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2013/06/11

地球の舳先から vol.279
番外編

来月の7/6と7/7、JunkStageでキャバクラをやるということで(笑)、
「女の子たちを国にたとえてください!」という無茶振り依頼が
いつも無茶振りの編集部よりやってきました。
これが意外と難しくて。。地球儀片手に考えてみました。

■スージーママさん

⇒昔はバリバリの外資OL、バツ3バツ4、
今は落ち着いているものの実はツバメをたくさん店で働かせている…
ということなので、 【ロシア連邦】 でいかがでしょうか。
広大な領土を持ち、政治体制を時代によって変えながら
今も独自路線を行く政治上手ですね。そしてツバメはあちこちに…(あかん
かつての雄、混血が多いというのも、なんとなくイメージです。

from:

■凪子さん

⇒若い頃はポールダンサー、趣味は三味線で
凝り性。母親の借金の為に夜の世界へ…
ということなのですが、なんでしょうね一番困りました。
ただ、この笑顔の美しさ。「いまを生きる」エネルギッシュさが伝わってきて
わたしの第二の祖国 【キューバ】を選択させていただきました。

from:

■舞夢ちゃん

⇒清純派キャラ、秋田の農協出身、
自分が世界で一番幸せだと思っている…
ということなので、 【サモア】 でいかがでしょう。
国民の半数は壁の無い家に住んでいるという最後の楽園です。
地球で一番最後に陽が沈む、幸福な国でもありますね。

from:

■かなんちゃん

⇒幕末志士の末裔、庶民の生活を知りたいと
麻布十番のバラ園を飛び出したロリキャラ…
ということで(すごい設定ですね)、でもわたしはあえて【フィンランド】。
ハイソなイメージがありますが、根底にあるものは真面目で堅くて
きちっと自分の強みを認識し大事に(そして最大限活用)している印象がありました。

from:

■葵さん

⇒バツイチのママ(大学在学中に妊娠した旦那が浮気ですって?)
しかしとてつもなく運がよいエロさ爆発…
もう、あれですね、【ジャマイカ】。色々なものが崩壊しているのに
なんかHAPPY。でもその「HAPPY」が、結構あちら側の世界だったり…
下手に突っ込むと怪我をすることだけは、間違いないでしょう。

from:

■めめちゃん

⇒突きぬける明るさ、そしてホストに貢いで夜の世界入り。
信用金庫のお金を横領するともっぱらの噂…
この、本人真剣なのにどっかネジ飛んでる感じは 【北朝鮮】 かなぁ。。
そういやめめちゃんは、あの国営放送のアナウンサーの真似も
できそうな気がします。なんでだろ。

from:

■マコトさん

⇒クールビューティ、でも中身おっさん。
かわいい子大好きで、趣味はぬか床と猫の手入れ。
もうあれですね、他人の眼なんかまるで気になってないご様子ね。
【イラン】 でどうでしょう。いろんな国にキーキーいわれてるのに、あの妙な余裕。
やれるもんならやってみろ、っていうか。

from:

■うる実さん

⇒地方の名士のお嬢様で元ヤン。結婚願望が強い割に男運が無い。
「プロデューサー」に月5万貢いでるっておかしいでしょ…
あ、【日本】 じゃないですか。大国に利用され小国にはせびられ
でも真面目だからしょうがないんですよね。
最後に大声で言えない事書いちゃった。ゴメンナサイ。

from:

あーーーー難しかった。
キャバクラジャンクステージ、頑張ってください!

#今回の画像の参照元がアレなのは、結構、ただのホンネです。

2012/11/20

地球の舳先から vol.256
番外編

イスラエルが、結構とんでもないことになっている。

イスラエル西岸、パレスチナ自治区ガザへの大規模空爆が始まった。
これの政治的バックグラウンドがどうなっているか、ということに関しては
色々な人が色々な事を言うのが常なので、ここで政治を云々しようとは思わない。
ガザは、元々が危険地帯なのだが、今回は、各国の大使館があるテルアビブ
(イスラエルはひとりで首都はエルサレムだと言っているが、国際的に認められて
 おらず、首都機能はテルアビブに置かれている。が、つまりテルアビブが首都とも
 明言できないわけで…、とにかく詳しくは「イスラエル首都問題」で検索。)
や、エルサレムでも連日空爆やミサイル攻撃の警報が鳴っているという。

戦局は長引かない、というのがおおかたの予想であるようだが、
イスラエルに限らず中東まわりで一番怖いのは自爆テロ。
いつどこであるかわからないし、現場には人が一人いればできてしまう。
しかもパレスチナ側には武装勢力がたくさんあって、足並みもそろっていないので
政局に関わらず暴走する、という状態(らしい)。
空爆で、パレスチナは怒っているだろう。当然だ。
暴力に対する怒りや意思表示は、素直に考えるとどういうアウトプットになるだろうか?

…そんなわけで、わたしのイスラエル旅行はとうとう
限りなく赤信号に近い黄色信号、でも信号壊れててイマイチ何色かわからないので
渡るも渡らないも自己責任、という立ち位置になった、ということだ。

外務省の安全情報のページとにらめっこをし、
瞬く間に更新情報が上がっていくのを眺めるしかない。
行くはずだった場所が、どんどん、危険を示す濃い色に塗りつぶされていく。
トップページまで、イスラエル祭りだ。

しかたないのだ。
わたしは戦場に飛び込むのが仕事のジャーナリストではない。
旅行者であり、「観光旅行」をするために渡航する身なのだ。
言葉も通じない国へ行くのに、自分の立場を買いかぶってはならない。
それが、トラベラーの自覚と宿命。
旅を続けたかったら、その責任を決して放り出さないことだ。

しかたないのだ。
北朝鮮に行けたのも、イエメンに行けたのも、ただの運だ。
情勢がたまたま良かったのだ。運と、縁だ。そんなもんだ。

しかし、ここまでに要した労力を考えると、ため息は免れない。
今回のイスラエルの手配は、物理的にも精神的にも、わたしにとっては
ほんとうに長い長い長い長い道のりだったのだ。(その話は、来週書こうと思う)

エールフランスに電話をして、キャンセルポリシーを確認する。
フランス語しか喋らないパリのホテルに、「私の行き先はイスラエルでパリは
トランジットでこの状況で行けないかも」と、フクザツな上級フランス語作文をする。
せっかくの年末年始の長い9連休に、どこへも行かないなんて有り得ない。
プランBをあたるため、インドやミャンマーやケニア行きの航空券を調べる。
しかし、代わりの渡航先を複数見ても、どこの国も、霞んで見える。
ショックで仕事が手につかない。
イスラエルにそんなに入れ込んでいるわけでも、はずでもない。
むしろ、嫌いだ。イスラエルなんて嫌いだ。あー!!!!!!!!

「イスラエル ニュース検索結果」をリロードし続けながら、
わたしは、難航をきわめた地上手配をお願いした現地の旅行会社にコンタクトを取った。
まじめなメールが返ってきたが、この騒動があと48時間で落ち着くという説を得る。
これが、相手が相手ならまず信用しないが、返金対応を含め非常に誠意のこもったメールに
わたしはまた、当面10日間、決定を保留することにした。

今、一番欲しいものは、何事にも一喜一憂しない、動じない心である。

2012/04/03

地球の舳先から vol.232
番外編

パスポートがもうすぐ切れる。
2014年3月5日。

2014年、というと随分先のような気もするが、多くの国が渡航時に6カ月の残存期間を
要求するため、実質的には2013年の9月くらいがリミット、と考える必要がある。
すると、あと1年ちょっとでパスポートが切れることになる。
社畜、違、サラリーマンなわたしは、あと3~4回しか長めの旅に出るチャンスが無い。
わたしの旅のディスティネーションはいつだって予定通りにはいかないのだが
それにしても、そろそろ計画的な行動が要求される。

2004年、キューバに行く際に、10年パスポートに切り替えた。
観光で行けばパスポートにスタンプが押されないのだが、留学だったのでビザがべったり。
おかげでアメリカ本土に出入りできなくなった、という話はこのコラムでも何度か書いた通り。
そのときわたしは、「どうしよう…」と思うよりも、
「アメリカに入れなくたっていくらでも世界中旅行は出来るやい」と息巻いた。

そして、それはおそらく正しかった。
キューバ、グアテマラ、ベリーズ、メキシコ、カナダ、モンゴル、韓国、台湾、インド、ブータン、チベット(自治区)、ネパール、ベトナム、ラオス、タイ、グアム、東ティモール、インドネシア、オーストラリア、UAE、イエメン、マダガスカル、フィンランド、フランス、UK、クロアチア、セルビアモンテネグロ(当時)、イタリア…
わたしは周遊という旅があまり好きではないので国数こそ大したことが無いが
ずいぶんといろんな(脈絡の無い)旅をしたなあ、と思う。
そして、アメリカへ入れなくて不自由を感じた記憶は、ない。

だが、これも何度もこのコラムで書いているが
国境を越えるということは、ひとつの見方としては“政治行為”である。

今度パスポートを作るときにはごりごりにIC化対応しているはずだし、
「ヤバい国にはこの古くて汚れたパスポートで行っておこう」とは、ずいぶん前から思っていることだ。ヤバいというのは危険とか治安が悪いとかいう意味ではなく、外交的に
「この国のスタンプがあるとどこそこの国には入れない」という可能性が出てくる国のことである。

その基準からいえば当然、真っ先に照準を定めたのはイスラエルである。
そもそも嫌米のわたしはあの六芒星を見るだけで目がぱちぱちするのだが
今は、かつて自衛隊がPKO活動を展開していたゴラン高原にも行けるという。
「何もないですよ…」と言われたが、何もなくても見たいのだ。
パレスチナ自治区にも入れるとのことで、個人旅行を請け負う日本のエージェントも見つけた。
しかし、イスラエルはできる限り「最後」に回さなくてはならない。
イスラエルに行った時点で、ロックがかかってしまうからである。
(ちなみに、陸路で行けばノースタンプがリクエストできたり、
 係官によっては空路でも頼めば押されないという説もあるが、あくまで説だ。)

それまで、どこへ行こうか? と思案していたところ、
なりゆきの風が吹いてきて、5月と8月の行き先はすぐに決まった。

5月は、イランへ行く。
日本にいる限り米国サイドの情報(もちろんそれは世界に向けた米国のPR活動・キャンペーンという側面もある)が垂れ流されてくるばかりのため、正確な情報収集はできない。
しかし既定路線でいけば、早くて数ヶ月、長くてもここ2年程度のスパンのうちには、観光で気軽に立ち入れない状況には突入するのだろう。
そんな矢先、大学時代の友人がテヘラン勤務に転勤という都合の良すぎる事態が起き、わたしはそれを聞いた瞬間にイランへのA.S.A.P.(As Soon As Possible)での渡航を決めた。

8月の渡航先については、まだ安易に言える状況にはないので
これから、情報を収集していく予定であるが、中東の真ん中。
そんなわけで今年は中東祭りになる予定。

と、イランへ行く前に、今週末は被災地を再訪する予定でいる。
ところで、「被災地」という言葉の印象と、わたしが実際に被災地とよばれる地で会ってきた人々との印象がまったくつながらないために、このコラムでは「復興途上地」と呼び名を変えたいと思う。

というわけで来週からは全8回予定で、「復興途上地をゆく」編をお送りしたいと思う。
それでは皆さま、アディオース。 行って来ます!

2011/03/13

休載中ですがまとめました。

このたびの東北地方太平洋沖地震への各国の支援状況。


“Pray for Japan”を合言葉に、世界中でムーブメントが広がっています。
Instagramという写真共有サービスに投稿された画像のまとめはこちら

■米国
空母ロナルド・レーガン、巡洋艦チャンスラーズヴィル、駆逐艦プレブル、
旗艦ブルーリッジ、強襲揚陸艦エセックス 派遣
ドック型揚陸艦トーテュガ、ハーパーズ・フェリー、ジャーマン・タウン 日本へ向け航行中
駆逐艦マッキャンベル、カーティス・ウィルバー、マスティン 被災地へ向け航行中
以上 合計船員8000名を派遣
捜索・救援チーム2隊計約150人、救援用資機材 計約150トン分、救助犬十数頭 派遣

■ニュージーランド
救助隊48人 派遣
  キー首相「日本は私たちの惨事に多大な支援をしてくれた。友人である
  日本国民のために、今度は私たちが必要なあらゆる支援を提供する用意がある」
  マカリー外相「援助が必要だった時に日本は私たちを支えてくれた。
  我々の心は日本国民とともにある」(クライストチャーチ市地震にて支援)

■韓国
救助隊員5人、救助犬2匹 先遣隊派遣
緊急救助隊約40人を含む医療チーム約120人 待機

■中国
国際救援隊 初の日本派遣
中国赤十字会 100万元(約1250万円)
北京の有志の若者グループが義援金呼び掛け、5000元超
  国営新華社通信「四川大地震で日本から支援を受けた恩に報いたい」論評記事

■台湾
支援金 1億台湾ドル(約2億8000万円)
  馬英九総統「日本が1999年9月の台湾中部大地震や一昨年8月の南部台風災害で
  台湾を支援してくれた。我々も同様に積極支援する」

■ロシア
医療設備などを積んだ航空機6機を派遣予定
プーチン首相、日本向けの天然ガス供給量を増やすよう指示
救助部隊待機(医師・心理学者を含む200人以上の捜索・救援チームを送る用意)
国営銀行に日本の被災者を支援するため義援金口座を開設

■ウクライナ
医師団のほか、原発・放射能の専門家や関連物資を送る方針
  外務省当局「ウクライナは放射能汚染を克服した経験があり、
  日本に専門家を迅速に送ることを提案した」

■シンガポール
捜索救助隊48人、災害救助犬5頭 派遣

■インドネシア
赤十字社 救助隊員5人、医師2人の救助チームからなる先発隊 派遣

■タイ
レスキュー隊員、捜索救助犬派遣
日本への義援金寄付を受け付ける銀行口座設置
  プミポン国王夫妻「地震と津波で甚大な被害が出たことを深く悲しんでいる。
  両陛下と全ての日本国民に心からの弔意を表す」

■アフガニスタン
カンダハルのグラム・ハイダル・ハミディ市長 義援金5万ドル(約400万円)
  アフガン復興を支援してきた日本に対し
  「市民を代表して地震と津波の被災者を支援したい」と声明

■イギリス
捜索・救援チームと医療支援チーム約60人、救助犬2匹 派遣

■ドイツ        
救援専門家4人 救助隊約40人 派遣
  メルケル首相「ドイツはいつでも日本に援助を提供することを約束する」

■イタリア
支援表明
  チアレンテ市長(イタリア中部地震最大の被災地)「我々は市の再建に対する
  日本の貴重な貢献を決して忘れない。ラクイラにとって貴国の悲劇は人ごとではない」

■スイス
救援部隊27人、災害救助犬9頭 派遣

ほかに合計60カ国以上が支援を表明。
また、AFP通信によると、国連人道問題調整事務所(OCHA)は、
45カ国が国際救援隊68チームを派遣する用意ができていると明らかにした。

※修正報、誤報、特筆すべき他事項がありましたら
 コメント欄からご連絡ください。

2010/12/14

地球の舳先から vol.200
番外編

いつもこのページをご覧いただいている皆様、ありがとうございます。
3年と9ヶ月。なんともう今回で200本目の記事だというから、
よく続いたものだと思います。われながら。

1年ほど、暇をいただこうと、思います。

すべてにおいて飽きっぽいわたしが今まで続けてきたことが3つだけ、あります。
それが、広告の仕事と、旅と、踊りでした。

だれが見ているかもわからないのに「書くために旅に出る」といつも思います。
そして、たとえば母親とか、職場のF先輩とかがチェックしている、とおもっても
「関係ないもんねそんなの」という、どこかこの書き手である“ユウさん”を
第三者化して他人として扱わないと、とたんにヒヨる気がしていました。

が、今回というか最初で最後になると思いますが、
この向こう1年間の休載は、そんなセンチメンタルな理由ではありません。

資金がないのです(ぇ

ええ、思えば今年は、フィンランドに始まり、ラオス、ベトナム、台湾、チベット、ブータン、はてはパリに住むなどという暴挙に出ました。
ただ、それが原因かというと、ちがいます。
わたしが「旅」という、自分の趣味、いや、ライフワーク、いや、性癖にちかい
ものによって得たすくない徳は「貯金ができるようになった」ことですから。
わたしはこの秋、とても大きな買い物をしました。

家。家です。

友人たちは唖然とし、職場の方は「諦めが早すぎる」(恐らく婚期に対する)といい
前職の戦友たちは「段ボールですか?」と笑えないツッコミをしてきました。
親には「タンス貯金しているのであろう結婚資金は使用用途がないからそれをクレ」と
言外に申し上げたのですが、華麗にスルーされました。
年金がやばいだろうとか、家賃を払うのがばからしいとか、
そんな合理的な理由はいくらもありますが、根本の理由はほかにあります。

わたしをよく知るひとたちは、わたしのことを「根無し草」だといいます。
否定はしません。
ただ、揚々と育った環境のもとの土にしか根は張らないわけではないのです。
からからに乾いた砂漠の土地にも、花は咲く。

わたしがこのところ、アジアを執拗にまわっていたのには訳があります。
わたしの胃の中にたまった澱のような不安感は、姿をなかなか見せなかった。
それが、夏のカトマンズでようやくわかったのです。

カトマンズで、数百円の宿をいくつも見て、数十円で食事をとったとき
わたしの頭は、無意識に電卓を弾きました。
そして、べつだんの長生きをしさえしなければ、
今すぐに会社をやめたって、今ある蓄えだけで生きて死ねることを知ったのです。
“カトマンズでなら”。

それは新鮮な恐怖でした。

帰国してすぐ、本当に本当に悩んだ挙句、大企業に転職をきめました。
不安定きわまりない業界と身分ですが、わたしは恐怖から逃げるようにして
この地にいなくてはならない理由と、働かなくてはならない理由をつくりました。

知りあいのバックパッカーたちに、定職をもたない人が多いのは事実で
こと、世界に目を広げれば、いまここにじぶんを縛り付けているものなど
実はなにもなくて、どこにでも飛んでいける、とおもいます。
外国へ行くと実際、そういう日本人にもたくさん出会うのです。

それは、自由という名の不自由だと、おもいました。
逆をいえば、不自由のなかにしか自由はなく、
自由であるためにふだんわたしが払っている代償など
不自由のなかのちいさな翼にすぎなかったのです。

「海外をめぐっていると、自分の足場にぞっとする瞬間がある」
とは、わたしの大好きなフォトグラファーの言葉です。
それをわたしは長年、勘違いしていました。
どこにでもふらっと飛んでいってしまう自由さのなせるものなのだと。
しかし、実際は、すくなくともわたしにとっては違いました。
タラップを蹴ればそこはどこでもない空中
その自由さに、きっと、ひとは耐えられません。
その恐ろしさに抵抗するように、物理的なしがらみを欲しました。結果的に、
大好きな東京に根を張ることはまさに心が心音で躍るようなよろこびでしたが、

そんなわけで、お金がなくなりました。

しばらく、といってもたった1年だけ、旅するユウさんを、封印します。
とはいえ、台湾旅行の旅日記をアップしていませんから、それが終わった段階で。
そしてその間、これまでの旅行記を、JunkStageのスタッフの方と相談して
相応の形式でまとめることを考えています。

きっと帰ってくる、いえ、帰って来ざるを得ないだろうという前提で
おやすみをいただこうと思います。

それはそれは、じぶんの輪郭をたしかめるために。

わたしはどこの国へ行っても、やっぱり日本がいちばん好きでした。

2010/12/07

地球の舳先から vol.199
番外編

旅仲間と話をしていると、たびたび「最初に行った一人旅」が語り草になる。
わたしの場合、高校時代の学校行事を除けばそれは高3の春のオランダということになる。

ここでもたびたび書いている話だが、わたしの高校時代と大学時代の前半は
なにもかもが、浦和レッズに消えた。時間も。お金も。体力も。心も。

試合の結果と経緯を詳細に手帳に書き込み、鬼気迫り唸りながら分析するわたしを
サッカー部員は「サッカーファン」とは認めず限定的な「レッズサポ」といった。
J2時代の記録を原稿用紙400枚ほどでしたためた「聖戦」とタイトルを打った
ドキュメンタリー原稿は、あるサッカージャーナリストに
「はやく高校を卒業して、ぼくの仕事を手伝ってください」と言われた。
選手をとりあげて怪我させて返してくる日本代表を、トルシエ監督を、心から恨んだ。

試合の日は、前日から場所確保の“並び”でテントを張って泊り込んだ。
アウェーの試合では全国をまわっていた。18切符や船をつかって、旅費を浮かせた。
J2時代は一年間がずっと、目に涙が溜まったまま、札幌、山形、大分、鳥栖などを。
そしてアジアチャンピオンになった年は、夢心地でACLの海外遠征、韓国やシドニーなどを。

そんな高校3年生のわたしが、クアラルンプールでトランジット30時間という
ありえない安チケットを握り締めて行ったのが、
浦和レッズでいちばん好きだった選手が移籍した先のオランダだったのだ。

ときは小野伸二選手がロッテルダム・フェイエノールトで活躍していた時代で
日本人を見るとよく「オノ」と声をかけられたものだ。かれの評判はよかった。
実際ロッテルダムにも寄り、フェイエのフーリガンの家に泊めてもらって
ひと晩じゅうフェイエノールトの歴史のビデオを見せられた。
フェイエのショップではなんとその小野選手とばったり会い、
レッズのベンチコートを着ていたわたしは小野選手に「…頑張ってください」と言われ
異国の地で選手に励まされるサポーター、という意味不明な構図となった。

でもわたしの“いちばん好きだった選手”は残念ながら小野伸二ではない。
その選手が在籍していたチームも、ロッテルダムとかアムステルダムとかの都会にはない。
超ローカル線とバスとタクシーを乗り継いでたどりついたのは、
町の楽しみはそのサッカーチームだけ、というような(失礼)
“RKCヴァールヴァイク”というチームだった。

試合の前日だったためにホームスタジアムで練習を行っていたチーム。
練習が見学できるものとJリーグの感覚で行ったわたしに高い壁がはだかる。
なにせ当時のこのチームは、フーリガン対策なのかチケットの販売がオープンではなかった。
練習だけでも見たい。試合は…ダフ屋が出るだろう、という甘い想定。
スーツケースを引きずり、「日本からかれに会いにきました」と告げると
ややあって、出てきたスタッフは驚愕。「このド田舎に」ってやつである。

「どうぞ!!!!!入って!!!!!」と案外簡単にスタジアムの中に入れてくれ、
まずは小部屋でお茶を出された。わたしはつたない英語で日本でのかれの活躍を褒め称えた。
「わたしは毎試合、かれにサインをしてもらった、このレッズ最弱時代のユニフォームを着てます」
…あれ、よくよく思い返すと、褒めてない…。
とにかく、アウェイ用の白ユニフォーム背番号6は、わたしが苦楽をともにした戦闘服。
J2に落ちた日も、これを着たわたしはニッカンの一面に激写されたのだ。
見出しはもちろん「浦和降格」である。

かくしてスタッフは、スタジアムのベンチ(試合で監督と控え選手が座ってるアレ)に案内し
わたしはそこで監督気分でひとり、練習を鑑賞するという厚待遇に見舞われたのである。
練習をしている選手にも音速的クチコミで伝わったらしく、
「おい、おまえスゲーな、日本からファンが来てるぞ」とランニングをしている
その選手を冷やかすのである。
その間にも、入れ替わり立ち代わりクラブのスタッフがやってきては、
いろいろとチームのグッズをくれたり、翌日の試合のチケットを取ってくれたりして感動した。
いろいろ貰って申し訳ないのでせめてショップで買い物をしようと思ったら、
試合日以外は閉めているらしくこれも急遽スタッフが開けてくれた。
なんというかもう、オランダというかサッカーというか、とにかく田舎万歳である(失礼)。

「We are still proud of you.」(あなたはいまでもわたしたちの誇りです)と言うと、
「I am proud of URAWA REDS.」とかえってきた。
彼との会話はそれだけである。このときほど、英語を勉強していてよかったと思ったことも
“現在形”の使い方にひれ伏したことも、ない。

次の日は試合を見に、会場へ行った。
メインスタンドの前から3列目くらいの、ものすごくいい席ではしゃいだのを覚えているが
きっとあれは関係者用にあけている席をまわしてくれたのだろう。
そして、かれは…レッドカードで一発退場した。。。。。

もともとアツい選手で、キレるとヤバイところもあった。
かれにつけられたコール(応援歌)は「We are proud of your crazy heart」だったし…。
このことを帰国してからレッズサポーターの仲間に話すと
「変わってねーな」「“らしい”とこ見られて、よかったじゃん」と言われた…。

なんでいま、こんな話をしているかって?
現役を退いたかれが、浦和レッズの次期監督に内定したからですよ。

01.jpg
(写真:きちっち様のHP「ペトロヴィッチに会いにオランダへ行こう」より)

【浦和】ペトロヴィッチ新監督を発表

ゼリコ・ペトロヴィッチ。
かれのことを覚えていない浦和レッズサポーターは、居ないでしょう。

「サッカーは、勝つこともあれば負けることもある。
 大事なのは、“100% FIGHTすること”」

実家のタンスから、白い6番のユニフォームを引っ張り出してこなければなりません。

2010/05/10

地球の舳先から vol.166
番外編

みなさまこんにちは。ラオスから帰国でややボケ気味。いや完全に浦島太郎なうえ
日本語がうまく出てきません。蛍光灯を指さして「キリマンジャロ」とか言ってます。

さて、いろいろ感慨深かったラオスのレポートは近々から開始するとして
今日は、興味深いプロジェクトを発見したので、閑話休題的にご紹介。

ワタシはけしてヒューマニストとかソーシャリストとかそういうんじゃないけども、
なんとなく、社会人になったらそうする、と決めていたので、毎月少額ながら
MSF(国境なき医師団)PlanJapanWorldVisionの3つの国際支援団体に寄付をしてる。
(ユニセフは…事情があって2年前に止めた。それを書くと炎上しそうなのでとりあえず略。)

で、今回そのPlanJapanが、ワールドカップイヤーに寄せて新たにプロジェクトを開始した模様。

sp42.jpg
>>サッカープロジェクト|ボランティア・寄付で途上国の子どもを支援。国際NGOプラン・ジャパン

内容は、パラグアイでのサッカースクール開校支援と、カメルーンでのサッカー大会開催支援。
ワタシはこれでも元超絶縦社会浦和レッズサポーターであり、僻地をいくつか旅をしたなかで
サッカーと世界の関係についてはいろいろ考えるところがあったので、備忘録も兼ねてまとめ。

sp1.jpg
(そういえばわたしの初ひとり海外は高校生の時のオランダだったんだった。写真は当時小野伸二が所属していたフェイエノールト・ロッテルダムのホームスタジアム。小野目的じゃなかったんだけど、引っ込みがつかなくなって行った)

■FIFAの加盟国(協会)は、国連の加盟国より多い。
ただいま世界208協会。なぜなら独立国だけでなく、地域ごとの加盟が認められているから。
たとえばイギリスはベッカムが有名な「イングランド」代表以外に、「スコットランド」、「北アイルランド」、「ウェールズ」と4国扱いになるので、サッカーファン的には「イギリス」という国名にひどく違和感を感じたりもする。
ほかにもFIFAは、香港、マカオ・台湾、グアムなどにも独立加盟の認可を出している。
イギリス4地域が統合すれば相当強いぞ、とかお気楽島国日本人的には突っ込みたくなるけれど、そこは当然オトナの政治のお話。
とにかく、一番にワールドワイドスポーツであることに変わりはない。

sp7.jpg
(東ティモール、首都のディリの難民キャンプにて。こんなところでだって、子どもたちは毎日サッカーしてる。東ティモールでは今回紹介したPlanJapanのクルマをいっぱい見たなぁ。)

■サッカーはなぜか人をナショナリストにする。
日韓W杯で日本戦へ行った知り合いのフランス人は、びっくりして卒倒しそうになったという。
「みんなが日本日本って叫んで、左胸に手を当てて君が代を歌って。あんな日本人初めて見た」
確かに日本は自国帰属意識が病的に希薄なわけで、このフランス人の感想は至極もっとも。
Jリーグ派のわたしはアンチ日本代表なのだが、Jリーグ上位チームが日本のリーグ代表として
アジアの各国内リーグチームと戦う大会「ACL」なんかは、やはり異様に燃える。
2007年、初出場したそのACLで浦和レッズは日本のチームとして初めて制覇を成し遂げた。
アウェー会場のシドニー、韓国などの弾丸ツアーへわたしも強行参加したが、
代表チームとは異質に熱狂的なサポーターを抱えていることもあって
敵地の会場は、体が震えるほど、狂気に満ちた鋭った風が吹いていた。

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(ACLのチケット。韓国・仁川空港からスタジアムへ移動する車中で。)

■先進国の風景
イタリア、オランダ、フランスの各地で、わたしは国内リーグサッカーの試合を観戦した。
イタリアに行ったときは中村俊輔がセリエにいたし、オランダへ行ったときは小野伸二がいた。
環境も非常に整った、サッカー先進国である。けれど、いわば芸能界のような代表チームと違って地域に根ざしたクラブチームは、とにかく、観光で行くと見えない現地人の本性が垣間見える。
オランダの僻地に、元浦和レッズのペトロヴィッチ選手を訪ねて行った高校生のわたしをチームスタッフはグラウンドの中に上げて見学をアレンジしてくれたし、観光客なんか来ないその地のタクシードライバーは日本人だと告げると「オノか」と言い、いやおたくのチームのペトロを見に来たと言うと心から嬉しそうににやけていた。
泊めてもらったフェイエノールトサポーターの家では一家総出でフェイエの歴史のビデオを夜通し見せられ、父ちゃんはだんだん興奮して放送禁止用語を連発し、まだ6歳の息子はレプリカユニフォームにチームの旗を持って突っ立ったまま気絶したようにテレビに見入っていた。
外国人と接するとき、両者ともにどこか気取ってしまうのだけれども、サッカーが刺激するアドレナリンは、そういうものを悉く砕いてしまう。
使い古された日本語ではあるけれど、やっぱりサッカーは「世界の共通言語」なのだ、とやたら感心したものだった。

sp3.jpg
(フランス、パリ・サンジェルマンのホームスタジアム、Parc de Princes。派手さはないけれど、その分昨今の欧州サッカーにつきまとう利権や金がらみじゃなくて地域と人に深く愛された、ヨーロッパの昔ながらの古き良きサッカー文化の空気がした)

■途上国の風景
ヨーロッパにおいては、いわば国民病ともいえるサッカーだが、わたしがこのスポーツの真の凄さを見せつけられたのは途上国においてであった。
何がすごいって、このスポーツは、ボール1個あればできてしまうのだ。が、第一にそのボールが途上国においては、”丸くない”。竹で編んだ鞠のようなものや、ところどころつぶれた布製のものも見た。それでも子どもたちは一心不乱にサッカーに興じているのである。
道具がやたらと必要な野球は論外として、バスケだとしてもおそらくこうはいかないだろう。バスケのボールはきちんと跳ね返ってくれなければ話にならないし、砂の上では出来ない。
日本ではなんだかちょっとおハイソなイメージのサッカーは、実は相当庶民のスポーツなのだ。
イエメンで会ったマサさんは、赴任その日に現地の子どもたちにサッカーを挑まれ「負けてなるものか」と本気でサッカーして高地で倒れそうになったらしいし、東ティモールの難民キャンプでは3人集まれば広場へ出てサッカー。先日行ったラオスは、僧侶が寺院で洗濯を干しているそのなかで子どもたちがサッカー。
そういえばこうしてあらためて考えてみると、どこの国へ行っても、子どもがサッカーをしている光景に出会わなかったことはないような気がする。

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(ラオス、かつての首都ルアンパブランの寺院にて。世界遺産と僧侶に囲まれてサッカーする少年たち。)

話を戻して、今回PlanJapanがサッカープロジェクトの対象としたパラグアイとカメルーンは、どちらも今年のワールドカップ出場国であるし、強いイメージもある。
それでも日本のように、サッカーにおける環境も教育も整ってはいない。
このサイトには、やたらシブいキャスティングの対談とか、それぞれの国の代表チーム情報なんかがあってなにかと玄人好みなので、
「何をしているんだか日本代表は・・・」とかイラつく代わりにぜひ訪れてみてほしいページ。

…と、いろいろ(というか98年にならって岡田監督の鬱状態が)心配な、
日本代表メンバー発表日に記念エントリでした。

2009/11/05

地球の舳先から vol.142
番外編

永遠にも思えるイエメン編を一旦中断して、閑話休題。
旅人にして写真家、須田誠さんの写真展へ行ってきた。
子供たちの輝く瞳、庶民といわれる人々の生命感あふれる空気。
須田さんの撮る写真は、(よい意味で)あまり意見の分かれない作品だと思う。
すくなくとも、嫌いだという人はほぼいないに等しいのではないだろうか。
だから、外れがないというか、モダンアートなどと違って、どんな人でも誘いやすい。

須田さんご本人とも、何年かぶりでの再会だった。
秋葉原の駅から歩いて15分ほどだろうか、真っ白な壁の「CO-EXIST」に見慣れた作風を見つけて、ふとタイムスリップしたような気になった。

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18歳の真夏。ソウルメイト(親友とよぶほどウェットじゃないし、愛すべき友というと男女なのでいろいろややこしいわけで、この呼び名がいちばんしっくりくるのである)とふたり、わたしはキューバ~メキシコ~アメリカを回っていた。
秋も暮れた頃、まだキューバの風が忘れられず、ひとりではじめて入った、夜のサルサクラブ。
キューバと思われる何点かの写真が飾ってあって、懐かしさは倍増。
キューバ音楽が流れるなか、「ウン、ドス、トレス」のサルサのステップを初めて踏む。
曲の終わりの余韻とともに組んだ手を離すと、わたしの視線を追ってか、彼は言った。
「あの写真、僕が撮ったんです。」

それが、写真家・須田誠さんとの出会いだった。

モノクロの、男女が踊っている写真。目を閉じて男性の胸に身を預ける女性はどこかの女優のようで、それがキューバのただの民家で知人夫婦であると聞いてわたしは驚いたものだった。
そういえばキューバへ行ったものの、観光地ばかり見過ぎて人々の生活を全然みてこなかったな、と思った私はその日、キューバに住もう、と思った。
そして1年後、キューバへ留学・居住をし、えらくカルチャーショックを受けて世界めぐりの病気がはじまるのである。

世界は広く、自分は小さい。
ひとつ歳をとるごとになんだかいろいろ、いいものも悪いものも身になり肥えていくのだが
旅に出ると反比例して、自分のちっぽけさを感じることができる。
須田さんの写真を見てあるきながら、まだまだ知らない世界がたくさんあると思ったり、
ぼろっちい家屋がダンキンドーナツの店舗になっている写真がグアテマラだと言われて、かの国
の歪んだ資本主義を思い出し、その前ではしゃぐ子どものTシャツの星条旗に背が寒くなったり。
切り取られた平面には、深すぎる現実がある。

写真展を見終わったあと、販売用のサンプルとプライスリストをちらりと見て驚いた。
もちろんオリジナルではないからということもあるが、すこし決心をすればその場でも手に入るほどの値段で、わたしはじゃっかん首を傾げた。
あの夜のサルサクラブで、その頃まだ高校を出たてでなんの欲もなかったわたしが抱いた夢は「キューバに住む」以外にもうひとつあったことを思い出したのだ。
それは、「大人になって金持ちになったら、フローリングと白い壁の部屋にすんで、この写真を飾ること」だった。
そんなこと、忘れていたし、10代で朝晩バイトをしまくって150万円の留学費用を貯めたあの頃のわたしがこの写真の値段をあのとき知っていたらどうしただろうか、と思う。
それでもやっぱり、その何分の一もの初期投資で理想の部屋を借り、彼の写真を飾ることは選ばず、1日も早くキューバへ飛んでいただろう。

思えば遠くへ来たもんだ。
いま、短期間で150万円の貯金をつくれと言われても、夜勤でバイトをする気力も体力もなければ
「カイシャの職務規定とかあるしぃ」という、絶好の言い訳もひかえている。
そしてわたしにとってそれよりも問題なのは、いま現在フローリングと白い壁の部屋にすんでいるにも関わらず壁は真っ白なままで、
そして、大人になったとも思えなければ、確実に金持ちでもないことである。

あの頃のわたしにはなんでもできた。
「大人」という実体のない曖昧模糊としたものを盾に、なにかを先延ばしにすること以外は。

いまのわたしの、盾の先の未来はなんだろう。
転職とか、結婚とか、南極旅行とか、そういうことであっちゃ、ダメなのだ。
ささいでくだらなくて、それゆえすぐに忘れてしまうようなもので、でも心の隅に無意識的にのこっていて何年か後、気づいたら叶っているような、そんな未来でないと。

2009/05/14

地球の舳先から vol.123
番外編

セミクローズドのイベントにご招待をいただき、ジャーナリスト4人が共同開催するガザの写真展へ。
かわいい子どもたちの写真、戦場であるはずなのに呑気な光景の写真の中をすすみながら、
合同葬儀の会場で空を見つめる子どもの写真の前でわたしは足を止めた。
「こういう写真を待っていた」自分を自覚して、そんな自分を嫌悪したあと、これまた自分を苦笑した。
…なんて、くだらないんだろう。

なんのための報道か。だれのための報道か。

いつだって、なんだって。ギョーカイの「なか」というものは、
閉塞的で、排他的で、妙な名誉欲と政治が支配するものと、相場が決まっているのだ。

…のっけから暗い話で恐縮。
ここ1ヶ月、「なにが起きているのかまったくわからない」ガザ地区の知識を仕入れるために、
パレスチナ問題絡みのトークショーや、講演会、写真展などにつづけて通っていた。
そのなかで感じたのが、素直に冒頭の感想である。

モノ書きの道をアッサリ捨てて広告業界なんぞへ入ったわたしだからこそあえて言うのだが、
写真家やら、モノ書きやらは、「ジャーナリズム寄り」の人間と「広告寄り」の人間に分かれる。
「売れるモノ」を書ける人間だけが、書いたモノで食っていけるわけだし、
モノを書いて食ってる人間は、売れるモノを知っている。自分マーケティングのできる広告寄りの人。
ただし生粋の表現者というものは、そんなに器用ではない。普通は。
音楽にもあてはまるだろう。「自分の信じる音楽が作れれば、売れなくたって構わない」。
本来、表現者というのは、そういうものなのだ。彼らは、“ビジネスマン”ではない。
才能に惚れこむ敏腕プロデューサーと出会わない限りは、趣味でやるか副業で稼ぐかしかない。
そうして世に出ない才能が、いったいどれだけ黙殺されてきているのだろう。
そんな世の中を生んだのは、まぎれもなく日本国民の民度の低さと、馬鹿げたマスコミである。
そして、いつの間にやら自分も然り、である。

そんななかで、奮闘を続けているフォトジャーナリストに会った。
彼は、パレスチナにもう10年以上も通っている(通って、という表現が正しいのかは置いておくが)。
向こうの「ひと」を、写しているのだという彼の話は、異色。
フォトジャーナリストのくせに、政治の匂いがしないのである。
「ガザの人々は、それでも今日を、明日を、生きなくてはならないんです。
人の生き死に、というものにいちいち構ってはいられないし、感覚も麻痺している。
小さな子が、わたしのお兄ちゃんがイスラエル軍に殺されたの、って、にこにこして言うんです。」
彼が撮った写真には、海で遊ぶ子ども達が写っている。
「売れる写真」は、爆撃後に立ち尽くす放心状態の人間の姿だろう。
「ハマスが悪だっていう、世界的な世論があるけれども。
現地に行ってハマスの人間に会うと、朝っぱらからオンナの話ばっかりしてるし。普通の人でね。」
どこか聞き覚えのある、「人間」としての共通性。そういうフィルターで見たとき、見えないものも見え、逆に見えるものも見えなくなる、ものなのだろう。

でもそれは、大事なのだ、と言ったのは、トークショーに来ていたイラク人女性。
自衛隊がイラクにPKO派遣をする際に、情報部に呼ばれた経験も持つ、彼女は言った。
「イラク報道を見たときに、これは真実だけれどわたしの知っているイラクではないと思った。
報道は、死体の山を写します。でもすこし俯瞰してカメラを引けば、そこに写るはずのものは
その死体の山が片付けられないままに横に小学校へ行くスクールバスが走っている、
そういう光景なんです。
死者は数字になってしまう。死亡何人。虐殺何人。それが報道でしょう。
でもその数字の中には、一生足を失うことになってしまったひとりの女性がいる。
そういうものを。記録するということ自体が、絶対に必要なんです」

伝えなくてはならないと思っている、そう言って彼は、1枚の写真を見せてくれた。
こげ茶色の、サッカーボール大の「なにか」は、爆撃で姿形を変え、さらに飢えた犬に食われた人間の写真。これでは逆に、ショッキングすぎて報道には乗らないだろう。
その写真を撮って彼に送ってくれたのはその人の家族だったという。
「こういうものを、託されて。なにもしないわけには、いかないですよ。
爆撃が始まると、家族を避難させて一家の長の男性は家に残るんです。
それは家を守るっていうことももちろんあるんだろうけど、きっと死に場所捜しなんですよね。」

誰に向かって、何を伝えるべきなのかが、分からない。
伝えるべきものを持って帰っても、伝える手段がなければ、なんのためにやっているのか。
…愚痴になってしまってスイマセン、と彼は言ったけれども、それは正当すぎる疑問だろう。

驚くべき、ガザの“いま”。
わたしが聞いたことだけでも、このページの読者の皆様にだけでも伝えられればと思う。
キーカーカー連載の合間にたまに番外編、挟んでゆこうと思います。

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どうでもいいけど民度の低さといえばこれ。どうなのこの人、この表情。
握手する日ロ首相=日ロ首脳会談
5月12日19時4分配信 時事通信

2009/03/27

地球の舳先から vol.118
番外編

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引越しと共に、テレビを捨てた。
ニュースはWebでチェックするものの、ワイドショー的な視点がなくなったので、
なんだか世の中の流れや世論がつかみにくくはある。
おまけに広告屋のくせにCM見ないとか芸能人知らないとか許されるのだろうか。
文句があるならテレビを買ってください、と局長に言ってみたり。流されたり。

いまごろワイドショーはWBCとノリ姉(藤原紀香)でいっぱいいっぱいだろうが、
なんだか半島で大変なことが起きているではないか。
北朝鮮がミサイル発射?!迎撃したら「宣戦布告とみなし戦争状態に入る」だと?!
ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと。これ、字面以上にヤバくないですか。
いつものように北朝鮮のハッタリだといいのだが、それにしてもこの国の平和ボケはいかに。

よい話題のない北朝鮮報道のたびに、あの平壌の風景が思い起こされる。
抜ける寒空、まっすぐ続く車通りのすくない道路。
電力不足で夜は街から光が消え、信号機に通す電気もなく交差点には手旗信号の人が立つ。
薄暗い店のなかで、最大限もてなしてくれようとした口数の少ない人々。
38度線を前に規定通りの受け答えをしながらも、およそ「朝鮮人民軍」からは想像できない、
生きる人間への柔らかい愛情と日本への興味を強く発していた、枯草色の制服…。

ノリ姉は「夫婦にしかわからないこともあります」と言ったが、
北朝鮮にも北朝鮮にしかわからないこともある(国内の報道規制のことを言っているのではない)。
馳星周はよく中国台湾の小説を書くわたしの好きな作家のひとりだが、彼が著作で登場人物に言わせたこんな台詞がある(うろおぼえなので、正確な言い回しではないのだが)。
――日本人は、どこへ行ってもここが日本だと思っている。
…まったくもって、言い得て妙。
国の上に政治があり、その上に外交がある。均衡はつねに、難しい。

ちなみに麻生内閣が「迎撃すれば支持率○%アップの思惑」など揶揄して書かれていたが、
麻生氏は外交に関してはかなり攻撃的というか今までの総理にはいなかったタイプだ。
ガザ地区問題でも先進国に先駆けてアメリカに反するような支援の英断をしたりと、
無鉄砲すぎて怖くもあるのだが、全体としては革命的な印象を抱いている。
首相のくせにブルーリボン(拉致被害者救済運動の証)をつけていたりするのも、びっくりする。
おなかがいたくなってやめた人は、首相になったとたんおとなしくなったのに。

9条があるからといったって、戦争は1国でするモンではない。
危険な隣人を抱える限り、いつなんどきありえない事態が起きないとも限らない。
というか、起きかけているし。
アメリカに可愛がられるのもあっち半島やそっち大陸への地理的な足がかりにされているわけで。
こんな状況なのに、日本では戦争の話題自体がタブーになっている気配さえあるのは現実逃避にしか思えないのだが、どうだろう。

戦争は、悲惨とか人非人とか、とかく「過去のもの」というイメージばかりがつきまとっていて、
常に政治外交の手段であり、いまなお進行中の現実である、という実感が沸きにくい。
加えて戦争がイメージ戦略として広告屋のビジネスになったり
(旧ユーゴ戦争のような。ご興味のある方は長年の良書『戦争広告代理店』をどうぞ)、
外人部隊や代理戦争によって戦力は金のあるところに流れ、
結果「国家」のするものではもはやなくなっている、などという「昨今の戦争事情」は
理解も想像もわたしのキャパを大きく超える。
おまけに最新兵器は電子レンジだと、某業界人の知人から聞いたときには驚いた。いわく
「たとえば東京の上空に、巨大電子レンジみたいなものを設置する。それが、首都半径○キロの
すべてのインフラとシステムをストップさせたら?都市機能は崩壊する。
それがいまの戦争の研究対象。血みどろに殺しあう戦争はもはやナンセンス。」

…日本の話である。
イラク、アフガン、北朝鮮の情報は、悪意もまじっていっぱい。
チベット、東ティモール、ソマリアなんかは、とても少々。
でも情報としていちばん少ないのは、あたりまえのように「日本」に関することだったりする。

外の世界を知らないから、日本人というアイデンティティもまた、沸かないんだけど。
キューバに居たとき、ワイキキに住んでるお姉さんが「アメリカ出身?」とキューバ人に問われて
(キューバとアメリカは外交的にはばかみたいに仲がわるいが、国民レベルではそんなことない)
にこやかな彼女がそのときだけ真顔で「いえ、ハワイよ」といったような
ああいうアイデンティティは一生、わたしには持ち得ないのだろうな、とか思った。
それは、幸福なことなのだろうか。

「国境をこえるということは、政治行為なんだ」
いつもフラッシュバックする、この言葉。

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