2010/07/05

いつもご愛読くださっています皆様へ。

前回、前々回に渡り掲載しておりました「恋の 話」(前・後半)につきまして、ある読者の方から削除の依頼がありました。

自分としては決して悪意のある文章ではなく、今後の展開としては、美容師の修行時代 に先輩たちから無視され心が折れそうになるくらいの扱いを受け、その時に自分の高校時代を振り返った時、形は違うけれど同じ事をしていたのではないかと気付き、罪の意識を感じました。

い くら自分が別れた彼女から執拗に迫られ嫌な思いをしたとしても、冷たくあしらっていた自分が情けなく思い、その相手の行為を話し合いで納得してもらうような、もっと別な方法があったのでは無いかと後悔の念にかられました。

何度も何度も夢にうなされ、いつか会って謝罪したいという気持ちに変化し、23歳の時に相手から 僕の実家に連絡があり、それは「結婚の報告をするので会いたい」でした。その時に、当時の思い出を振り返りながら、申し訳なかったと謝る事ができ、自分の気持ちが穏やかになり、それ以来 彼女は夢に出てくることはなくなりました。

その5年後にも一度再会をします、23歳の時に会った時の事、あの時に言った事、言われた事、ど う感じたかなど、大人の視点で語り合う事ができました。

自分が20歳の頃に悟ったのが、「例え自分が被害者に見えたとしても、実は知らぬ間に加害者に なっている」ということを、自分の成長と共に気付いて、その過ちに気付いた時の心のショックというのを綴って行きたかったのです。

嫌な言葉を発する人、相手の気分を害する態度を 取る人、その人達が何年、何十年後に自分の過ちに気付いた時、その人の後悔の念は計り知れません。そう思うと悪い行いをする人達が可哀想に思えます。

彼女も結婚をして子供もできて幸せに生活してい るようです。あの時の未熟な大人と子供の狭間で、大人の恋を演じ、そして辛かった思い出を、もう笑って語れる時間が経過しただろうという自分の判断で、 「恋の話」を2話に渡って綴りました。もちろん実名は出さない自分たちが通っていた学校名は出さない、プライバシーには考慮したつもりでした。

しかし、1人でも不快に思って投書された方がい たのは事実です。これを真摯に受け止め、今後「表現の自由とプライバシーの問題」を考える良い切っ掛けとなりました。また文章を書く上で表現方法なども勉強する良い機会となりました。

次 の第4章は修行時代について理不尽な先輩との問題点を綴る構成を立てていましたが、事実を書くことによって、名前は出さないにしても回りにいる人が生きて いる限り、どうしても不快に思う人も出てくるというのも考えていかなくてはありません。

もしくは、迫力には欠けますが、万人に受けるよ うなニュートラルな日々の出来事を綴る日記のような題材を選んで執筆する方向に進むしかないかもしれません。


「われ、弱ければこそ」。また全体の流れを構成 しなおす時期がきました。
もしくは表現方法を変える事によって、内容は続けていけるかもしれません。
もしくは全て自己責任において発信する方法を模索することになるかもしれません。

それには、時間が必要です。

しばらく、このコラムをお休みさせて頂きたいと 思います。

また、続きを再構成させ、可能か不可能かは分か りませんが、1万人の人が読んでも、誰一人とも不快に思わない、爽快なエッセイが書けるかどうか、挑戦する勉強の機会を与えて下さい。

叱咤激励はJunk Stage事務局まで。

また、復活する日まで、皆さんお元気で!

ヤスユキ

2010/05/29

大人が嫌いだった。先生は信用できなかった。自分も大人になるのが嫌だった。

親を悲しませたくないし、近所では評判の床屋さんの息子でなくてはいけなく、思春期に入った自分は親には反抗はしなかったものの、学校や社会、そして自分に反抗していた。

タバコは13歳で味を覚え20歳でやめた。競馬もパチンコも高校と同時に卒業した。

外見こそ不良ではなかったが、やっている事は不良だった…と思う。もし自分の息子が、こんなんだったら、張り倒しているに違いない(笑)

時には、授業は弁当を食べながら受け、匂いが教壇に届く前には食べ終わり教室の後ろのドアから抜け出す。廊下でウロウロしていると捕まるので、二階建て木造校舎の屋根に上って昼寝。

15歳、高校の合格発表の日の朝。僕は二日酔いで頭が割れそうになりながら出かけた。
理科満点。英語8点で志望校合格。「なんじゃそりゃ」、また世の中をなめるようになった。

何を始めても中途半端で、小学校時代のサッカー少年団は5年生の時に止め、中学から始めたバスケ部も1年で退部、高校になったら三年続けようと思ってバスケをやろうとしたけど、バンドの方が楽しくて退部。何をやってもやり遂げることのできない自分。

大 嫌いだった国語と英語、そして美術。小中高で一度も感想文や作文は書いたことがなく、国語と英語の教科書は卒業時でも新品。文章を書くのが大嫌いで、感想 文なんて「僕は、」だけ書いて提出、いつも決まって三文字だ。もちろん赤点。しかし、今はこうやってJunk Stage書いている。

英語は「三人称単数のS」が分からないまま高校卒業。「俺は日本人なんだから英語なんて必要ない!」と突っ張って6年が過ぎた。そういう自分は、現在英語を使って生きている。

絵 を描くなんて、図画工作なんてトンでもない。クリエイティブな発想ができない子供で、あんなつまらない美術の時間なんて出席を取る最初の5分だけ教室にい たけど、その後は抜け出してどこか行っている。義務教育で落第はないだろうって学校を完全になめていた。今はクリエイティブな仕事をしている。

人生って、どうなるか分からないもの。

中学2年生の時は、校内放送で「2年2組の田中、苗穂交番から呼び出しがかかっています、至急職員室まで」なんてこともありました。僕の両手の10本の指紋はどこかの署に保管されているはず。

いつも職員室で正座させられていた。

も う、先生が大嫌いで信用していなくて、尊敬なんてできなかった。相当生意気な生徒だったと思う。もし自分の先生が親の機嫌取りだけではなく、真剣に僕の人 生を考えてくれていれば違ったのかもしれない。そんな大人の嫌な部分を当時の僕は見抜いていた。子供は全てお見通しなのである。

先生を心から「凄い!偉い!」って思っていれば、学ぶ姿勢になったのかもしれない。人のせいにしてはいけないけれど、子供とはそういうものだ。人は理屈だけでは動かない、心で動くものなのに、当時の大人たちは「心」がなかった。

今 現在、自分が教壇に立って教えることがあるけれど、まず最初に「自分はこんなに凄い偉い!」という事をアピールする、もちろん謙虚な言い方で。子供が「こ いつ何しに来たんだ?アホか!」って思われたら学ぶ姿勢を閉ざすので先に進めない。逆に生徒が「へぇーこいつ、すげー」って思ってくれたら、こっちのもの で一生懸命学んでくれる。自分が子供の時そうだったから分かる。

「教えなくてはならないことを教える」のが先生ではない。「この子達が将 来、社会へ飛び立った時に必要なことを教える」のが指導者だと思っている。「今、この子の偏差値が上がるように教える」のじゃ駄目で、「この生徒の将来に は、この勉強が必要だから」って教えないと付いてこない。

将来の夢、そんなもの無かった。

明るい高校生活、そんなもの期待しなかった。

もう自分の成績、自分の性格、「いまさら、変えれっこないじゃん」ってあきらめていた。

その反面、苦しくて、辛くて、どうすれば良いのかわからず、いつも暗闇の中に閉じこもっていた。

バンドやってスタジオで練習。制服にはいつもタバコの臭い、朝まで賭けマージャンやって、自転車通学も寄り道しながらで帰宅時間は夜の11時。親にはなんて嘘つこうかって考え、内緒で取ったバイクの免許はストーカー女に密告されバレてしまい。。。。

「自分っていったい何なのか…」苦しかった。

「このままで俺はいいのか…」考えると涙が流れた。

この失望感。絶望感。

子供の頃から母親に言われていた言葉「外で悪い事をしてはいけない」は、守れなかったが、「笑顔で挨拶」、そして「女の子には優しく」は守っていた。

・・・・そんな中学高校時代。

自分の10年後、20年後はどうなっているのか、タイムマシーンに乗って「将来の自分」が僕に会いに来てくれないかなって、いつもいつも空想していた。今、当時を思い返せばものすごい空想力だったと思う。

その夢と現実の空間で「ひらめいた!」、 高校3年の10月。

2010/05/13

親からの視点

最近の子供時代の話を書いているのですが、これが予想を上回るレスポンスが返ってきております。特に家族からのコメントは強 く、先週のゴールデンウィークにこんな出来事がありました。弟夫婦と姪っ子は連休を利用して、関東から北海道まで、両親の暮らす実家へ帰省した時に「兄 ちゃん、Webマガジン書いているの知ってる?」と、両親に読ませたのです。

一ヶ月ぶりだろうか、久しく両親と話しもしていなかったし弟 夫婦も帰省しているという事でスカイプをオンラインにしモニター越しに家族の姿が…。途中から母親に変わり、開口一番「読んだよー」と浮かれない表情と 声。。。「しまった、あれ読んだか」と瞬時に思ったが時は既に遅し。

自分の息子が幼少の頃に、そこまで寂しい思いをしていたなんて知らな かったということ、小学校を通うようになっても、うちは店舗付き住宅の理容室(昔は「タナカ理容院」のちに「ヘアーサロンタナカ」、「ヘアーショップたな か」と屋号が変わっていった)なので、毎日学校から帰ってくれば「ただいまー」「おかえりー」といつも顔を合わせ近くにいるわけだから、そんなに寂しい思 いはさせていないと思っていたということ。

その当事の親の思いを一つ一つ思い出すように話をしてくれた。そして「正直、息子の記事を読ん でショックだった、心が折れた」と。「まさか学校の先生から、そんな虐めのような扱いを受けていたなんて知らなかったし、どうしてその時に親に言わなかっ たのか」とも、かなり衝撃を受けていたようだ。そして何度も「寂しい思いをさせてごめんなさい」と。

弟にも「子供の頃は寂しかったか?」 と尋ねたところ、「兄ちゃんが書いているのと同じかな…」と答えが・・・。そこでまたショックを受けたらしい。

もう僕も申し訳なくなって しまい、親に「ごめんなさい」と・・・二人で画面に向って「ごめんなさい」を何度も何度も。母の日を前に、親を泣かせてしまった。

そこ で、当事30年以上も前の親の心境も聞いた。(でも執筆の題材になるからねと断りをいれた(笑))

2歳、3歳の自分の子供が、抱っこし てと側に寄ってきていても、お客さんがいるからドアを閉めて部屋にいなさいと「言わなければならない」親の心境が、どれほど辛いものだったか。ドアの向こ うで「ママー」と声が枯れるまで泣いている子供を振り切って、お客さんのために、生活のために、仕事を続けなければならない親の気持ちがどれ程のものか。 お腹がすいているだろうに、きちんとした食事を作って与える事のできない辛さ、仕事とはいえ親として抱っこすらしてあげる事のできない悲しみ。親も毎日毎 日心の中で泣きながら仕事と子育てを両立してきた苦労。

それは当事の親の年齢に自分がなった今、理解しているつもりです。だからこそ育て てくれた両親に感謝できるようになったのです。親の職業を恨んだことはあっても、親を恨んだことは一度もありません。

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【当事の写真。左前が弟ヒロ、右前がヤスユキ、後ろに両親】

どうして、この執筆 に幼少の頃の話を取り上げたかという理由も話をした。自分が見習いで住み込みで修行して耐え抜く事ができたのも、海外でゼロからのスタートを切ったのも、 親の姿をみながら育ったおかげだし、「お客さんが来てくれるからご飯が食べれる」、「だからお客さんに感謝しなさい」、子供の頃から教わったこと。それれ が誰からも習うことなく自然に身についたのも、自分の育った環境が良い結果をもたらしたと信じています。

子供の頃に、ご飯に髪の毛が入っ ていることが珍しくなく、それを母親に訴えると「その髪の毛のお陰で、毎日ご飯が食べれるし着るものも着れる」。その食べ物に入ってしまった髪の毛を一度 も「きたない」と言った事がない親。

「あなたの知らない人でも、ご近所さんは床屋さんの息子って分かっている、きちんと笑顔でこんにちは と挨拶をしなさい」、「悪い事をすると店の評判までもが悪くなる、親に迷惑がかかるのだから、外で悪い事はしてはいけない」、「女の子には優しくしなさ い、自分がされて嫌だと思うことは他人してはいけない」。この三つは昔から言われ続けたこと、でも大人になった今でも通じている。

スカイ プを切る寸前に母親が言った言葉「もう、言いたい事を言ったからスッキリした!思い切って好きな事をどんどん書いていきなさい!」と笑顔だった。さすが自 分の母親だ!潔い!お言葉に甘えて遠慮しません。

この家族だったからこそ、今の自分があると胸を張って言える。

有り難 う、お父さん、お母さん。そして弟のヒロ。

今、ブリスベンは秋です。

2010/04/29

よく質問されるのが「子供の頃から両親の姿を見て、理容師・美容師になろうと思ったのですか?」 だ。トンでもない!冗談じゃない!子供の頃から大変な目に合い、6才下の弟の面倒を見ながら、いつもお腹をすかせて、学校の行事には親は来てくれなく、遠足のお弁当だって近所の俵谷商店で買ったパンと牛乳だった時もあったんだぞー!と言いたい(笑)

子供の頃から、「お兄ちゃんは、大きくなった らお父さんの後継ぎをするのかい?」なんて近所のおじちゃんおばちゃんから言われたが、「わからない・・・」と返事はするものの、心の中では「絶対に後継 ぎなんかするもんか」と叫んでいた。

当時は恨みもした親の職業だが、今となっては、その育った環境にはとても感謝をしている。親は決 して計算をしていたはずは無いだろうが、その偶然の環境が社会人になってからの僕に途轍もない良い意味での影響を与えてくれている。

【お 金が無い】
母親は口癖のように「お金がない」「お金があったらねー」を毎日のようにぼやいていて、それを小さな頃から聞かされていた僕は 「あぁぁ、うちは貧乏なんだ」と思うようになった。確かに周りの友達と比べると下の方で、うちは木造の店舗付き住宅で、昼間でも電気を点けないと暗いような居間 だったし、お風呂も家には無かったので18歳までは銭湯通いだった。靴下の親指に穴があいたら新しいのは買わずに、その穴を縫い付けるのでいつも親指の爪の間には糸の結び目が食い込んでくる違和感があった(笑)

しかし、お金が無いはずなのに、子供の知らぬ間に土地を買って新築を 建てて、そこは借家として人に貸していたのだ。子供に贅沢もさせず、いつもお金が無いといいながらコツコツとお金を貯めていた母親の力量には頭が下が る。素晴らしい母親だ!

【食べ物】
商売をやっていれば当たり前なのだが全てがお客さん中心。自分を犠牲にしてでもお客さん第一 という商人魂は、親から自然と教わっていたのだろう。そりゃ夜の6時にご飯を食べるなんて夢のような話で、ドラマの中の「夜6時になったら夕食ですよー」 なんて不思議でたまらなかった。最後のお客さんが夜遅く差し掛かる時などは、母親が仕事を終わるのを待ちきれずに寝てしまう事もあった、晩飯抜きである。

しかし、これも小学校高学年になってくれば智恵も出て くる。釜の冷ご飯をよそって、塩をかけて食べたのが始まりで(「ゴマ塩ふりかけ」の、ゴマ抜きという発想だった)、生卵ご飯、醤油とバター、おかずの材料にな るものを盗んで食べると怒られるので、分からないように量を差し控えながら盗み食いをし飢えをしのんだ(笑)

ガムの味が無くなると、砂糖を噛んだガムにからめて食べてみ ようとやってみるが、ものの数秒で味が無くなり、次はハチミツとか甘いものを探してガムの寿命を延ばそうと智恵を絞ぼり(10歳の頃だった)、しかし、ど う頑張ってもガムの甘さの寿命は延ばせないんだと気付き、ガムを作った人は天才だなと子供心に感動した(笑)

親は火曜日休みで、学校は日曜日休み。夏休みや冬休み期間だけが親とデパートへ行ったり外食できる唯一の時間。しかし…。おもちゃ付きの旗の立っているお子様ランチを注文するなんて夢の夢!いつも「ほら、ざるそばと盛りそば、ざるそばは海苔がかかっているんだぞー!」と父親に助言され、なぜかデパートの最上階のレストランでの我が家の定番はざるそばだった、たしかに一番安い。

【節約】
ここまで 「うちは貧乏でお金が無い」と洗脳されていると、誕生日プレゼントに何が欲しいと聞かれても、欲しいものを欲しいと言えるような子供に育つはずがない (笑)弟にも「それは高いから駄目だよ、もっと安いものを考えろよ!」という始末。小学校高学年の時に要求した誕生日プレゼントは、「納豆をどんぶりで独 り占めにして食べたい」。親は驚きながら、「もっと他にないの?」と聞いてくる。「それじゃ、牛乳1リットルを独り占めしたい」。そうキーワードは「独り 占め」(笑)

本当に欲しいものは、お年玉を貯金し新聞配達などをして、自分でお金を貯めて購入した。天体望遠鏡も一眼レフカメラもコツコ ツとお金を預金しながら買ったものだ。親の立場にしても、子供から「お金がかかるからプレゼントはいらない」と言われると、何か買ってあげたくなるものだ ろう!そういう心理というのも子供のクセに解っていたので、自分から「欲しい!買って!」とは言わなかった。「追うと得れない」というのも解っていた、恐 るべし12歳。

海外生活を長くしぶとく続けていけるのは、この食べたいものをコントロールし、節約できるというのが本当に 役に立っている。欲を抑えることができるのは、うちの両親の下で育てられたからで、お坊ちゃんに育っていれば、挫折していたと思う。物が無かった環境で、 アイデアを絞って工夫をして生きていくと言う事も、この環境下で学んでいたのだと思うし、これが美容師という仕事にも間違いなく繋がっているのは間違いな い。

両親が子育てをしながら忙しく仕事をしていた、そのいくつもの偶然の重なり合いが、今では全てが繋がって僕と言う人間が形成されている。そんな両親には感謝してもしきれない。


2010/04/06

リーダー論

宏昌が4歳5歳のころ、自分は小学校4年・5年生だった。ここまで年の差が離れていると、正直一緒に遊んでいても面白くない、興味を持つものが違いすぎるのである。しかし、僕と一緒に遊んでいないと、親はお客さんをしているので「ママ~~」と仕事の邪魔になるというのも分かっている。

近所には弟と同じ年齢のイツギ君という男の子がいて、仲良く遊んでくれてるのはいいのだが、どうしても4歳5歳児同士の遊びでは限界が出てくる。そうなると「お兄ちゃん、遊んでぇ~~」となるわけだ。

しかし、一緒に遊ぶと言っても、兄の興味のある事は6才下の弟達は面白くない。弟の面白い事は僕はつまらない・・・。しかし、自分が経験をしている遊びや虫取りなど、教えてあげると「へぇ~凄い!」となるわけで、これが単純なんだが優越感に浸れる。そうすると、「もっと遊びを教えてあげるよ!」となり、また「お兄ちゃん凄い!!」となるわけだ(笑)

こなると、もうサル山番長である。自分が同級生のクラスメイトや先生から虐められていても、学校から家に帰り弟を保育園まで迎えに行くと、その瞬間から弟達のボスに変身する。「この遊びは3人集まらないとできないからもう1人誰か探して来い!」と言うと、弟たちは「遊んでもらえなくなるかも!?」という焦りで、友達を見つけてくる。そして兄の僕は、この三人の子供に遊び方を教え、ルールを説明しながら、個々にあったポジションを与えて、皆で楽しく遊べるように指示をする。

リーダーに必要な、1、支配性がある。2、優れた対人技能を持っている。3、部下を公平に気遣う。4、目標達成を強調する。この4つは、僕の弟とイツギ君達によって自然と鍛えられたのである。

支配性は、6才も年上のヒロ君のお兄ちゃんだから当然だし。対人技能は、怖かったり殴られたりしたら子供たちは寄って来ないので、笑顔で「一緒に遊ぼう!」という姿勢でいなくてはならない。部下を公平に気遣うのも、何人も子供たちがいる中で自分の弟だけ優位になるようなことはできない、逆に弟だから厳しくしないと周りが納得しないというのも学んだ。そして最後に皆に目的意識を持たせて遊ばせないと、直ぐに「つまらない・・・、面白くない・・・、もう帰る・・・。」となるのだ。

自分が高校生になると部活に入ったり、バンド組んでスタジオでドラムを叩いたり、同級生との時間が楽しくて、家に帰るなんて夜の10時11時だった(笑)。この頃は、兄弟で何をしていたのか、あまり覚えていない。もう大人と子供の違いが出てくる。

自分が高校3年生になると、弟は小学校6年生。我が家の場合、学校の行事は親は仕事があるので来てもらえることは殆ど無く、運動会の日は、朝からお弁当は作ってくれるのだが、場所を取って子供の走りを見に行くなど不可能に近かったので、お昼の時間は、家族で楽しそうにお弁当を広げている友達の姿を横目にしながら、自宅へ帰って1人でお弁当を食べていた。急いで食べ終えて、午後の運動会に戻るというのが毎年恒例のだった。父兄参観だって、偶然にお客さんの切れ間ができれば教室まで来 てくれたが、来るか来ないかなんて誰にも分からない、来てくれる保障はなしという家庭だった。

そこで、自分が親代わりになれば弟に寂しい思いをさせないですむと思うようになり、運動会の朝は従姉弟の美香と公義を呼んで、一緒に場所取り、カメラを持って弟の写真を撮るという、父親のような事をしていた。この従姉弟の2人も年下、僕はお兄ちゃんと呼ばれて慕われていたので、運動会開場でもサル山の大将発揮である(笑) おやつを食べて良いかの許可を出し、お昼のお弁当は弟が昼休みにはいるまでお預け、トイレに行って帰ってくる時に迷子にならないように、時間を見計らって手を振るなど、すっかり保護者であった。

父兄参観だって、兄と言う文字が入っているのだから、兄が父兄参観に出て何が悪い!と言っては、小学校の授業参観に出席をして、他のお父さんやお母さんに混じって、高校生の兄が弟の授業を見ている。誰かが「あっ!田中の兄ちゃんだ!」と発すると、全員が僕を見る。全く恥ずかしいとも思わず、僕は弟の授業を父兄として参観日に出向く事を誇りに思っていたし、弟も同じ思いで、自分だけ違うという劣等感ではなかったはずだ。

そうやって僕の育った環境は、リーダー論を身につけるには最適だったように思える。弟の宏昌の存在、従姉弟の美香と公義の存在、偶然にも自分が一番年上で、「お兄ちゃんだから」という責任を押し付けられたのが良かったのだろう。

フリーペーパー会社の裏社長をやっていた時、20人以上の若いインターンシップを動かせたのも、FMラジオの運営で若いスタッフを引っ張って行けるのも、親が忙しかった環境下の下、更に、この6才年下の弟がいたお陰で、幼少のころから自然に身に付く事ができたのだと自己分析できる。

2010/03/24

6才下の兄弟で、誕生日が全く同じ日というのは、かなり珍しいであろう。通常、帝王切開ではなく自然分娩で、誕生の日を狙って狙えるものではない(笑)

そんな弟の誕生を、今か今かと待ち望んでいる。その時のウキウキと心待ちだった感情は今でも脳裏に焼きついている。母親が「今、お腹の赤ちゃんが足を動かしているの、手で撫でてあげると足を引っ込めるの」と教えてくれていた。母親のお腹に手をあてながら「ふーん」と、とても不思議な感覚だったのを思い出す。

誕生まで性別が分からなかったので、弟なのか妹なのか…、早く知りたくて知りたくて毎日が落ち着かなかった。それが「弟」が産まれた!と分かった瞬間に「やった~!」と両手を挙げたのだった。「大きくなったら、キャッチボールができるね!」と喜んだ。命名「宏昌」。

母親が病院から退院して戻る日、弟が初めて我が家へやってくる。自分の6才の誕生日なんて忘れていたし、それどころじゃない、この“ビッグイベント”で頭がいっぱいなのである。

母親が、テレビの前に座布団を引いて、そこに寝かしていた。最初は「可愛いね~可愛いねぇ~と頭を撫でていたのだが、それも飽きてきて(笑)僕は自分の好きなテレビ番組が始まる時間になったので台所から走ってチャンネルを変えにテレビに向って行った。もう直ぐテレビのチャンネルに手が届くと思った瞬間、父親の手が僕の身体を目掛けて飛んできて、僕は吹っ飛ばされた。間一髪で生後数日の赤子のお腹を踏むところだったのだ。あのショッキングな出来事は思い出すと冷や汗が出てくる、危うく6才にして殺人犯になるところだった、しかも退院してきた当日にだ。

そのエピソードが、後に「宏の鼻が低いのは、お兄ちゃんが踏んづけたからだ」と言われ続けることになる(笑)いまだに大人になっても弟から言われるのだが、ここで言っておく、鼻ではない(笑)この事件があった日から「人は簡単に死ぬんだ」ということを身をもって感じた。6才ながらに、こんな小さな赤ちゃんのお腹を踏んだら死んでしまうというのは十分想像できた。いまだに本気で殴り合いの兄弟喧嘩が無いのは、この所以からだと思っている。

僕が6才になるまで、寂しい思いをしていたから尚更のこと。弟には同じ思いはさせたくないという感情があった。しかし自分の友達が遊びに来て、遊びに行ってしまうと寂しそうな弟の顔がある。自分から友達の家に遊びに行こうとしなかったのは、自分の6年前の姿と弟の姿を重ねていたからだったと思う。

やはり、お腹が空くと泣き出すし、それでも親は仕事をしている。僕が何かを作って食べさせないと、もう可哀想で見てられなくなる。そうなると、自分の判断で食べ物を冷蔵庫から調達をして、親に怒られないものを分別しながら2人で分けて食べる。その判断を間違えれば全て僕の責任だ。

親が留守の時に、弟が寝てしまったので、新聞紙を布団代わりにかけたことがあった。親が帰ってきたときに怒られたこと・・・怒られたこと・・・(笑) テレビの中では、公園のベンチでお昼寝している人は新聞紙をかけて寝てると信じていたので、まっ公園じゃないけど昼寝だし、「昼寝=新聞紙」という判断は間違いだった(笑)

全て自分の判断で決断をし、それが間違えば起こられる。しかし上手くいった時は褒められ、弟も幸せそうだ。そしていつも「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と親しんでくれる。自分のおもちゃを勝手に使われて頭にきて叩けば泣き出す、暴力ではなく相手が納得する交渉をしないと、自分の感情だけでは相手と衝突してしまうというのも学んだ。

この弟の存在が、知らず知らずのうちに「リーダー論」を学んで実践していたんだと自己分析できる。そして親子愛に非常に似た「兄弟愛」というのも教わった。次回は、もっとリーダー論、組織論について思い出しながら書き出してみたい。

2010/03/09

前回の投稿から章が変わって、第一話が始まったのですが、周囲からは予想以上の反響がありまして、余りにも今とのギャップがありすぎると。そこで、もっと子供時代を振り返って自分の半世紀を記したいと思いました。今回は6才までの自分の環境を思い出しながらです。

僕 の母方の祖母が他界してから丁度一年後に僕が産まれました。親戚の叔父さん叔母さんは、僕を見るたび「生まれ変わり」だというくらい、顔の骨格、目の大き さ、足の指の形まで、まるで生き写しだといいます。お婆ちゃんは40歳代でなくなったので仏壇に飾ってある写真は「お婆ちゃん」の姿とは程遠く「お姉さ ん」です。自分が女装したらこんなふうだろうというくらい似ている。

父親は理容師、母親は美容師。夫婦でサロンをオープンして直ぐに産ま れた子供が僕だったから、仕事と子育ての両立でそれは大変だっただろうと今だから少しは分かる。それに加えて、身体が弱く、赤ちゃんの時の自分の写真はと いうと、頭は包帯でグルグル巻き。瘡蓋(かさぶた)で覆われた皮膚病の頭皮を治療していたらしい。乳幼児がかかる病気という病気は全てかかり、いつも病院 へかかっていた。商売を始めたばかりの両親に、なんて親不孝な子供だったと思う。

保育園にも一時は通っていたみたいだが、身体が弱くて数ヶ月たらずで中退。もし履歴書が生まれた時から全て記載しなければならないルールだったら、「苗穂厚生会保育園 一身上の都合で中退」と書かなくてはならなかっただろう(笑)

3 歳の時は肺炎で入院。親戚のおばさんがお見舞いに持ってきてくれたスイカで命拾いしたとか?当事の病棟は今でも覚えている。面会時間が終わると母親は家に 帰る、目が覚めると一人ぼっち、泣いて「ママー、ママー」と叫びながら病室を出るけど、もう誰もいない、外は暗くなっている。どのくらい入院したのか覚え ていないが、また1人ぼっちという寂しい気持ち、空虚さは今でも覚えている。

「また一人ぼっち」。物心付いた時から親はお店で仕事、お腹がすいて泣きながら親を求めてお店にでても、「お客さんがいるから来るんじゃない」と言って、バタンとドアを閉められる。どんなに泣き叫んでママを呼んでも、お客さんがいなくなるまではドアが開く事は無かった。

そ して同じく3歳の頃、ストーブの上に乗っかっていた熱湯が両足の上に落ちてくるという事故が起きた。さすがに親はお客さんを置いて病院へ。縮みあがった両 足の皮をピンセットで引っ張るという治療が半端でなく痛く、両手両足を押さえつけられて治療台の上で絶叫している自分の姿は今でも思い出す。

今でも火傷の影響で足の毛は生えていなく、太ももの裏はケロイドが残ったまま。しかし、当事の医療技術で、ここまでキレイに再生されているのはすごいと思う。札幌の入江外科という名前は忘れずに感謝している。

身体が弱く保育園も通えなく、1人でいる時間が多かった子供だったので、やはり1人遊びを覚える。興味があったのはコンセントとプラグ、ネジ、ナットとボルト、そして昆虫やクモやミミズなどの生き物だった。

4 歳5歳でドライバーの使い方を覚え、家の中のネジというネジを全部外して回った。父親は仕事が終わると、家の中のネジを閉めて回ったそうだ(笑) ケーブ ルが二本いつも隣り合わせなのは、コンセントが二つだからと理解していたし、そのケーブルを二つ重ね合わせたらどうなるか疑問に思ってやってみたら火花が 散った瞬間に家の電気が真っ暗になった。ブレーカーが落ちたのだ(笑)触ったらどうなるかもやってみたら、全身がしびれてビックリした、4歳で既に感電を 味わっていたのだ(笑)

親が聞いたら怒られるかもしれないが、わが家は裕福ではなく、おもちゃなども飽きるほど買ってもらえるような家では なく、周りにあるもの全てが僕にとっての「おもちゃ」。工夫をすれば何でもおもちゃになる。一歩外にでると、色々な虫たちがいる、土を掘ればミミズ、石を どければワラジ虫やらクモなど、全部捕まえて牛乳瓶に詰め込んで・・・という人間の本能の狩猟?というのを、飽きもしないでコツコツやっていた子供だっ た。と同時に一人ぼっちじゃない、他の生き物と一緒という安心感もあったはずだったに違いない。

物があふれていたわけでもなく、世話をしてくれるお婆ちゃんがいるわけでもなく、ドア一枚向こう側では両親がサロンで一生懸命仕事をしている。なのに反対側では僕はいつも1人ぼっち。今日のおもちゃになるものは無いかと探している。

5 歳になり、やっと幼稚園に入園できた。しかしこの5年間1人で遊んできた子供が、いきなり集団行動の中に入れるはずもなかった。同じ園児服を着て、好きで もない絵をかかされ、粘土でモノを作るなんて、凄いキライな時間だった。大嫌いな親子遠足、うちの両親は仕事している。代わりに父方のお婆ちゃんが一緒に 親子遠足へ。全体写真に残っているのは、僕だけがお婆ちゃんと一緒。皆はママが来てくれているのに、僕だけどうしてお婆ちゃんなの?答えは「ママはお仕事 があるから」。

既にこの頃から、自分の一匹狼的な性格が出来上がっていた。そして無いものは工夫して活用するというのも覚えた。一人でも十分に楽しめるし、みんなと同じ事をするのが嫌な性格の基盤は5歳までに出来上がっていた。

6 才の誕生日を迎えた10月24日。全く同じ日に弟が産まれた。この日は僕の一人っ子に終止符を打ってくれた記念すべき日でもある。この弟の存在というの が、今の自分の「リーダー論」の原点を教えてくれた。人への「愛情のかけかた」を教えてくれた。とても大切な一生の出来事だったと振り返ると思える。

2010/02/23

海外で働いている人を見たり聞いたりすると、「生まれつき素質があったんだろう」とか、「子供の頃から、クラスで飛びぬけて目立つ存在だったのだろう」と か思いがちである。他に海外で活躍している人達はどうだったのか分からないが、自分の場合は目立たない普通の子供だった。

幼少の頃は近所 のガキ大将に叩かれて泣いて家に駆け込むような子供だったし、女の子とママゴトをしている方が楽しかった。野蛮な事は好きではなく、木登りとか鉄棒でさえ も怖くて登れないような男の子。自分から「○○ちゃん、遊ぼう!」と友達の家に行くことができず、行くくらいなら一人で遊んでいた方が楽しいという子供 だった。

だからと言って、絵はかけない。図画工作は大嫌い。粘土の時間でヘビを作って先生に怒られたくらいだ。夏休みの自由研究は最悪、 こんなものは世の中から消えてくれと子供ながらに毎年思っていたし、宿題はやらない、できない、作文は3行以上書いた事がない。感想文なんてもってのほ か。

それじゃ、運動神経は?と言いたいところだが、サッカー少年団に10歳の時に入ったきり、これまたチームメイトから虐められて辞めてしまった。足は遅い、鉄棒できない、球技もボールを持って何をしていいかわからず、回りから罵声を浴びる。

自 分の胸の骨は奇形なので、普通の人よりも肺活量が少なく、心臓の位置も中心より外側にずれていて肋骨に圧迫されているので、普通の子供よりも運動量はどう しても少なくなる。漏斗胸といって、胸の溝が普通の人より窪んでいるのだ。何らかの理由で体の骨より肋骨だけが先に伸びてしまい、後から体の骨が成長する ので長い肋骨は内側に食い込んでしまうという1000人に1人の割合で起こる先天性の奇形だとか。

運動音痴、芸術性なし、社交性なし、虐められっ子。唯一人よりできたものは珠算2級、書道5段(小学生の部)。そして興味があったものは、電気工学と天文学という変な子供(笑)でも成績はいつも中の中。

他 の児童より計算が速くできたのだが、小学校高学年の算数のテストの時、暗算で答えがでてきちゃうので途中の計算式を書かないで提出したところ、先生から 「隣の学級委員長の答えをカンニングしただろう、A男と同じ答えだ」と頭ごなしに決め付けられ、言い返す事もできずに0点だった事もあった。

虐められていることを先生に訴えても、「甘えるな、お前が悪い」とクラス全員の前で怒鳴られたり。「授業中にお喋りするから、お前の唇はどんどん分厚くなっているんだ」とか、小学校の先生からも虐めの対象になっていた。

子供ながらにも「こんな大人になりたくない」、親の前では良い顔をして、子供の前ではコロリと変わる。この頃から、きっと表裏のある人間が嫌いになったのだろう、今でもこのタイプの人間は好きにはなれない。

中 学校に入学すると、一年生の1学期で勉強は挫折。落ちこぼれの仲間入り。タバコの味も覚え警察から呼び出しが来たこともあった。バスケ部に入るも1年経た ずに退部、集団行動が苦手だった。何をやっても中途半端。将来の夢なんて、そんなの無かった。今思えば勿体ない少年時代をすごした。

中学卒業、高校入学を境目に何かを変えなくてはと、ボンヤリ思っていたのかもしれない。

つづく。。。

2008/12/09

人の出会いと言うのは、本当に不思議なものである。
このインターネットの時代、家に篭っていても出会いはある、日本なら携帯電話一個で世界と一つになれる。
それは自分が誰とでも出会える可能性がある、ということだ。

しかし、可能性があると言うだけで、憧れの人、理想の友人、語り合える仲間と実際に出会えるかどうか確立をはじき出すと、数十億分の一の可能性かもしれない。個々の職業やライフスタイルなどの条件から計算すれば、数兆分の一の確立かもしれない。

自分がコツコツと努力を重ねて、階段を一個一個のぼって行くと、その途中にはそれぞれのステージがある。やはり頑張っている人達と一緒に時間を共有したければ、その人達と同じステージに立たなければ出会えない。だからこそ、その舞台に足を踏み入れた瞬間に、自分の求めていた理想の仲間と出会える確立はググっと一気に高くなる。

この「Junk Stageの仲間に入れて頂けるというステージ」に一段足を延ばせることができたのは、運とタイミングと自分の変わった経歴だろうか。
突然、舞い込んできた丁寧な一通のメール。それはスタッフの桃生さんからのお誘いのメールだった。丁度、自分で本を出版できないだろうかと思っていた矢先の出来事であったのもあり、偶然という言葉だけでは片付けたくない。自分のここまで登ってきた階段を振り返り見つめなおす良い機会(ステージ)を与えてくれたことに感謝感謝、である。

「我 弱ければこそ」

頑張っているとか苦労しているとか、その渦中にいると真剣に生きているので気がつく余裕などはない。「俺、今苦労してるよ」「今、頑張ってます」と言える間は、まだまだ足りないのだ。本当に苦労中は、自分の苦労など感じている余裕などないし、頑張っているよって言える間は、もっともっと頑張れるキャパが残っている証拠だ。それじゃ、いつ感じるのかと言うと、自分を振り返って、後方の足跡を目で追ってみれば、わかる。
あの時が努力していたのかも。あの時、そういや頑張っていたな。と過去の自分の情景がフラッシュバックでよみがえる。だから苦労や頑張るって、過去形と一緒に使うものだと個人的に思うのだ。

今の自分の本業は美容師である。自分は人に使われるのが嫌だから、人の上に立ちたいと思って、経営者になるために理美容業という業種を選んだのは高校3年生の秋だった。根っからの理系人間なので、工学系の大学に行きたかったが、理科は学年トップの成績を収めていても英語が常時赤点では入れる大学などたかが知れている。

自分は、弱かったからこそ、英語の勉強が必要ない理美容専門学校を選んだ。

今、自分はオーストラリアで生きている。オージースタッフと4年間一緒に働いたし、英語も勉強した。生きていくために必要なもっとも大切な道具、それが英語だったからだ。サロンに勤めて直ぐのころは、英語さえできてれば違った道に進めたのにという思いが強くあった。英語の成績が良ければ、こんな辛い修行じみたことをしなくてもいいのにと悔しい思いもした。32歳になって新たな挑戦、敵討ちの意味もあり、英語をメチャクチャ勉強した。憎らしき英語を相手に泣きながら勉強した。これは一見、強い精神力に見えるかもしれない。しかし、実は自分が弱いから、強く立ち向かう努力をしないと、自分の弱さに埋もれてしまい身動きができなくなってしまうから・・・。たった一度の人生が意味もなく終わってしまいそうで。その不甲斐ない結果だけが嫌で、コツコツと進んできたのである。いや、これからも進むであろう。

恐れ多くも、日本へ帰るたびに講演会をしたり母校で授業を開かせて頂き、大勢の人の前で話をする機会を頂いている。ブリスベンのFMラジオでは、パーソナリティもしている。しかし学生の頃はクラスの同級生の前で話をするなんてできない生徒だった、手を上げて発表するなんて考えられなかった。なぜ、こんな弱虫な子供が、今のように図々しくも人前で話をしているのだろうか。そんな自己分析もしてみたい。

人間なんて弱い生き物である。そんな思っているほど強くなんてないさ。

そんな弱さを受け止める勇気を持てて、負けないで頑張ろうって気持ちになるのだ。

僕だって、弱虫の塊。

けど、今は海外でオーストラリア人相手に仕事をしている。ブリスベンで勉強している日本人留学生を集めて起業家を育ててようとサポートしている。

「我 弱ければこそ」、僕は弱い人間だ、だからこそ負けないように頑張ろうと努力してきた。その今までの軌道をこのWebマガジンで連載していければと思う。

そしてもう一つ、日本の素晴らしさを伝えていきたい。海外から日本を見たときに、全てにおいて日本は優れていることに気づく、みんな灯台下暗しで足元が見えていないのかもしれないが、実は日本って凄いのだ!美容師の世界でも日本の技術とサービスは比べ物にならないほど精密にできている。その外の業種、全てにおいて日本は世界でトップクラスなのだ、しかし世界に通用できていない分野があるのは何故だろうか?日本の外に出て初めて知りえた事柄も、僕の視点からお伝えできればよいと思っている。

世の中で一番面白いものは「人」であり、「人生」である。ここに参加している皆さんといつの日かご一緒にお話できる日が来ればいいと願っております、どうぞ宜しくお願い致します。どうぞ仲間に入れてください。

2008/12/09 04:29 | 自己紹介 | No Comments