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2013/11/21

地球の舳先から vol.296
キューバ編 vol.12(最終回)

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ハバナのライブハウスの最高峰、「カサ・デ・ラ・ムシカ」は、
ガリアーノと呼ばれる町の中心部ともう一軒、大きな陸橋を渡ったミラマール地区にある。
10年前は、ほんのわずかな小銭で現地人の乗合タクシー(しかし見る人が見れば垂涎の
クラシックカー)に乗り、開きっぱなしのドアを押さえながらこの陸橋を渡ったものだった。

戦闘能力を失った割に相変わらずお金も無いわたしは、観光巡回バス(10年前はなかった)
に乗って、ライブハウスの近くまで行くことにした。
「ミラマール」とだけ同乗しているえらくミニスカートの車掌に伝え、
いよいよ近くなると目的地の「カサ・デ・ラ・ムシカはどのへん?」と尋ねると
バスはその先で迂回をして巡回コースを逸れ、ここからまっすぐ、というところまで送ってくれた。

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ミラマールのカサ・デ・ラ・ムシカはまだ品行方正で、
バンボレオというわたしでも知っている超有名アーティストの日だったこともあり
割合じゃまをされずに音楽を楽しむことが出来た。ハバナらしい夜が更けていく。
帰りはライブハウスの前に待ち構えたぼろいタクシーが破格で送ってくれる。
町を縦断してホテルまで帰る間、また走馬灯のように昔の光景が蘇る。
キューバの光景、というよりは、19だった自分が。

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本質的には、この国は本質的にはなにも変わっていないように感じた。
多少垢抜けた気がしなくもないし、色々とへんなものが建ってもいたけれども
時流の間を狡猾に生き延び、「観光」をする分には相当ハッピーな国。
なんだ、こんなに変わらないんじゃ、もうあと10年後も来なきゃいけないじゃないか。
少し拍子抜けして、そんなことを思った。
最後の晩は、モヒート発祥の地と言われるボデギータ・エル・メディオで
背中に生演奏のユニットを背負いながら、いい加減砂糖抜きにするようになったグラスを空ける。

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籠もった空気。けど東京のコンクリートジャングルの閉塞感とは別。人の絶えない夏の匂い。
雨が降れば水はけの悪さであちこちに渡れない水溜りができ、障害物競走になる。
千鳥足で人にぶつかっても、口説きはしてもこちらから求めない限り強姦なんかとても
できそうにない、なんだか気弱な優等生みたいなキューバ人男性たち。
そういえば、金くれとかモヒートおごってくれとかその時計くれとか言われたことは
無数にあっても、知らないうちにお金や持ち物を抜かれたことは一度も無い。気配すら無い。

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昼間に行った大学周辺には、医学生が溢れていた。
この国では医者は決して高給ではなく、石油などの見返りのために周辺国家に派遣される。
お金のために選んだ職業ではなく、魂がなければとてもやっていけないだろう。
しかし裏を返せば、キューバに生まれたから純粋に医者を選べたという考え方もある。
それは職業選択の自由であり、精神的な自由だ。

理想を追ったキューバが成功しているとは言わない。
しかしこの地にいると、いやでも人の幸せや人生ってなんだろう、と思う。
お金とか、生活とか、安定とか、社会が要求するライフステージとかステイタスとか。
心を縛り結果として体を縛る目に見えないルールは、一体どこに向かわせようというのだろう。
もう一度言う、だからってキューバの社会主義が人を幸せにしたわけじゃないけど。

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時差ぼけが治る頃には帰国の日。わたしの東回りの時差ぼけはいつも酷い。
エアカナダの航空券に、高い出国税と、パスポートに押す代わりの出国スタンプを貰い
わたしはキューバをあとにした。

トランジットのトロント(カナダ)で、分厚いメニューから選んだピノ・グリージョは程よく冷えていた。
しばらくは、お酒を飲むたびに、外気で5分でぬるくなるキューバのビールを思い出すのだろう。

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おしまい。

2013/11/14

地球の舳先から vol.295
キューバ編 vol.11

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いまだ社会主義を貫くキューバには、配給制度がある。
が、いいものがまわってくるわけもなく、たまにかじれない程かたいパンやら
たまに豆やらが混じってかさ増しされた米、
芋、キャツサバなど、「とりあえずおなかはふくれる」のオンパレード。
魚介類なんてものは外国人用の高級レストランにばかり流れているらしい。

たんぱく質といえばだいたいチキン。
「ポージョ フリート」という直訳フライドチキンは、屋台でもレストランでも最定番だ。
外国人用のレストランの値付けでいえば、チキンが300円なら、よくわからない
白身の魚が400円、豚肉が600円でエビが800円、というところだろうか。

だから、友人からされるキューバに関する質問でかなり多い
「カリブ海でしょ??シーフード美味しそう!」
というものには、かなりの違和感を覚えざるを得ない。
「キューバの名物料理って何??」と訊かれれば
うーん…フライドチキン…」というのがわたしの答えである。

…そして、素材はあるのだろうが調理が上手いとはいえないこの国…
テレビの料理番組でも、ネタと言ってほしいような料理を紹介している。
今回の旅は、「フライドチキンなんて食べない!どこかにあるらしい
キューバの魚介を食べる!」を、ひそかに目的にしていた。

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ロブスター。魚介の王様といえばこれであろう。
…なんだこの練り物は。カニカマか。味がしない。コブサラダのようなソースがついてくる。

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エビ。港町サンティアゴにて。まあまあ美味しかった。でも、多い…

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魚。米軍基地のお膝元グアンタナモのホテルで。
なにがなんだかわからない。見掛けの割に味はしない。

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魚介の豪華デラックス料理。ヘミングウェイが愛用していたレストランで。
よくわからない。たぶん、エビとイカと貝と白身魚…かな。味は特に無い。

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ロブスター(リベンジ)。ビールファクトリーが運営しているレストランで。
うまいっ!ようやく当たり。1500円出せばキューバでもこれが食べられるのか!

ちなみに、高級ホテルの中のレストランでもない限り、
街のレストランはとても暑い。クーラーよりも外気を取り込む方法。
なので、ビールはすぐに飲まねばたちまちぬるくなる。
が、ぬるいビールや氷の溶けたカクテルも、キューバらしくて嫌いではない。

しかしまあ、全体的に、食に期待はしないほうがよい。

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ミックスサラダというメニューはだいたいキュウリとトマトしか入っていないし

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デザート。なんですか?これ。リンゴのジャムらしい。
砂糖が溶けきらないほど入っており、ガリガリする。急逝糖尿病になりそうな脳天に来る甘さ

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4つ星ホテルの朝食。なんですか?これ。パンです。多分…

そしてものすごくしょっぱい。塩と砂糖がよくとれるので、当たり前なのかもしれない。
が、添加物ゼロに近い生活をしながらキューバ人があんなに太るのは間違いなくこの砂糖と塩の過剰摂取だろう。

じゃあ何を食べて暮らしていたかというと、これである。

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わたしの好物。フライドポテト。
世界中、どこにでもだいたいあるし、だいたい外れない。しかも安い。
フライドポテトがあれば生きていける。だから大丈夫。

…と、外食を中心に紹介してきたので、せっかくなので庶民食も。
留学時代に世話になった下宿先を訪ねたら、夕食を出してくれた。
10年前毎日食べていた、これがキューバのおふくろの味。なのでした。

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ごちそうさまでした。

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ただし、キューバのマンゴーは世界一うまい。


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モヒートはワイルド。

2013/10/30

地球の舳先から vol.294
キューバ編 vol.10

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ハバナ市街地へ戻ったわたしが最後に向かったのは新市街。
留学時代を暮らした場所であり、瀟洒な住宅街でもある
ハバナ大学や政府関連のいわゆるお堅い施設が集まり、
ハバナ・リブレとホテル・ナシオナルという二大老舗高級ホテルが立ち並ぶ。

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このハバナ・リブレは旧称をヒルトンホテルという。あのヒルトンである。
革命後、国が接収して国有化し、名称も変わったのだ。
10年前は1階がお土産物屋でいつも繁盛していたが、がらんどうになっていた。
このホテルの近くにあった、ビザ管理オフィスに何度やきもきしながら通っただろう。

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わたしが目指していたのはその先にあるナシオナルホテルだった。
当時はこのホテルの地下にインターネットを使えるルームがあり、
1時間12ドルとかの法外な値段で週に1回だけ繋ぎに来ていたものだ。
(公には、キューバではいまだに一般人がインターネットを使える環境にはない。)
海外口座とのやりとりもここで行っており、最も外界と繋がっている場所だった。

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用事(両替)を無事終え、周辺のジャズクラブの立地を確認しながらハバナ大学へ。
一応平日は毎日通ったその場所は重厚な銅像と階段が歴史を物語り、
南北アメリカ大陸で最も早く設立された大学というのもうなずける外見である。
そこから、ノーアポイントで、かつての下宿先へ…と思っていたのだが
10年という年月の重みを、ハバナの景色からではなく自分の記憶力の低下から
実感させられる羽目になった。

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歩けど歩けど、「この通りに違いない」という見覚えのある道ばかりで
一向に目的地にたどり着かない。
通行人に聞くも、ボケたおばあちゃんは「彼女は私の友達よ。息子のミシェルは
あそこで働いているわ」と配給所のパン屋を指差す。
ミシェルという名は確かに合っているが少なくとも彼は10年前、医学だか工学
だかを目指すエリート大学生だったはずである。
「ミシェーーーーーール!」とパン屋に向かって絶叫するおばあちゃん。

結局、何人か目に聞いたおばちゃんが大変親切で、「わからない」と別れた後
通りすがりの人に聞きまくってくれたようで、「場所を知っている」という
洋服を着たトイプードルを連れたおよそキューバらしくない上品なご婦人を連れてきてくれた。
今度こそたどり着いた昔の下宿先の女主人は大変元気で、
お得意のキューバ料理を振舞ってくれた。
相当な御年のはずなのだが、「えーとユウがうちにいたのは、2004年よね?」という
正確すぎる記憶力はたぶんわたしより相当、脳年齢が若い。
「あのーミシェルは今」と聞いたところ、「工学の先生をしている」という返答を聞いて安心した。

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毎日の夕立が続いていた。
食事を取るダイニングのテラスから往来を見下ろし、十年一日とはこれか、と思う。
ふいに胸に迫るものがあって、涙が出そうになった。
嬉しいのでも悲しいのでも悔しいのでもなくて、懐かしくて泣きそうになる、という経験が
はじめてだったのは、やっぱりまださほど長く生きていないということなのかもしれない。

でも確かに10年前のわたしは、30歳まで自分が生きているなんてことを
うまく想像することはできなかったのだ。
あのころのわたしは、人生で一番の不安定な思春期にいて、
日本を少し離れたのもおそらくいい選択というか必然だったのだ。
目に見える唐突なルールと制約の中で生きるキューバの人々の生命力は、
10年経ってから見ても眩しくも恨めしくもあるもので、やっぱり変わらない光景だった。

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雨待ちをして、女主人に別れを告げて家を出る。
今度は迷わないぞ、と思いながら、また来る気になっている自分に気付いたのだった…

つづく



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(サンティアゴから帰ってからは、テハティジョ・ホテルという中級クラスに泊まったのだが、目の前の道路が工事中で雨が降ると大変なことに…)

2013/10/15

地球の舳先から vol.293
キューバ編 vol.9

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時差ぼけが治らない。
早朝、またサンティアゴ・デ・クーバからの飛行機でハバナへ帰り
滞在もあと残すところ2日になっていた。

少しだけ郊外を回りたいと思っていたのだが、何せ公共交通機関
というものがほとんどないのがここハバナの難点。
それでも、観光客向けの路線バスが2ルートほどあり、
とりあえずハバナ市街から海を挟んで反対側のカサブランカ地域へ。
ちなみに、「カサブランカ」は英語で「White House」。

10年前もこちら側に上陸したことはあった。
あのときは、現地の医学生が渡し舟で案内してくれたことを思い出す。
普通に歩いていると船がどこから出ているのかすらもよくわからないので
ガイドとしては非常に有用だったのだが、それからしばらく家の前で毎日
待ち構えられてプロポーズされ続けた。
キューバの未来のために勉強してください。って余計なお世話か。

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要塞の展望台に上って見渡すハバナの市街地は確かに美しい。
すこし離れたほうが綺麗にみえるものも、きっとたくさんあるのだ。
展望台には世界各国の国旗リストが並んでいて、これで船籍を判断する、
といって日本の旗もひろげて見せてくれた。

そこから、客引きに来たタクシーの運転手に「ゲバラの家はどっちだ」と聞き、
ここの道を永遠にまっすぐだ、というので、どうせ1キロくらいだろうと踏む。
つらつら歩いていると、こちら側には軍事施設が多いようで、ところどころに
錆びた鉄条網で区切られ立入禁止を示す区画があらわれる。
道はまっすぐで、観光客がチャーターした蛍光ピンクとかのクラシックカーが
ごくたまに通る以外は非常に静かで、照り付ける太陽を沿道の木々がそよがせる。
運河をひとつ越えただけで、ずいぶんと雰囲気が変わるものだ。

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途中、拿捕したらしいアメリカ軍の昔の戦闘機や武器が無造作に
屋外に並べられているスペースが突如として現われた。
歩道の芝生に置きっぱなしにしてあるレベルなのだが、一応掘立小屋から
人がでてきて3ドルを要求する。代わりに渡された紙きれには
「カバーニャ要塞 屋外展示場」と書いてあった。屋外展示場…ねえ。

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もうしばらく歩くと、ゲバラの第1邸宅。といっても執務スペースにしていた場所だ。
鮮やかな緑色の建物は、ハバナの市外を見渡す一等級の高台。
ここでしか見られないというお宝写真もたくさん展示されている。
すぐ前の広場で1ドルで缶ビールを頼み、タクシーと交渉して、
小説「老人と海」のモデルとなった漁村、コヒマルへ。

かつてヘミングウェイが愛艇ピラール号を停めて日々釣りにいそしんだというが
いまでは観光客の姿もほとんどなく、うらぶれた港町のふぜい。
国籍を聞かれ、その国の歌を歌ってチップを要求する高齢の女性しかいない。
タクシーも通っておらず、唯一観光スポット(というか食事処)になっている
ヘミングウェイのかつての行きつけ「ラ・テラサ」で食事をして、タクシーを呼んでもらうことにした。
店内には、「ヘミングウェイカップ」というカジキマグロの釣り大会(←謎)で
カストロ議長が優勝したときの写真が飾ってある。
嗚呼、不思議の国キューバ。

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さらに東へ向かい、タララ地区へ行く。地図上で見ればビーチスポットだし
観光客を乗せる東行きのたった1本のバスにも「タララ」という停留場があったので
バスで行こうかと思っていたくらい普通に行ける場所だと思っていたのが間違いだった。
区切られ隔離された地区は厳重なセキュリティが敷かれており、
地域に入るにはパスポートとガイドの交渉、それに袖の下が必要だった。

ただビーチへ行くのになんでパスポートが必要なんだ、といったところ
ガイドも「あそこにはチェルノブイリの子どもがいるから仕方ない」という。
ここは、かのチェルノブイリ原子力発電所で被爆した子どもたちを
キューバが預かっている施設がある場所でもある。
一般人でも公然と知っている、ただし高度に複雑で政治的な事情ということか。

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中は、区画を綺麗に管理された別荘地のようでもあり、病院、住居、ビーチ、レストランが広大な敷地内に整然と並んでいる。
しかしいつか見た報道で子供達がビーチで無邪気に遊ぶ姿などは一切無い。
演出。ドキュメンタリー。パフォーマンス。そりゃ、そうだけど。
ただ、ここは「開かれて」はいるのだ。こうして、おそらく万人に。

最初に値段を聞いたときに「それはこれから話そう」とはぐらかしたこのタクシーを
どう値切るか思案をめぐらせつつ、わたしは対岸のハバナへ帰った。

つづく



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(これが、わたしのチャーターした市井のタクシー。ベンツは高くて乗れない)

2013/10/07

地球の舳先から vol.292
キューバ編 vol.8

手ぶらでグアンタナモ基地に近づいたら、バカって言われた話。(その1)
の続きです。

…そんなわけで、グアンタナモ・ホテルへ帰って、やり直し。
いらいらしないコツは、他人に期待をしないこと。旅は運任せ。
ホテルで待っていると、青いポロシャツのヤンキーみたいな人が出てきた。
「僕が公認ガイド」ホントかよ!と突っ込みたい気分だったが、もう乗りかかった船。
いけるとことまで行ってみよう。

彼を乗せて、すぐ近くの、鉄の柵の閉まったオフィスへ車を移動させる。
重厚なセキュリティと、確かに政府関連の施設であることを示す、ものものしい看板。
ここでまた車内で待つと、一枚の紙を持って出てきた。
訪問許可書にあたるものらしい。わたしのパスポート情報とガイドの所属会社の情報、
それに、手書きのサインとハンコ。彼のことを、ようやく信用する。

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が、ナイーブになっているのはわたしのほうばかりのようで、
ガイドと男はせっかく取った許可証を手にもったまま、何かおもしろい話でもあるのか
後部座席で盛り上がっては手をたたいて爆笑している。
ワタシの(あなたに発行してもらったものですけど)許可証をもっと大事に扱ってください!

2時間前に来た関所に来ると2人のガイドは急に真剣な表情で仕事をし始め、
小屋から出てきた2人はガッツポーズ。ひと安心。
なにもない道を走り、塩の産地だという海沿いに民家や建物がぐっと減ったころ、
再度関所が現われる。セキュリティレベルがまたひとつ上がるのだろう。
もしかすると、かなり近くへ行くのかもしれない。
こうして、カイマネラに到着した。

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田舎の港町といった感じで、杭が打たれた海岸では地元の子供たちが遊んでいる。
到着したのは小さな、しかしプールのあるリゾートホテルだった。
ここで昼食を取り、双眼鏡を持ったホテルの人がやってきて、ようやくと見学が始まる。

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まずはホテル内に設置された簡単な展示スペースで兵員の配置などの説明を受ける。
どこからどのような望遠レンズで取ったのかわからない、米軍基地内の施設の写真もある。
(※以下はあくまで現地でキューバ人から受けた説明なので、その前提でお読みください。)

グアンタナモ湾はキューバで2番目に大きい港だというが、本当の価値は大きさではないらしい。
深度の面で中南米屈指の「良い港」で、浅瀬からすぐに断崖絶壁になっていて
潜水艦の出航スピードがとても高いらしい。
なるほど、収容所ばかりが注目されているけれど、この地から「いろいろないけないもの」が出撃しているのだろう。
湾にはほんの小さな通行路が開かれており、一応キューバの船も通れるようになっているのだが
本当に狭すぎて、ボート並みの漁船しか通れないという。
湾には軍事施設や衛星ドームなどもあり、建物も近代的で「基地」というよりひとつの町。
湾に最も近いところに張り出した巨大なビルはシビリアンの独身寮で、シンボルらしい。
ちなみに賃借は月額約20万。「きみんとこの家賃くらいでしょ」といわれたが、まあ確かに。

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「じゃ、見に行こうか」と案内されたのはホテルの101号室。
部屋に入るとすぐ左側に小さな扉があり、上階へ続く階段が現われた。
人ひとりがぎりぎり通れる程度の円形で急な階段を慎重に一歩ずつ進む。隠し扉か…
上階は屋上のようになっていて、なるほど眼下には湾が広がり、肉眼でも向こう側の建物が確認できる。
あまりの近さに少し驚き、渡された双眼鏡でふむふむと見学をする。
で、こっちから見えてる、ということは、当然向こうからも見えているわけで、
相手は天下の米軍なので、当たり前だけどわたしは「記録」されただろう。
ま、逆ならともかく、相手側がアメリカである限り、いきなり撃ったりしないだろう。
という感覚は、北朝鮮側から38度線に行ったときと似た感覚だった。

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(向こう側が米軍基地)

ちなみに青シャツの公認ガイドは、緩衝地帯の変更により以前の住居に住めなくなり
転居したそうだが、新しい家には新品の豪奢な家具がセットされていたという。
サンティアゴで手配したガイドはここへ来ることはほとんどないらしく、
むしろわたしより積極的に質問責めをしまくっていた。
あまり領土問題のように考えてはいないのか、アメリカに対する非難めいたものは
だれからも出なかったのが印象的。

最後に、記念にあげるよと訪問許可証をもらって、見学コースは終了。
帰りは関所で止められることもなく、一旦停止して停止線を開けてもらうのを待つのみ。
「ここへ来た日本人はきみで5人目だよ」といわれたが、その理由は聞かれなかった。
理由なんて、聞かれたって困るけれど。

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(許可証。)

また幹線道路を走りながら帰った。
どんな田舎にも、小さな町にも、政府系の機関の建物があり、国民は管理されており
どんなぼろい掘立小屋であろうとも、学校と病院があった。
車窓を見ていると、フィデル・カストロの社会主義は失敗だったとは言いづらい気分になる。
どんな田舎も、ひとりの国民も見捨てない、という気概はやはり指導者としても非常人的で、
異常なまでの意志により構築を続けてきたものなのだという畏怖を感じた。

~グアンタナモ編はおしまい。コラムはつづく

2013/10/03

地球の舳先から vol.291
キューバ編 vol.7

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最近、フルアテンドの旅ばかりしていたので、こういう自由旅行もいいなと思い始めていた旅の中日、この日だけは朝から晩までフルアテンドでツアーを組んでもらっていた。
行こうと思えば行けるのだろうが、身一つで行くところじゃない。
国交の無いはずのアメリカが無期限租借しているグアンタナモ米軍基地。
アルカイダの主犯格が収容されているらしい悪名高き収容所は映画にもなった。

数年前までは、近くの(むろんキューバ側にある)展望台が開放されており、きちんと政府関係組織に申請を出して許可をもらえば訪問して米軍基地をのぞむことができたというが、今は近づくこともできない。
…と当初、無碍に断られたのだが、
「じゃ、グアンタナモへ行く車だけ手配してください」
「あっちは予約をしてもドライバーが来なかったりするので事前に車の手配を受けてない」
「じゃ、現地で交渉するから、英語が喋れるガイドだけ手配してください」
と食い下がりまくっていたら、カイマネラという港町が、いま現在訪問できる最も近い場所だということでオリジナルのツアーを組んでくれた。
なにがどれだけ見られるのかわからないまま、手配を頼んだ。

8月13日。フィデル・カストロの誕生日。
しかし偶像崇拝などしない国なので、ゲバラの銅像はあってもカストロの銅像はない。
誕生日といっても、静かなものだった。

早朝、ホテルを出ると、きちんとガイドと車が待ち構えている。
チェ・ゲバラのボリビアでの死を悼む記念碑(彼はキューバ革命のあとしばらくしてボリビアへ渡り、自分がチェ・ゲバラであることを隠して革命活動を行い死んだ)を簡単に見学し、グアンタナモ州へ向かう。
オモチャのような、人が乗っているとは思えないグリーンと黄色の飛行機が低空飛行していた。
前日から気になっていたので、あれはなんだとガイドに聞くと、「蚊よけ」と言う。
英語が通じなかったのだろうかと思いもう一度聞くと、もう一度言う。
「だから、蚊が多くて、マラリアとかが流行るから、まいてる」
な、何を?!?! 確かに、サンティアゴに移動してから蚊を一匹も見ていない。

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(記念碑。ゲバラがボリビアで名乗っていたコードネーム「ラモン」が彫り刻まれている)

綺麗な幹線道路を2時間ほど走り、到着したグアンタナモ・ホテルで休憩。
軽装の観光客で溢れていたが、ほとんどの人はバラコアという風光明媚な地へ行くのだそうだ。
「カイマネラは海があっていいところだが、政府がプロモーションしないから皆バラコアばかり行く」
とこぼすガイドと、まだ昼前で準備中の店で、1杯のモヒートを出してもらった。

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ぷらぷらと町を歩いていると、角の一角に、屋内が真っ白な煙で充満し、
その煙がちょっとずつ外に漏れ出している、店だか家だかなんだかを発見した。
「あれは火事ですか」
「あれも、蚊よけ。さっき見た飛行機と同じ」
ちょっと!絶対それ人体有害でしょ!枯葉剤しか連想できないよ!
「キューバ、医療大国だから」
…間違ってる。多分…。

そうこうしながら、カイマネラへ行く電車までの時間を潰していると、ガイドの携帯に電話が。
なにやら難しい話をしているが、サンティアゴに来てから地方差(方言)なのか
ネイティブの早口なのか、彼らのスペイン語がほぼまったく聞き取れなくなっていた。
電話を切ってガイドが難しい顔で言う。
「今日は電車に乗れない。」

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…この日が順調に行くはずないことは、なんとなく想像がついていた。
そもそもキューバの鉄道は色々な意味で不規則なので、電車がダメなら車で行く、
と事前に手配をしてくれた日本のエージェントの方も言っていた。
そのくらいはたいした問題ではない。
電車の時間を待つ必要もなくなったので、すぐに出発。
30分ほど走ると、案外すぐ、カイマネラへ続くセキュリティの関所に到着した。

掘っ立て小屋よりも結構きちんとしたプレハブ的建物に、踏切のような停止線。
つまりその先は立入制限区域ということだ。
わたしのパスポートを預かって、小屋へ消えていくガイド。
市井のタクシーと違って冷房がキンキンの専用車で、こちらは待つだけ。
ガイドは行ったり来たりして、何度もどこかへ電話をかけている。
30分ほどそれを繰り返した後、車へ帰ってきた。

「今日は特殊な日で、状況も特殊で、このままカイマネラへ行くことはできない。
サンティアゴへ帰るか、グアンタナモで政府公認ガイドに同行してもらうかだ」
ええい、引き下がれるか。「…で、いくらかかるの?」「お金はかからない」「は?! 何で?!」
社会主義の仕組みは、たまにというかいつもよくわからない。

と、いうか、そんな簡単に、そんな厳重なセキュリティをスルーする「公式ガイド」
を今日の今日でアサインすることが可能だとは思えない。
まあいいや、時間もあるし、ぎりぎりまであがいてみよう、と思い、
わたしたちはまたグアンタナモの市内にとって返したのだった。

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つづく

2013/09/24

地球の舳先から vol.290
キューバ編 vol.6

ギラギラと照りつける太陽が、日傘を突き抜けてくる。
暑いより熱い。脳細胞が死にそう。と、いうか、多分順調に死んでる。
キューバ人にも、「サンティアゴへ行く」といったら「あんなクソ暑いとこに」と言われた。

しかし貧乏なわたしはタクシー代をケチって歩き続けた。
サンティアゴへ来たら、革命博物館に行かないわけにはいかない。
1953年7月26日、今も革命記念日として国民の休日となるその日、
当時のフィデル・カストロらはここにあるモンカダ兵舎を襲撃し
その銃弾から社会主義革命ははじまったのだ。

たいした見所のないこの地なので、すぐにそれはわかった。
が、入り口を間違えて、広大な兵舎のまわりを1周してしまった。
現在は小学校になっているという兵舎は黄色に鮮やかに彩られている。




(今も残る弾痕)

博物館の中には、学生時代のフィデルの名刺や、
襲撃後捕らえられたメンバーが拷問を受ける様子(写真なのが凄い)、
その後の革命までの華々しい道のりが詳細に展示されている。
いかにもな内容なのだが、最後のフロアで、わたしは久々に博物館で立ち尽くした。
革命で命を落とした人々の顔写真がひとりひとり、重厚な額に入れられて並んでいた。

皆、若く、あどけない少年の面影ばかりが目に付く。
この年齢で、何を思って、命を賭けたのだろう。
イスラエルのホロコースト博物館の最後のフロアに被害者の写真が並ぶのとは意味が違う。
彼らは、もちろん被害者ではないし、きっと犠牲者ですら、ないのだ。
いまのキューバは、彼らがその後の人生と引き換えに断っただけの未来の姿なのだろうか。

キューバ革命の原点となったこの蜂起の前日、彼らが宿泊したレックスホテルは
革命60周年の今年、新装開店してやたらポップになっていた。(上写真)
帰りこそバスに乗りたかったが、バス停に停まった「バス」を見て
そこまでの精神力と体力が残っていないことに気づく…


(※普通の路線バス)

ホテルは中央広場に面した最高の立地の場所を取っていた。
広場を中心に急な坂が広がり、市民がところ狭しと生活を送っている。
夕方ともなれば子供たちの無尽蔵な走り回る嬌声が響き、
そこまでアジア人の観光客が珍しいのか、大人は皆ぽかんと手足を止めてじっと見てくる。

夜も10時を越えれば、どこからともなく音楽が聴こえ始める。
本領発揮だ。「夜が明ける」という言葉はあるが、「日が明ける」とでもいえばよいのか
太陽が沈んでしばらくして初めて、生き生きと本当の姿を表すよう。

ハバナの音楽と比べて、リズムが変わったのがわかった。
トラディショナルなソンやトローバは、昔はなんだか退屈に聴こえていた類の音楽。
この国では、どこにいても音楽が溢れている。
昼夜や場所を問わず、音楽が途切れるということがない。
それなのに、10年前、わたしはそんなことにも、まるで気づかなかったのだ。
興味がないと耳にも入ってこないのだから、人間の嗜好って恐ろしい。

今思えば、勿体無いことをしたのだろう。
しかし、わたしが「キューバへ行った」ということが意味を帯びてきたのは、
むしろ、帰ってきてからのほうではなかったのだろうか、と思う。
東京に帰ってきてから、キューバの空気を探して辿り着いたライブハウスで
とあるフォトグラファーが、キューバ人を撮った作品に出会った。今も一番好きな写真作品。
このJunkStageで連載をしている廣川さんエイミーさんと出会って
ほとんどはじめて、キューバ音楽の楽しさを知ったのも、その頃だ。
「キューバ」という共通項で、だれかと出会い、キューバのなにかを発見したのだ。
日本で。

外にいたってホテルの部屋にいたって、眠れないほど音楽は聴こえるけれども、
小銭を払って、カサ・デ・ラ・トローバという街で随一のライブハウスへ入った。
ハバナのライブハウスと違って、ギラギラとナンパをしてくる輩もいない。
溶けない量の砂糖が沈殿した甘ったるいカクテルで、音に寄りかかる。

夜が更けていく。音楽とともに。
音楽であったまったテンションを、お酒でひっくるめて、寝るのだ。

これを人は、楽園と呼んだのかもしれない。
即物的で、刹那的で、愉悦的。
昼間に見た、革命博物館の青年たちの顔が、心のどこかには残ったままだったけれども
素直に酔ったのは、翌日がハードな旅になるとわかっていたからだったのかもしれなかった。

つづく


(これも路線バス 捕虜ではありません)



2013/09/17

地球の舳先から vol.289
キューバ編 vol.5

早朝、呼んでおいたタクシーに乗り、そそくさとハバナをあとにした。
この旅では、東部の、キューバ第二の都市サンティアゴ・デ・クーバと
グアンタナモ刑務所で有名な米軍基地の近くまで行くことを目的としていた。

空港へ向かうタクシーは、空港から来るときにつかまえた近代的タクシーとは違い
ボロボロだけれども綺麗に磨かれたクラシカルなアメ車。
この国では、日本のように勢い良く車のドアを閉めようものなら怒られる。
もしくは、ドアやノブが取れる。この車も、ドアは外側からしか開けられなかった。

当然クーラーなどない。朝のぬるい風は、車のスピードと相まって
ちょうどよい風当たりになり、暑気を逃がしてゆく。
シンプルな空港の殺風景なカウンターでとった朝食は選択肢がひとつしかなく
表面しか温まっていないパニーニを、チーズの塩気で流し込む。
まずくもないが、さして美味いわけももちろんない。

十分だった。
上を見ればキリがないし、選択肢が増えれば人の幸福度は下がる。
わたしは逆に、スーパーに豆腐が何十種類と並べられている光景を見ると、
なんだかいつも、異常な印象を受ける。

国内線のセキュリティは厳しく、5分10分とかけて緻密に検査される。
「アセトン持ってるか」と聞かれ、ネイルカラーを出したら「それだ」と言う。
てっきり欲しいのだろうと思ったら、返された。キューバも変わった、かもしれない。
心配した機体は新しく、少しほっとする。
眼下に見える山脈が、フィデルたちが昔ゲリラ戦を繰り広げたシエラ・マエストラだろうか。

空港に着く。おんぼろの車をホテルまで飛ばしていくタンクトップの運転手。
ホテルの前で執拗に客引きを繰り返す個人事業主(←揶揄です)たち。
しかし一歩街へ出れば月曜日の通勤と生活に追われる人々で埋め尽くされ、
非観光地の空気のなか、かつてバカルディ一家が住んでいた豪邸などを眺める。
それでも歩いていれば、ペンキを塗っていたおっちゃんが梯子の上から手を止めて
熱い視線を寄越し、目を合わせればウィンクと投げキッスがWで降ってくる。

ハバナよりもキューバっぽかった。かつて見たハバナや地方都市の朴訥さ。
サンティアゴへ来たはずのないわたしがそう思う、ということは、
やっぱり10年の間にハバナも変わった、ということなのだろう。


(ラムで有名なバカルディは実はキューバ創業。こちらが一家のかつての豪邸)

そうそう観光するものがないことに気づき、タクシーを飛ばして、
ユネスコの世界遺産になっている山の上の要塞へ。ようやく海が見れた。
家々が密集した小さな島が見え、海を見ながらビールとモヒートで水分補給。



帰りは、ほかの観光客を運んできたタクシーを待たねばならないのだが
これがなかなか来ない。
来たときは7ペソだったのに、10ペソと譲らないクラシックカーの兄ちゃんと
意地の張り合いをした挙句、警備員…といってもドアも窓もない丸太の掘っ立て小屋の
日陰を借りて、しばし待つことに決めた。暑い。アリの数をかぞえて過ごす。

30分待つと、「おい、バイクはどうだ、5ペソだぞ」とおっちゃんが呼びに来る。
タクシーではなく、用事があって荷物を運びに来たらしいバイクが、街へ戻るという。
わたしが今回の旅で、トラベラーとしてやるべきでないことをやらかしたとすれば、この時だろう。
どこぞの国では男のバイクに女1人で乗って拉致られて刺された女性が
自業自得と轟々に非難されていたが、この場合どちらかといえば交通安全上の問題。
山の上からの下り坂一本、原付、大味に舗装された道路事情―
このシチュエーションで心配すべきは、刺殺よりも100倍の可能性で転倒である。
いや、日本でだって、わたしは決して素足にショートパンツで原付に乗ったりはしない。

…が、ギンギンに照り付ける太陽を仰いで、わたしは背に腹をかえた。
ヘルメットをかぶせられ、バイクにまたがると、「絶対安全運転で!ゆっくり!」
と、ぎゃんぎゃん注文をつける。
瞬間、警備のおっちゃんとタクシーの兄ちゃんがびっくりして振り返った。
ええ、さっきからアナタ方が盛り上がっていた、わたしの年齢当てクイズとか
(どうも日本人はだいたいマイナス10歳くらいに見えるらしい)
その他卑猥(といっても下ネタレベル)なスペイン語はほぼすべて理解してましたから…。

「ア~ディ~オ~~ス~~」
と彼らに別れを告げ、またうしろから文句をつけながら
自転車並みのスピードに下げさせて、それでもほとんど目をつぶって下界へ降りた。
ホテルへ帰ってから、一応、「たった5ドルと安全を天秤にかけてはいけない」と
あらためて一人反省会をした。

つづく

2013/09/13

地球の舳先から vol.288
キューバ編 vol.4

30時間近い移動時間で疲れていたのにもかかわらず、
どうも東回りが合わない体質で2時間ほどしか眠れなかった。
この日は、観光。
東京タワーの近くに住んでいたら東京タワーに上ったりしようと
思わないのと同じか、10年前も観光はほとんどしなかった。

ハバナの市街中心部は、海岸線沿いにビエハ(旧市街)、セントロ(中央部)、ベダード(新市街)と中心部が大きく3つのブロックに分かれている。
ビエハには博物館や大型ホテルが立ち並び、コロニアルな
宮殿調の古い建物が続くいわゆる一大観光地。
ベダードは高級住宅街や高級ホテル、大使館、ハバナ大学などがあり、
その中間地点に、住宅街と生活の場であるセントロ地区がある。
だいたい、留学生はベダード地区のそれなり以上の家に下宿をとって、
ビエハへ行くことは(観光以外の用途がなく)あまりなかったりする。
しかし誰しもが一度は通る道。目印もわかりやすく、大通りも決まっていて歩きやすい。


名物の対岸の要塞を眺め…


釣りをしている人に戦利品の魚を自慢され…


政府系の施設の壁には、国民的人気のある革命家3名


ホワイトハウスを真似て作った(勿論国交断絶する前)というカピトリオは旧国会議事堂


(ある意味での)スーパーカーを眺めていたら「写真を撮れ」と何十ポーズも要求され


土産物屋の主役は、いまでもチェ・ゲバラ


昼時になれば広場には歌い手と楽器の演奏者たちが集いカーニバルが始まる


相変わらず、子どもの多い国で(80歳でも恋愛は現役)


50年代のポンコツのアメ車に溢れ


革命博物館にもはじめて行った(イラストの4人が、キューバの4大外敵らしい…苦笑)


フィデル・カストロらが上陸した船「グランマ号」が展示してあるが
(写真中央のガラスケースの中)、外気との温度差による大量の水滴でまるで見えない

…。

10年という歳月は、実はたいした時間ではないのかもしれない。
そう思うほどに、ぜんぜん変わっていなかった。
時間が止まっているようで、少し驚く。

変わったことといえば…


革命広場(社会主義らしく、大きな町には国民が集う大広場がかならずある。
この革命広場には何万人もが集まる)のオブジェが、チェ・ゲバラだけだったのが
国民に人気のカミーロ・シエンフエゴスのものも追加になっていたことと


実質、石油の優遇でキューバ国家を支えているベネズエラの国旗と
チャべス大統領の写真がそこかしこに溢れていたことだった
チャべスが死んだいま、キューバがどうなっていくのかわからないが
ソ連という後ろ盾を失ってベネズエラに頼ったキューバの逞しさは、そう簡単にかわらないだろう

「10年ひと昔」という言葉は、日本語なのかもしれない、と思った。
生きる国が違えば、体感のスピードも違う。

2013/09/04

地球の舳先から vol.287
キューバ編 vol.3

せっかくなので、最初くらいはとミーハーなチョイスをした。
初日の宿泊は、かつてヘミングウェイが定宿にしていたホテル「アンボス・ムンドス」。
かつての彼の部屋は小さいながら展示スペースにもなっている。
が、なにせ古いので空気の循環が悪く、クーラーの効きも悪く湿度がやたら高い。
視界のなかに1匹の蚊を認めると、わたしはスーツケースから蚊取り線香を起動し
お札を何枚かポケットにねじ込んで、手ぶらで外へ出る。

別に、蚊の断末魔を待ちたいわけではない。
長時間の移動で疲れてはいたが、ライブハウスへ向かった。22時。
ハバナを代表する、「カサ・デ・ラ・ムシカ」。
キューバ人アーティストにとってここで演奏することは夢…なんだとか。
ここへ来たらキューバへ来たことを実感するだろう、と思ったのだが
雨のあとの水はけの悪いセントロ地域を歩いているとそれだけで昔にかえったよう。

とはいえ、10年前のわたしは、ここへ来たことは1度しかない。
当時のわたしは、キューバの音楽にほとんど興味がなかった。
今だって、片手で数えるくらいのアーティストしか知らないけれど。

そんなわたしでも知っているアーティスト
「Pupy y los que son, son」がこの日の出演だった。
意外なる大物にちょっと財布の中身を心配する。
…歩いて帰れば済むだけだ。
深夜に一人で歩いて?!と思われるかもしれないが、
土曜日の夜は、暑苦しいほどの人並みでごった返している。

エントランスで請求されたのはたった10CUC(約1000円)。
前座の演奏やダンスパフォーマンスが行われ、開場から2時間後に
主演が登場する頃にはみんな飲んで踊ってフロアはあったまっている。
わたしはサルサは踊れないし、音楽がきければそれでよいのだが
ひとりで静かに座るスペースなどあるわけもない。

小銭でモヒートを買うと、間髪いれずに近くで「こっちにどうぞ!」と囁かれた。
ハバナクラブのボトルを入れないと予約できない、テーブル席の椅子が引かれる。
(ボトルを入れるのは吝かではないがラム酒を一人でひと瓶飲む自信はない)

ここへ来たら、ひとりで気まずい思いをすることは100%ないが、
そのかわり、ひとりでいたいという無駄な願望も捨てることである。

男ばかり、4人。わたしは、ふむふむと人間観察をしながら、アタリをつける。
全員、キューバ人で間違いない。
キューバ人なのにしかもボトルまで入れてこんなところにいるってことは、
外貨を稼ぐ観光客相手の商売。
ルックスも悪くない。それに、身のこなし。
「みんな、サルサの先生?」
ビンゴ。なら安心。もっとも、日本人が転がしやすいタイプで…(以下自粛

それから2時間ばかり、彼らプロ集団のルエダ(団体で踊るもの)を見物したり、
彼らがそこかしこで外国人に「サルサダンスレッスン」の営業をかけるのを見物したり、
しかし営業目的ばかりではなくやたらと単純にはしゃいでいるのを見物しながら、
かわるがわる
「きみがこの中で一番きれいだよ」
「結婚しよう。一緒に日本に帰ろう」
「どこに泊まってるの」
「あした何してるの」
「日本で黒人は働けるか」
「きみの家族は外国人と結婚するのは嫌がるか」
というお決まりの質問にうんとかいいえとか知るかとか言いながら
踊るのと口説くのに精一杯な彼らのかわりに、ハバナクラブをほとんど飲んだ。

たまに「キューバリブレをおごってくれ」と、たかられたりするが
「おごる」の単語がわからないガイジンのふりをしてすっとぼける。
文字通り、わたしのキューバ語の辞書におごるなんて単語はない。

…危ない橋を渡っているように聞こえるかもしれないが、普通である。
追っかけられることもないし、あったとしてもライブハウスの外には警官が待ち構えている。
(警官もおもしろがって助けてくれないことは大いにありそうだが)
せいぜい、帰り道を併走しながら口説き続けるだけだろう。
何を保障するわけにもいかないので、あくまでわたしの個人的感想と前置くが、
わたしは凶悪なキューバ人というのに出会ったことがない。
たいがい、うざいし、しつこいし、おバカだが、小悪党にすら出会ったことがない。

じゅうぶん音楽を溜め込んで、「じゃーね」と手を振って、外に出て、歩いて帰った。
ハバナの夜は長い。
あの頃のわたしが、愛したり憎んだりした場所だった。

つづく

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