Home > 3月, 2010

2010/03/24

6才下の兄弟で、誕生日が全く同じ日というのは、かなり珍しいであろう。通常、帝王切開ではなく自然分娩で、誕生の日を狙って狙えるものではない(笑)

そんな弟の誕生を、今か今かと待ち望んでいる。その時のウキウキと心待ちだった感情は今でも脳裏に焼きついている。母親が「今、お腹の赤ちゃんが足を動かしているの、手で撫でてあげると足を引っ込めるの」と教えてくれていた。母親のお腹に手をあてながら「ふーん」と、とても不思議な感覚だったのを思い出す。

誕生まで性別が分からなかったので、弟なのか妹なのか…、早く知りたくて知りたくて毎日が落ち着かなかった。それが「弟」が産まれた!と分かった瞬間に「やった~!」と両手を挙げたのだった。「大きくなったら、キャッチボールができるね!」と喜んだ。命名「宏昌」。

母親が病院から退院して戻る日、弟が初めて我が家へやってくる。自分の6才の誕生日なんて忘れていたし、それどころじゃない、この“ビッグイベント”で頭がいっぱいなのである。

母親が、テレビの前に座布団を引いて、そこに寝かしていた。最初は「可愛いね~可愛いねぇ~と頭を撫でていたのだが、それも飽きてきて(笑)僕は自分の好きなテレビ番組が始まる時間になったので台所から走ってチャンネルを変えにテレビに向って行った。もう直ぐテレビのチャンネルに手が届くと思った瞬間、父親の手が僕の身体を目掛けて飛んできて、僕は吹っ飛ばされた。間一髪で生後数日の赤子のお腹を踏むところだったのだ。あのショッキングな出来事は思い出すと冷や汗が出てくる、危うく6才にして殺人犯になるところだった、しかも退院してきた当日にだ。

そのエピソードが、後に「宏の鼻が低いのは、お兄ちゃんが踏んづけたからだ」と言われ続けることになる(笑)いまだに大人になっても弟から言われるのだが、ここで言っておく、鼻ではない(笑)この事件があった日から「人は簡単に死ぬんだ」ということを身をもって感じた。6才ながらに、こんな小さな赤ちゃんのお腹を踏んだら死んでしまうというのは十分想像できた。いまだに本気で殴り合いの兄弟喧嘩が無いのは、この所以からだと思っている。

僕が6才になるまで、寂しい思いをしていたから尚更のこと。弟には同じ思いはさせたくないという感情があった。しかし自分の友達が遊びに来て、遊びに行ってしまうと寂しそうな弟の顔がある。自分から友達の家に遊びに行こうとしなかったのは、自分の6年前の姿と弟の姿を重ねていたからだったと思う。

やはり、お腹が空くと泣き出すし、それでも親は仕事をしている。僕が何かを作って食べさせないと、もう可哀想で見てられなくなる。そうなると、自分の判断で食べ物を冷蔵庫から調達をして、親に怒られないものを分別しながら2人で分けて食べる。その判断を間違えれば全て僕の責任だ。

親が留守の時に、弟が寝てしまったので、新聞紙を布団代わりにかけたことがあった。親が帰ってきたときに怒られたこと・・・怒られたこと・・・(笑) テレビの中では、公園のベンチでお昼寝している人は新聞紙をかけて寝てると信じていたので、まっ公園じゃないけど昼寝だし、「昼寝=新聞紙」という判断は間違いだった(笑)

全て自分の判断で決断をし、それが間違えば起こられる。しかし上手くいった時は褒められ、弟も幸せそうだ。そしていつも「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と親しんでくれる。自分のおもちゃを勝手に使われて頭にきて叩けば泣き出す、暴力ではなく相手が納得する交渉をしないと、自分の感情だけでは相手と衝突してしまうというのも学んだ。

この弟の存在が、知らず知らずのうちに「リーダー論」を学んで実践していたんだと自己分析できる。そして親子愛に非常に似た「兄弟愛」というのも教わった。次回は、もっとリーダー論、組織論について思い出しながら書き出してみたい。

2010/03/09

前回の投稿から章が変わって、第一話が始まったのですが、周囲からは予想以上の反響がありまして、余りにも今とのギャップがありすぎると。そこで、もっと子供時代を振り返って自分の半世紀を記したいと思いました。今回は6才までの自分の環境を思い出しながらです。

僕 の母方の祖母が他界してから丁度一年後に僕が産まれました。親戚の叔父さん叔母さんは、僕を見るたび「生まれ変わり」だというくらい、顔の骨格、目の大き さ、足の指の形まで、まるで生き写しだといいます。お婆ちゃんは40歳代でなくなったので仏壇に飾ってある写真は「お婆ちゃん」の姿とは程遠く「お姉さ ん」です。自分が女装したらこんなふうだろうというくらい似ている。

父親は理容師、母親は美容師。夫婦でサロンをオープンして直ぐに産ま れた子供が僕だったから、仕事と子育ての両立でそれは大変だっただろうと今だから少しは分かる。それに加えて、身体が弱く、赤ちゃんの時の自分の写真はと いうと、頭は包帯でグルグル巻き。瘡蓋(かさぶた)で覆われた皮膚病の頭皮を治療していたらしい。乳幼児がかかる病気という病気は全てかかり、いつも病院 へかかっていた。商売を始めたばかりの両親に、なんて親不孝な子供だったと思う。

保育園にも一時は通っていたみたいだが、身体が弱くて数ヶ月たらずで中退。もし履歴書が生まれた時から全て記載しなければならないルールだったら、「苗穂厚生会保育園 一身上の都合で中退」と書かなくてはならなかっただろう(笑)

3 歳の時は肺炎で入院。親戚のおばさんがお見舞いに持ってきてくれたスイカで命拾いしたとか?当事の病棟は今でも覚えている。面会時間が終わると母親は家に 帰る、目が覚めると一人ぼっち、泣いて「ママー、ママー」と叫びながら病室を出るけど、もう誰もいない、外は暗くなっている。どのくらい入院したのか覚え ていないが、また1人ぼっちという寂しい気持ち、空虚さは今でも覚えている。

「また一人ぼっち」。物心付いた時から親はお店で仕事、お腹がすいて泣きながら親を求めてお店にでても、「お客さんがいるから来るんじゃない」と言って、バタンとドアを閉められる。どんなに泣き叫んでママを呼んでも、お客さんがいなくなるまではドアが開く事は無かった。

そ して同じく3歳の頃、ストーブの上に乗っかっていた熱湯が両足の上に落ちてくるという事故が起きた。さすがに親はお客さんを置いて病院へ。縮みあがった両 足の皮をピンセットで引っ張るという治療が半端でなく痛く、両手両足を押さえつけられて治療台の上で絶叫している自分の姿は今でも思い出す。

今でも火傷の影響で足の毛は生えていなく、太ももの裏はケロイドが残ったまま。しかし、当事の医療技術で、ここまでキレイに再生されているのはすごいと思う。札幌の入江外科という名前は忘れずに感謝している。

身体が弱く保育園も通えなく、1人でいる時間が多かった子供だったので、やはり1人遊びを覚える。興味があったのはコンセントとプラグ、ネジ、ナットとボルト、そして昆虫やクモやミミズなどの生き物だった。

4 歳5歳でドライバーの使い方を覚え、家の中のネジというネジを全部外して回った。父親は仕事が終わると、家の中のネジを閉めて回ったそうだ(笑) ケーブ ルが二本いつも隣り合わせなのは、コンセントが二つだからと理解していたし、そのケーブルを二つ重ね合わせたらどうなるか疑問に思ってやってみたら火花が 散った瞬間に家の電気が真っ暗になった。ブレーカーが落ちたのだ(笑)触ったらどうなるかもやってみたら、全身がしびれてビックリした、4歳で既に感電を 味わっていたのだ(笑)

親が聞いたら怒られるかもしれないが、わが家は裕福ではなく、おもちゃなども飽きるほど買ってもらえるような家では なく、周りにあるもの全てが僕にとっての「おもちゃ」。工夫をすれば何でもおもちゃになる。一歩外にでると、色々な虫たちがいる、土を掘ればミミズ、石を どければワラジ虫やらクモなど、全部捕まえて牛乳瓶に詰め込んで・・・という人間の本能の狩猟?というのを、飽きもしないでコツコツやっていた子供だっ た。と同時に一人ぼっちじゃない、他の生き物と一緒という安心感もあったはずだったに違いない。

物があふれていたわけでもなく、世話をしてくれるお婆ちゃんがいるわけでもなく、ドア一枚向こう側では両親がサロンで一生懸命仕事をしている。なのに反対側では僕はいつも1人ぼっち。今日のおもちゃになるものは無いかと探している。

5 歳になり、やっと幼稚園に入園できた。しかしこの5年間1人で遊んできた子供が、いきなり集団行動の中に入れるはずもなかった。同じ園児服を着て、好きで もない絵をかかされ、粘土でモノを作るなんて、凄いキライな時間だった。大嫌いな親子遠足、うちの両親は仕事している。代わりに父方のお婆ちゃんが一緒に 親子遠足へ。全体写真に残っているのは、僕だけがお婆ちゃんと一緒。皆はママが来てくれているのに、僕だけどうしてお婆ちゃんなの?答えは「ママはお仕事 があるから」。

既にこの頃から、自分の一匹狼的な性格が出来上がっていた。そして無いものは工夫して活用するというのも覚えた。一人でも十分に楽しめるし、みんなと同じ事をするのが嫌な性格の基盤は5歳までに出来上がっていた。

6 才の誕生日を迎えた10月24日。全く同じ日に弟が産まれた。この日は僕の一人っ子に終止符を打ってくれた記念すべき日でもある。この弟の存在というの が、今の自分の「リーダー論」の原点を教えてくれた。人への「愛情のかけかた」を教えてくれた。とても大切な一生の出来事だったと振り返ると思える。