をなんとかやりくりしているという。

「たとえば明日、大統領が法律を変えてカートを禁止にしたらどうなると思いますか?」
という問いに、添乗員であり、毎日カートをやっていた立花さんは即答した。
「…革命が起きます。」

これらはまあまあ、イエメン名物というか、笑える話。
わたしが最終日までどうしても慣れることができなかったことが、ひとつだけあった。
それは、子どもがみんなおもちゃの拳銃を携えていることだった。
イエメンには、ラマダン明けのイード休みに、子どもにおもちゃを買ってあげる習慣のある家庭が
多いらしいのだが、この影響もあり、どの村へ行っても子どもがおもちゃの拳銃を持っていた。
日本でだって、ビービー弾が流行ったことも過去にあるのだが、
示し合わせたようにここまで、子どもたちのほとんどが揃って拳銃を持っているというのは
流行の域を超えているように思えてならなかった。

子どもは無邪気だ。
撃つふりをしたり、腰にさげて意気揚々としていたりする。
実際、ビービー弾とか発射して、イテッ、となる場合もあるようだが、
そんな実被害とは別に、わたしは銃を提げる子どもたちには、穏やかならぬ恐怖を覚えた。
夜の旧市街には、酷使されて壊れたおもちゃの拳銃のプラスチック片がいくつも落ちていた。
それは、すごく近い将来に対する、負の暗示のように思えてならなかったのである。

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(マサさんと、拳銃を手にする子どもたち)

一度曲がったら迷子になること必至の旧市街。
数えていたらきりがないほどの戦闘機が、朝から晩まで、轟音を撒き散らして飛んでいった。
「…あれ、なんですか?」
不穏な空気を感じて、となりにいたマサさんに問いかける。
(わたしは軍隊好きであるが、それは装備としての軍隊のスペックの面であって、戦は嫌いである。当たり前だけど。)
「…わからないんです。北部がどうなっているのか…」

空にすこしだけ軌跡をのこした、戦闘機の白い跡。
わたしたちのイエメン訪問より少し前から、北部では部族紛争が激化していた。
観光はもちろん、国連機関や国境なき医師団までシャットアウトされており、内情はだれにも
わからないのだという。一部では、実質的な虐殺が行われているという説もあるようだった。

走り回る子どもたちの、手に、手に、銃。北朝鮮やアメリカを思い浮かべて、
「この国では、軍隊は尊敬や憧れの対象ですか?」と、続く問いを、飲み込んだ。
答えを聞きたくなかったわけではないが、“説明のなされない”戦闘機の下で銃を手にはしゃぐ
子どもたちの姿が、わたしにとってはひとつの答えだったのだ。

難しい国だな、と思った。
それは、モヤンとして片付けられないものを思うときの、自分に対する逃げ口上でもあった。

しばらくつづく

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