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2008/12/22

地球の舳先から vol.104
世界の宿泊事情 vol.5
~キューバ編

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わたしは、旅に関してリピートをしない。周遊もしない。
すこしでもいろんな国を見たいから同じ国へ行くなら別の国へ行ってみたいし、
周遊の強行行程ではスタンプを集めるだけで何も見れないと思うからだ。

しかし、パリとキューバだけは例外だった。
どちらも、1回目に1週間程度の短い旅行をして、1年後に長めの滞在をしている。
パリには1ヶ月、キューバには半年。
パリは観光地だったが、キューバはそうでもない。
観光産業に力を入れてはいるものの、外貨の流入による格差社会への危機感が強い。
「家」は基本的に個人ではなく国のものであって、外国人が借りられるアパートのようなものはない。
自宅の余り部屋を貸し出す民宿は許可されているが、2部屋までしか持ってはいけないのだ。

キューバのきちんとしたガイドブックはない。地球の歩き方さえ、申し訳程度に何ページかだけ。
観光案内所などというものもない。では、ホテル以外に宿泊したいと思ったらどうするのか。
空港から一歩出ればいい。それだけだ。
客を知っている民宿に連れて行ってキックバックを貰うため、タクシーの客引きが殺到してくる。
「Casa particular?(カーサ・パルティクラール、民宿の意)」が決まり文句だ。
しかし、違法な民宿に連れて行かれることもある。

わたしがはじめてキューバへ行ったのは19歳のときで、兄妹のようなソウルメイトと2人だったのだが
夜中に着いてしまったわたしたちはアテもなくタクシーの運転手の薦める民宿へ。
しかしそこは、民宿運営の許可を取っていない違法な家で、なんとわたしたちが通されたのはその家のリビング。
…ここで寝ろと? 2人で?
旅慣れしている連れがここで激怒し、違う民宿探しの旅は続くのだが、運転手は悪びれもせずこう一言。
「…日本人は床で寝るんだろ?」

ちなみにこれはただの言い訳で、キューバ人が日本人を下に見ているということはない。
わたしたちはその後、まともな民宿を見つけて無事に夜をすごしたのだが、
翌日オーナーのおばちゃんに「出掛けてくるから夕方まで荷物預かって」と言うと、眉間に皺を寄せて
「じゃあスーツケースを隠さなきゃ」と言う。
キューバでは違法民宿取締りのため、警察がパトロールをしているのだ。
まさか、ここもモグリの民宿だとは…。
わたしたちはおばちゃんと一緒にタンスの奥にスーツケースを隠し、町歩きに出たのだった。

こうして必死こいて民宿屋と戦わなくても、ハバナ市内には瀟洒なホテルがちまちまある。
特にわたしのおすすめは「ホテル・ドゥヴィール(Hotel Deauville)」。
海岸沿いの大き目のホテルで、淡いオレンジの可愛い内装。
清潔なバルコニーからは海の水平線と、海沿いを走るまあるいココタクシーが見える。
最上階にはプールもあり、バスタオルはハート型にたたんでベッドの上に置かれている。
ホテルの入り口では、観光客をカモろうとたかるキューバ人男性たちをガードマンが追い払っている。
そんなんでも、民宿よりすこし高いくらいなのである。
(市内に2つある最高級ホテルの片方には読売巨人軍の拠点があり、
 キューバ人野球選手を日々監視しているとか、しないとか。)

ただ、何度も言うがどこへ行っても食事はマズイ。
民宿のオバちゃんが料理が下手なわけでも、ホテルのレストランがボッタクリなわけでもない。
それから村上龍に感化されると大失敗をする。キューバは、あんな国ではない。
冒頭の写真は美しきアンコンビーチ(1階のホテルの部屋から撮ったもの)だが、これだけがキューバでもない。

野性にかえって、戦うべし。

2008/12/15

地球の舳先から vol.103
世界の宿泊事情 vol.4
~東ティモール編

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記憶に残る旅がある。
東ティモールはわたしにとって、今のところ北朝鮮の記録を塗りかえて心に深い。
旅の記録は全20回にわたった本編に譲ることにして、
わたしの泊まった「エスプラナーダ・ホテル」について書いてみたいと思う。

東ティモールの旅をコーディネートしてくださったのは、
僻地専門といっても過言ではない、聞いたこともないような国ばかりを取り扱っている
旅行代理店「たびせんパームツアーセンター」さんである。
この代理店にフライトとホテル、現地ガイドという旅の「道具」をアレンジしていただき、
一方旅のソフト面である「ヒト」のアレンジは現地でNPO活動を行う女性に御願いした。
彼女のおかげで、わたしは革命以前から独立運動を推進していた日本人ジャーナリストの方や
国教であるキリスト教のシスター、難民キャンプに住む女子大生などに話を聞くことができた。
大いに取材旅行の側面が大きかった旅であった。

旅行代理店が提示したのは、計3クラスのホテルだった。
市街最高級ホテルは「ホテル・ティモール」。
中級で海岸沿いにあり、市街中心部へは少し歩くが大使館街なので治安はいいという「エスプラナーダ・ホテル」。
そして、ツーリストが快適に生活できる中では最もリーズナブルな「ホテル・ツリスモ」。
わたしは無難に真ん中を選び、空港から現地ガイドの車に乗ってまっすぐホテルへ向かった。
海岸沿いをゆく、乱暴に舗装された道路。途中で何度も難民キャンプを通った。
見えてきたホテルは、2階がバリ島を思わせるオープンエアのウッドデッキを配したレストラン。
受付をくぐると、プールが広がっていた。

部屋はホテルというよりはコテージのような感じで、2階建ての、わたしの部屋は1階。
十分広いのはいいことなのだが、広すぎて蚊取り線香の効きが不安になる。
プールを囲む芝生から、小さな柵で囲われただけでバルコニーがあり、部屋へ続いている。
部屋に入るとまずはバスルーム、デスク上、ベッドの横の3箇所に蚊取り線香を配置し、
冷房をつけて私は外に出た。これで、マラリア蚊たちを殲滅するのだ。
部屋中が十分もくもくしたら、窓を開ける。ハエたちが一斉に外に逃げていく。
不思議なもので蚊取り線香で死ぬのはほんとに蚊だけなのだ。蚊の死体を拾って捨てる。

夕方になると、おなじみの水色の制服がぞろぞろと帰ってきた。
ここは、ニュージーランド国連軍御用達のホテルだったのである。
彼らはやっぱり女1人の東洋人の旅行を珍しがり、「どこへ行く」だの「一緒に行こうか」だの
世話を焼いてくれた。そして、夜は毎晩浴びるように飲んでいた。
わたしは熱射病になったりしてベストコンディションではなかったのだが、食事も楽しんだ。
どんな料理が出てくるかと思いきや、そこは外国人向けホテル。
クラブハウスサンドイッチやら、魚のクリームソース煮やら、パスタやらで、非常に美味しい。
待ち歩きから帰ってきたとき、好きな果物を選んで搾ってくれる100%ジュースは絶品だ。
この2階のレストランで、わたしは端的に東ティモールを体験したように思う。

このホテルの、外と中と。中は「外国」であり、外が「ティモール」の世界だった。
2階から見渡せば、外の海岸では現地の子ども達がパンツ一丁で海に飛び込み、ホテルの中のプールでは国連軍の家族たちがシュノーケルセットを装着してダイビングの練習中。
海岸沿いでは朝は果物を、夕方になれば魚を売るテントが出て、ホテルのテラスでは英語メニューが膨大な量のフードとアルコールリストのを表示する。
ここだけが、ぽっかりとこの国の中で取り残されているようで、不思議な感覚だった。

すっかり顔見知りになった国連軍の制服に、2階から手を振る。交代の時間だ。
10分後には制服を脱いだ彼らがテラスにやってきて、また浴びるように飲む。
そんなホテルだった。非常事態とよぶほどではないが、やっぱりこの国に、「常時」はまだない。

2008/12/08

地球の舳先から vol.102
世界の宿泊事情 vol.3
~北朝鮮編

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平壌は観光地である。中国人がうじゃうじゃいるので不快だが。
北朝鮮には、日本人観光客が多く泊まるホテルが2つある。
ひとつは川の中州に浮かぶ高級ホテル、だがわたしは安いほうにした。
ガイドに両脇を固められての観光しかできないため、どこまでも一緒。
2人のガイドはわたしの隣の部屋に泊まるのだという。それが決まりなのだそうだ。
無断外出は禁止なので、夜勝手にホテルから出ると「スパイ罪」で捕まると言われる。
そんな説明…というよりは忠告を聞きながら、わたしは学校見学を経てホテルへ入った。

高い天井のロビー。中央には視界におさまりきらないほど大きい金日成・正日親子の水彩画。
ホテルのフロントには数名の美女軍団。にっこり微笑みかけてくる。
そして、水を打ったように静かだった。このホテルは日系の経営で、主に日本人と欧米人を
泊めるため(中国人とは隔離されるようだった)あまり人がいないという説明を受ける。
無駄に広い廊下には赤じゅうたんが敷かれ、金親子写真展のように色々な写真が飾られている。
ミサイルの前でご満悦の総書記の御姿もあり、「ひぃぃ」となる。

朝食はホテルで食べたが、そのへんの川でとってきたような貧相な魚とキムチいっぱい、
それにのりとおかゆ。市街のレストランではいろんなもの(犬とかアヒルとか)が食べられたのだが。
地下にはカラオケルームがあり、日本の曲もたくさん入っているというか日本語の本さえ用意がある。
しかし多くの曲が黒で塗りつぶされており、日本の戦時中の教科書を思い起こす。
ミラーボールにラグジュアリーソファと、カラオケというよりどこぞのクラブのような雰囲気で、
やっぱり両脇をガイドに囲まれた欧米人とカラオケして交流をはかる。
ホテルの売店にはなぜか賞味期限切れの日本のお菓子やら三菱鉛筆やらサッポロビールやらが
あり、国交がないはずなのになぜ日本製品が…と思うがあえて突っ込まないでおく。

部屋はとても広くてきれいでとてつもなく殺風景だった。人気がないというか、拒否しているというか。
10月終わりといえど大変寒かったので、早速お湯を張ってどでかいバスタブにつかる。
「よくわからんなこの国は…」などとひとりごとを言いながら入浴剤にまみれていると、
突然部屋から「ガタンッ」という不信な音が聞こえた。

北朝鮮旅行を終える頃にはこの国のスタンスがわかり始めるものの、これは1日目のこと。
パスポートも携帯も取り上げられ、右も左もわからずに様子見をしていたわたしはそのとき、
心のどこかでこの国に旅行することを恐れていたのだとその不信な音を聞いて初めて気付く。
…おいおいおい、なんだよ今の音は。
そう思いながらでかいバスタブの中を水音をたてないように移動する。

開け放したバスルームのドアから、カーテンが揺れているのが見えた。
…窓が開いている…?
そんなわけはなかった。これだけ寒いのだから締め切って暖房の温度を上げ、
落ち着かないのでカーテンも閉めたのは10分も経たない前の自分自身の行動だった。
揺れる赤いカーテンと、さっきのガタンという音。窓が“開けられた”のだ。

こういうとき、不思議とドキドキしたりパニックになったりしないものらしい。
わたしは頭が急によくなったように冴えてきて、次の行動への考えを組み立て始めた。
まずバスルームで、このまま逃げてもいいようにさっき脱いだ服を着る。
どこへ逃げるのかはよくわからないが、身だしなみは大事である。
それから忍び足でバスルームを出て、広い部屋を見渡した。
部屋に備え付けられた電話の受話器を取る。
…電子音が聞こえてこない。使えないようだった。
…なに…。
ますます不信感は広がる。

人の気配は、相変わらずない。流れ込む冷たい風だけが部屋の中に妙な波長を生んでいた。
わたしは意を決して、エイヤと部屋に入り、赤いカーテンを引いた。
すると、そこには…
窓ガラスが窓枠ごと落ちていた。老朽化か手抜き工事か、窓が外れて落ちた(だけ)らしかった。

「ワーーーーーーー」

わたしはここで初めてそう叫んだ。
人間は恐怖のさなかではなく、恐怖が途切れたときに声が出るものらしい。
そういえば、強盗に襲われた人とかも「最初は声が出なかった」とよく言う。
「スパイかと思ったよ!!!!!」
と窓枠にむかって怒り狂って文句を言い、フロントへ行って部屋を変えてもらった。

あれだけ下調べをしてから「これなら大丈夫」と自分なりに判断して渡航に踏み切ったが、
日本人として心のどこかに潜在意識というものは絶対的に在るものらしい。
だってあのときのわたしにも、「拉致」と「スパイ」の2語しか浮かんでいなかったのだから。

人騒がせな事件であるが、いろんな新発見のあった北朝鮮初夜の出来事だった。

2008/12/01

地球の舳先から vol.101
世界の宿泊事情 vol.2
~モンゴル編

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わたしがはじめて社会人生活を送ったのは、某大手広告代理店だった。
それまでもいろいろと常勤でのアルバイト生活はしていたし、
その就職自体も知り合い伝手だったのでそんなに就職ブルースはなかったのだが。
ただなんとなく、気後れしていた。
生来ふらふらしている人間だったので、周りもほっとしてくれるかと思いきや
逆に心配して「あんまり狭いところに閉じこもるなよ。」と何人の人にも言われた。

そんな衝動も手伝ってか、わたしは就職の半月前、3日後発の飛行機を押さえた。
ちょうどその頃、手掛けていた一大スポーツイベントのプロモーションも終わり一段落。
そのイベントはとても厄介で気の滅入る仕事だったこともあり、わたしはふと
「飛びたい……」と思ったのだった。

そして3日後。
わたしはモンゴルにいて、時差ぼけのままウマに乗っていた。
どこまでもウマに乗って走り(いや、格好つけすぎた、歩き)、楕円形の空を眺め
見た目が結構えぐい腸詰などを食べて、21時を回っても明るい空のしたにいた。

当然、泊まったのはゲルだ。
モンゴルといっても、首都ウランバートルには今やホテルが充実している。
それでもやはり、草原に出てゲルに泊まることをわたしはおすすめしたい。
明日には場所が変わるかもしれない宿泊施設であるゲル。
わたしがモンゴルへついたときも、現地ガイドが
「ちょっと待ってね…今位置確認してるから…」と言っていた。
が、そんな遊牧民族モンゴル人たちが携帯を持ち歩いているのを見ても落胆してはならない。
いまどき、マサイ族だって携帯電話で連絡を取り合っているのだから。

わたしがモンゴルを訪れたのは7月だったが、「暑い」というほどではなかった。
日差しは強かったが、草原や山岳地帯は高度もあり、涼しい風と澄んだ空気が流れている。
そのため、日中でも日焼け防止も兼ねてずっと長袖を着ていた。
たまにウマが振り返って、どぅらー、とヨダレをつけてきたりするので油断ならないが。
逆に夜の草原はかなり冷える。

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ゲルはいやに派手な装飾の柱に内装で、ベッドはわたしの泊まったゲルでは4つ。
真ん中に、煙突を外まで立てた暖炉があって、それを囲むようにベッドが並んでいる。
布団のほかに毛布も貸してもらえるのだが、あまり役にたたない。
同室の4人のうち、誰かが寒くて起きる。そして、暖炉に薪を足しにいくのだ。
薪は現地の人がひと晩じゅう、外国人観光客のために割りつづけていてくれる。
「さぶいよう」と日本語で言っても通じる。
というか、わたしの経験上、ポピュラーでない言語を喋る人たちとのほうがコミュニケーションできる。
もちろんそれは「ニホンジンという人種に対する概念としての上下関係」も関係しているのだろうが、
相手も「自分の言葉を喋っても通じるわけがない」と思っているので逆にスムースなのだ。

薪を貰って暖炉に足す。
いきなり薪を入れても火は立ち上がらないので、紙などの燃えやすいもので火を大きくしていく。
順調に暖炉がぱちぱち言い始め、煙が煙突を伝ってゲルの外に出て行き、
貰ってきた暖炉に入るだけの薪を放り込んでしまってから、眠りにつく。
でも薪は1~2時間のうちにまた燃え尽きる。
手足のさきの、末梢神経から凍っていくような寒さでまた起きる。
「こんなに頻繁に起こされんの、子ども産んだとき以来だわ…」
と、朝に同室のおばちゃんが苦笑していた。
わたしは2回くらい起きたので、たぶんあとの4回くらいは誰かが薪役をやったのだろう。

朝は活気で起こされる。
ゲルはああ見えてかなりな遮光がほどこしてある。
それでも外が朝を迎え、周りにはほとんど何もないにも関わらず朝が来ると空気が変わるのだ。
そうすると、自然に目が覚めてくる。
人間は生来朝型なのだなあと思い知った瞬間でもあった。

ゲルの扉をあけてみると、ものすごい光量。
空に近いうえに遮るものがなにもないのだから、当たり前なのだが
まぶしくてしばらく目を開けられない自分に、
「わたしはなんて不健康な生活を送っていたのだろうか」とひとり反省会をしてしまう。

目が慣れてくると、もう現地の青年がわたしの乗るウマを用意している。
こどもが手を振っている。
臭みの強いギョーザみたいな現地の食べものでおなかを満たし、またウマのもとへ。
「もうすこしで、もっとウマ来るよ」とはるか山の先をさして説明する青年。
だいぶしばらく経ってから、わたしの目にもウマを大量に引き連れた別の人の影が見えはじめた。
山に住んでいると視力が5.0とかになるというのは、伝説でもなんでもないらしい。

なんにしても、自らの不健康を思い知る旅であった。

2008/11/17

地球の舳先から vol.99
世界の宿泊事情 vol.1
~セルビア・モンテネグロ編

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今週からの新シリーズは、「世界の宿泊事情」。参考になるかはわからないが…
セルビア・モンテネグロ、キューバ、モンゴル、クロアチア、東ティモール、
北朝鮮、ベリーズ、インド、と印象的だった国たちの全8回でお届けしようと思う。

第1回の今日は、セルビア・モンテネグロ。
名前が示す通り、今はなき国。
といっても分裂と内紛の続くバルカン半島なので、「分かれた」に過ぎないのだが。

大学生のわたしは、友人とオンナ2人、バルカン半島への旅に出た。
思えばわたしの僻地旅に唯一付き合ってくれた(=唯一の一人旅以外)気丈な彼女「ゆっきー」である。
この国は本当に凄まじかったのだが、そのエピソードは過去の連載に譲るとして。
この旅行後にサッカー元日本代表である鈴木隆之がセルビアのチームに移籍し、
大学の教室で鈴木のファンらしい学生が「キャー セルビア行きた~い タカユキ~」と嬌声を上げるのを聞いて
ゆっきーは「おまえっ絶対行けよっあの国っ!」と心の中で罵倒した。らしい。
というくらい、うーん、いろいろ凄まじい国だった。

わたしたちは当然のごとくノープラン。
「行けば宿ぐらい見つかるさぁ」という能天気でも(お隣クロアチアのときはそうだった)、
「お金がないから代理店に高額手数料を払って日本から予約をしておくなんてことはできない」
というわけでもない。
ただ、「情報がなかった」のである。致命的。心配をしていなかったわけではないが、
「あれだけ内紛とかのときにジャーナリストが押しかけたんだからホテルはあるだろう」
といういいんだか悪いんだかわからない前提のもと、わたしたちは首都ベオグラード入り。
陸路でクロアチアから国境を越えて電車に乗り、ベオグラードに着いたのは夜の明けていない早朝。

「暗いね…?」
「…ウン」
「寒いね…?」
「…ウン」
イカン。いやな予感がもうもうとする。この空気は、イカンのだ。
暗さや寒さだけじゃなく、治安の悪い地域や少し崩れたところのある町というのは、空気でわかる。
ベオグラードはその典型的な後者、「なにかが崩れている」ところだった。

ようやく空いたキヨスクでチョコレートバーのようなものを買い、駅の公衆トイレに寄り、
わたしたちは灯りのともった全面ガラス張りのコーヒーショップでお茶を1杯。
ゆっきーとわたしはすでに、以心伝心。
そこからみえている、駅歩1分もかからないであろう「HOTEL」の看板を指差し、
「あすこにしよう」と、まず移動距離の短さを最優先したのだった。
コーヒー屋を出て、早歩き。スタコラスタコラ。到着。
なんと3つ星ホテルだった。高い。でももう移動したくない。今、外をウロウロはやばすぎる。

そして案内された部屋がこちら…
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じゃなくて(これはいまだに放置されていたNATOの空爆跡である)、冒頭の写真である。

コンクリートに布を敷いたような、軍隊式ベッド。堅い。狭い。申し訳程度の窓。
これが3つ星である。セルビア・モンテネグロの3つ星である。
そうはいっても、ミシュランのような権威団体が存在するわけでもない星の数は各国で基準は様々。
ちなみにいうとフランス・パリの3つ星の条件は
「客室の7割以上がバスタブかシャワー付きで全室に電話を設置」
なわけなので、このホテルもそこだけ考えればパリでも3つ星にランク・インされるものなのだが。
寝るだけなので、そんなに文句もない。駆け込み寺のようにしてやってきたわけだし。

とりあえずほっとひと安心したわたしたちは、再びホテルのロビー階へ。
とにかく寒かったので、よくわからないスープを頼んだ。
これが、どびっくりである。
魚のダシがとけこんだ、濃厚なスープ。見た目はミネストローネのようなトマト色だが、具の姿はみえない。
それなのにまったくドロっとしていなくて、するすると喉の奥に吸い込まれていく。
そして、五臓六腑が活性化されるとでも表現したらいいのだろうか、体の芯からあたたまる。
「なんだ?これは…」
「美味しいー!美味しいー!!」
と大騒ぎしながら、ひと皿のスープを飲み干す。

セルビア・モンテネグロ、いや、いまとなってはセルビアへ行ったら、
ぜひ前菜のスープを。とっても安いお値段で(確か300円程度だったと記憶している)
すごいスープが楽しめる。