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2010/12/07

地球の舳先から vol.199
番外編

旅仲間と話をしていると、たびたび「最初に行った一人旅」が語り草になる。
わたしの場合、高校時代の学校行事を除けばそれは高3の春のオランダということになる。

ここでもたびたび書いている話だが、わたしの高校時代と大学時代の前半は
なにもかもが、浦和レッズに消えた。時間も。お金も。体力も。心も。

試合の結果と経緯を詳細に手帳に書き込み、鬼気迫り唸りながら分析するわたしを
サッカー部員は「サッカーファン」とは認めず限定的な「レッズサポ」といった。
J2時代の記録を原稿用紙400枚ほどでしたためた「聖戦」とタイトルを打った
ドキュメンタリー原稿は、あるサッカージャーナリストに
「はやく高校を卒業して、ぼくの仕事を手伝ってください」と言われた。
選手をとりあげて怪我させて返してくる日本代表を、トルシエ監督を、心から恨んだ。

試合の日は、前日から場所確保の“並び”でテントを張って泊り込んだ。
アウェーの試合では全国をまわっていた。18切符や船をつかって、旅費を浮かせた。
J2時代は一年間がずっと、目に涙が溜まったまま、札幌、山形、大分、鳥栖などを。
そしてアジアチャンピオンになった年は、夢心地でACLの海外遠征、韓国やシドニーなどを。

そんな高校3年生のわたしが、クアラルンプールでトランジット30時間という
ありえない安チケットを握り締めて行ったのが、
浦和レッズでいちばん好きだった選手が移籍した先のオランダだったのだ。

ときは小野伸二選手がロッテルダム・フェイエノールトで活躍していた時代で
日本人を見るとよく「オノ」と声をかけられたものだ。かれの評判はよかった。
実際ロッテルダムにも寄り、フェイエのフーリガンの家に泊めてもらって
ひと晩じゅうフェイエノールトの歴史のビデオを見せられた。
フェイエのショップではなんとその小野選手とばったり会い、
レッズのベンチコートを着ていたわたしは小野選手に「…頑張ってください」と言われ
異国の地で選手に励まされるサポーター、という意味不明な構図となった。

でもわたしの“いちばん好きだった選手”は残念ながら小野伸二ではない。
その選手が在籍していたチームも、ロッテルダムとかアムステルダムとかの都会にはない。
超ローカル線とバスとタクシーを乗り継いでたどりついたのは、
町の楽しみはそのサッカーチームだけ、というような(失礼)
“RKCヴァールヴァイク”というチームだった。

試合の前日だったためにホームスタジアムで練習を行っていたチーム。
練習が見学できるものとJリーグの感覚で行ったわたしに高い壁がはだかる。
なにせ当時のこのチームは、フーリガン対策なのかチケットの販売がオープンではなかった。
練習だけでも見たい。試合は…ダフ屋が出るだろう、という甘い想定。
スーツケースを引きずり、「日本からかれに会いにきました」と告げると
ややあって、出てきたスタッフは驚愕。「このド田舎に」ってやつである。

「どうぞ!!!!!入って!!!!!」と案外簡単にスタジアムの中に入れてくれ、
まずは小部屋でお茶を出された。わたしはつたない英語で日本でのかれの活躍を褒め称えた。
「わたしは毎試合、かれにサインをしてもらった、このレッズ最弱時代のユニフォームを着てます」
…あれ、よくよく思い返すと、褒めてない…。
とにかく、アウェイ用の白ユニフォーム背番号6は、わたしが苦楽をともにした戦闘服。
J2に落ちた日も、これを着たわたしはニッカンの一面に激写されたのだ。
見出しはもちろん「浦和降格」である。

かくしてスタッフは、スタジアムのベンチ(試合で監督と控え選手が座ってるアレ)に案内し
わたしはそこで監督気分でひとり、練習を鑑賞するという厚待遇に見舞われたのである。
練習をしている選手にも音速的クチコミで伝わったらしく、
「おい、おまえスゲーな、日本からファンが来てるぞ」とランニングをしている
その選手を冷やかすのである。
その間にも、入れ替わり立ち代わりクラブのスタッフがやってきては、
いろいろとチームのグッズをくれたり、翌日の試合のチケットを取ってくれたりして感動した。
いろいろ貰って申し訳ないのでせめてショップで買い物をしようと思ったら、
試合日以外は閉めているらしくこれも急遽スタッフが開けてくれた。
なんというかもう、オランダというかサッカーというか、とにかく田舎万歳である(失礼)。

「We are still proud of you.」(あなたはいまでもわたしたちの誇りです)と言うと、
「I am proud of URAWA REDS.」とかえってきた。
彼との会話はそれだけである。このときほど、英語を勉強していてよかったと思ったことも
“現在形”の使い方にひれ伏したことも、ない。

次の日は試合を見に、会場へ行った。
メインスタンドの前から3列目くらいの、ものすごくいい席ではしゃいだのを覚えているが
きっとあれは関係者用にあけている席をまわしてくれたのだろう。
そして、かれは…レッドカードで一発退場した。。。。。

もともとアツい選手で、キレるとヤバイところもあった。
かれにつけられたコール(応援歌)は「We are proud of your crazy heart」だったし…。
このことを帰国してからレッズサポーターの仲間に話すと
「変わってねーな」「“らしい”とこ見られて、よかったじゃん」と言われた…。

なんでいま、こんな話をしているかって?
現役を退いたかれが、浦和レッズの次期監督に内定したからですよ。

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(写真:きちっち様のHP「ペトロヴィッチに会いにオランダへ行こう」より)

【浦和】ペトロヴィッチ新監督を発表

ゼリコ・ペトロヴィッチ。
かれのことを覚えていない浦和レッズサポーターは、居ないでしょう。

「サッカーは、勝つこともあれば負けることもある。
 大事なのは、“100% FIGHTすること”」

実家のタンスから、白い6番のユニフォームを引っ張り出してこなければなりません。

2008/10/12

地球の舳先から vol.95
世界の家族のこと vol.3

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(フェイエノールトのホームスタジアム)

こうして初の海外ひとり旅のオランダで、わたしはフェイエノールトのサッカーを観戦した帰り道
声をかけてきたフェイエノールト・フーリガンのヘンクの家に1泊した。
前篇はこちらから

翌日、遅い起床のわたしを奥さんのイヴァンは町案内に連れて行ってくれ、
ヘンクと一緒にフェイエノールトのビデオを見ている間に、オランダ名物を沢山買ってきてくれた。
伝統の木靴や、装飾の施された美しいキャンドル。手厚い待遇を受けながら、
こんな事態を想定していなかったわたしは、何の手土産も持っていないことに気づき愕然とする。

防寒用に持ってきていた浦和レッズのマフラーを差し出した。
サッカーの応援において重要視される「チームカラー」はフェイエノールトと同じ赤だ。
たいして好きでもなかった小野伸二を、わたしは「シンジをよろしく」と言っていた。
PRIDE OF URAWAと刻されたそのマフラーを手に一家は微笑み、わたしもこの急な出会いを喜んだ。

そのとき寡黙なヘンクの息子が立ち上がり、自室に一瞬帰るとフェイエノールトのマフラーを持って戻ってきた。
そこには、オランダリーグには詳しくないわたしの知らない選手のサインが入っていた。
しかし背番号の「10」が一緒に書かれていたので、エース選手であろうことは想像に難くない。
彼は意を決したように「これを持って帰って」とわたしに差し出したのだ。
わたしは仮にもサッカーファンだし、10番という背番号のもつ重みも知っている。
それはきっと、10歳そこそこの男の子にとっては、相当なお宝だろう。
実際、父親であるヘンクも、驚き黙って息子を見守っていた。

ありがとう、なんて受け取るほどわたしも無神経ではない。
だいたい、この10番の選手は、わたしは名前を知らなくても彼にとってはヒーローなのだ。
価値をわかっている者が持っているべきものだった。
固辞するわたしに、息子は言った。
「僕はずっとオランダにいるんだ。
この10番のエースも、きっともうオランダからは出られない。…もう年だし。
だから、ユウにこれを日本に持って行ってほしいんだ。
僕は、練習場に行けば、またサインはもらえるから。」

わたしは、その10番の選手がどのような経緯をもってフェイエノールトにいて、
そしてどんな境遇にいたのかはわからない。
しかし、ヘンクは遠い目で物思いにふけり、息子の表情もどこか悲しげなものだった。
その選手はきっと、将来有望かなんかででも怪我でもして、すこし人生が狂ってしまったのだろう。
サッカー選手にはよくある怪我等による番狂わせは、サポーターにとっては自分の子供が足をなくすくらい衝撃的なことだ。
だが、ヘンクは全てを諒解したかのような息子のサッカーリテラシーに驚いていた。
いや、自分が知らないところで着々と育っていた息子のサッカーリテラシーを、日本人を前にして初めて目にして驚いていたのかもしれない。
そしてわたしもまた、思慮深いサッカーファンである幼い彼に感嘆せずにはいられなかった。

わたしの日本への帰りの飛行機が出るアムステルダムには、アヤックスというフェイエノールト最大のライバルチームがあった。
オランダリーグは実質上、このアヤックス、フェイエノールト、あともうひとつPSGという3チームだけで優勝争いを毎年繰り返しているようなリーグだった。
わたしは彼の好意以上の体現であるマフラーを受け取り
「ああ、これでもうアムステルダムの街を歩けないよ」と茶化しながら首に巻いた。
息子も、ヘンクも、イヴァンも、みんなが笑った。
「アヤックスなんて、ゴミだ」ヘンクが当然のように言い捨て、一家は“いつもの空気”に戻った。

わたしも、笑った。そして思った。
サッカーは、国境を超える。この言葉の意味を体感していた。

そのときの10番のエースがどうなったのか、わたしにはわからずじまいだ。
でも、なんだかんだ言って男性の強いオランダという国において、一家の長であるヘンクが
家のなかにもたらしたフーリガン魂と、それによって小さなころから鍛えられた彼の息子の
小さな機微を、わたしは畏怖すらもって思い出すのである。

サッカーは、人を、世界を、変えてきたのだ、と。
小さな人ひとりという存在に、勝ち負けというスポーツの世界だけではない、
同じチームをずっと見ていればこそのドラマを与えてきたのだということを。

同時にわたしは、あの頃の自分の無鉄砲さを、呪いながら感謝もするのだった。

2008/10/06

地球の舳先から vol.94
世界の家族のこと vol.2

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フリーセックス、フリーマリファナ。
これがわたしの、17歳の初の海外ひとり旅であるオランダの印象だった。
この国は売買春も麻薬(マリファナ)も違法ではない。
ホテルに部屋を取って何気なくテレビのチャンネルをまわしていれば、
有料放送なんかではないのに完全無修正の番組が放映されている。
首都アムステルダムの、昔の日本でいうところの“赤線地帯”では夜になれば女性たちが
あられもない姿を晒し“合法的に”、セクシャルアピールで客をとっていた。

エールディビジといわれる、この国のサッカーリーグでは浦和レッズを出て行った小野伸二が活躍しており、わたしも彼が所属するフェイエノールトの試合を見に行った日のことだ。
こちらのサポーターは驚くべきことに、自らを「フーリガン」と呼んでいた。
日本でも2002年ワールドカップで知られたフーリガンのイメージは、非合法で暴力的な存在。
しかしこの国のサポーターたちは誇り高く「おれたちはフーリガン」と自称していた。
日本におけるフーリガンの定義とはきっと違うのだろう。

セリエA(イタリア)やプレミアリーグ(イングランド)と違い、
エールディビジは世界から外国人サッカーファンが駆け付けるようなリーグではなかった。
そこにおいて、まだ彼らからみれば子どものような日本人のわたしは、目立ったらしい。
フェイエノールトが快勝した帰りの道すがら、わたしはひとりのフェイエノールト・フーリガンに声をかけられる。
どこから来たんだ。オランダには何日いるんだ。シンジ・オノのファンか? 等々。
わたしは正直に、フェイエノールトはおまけのようなもので、本当の目的は昔小野伸二が属していた
浦和レッズというチームの心臓だったペトロヴィッチという選手がオランダに移籍したので
彼を見にきた、という経緯を語った。
後にペトロヴィッチはフェイエノールトのコーチとなり、小野伸二と同じクラブチームで
上を目指すことになるのだが、当時はそんな兆しさえない時期。

見知らぬユーゴスラビア人選手の名前と、RKCという同じエールディビジを戦うチームの名を聞き
興味をもったのか、ヘンクという名の彼はこう言ってきた。
「今日はどこに泊まるの?」
「まだ夕方だしロッテルダムには宿がいっぱいあるから、これから観光案内所に行って決める」
「よかったら、うちに泊まらないか。女房も息子もいるから、心配ない」

海外旅行において自信過剰は禁物である。とくに、「自分は人を見る目がある」という自信は。
しかし、相好をくずしてフェイエノールトの優勝パレードの模様を語る彼を
わたしは信じないなんてことはできず、ついでに言えば自称フーリガンの家庭にも興味を覚えた。
彼について、Goes(フォース)という田舎町に約1時間、電車を乗り継いで行く。

Goesの街に降り立った時、わたしは心からオランダという国を愛した。
そこには、首都のアムステルダムにも、都会のロッテルダムにもない光景があった。
オランダ人は家自慢が好きとのことで、通りに面した部屋はみな一面が大きなガラス張りで
あえて通りから見えるリビングのカーテンを開けて部屋のコーディネートを道行く人に見せている。
おとぎばなしに出てきそうな小さなお城のような可愛い家々のリビングが、
町を歩くごとにひとつひとつ目に入る。庭はもちろん丁寧にガーデニングされていた。
「すごい」「かわいい」といちいち感動するわたしに、ヘンクも満足そう。

かくしてヘンクの家に着くと、彼は美人の奥さんにわたしを連れてきた説明をはじめた。
シンジ・オノの国の人間であること、オノと同じチームだったユーゴスラビア人選手のファンで
彼を見るためにオランダに来ていること等々。
奥さんのイヴァンは一瞬たりとも怪訝な表情を浮かべることなく、初対面のわたしを抱擁で迎える。
親の英才教育のためか、フェイエノールトのシャツを着せられた幼い息子(10歳)はすでに
英語はぺらぺらで、わたしなどとても太刀打ちできない。
たまにまだ幼児の妹が泣くとフェイエノールトの応援歌をうたって寝かしつけていて、
これは洗脳以外のなにものでもない、と思う。

ヘンクの家は、それでも裕福でもなんでもなく、客間などもなかった。
屋根裏部屋の空き部屋に、電気で動く暖房を設置してくれて、わたしはそこに泊まった。
イヴァンの手料理と、ヘンクのフェイエノールト自慢話にひと晩じゅう付き合いながら。
逆に、こんなただの庶民家庭なのにわたしを迎えてくれたヘンク一家に心を打たれた。
オランダの家庭料理は大味だがとても温かく、家族でひとつの鍋を囲むためにあるような料理だった。
彼の家には優勝パレードのときの写真やなにやらが誇らしげに飾ってあり、
あくまでフーリガンを自称する彼には似つかわしくない家庭的な空気と、
でもフェイエノールトが生活の根幹であるということを物語っていた。

~別れの日へつづく